第6話 帰る場所
第三章 第6話 帰る場所
――数日後。
朝。
薄い光が、窓の隙間から差し込んでいた。
「…………」
ヤヌスがゆっくりと目を開ける。
見慣れない天井――では、もうなかった。
木目の走った天井。
少し硬い枕。
身体を包む布団。
初めてここで眠った時は、夜中に何度も目を覚ました。
物音がするたびに目を開け。
人の足音が近づけば、無意識に身体へ力が入った。
だが。
今は違う。
「…………」
ヤヌスは布団の中で目を瞬かせる。
階下から、微かな音が聞こえていた。
カチャ。
カチャ。
食器の触れ合う音。
何かを焼く音。
それから。
ニコ
「お母さーん! これどこー?」
ミレイユ
「昨日と同じ場所にあるよ」
ニコ
「あった!」
ミレイユ
「もう。ちゃんと探してから聞きなさい」
ニコ
「はーい!」
「…………」
いつもの声。
鼻をくすぐる、焼いた肉とパンの匂い。
ヤヌスは身体を起こした。
壁に立てかけてあるアウロラを見る。
右腕の布を確かめる。
それから。
欠伸を1つ。
階段を下りた。
◇◇◇
《渡り鳥亭》。
まだ客のいない店内。
階段を下りてきたヤヌスに、ニコが真っ先に気づいた。
ニコ
「あっ!」
「おはよう、ヤヌスお兄ちゃん!」
ヤヌス
「……おはよう」
厨房からミレイユも顔を出す。
ミレイユ
「おはようございます、ヤヌスさん」
ヤヌス
「ああ」
そのまま。
いつもの席へ向かう。
座る。
何も言わない。
しばらくすると。
目の前に皿が置かれた。
焼きたてのパン。
卵。
野菜のスープ。
厚めに切られた肉。
ヤヌスは何も注文していない。
ミレイユも、何が食べたいかとは聞かなかった。
ヤヌス
「…………」
パンを手に取る。
食べる。
スープを飲む。
肉を口へ運ぶ。
ニコがその様子を見ながら笑っている。
ヤヌス
「なんだ」
ニコ
「なんでもないよ」
ヤヌス
「なら見るな」
ニコ
「だってさ」
ニコが楽しそうに笑う。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん、もう普通にここでご飯食べてるなって」
「…………」
ヤヌスの手が止まった。
言われてみれば。
そうだった。
いつの間にか。
朝になれば階段を下りる。
ここへ座る。
飯が出てくる。
それを食べる。
そんなことを。
何も考えずにするようになっていた。
ミレイユ
「ふふっ」
厨房から笑い声が聞こえる。
ヤヌスは少しだけ眉を寄せた。
ヤヌス
「……飯を食ってるだけだ」
ニコ
「そうだけど!」
ヤヌスは再びパンを口へ運んだ。
温かい。
いつもの味。
それを。
もう「珍しい」とは思わなくなっていた。
◇◇◇
朝食を食べ終えたヤヌスが席を立とうとした。
その瞬間。
ニコ
「待って!」
「…………」
嫌な予感がした。
ニコが店の奥へ走っていく。
そして。
紙とペンを抱えて戻ってきた。
ニコ
「勉強の時間!」
ヤヌス
「…………」
ニコ
「今日は名前!」
ヤヌス
「誰のだ」
ニコ
「まず僕!」
ニコがヤヌスの向かいへ座る。
紙を置き。
得意げにペンを握った。
さらさらと文字を書く。
ニコ
「はい!」
紙をヤヌスへ向ける。
そこには。
ニコの名前。
ニコ
「これが僕!」
ヤヌス
「お前はそこにいるだろ」
ニコ
「そういう意味じゃないよ!」
ニコが頬を膨らませる。
ニコ
「ほら!」
「ヤヌスお兄ちゃんも書いて!」
「…………」
ペンを押しつけられる。
ヤヌスは仕方なく握った。
見本を見る。
紙を見る。
もう1度、見本を見る。
そして。
書く。
「…………」
ニコが覗き込む。
首を傾げた。
ニコ
「……なにこれ?」
ヤヌス
「ニコ」
ニコ
「違うよ!」
ヤヌス
「同じだろ」
ニコ
「全然違う!」
ニコが紙を指差す。
ニコ
「ここ!」
「曲がってる!」
ヤヌス
「読めればいいだろ」
ニコ
「ダメ!」
ヤヌス
「なんでだ」
ニコ
「僕の名前だから!」
「ちゃんと書いて!」
「…………」
ヤヌスは紙を見る。
もう1度。
書く。
ニコ
「違う!」
ヤヌス
「…………」
書く。
ニコ
「そこじゃない!」
ヤヌス
「…………」
書く。
ニコ
「あっ!」
「今のちょっと上手!」
ヤヌス
「……面倒だな」
ニコ
「勉強は大事なの!」
胸を張る。
いつの間にか。
完全に先生の顔だった。
厨房で料理の仕込みをしていたミレイユが。
肩を震わせている。
ヤヌスがそちらを見る。
ヤヌス
「……何がおかしい」
ミレイユ
「いえ」
ミレイユは笑いを堪えながら振り返った。
ミレイユ
「ヤヌスさんも、ちゃんとニコの言うことを聞くんだなと思って」
ヤヌス
「うるさいからだ」
ニコ
「違うよ!」
すかさずニコが割って入る。
ニコ
「僕が先生だから!」
ヤヌス
「勝手に決めただけだろ」
ニコ
「でも先生は先生!」
ヤヌス
「意味が分からん」
ミレイユ
「ふふっ」
また笑われた。
ヤヌスが不満そうに眉を寄せる。
ニコは気にせず、次の文字を書いた。
ニコ
「じゃあ次!」
紙に名前が増える。
ニコ
「お母さん!」
――ミレイユ。
ヤヌスが見本を見ながら書く。
やはり。
字は汚い。
それでも。
ニコ
「うん!」
「さっきより上手!」
ヤヌス
「そうか」
ニコ
「じゃあ最後!」
ニコが紙へ文字を書く。
今度は。
ヤヌスの名前。
――ヤヌス。
「…………」
自分の名前。
ヤヌスは少しだけ。
その文字を見つめた。
ニコ
「ほら!」
「書いてみて!」
ペンを握る。
ゆっくりと。
見本を真似る。
ニコ。
ミレイユ。
ヤヌス。
1枚の紙の上に。
3人の名前が並んだ。
ニコ
「できた!」
ニコが嬉しそうに紙を持ち上げる。
ニコ
「これで3人の名前書けるね!」
ヤヌス
「……そうだな」
特に。
意味があるとは思わなかった。
ただ。
自分の名前を自分で書けた。
それだけだ。
ニコ
「これはもういらないね」
ニコが紙へ手を伸ばす。
ヤヌスは。
なぜか。
その手より先に紙を取った。
ニコ
「ん?」
ヤヌス
「これは貰う」
ニコ
「いいけど」
「なんで?」
「…………」
ヤヌス自身。
分からなかった。
ヤヌス
「……練習に使う」
ニコ
「おお!」
「やる気出てきた!」
ヤヌス
「違う」
そう言いながら。
ヤヌスは紙を折った。
そして。
外套の内側へしまった。
◇◇◇
その後。
ニコは店の裏手へヤヌスを連れ出した。
手には。
拾ってきた木の棒。
「…………」
嫌な予感しかしない。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん!」
ヤヌス
「なんだ」
ニコが木の棒を両手で握る。
ニコ
「僕も強くなれる?」
「…………」
ヤヌスの目が。
僅かに細くなった。
ヤヌス
「なんでだ」
ニコ
「え?」
ヤヌス
「なんで強くなりたい」
「…………」
ニコは少しだけ考えた。
それから。
店の方を見る。
厨房では。
ミレイユが働いている。
ニコ
「お母さんを守れるようになりたいから」
「…………」
ヤヌスは黙った。
ニコ
「お父さん、いないから」
小さな手が。
木の棒を握る。
ニコ
「だから」
「僕が強くなったら」
「お母さんを守れるでしょ?」
「…………」
守る。
その言葉が。
胸の奥へ落ちる。
かつての自分は。
弱かった。
だから。
全てを奪われた。
父親も。
家も。
家族と過ごした時間も。
何も守れなかった。
弱かったから。
奪われた。
だから――。
強くならなければならない。
もう2度と。
奪われる側にならないために。
ニコ
「ねえ!」
ニコが顔を上げる。
ニコ
「僕にも剣教えてよ!」
ヤヌス
「駄目だ」
ニコ
「なんで!?」
即答だった。
ニコが不満そうに頬を膨らませる。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん強いじゃん!」
ヤヌス
「関係ない」
ニコ
「僕も強くなりたい!」
ヤヌス
「駄目だ」
ニコ
「だからなんで!」
「…………」
ヤヌスは。
ニコの持つ木の棒を見た。
そして。
背中のアウロラへ。
一瞬だけ。
視線を向ける。
ヤヌス
「守るための剣を」
「俺は知らない」
「…………」
ニコが黙る。
ヤヌスはそれ以上、何も言わなかった。
自分が剣を振る理由は。
誰かを守るためではない。
奪うためだ。
カインから。
命を。
復讐を果たすために。
ニコ
「……けち」
ニコが拗ねたように呟く。
そして。
少し離れる。
木の棒を構えた。
ニコ
「えいっ!」
振る。
身体ごと持っていかれる。
ニコ
「えいっ!」
また振る。
今度は足がもつれた。
ヤヌス
「…………」
ニコ
「やあっ!」
ヤヌス
「足が違う」
ニコ
「え?」
ニコが止まる。
ヤヌスも。
言った後で黙った。
ニコ
「今、教えてくれた!」
ヤヌス
「教えてない」
ニコ
「足が違うって言った!」
ヤヌス
「見ていて気になっただけだ」
ニコ
「じゃあどうするの?」
ヤヌス
「…………」
ニコが目を輝かせて待っている。
ヤヌスは小さく息を吐いた。
近づく。
ヤヌス
「足を開け」
ニコ
「こう?」
ヤヌス
「開きすぎだ」
ニコ
「じゃあこう?」
ヤヌス
「狭い」
ニコ
「難しい!」
ヤヌス
「お前が下手なんだ」
ニコ
「初めてなんだから仕方ないでしょ!」
ヤヌスがしゃがむ。
ニコの足を軽く動かす。
ヤヌス
「こっちを前にしろ」
ニコ
「うん!」
ヤヌス
「棒を握りすぎるな」
ニコ
「うん!」
ヤヌス
「肩に力を入れるな」
ニコ
「うん!」
ヤヌス
「……聞いてるのか?」
ニコ
「聞いてる!」
満面の笑み。
「…………」
ヤヌスは。
ほんの少しだけ。
困ったような顔をした。
店の中。
開け放たれた窓の向こうから。
ミレイユが2人を見ていた。
木の棒を構えるニコ。
その隣で。
ぶっきらぼうに姿勢を直してやるヤヌス。
楽しそうな息子の声が聞こえる。
「…………」
ニコには。
父親と過ごした記憶がほとんどない。
父親に何かを教えてもらったことも。
手を引かれて歩いたことも。
こうして。
隣に立ってもらったことも。
きっと。
覚えてはいない。
だからこそ。
ミレイユは。
その光景から。
しばらく目を離せなかった。
胸の奥に。
小さな願いが浮かぶ。
こんな時間が。
明日も。
その次も。
続けばいい。
そんな。
ささやかな願いだった。
――その時。
バンッ!!
激しい音と共に。
店の扉が開いた。
「!」
ヤヌスが顔を上げる。
ニコも振り返った。
店内へ駆け込んできた男が。
荒い息を吐いている。
見覚えがあった。
森で。
魔人に殺されかけていた魔獣狩り。
魔獣狩り
「ヤヌス!」
「…………」
その瞬間。
ヤヌスの目が変わった。
男も。
それに気づいた。
ヤヌス
「……何だ」
魔獣狩り
「お前……探してただろ……」
「仮面をつけた魔人を……!」
「!」
ニコの手から。
木の棒が落ちた。
ヤヌスが立ち上がる。
ヤヌス
「……何?」
魔獣狩り
「出た」
息を整えながら。
男が言う。
魔獣狩り
「仮面をつけた魔人が出た」
「…………」
数秒前まで。
ニコに剣の構えを教えていた青年が。
消えた。
ヤヌス
「どこだ」
魔獣狩り
「え?」
ヤヌス
「どこで見た」
1歩。
近づく。
ヤヌス
「いつだ」
魔獣狩り
「お、落ち着け!」
ヤヌス
「答えろ」
声が低い。
魔獣狩りが思わず息を呑む。
魔獣狩り
「俺が見たわけじゃねぇ!」
「仲間から聞いた!」
「街の北側だ!」
「森へ続く街道で、仮面をつけた魔人を見た奴が――」
最後まで。
聞いていなかった。
ヤヌスは店内へ戻る。
壁に立てかけていたアウロラを掴む。
背負う。
ミレイユ
「ヤヌスさん!」
足は止まらない。
扉へ向かう。
ミレイユ
「待ってください!」
「まだ本当に、その魔人なのかも――」
ヤヌス
「確かめる」
ミレイユ
「でも……!」
扉へ手をかける。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん!」
その声だけが。
ヤヌスの足を止めた。
「…………」
振り返る。
ニコは。
さっきまでとは違う顔をしていた。
笑っていない。
床に落ちた木の棒。
その横で。
ヤヌスを見つめている。
ニコ
「……ちゃんと帰ってくる?」
「…………」
答えられなかった。
仮面の魔人。
カイン。
もし。
本当に奴だったなら。
殺す。
そのために。
ここまで来た。
そのためだけに。
生きてきた。
自分が生きて帰るのか。
カインを殺せるのか。
何も。
分からない。
「…………」
ヤヌスは。
ニコを見た。
少しだけ。
長く。
そして。
何も答えず。
扉を開けた。
カラン――。
扉が閉まる。
「…………」
ニコは。
その扉を見つめていた。
◇◇◇
ヤヌスは走った。
人を避け。
通りを抜ける。
門へ向かう。
門兵が何かを言った。
聞こえなかった。
そのまま。
街の外へ出る。
街道。
北へ。
仮面。
魔人。
その2つだけが。
頭の中を埋め尽くしている。
やがて。
街道を外れ。
森へ入る。
土を見る。
折れた枝。
足跡。
血の跡。
僅かな痕跡を見つけるたび。
その先を追った。
「…………」
だが。
カインはいない。
それでも。
止まらない。
さらに森の奥へ。
さっきまで。
自分の名前を書いていた紙も。
ニコの木剣も。
ミレイユの笑い声も。
今は。
頭の中から消えていた。
カイン。
ただ。
その名前だけを追っていた。
◇◇◇
同じ頃。
ルミナたちは街道を歩いていた。
人の往来は。
少しずつ増えている。
だが。
どこか妙だった。
すれ違う商人たちの顔が暗い。
荷を積んだ馬車も。
皆。
先を急いでいるように見える。
商人
「またか……」
すれ違いざま。
そんな声が聞こえた。
ルミナが振り返る。
少し先で。
商人たちが話している。
商人
「最近、魔人を見たって話が多すぎる」
商人2
「魔獣もだ」
「森の奥にいるはずの奴らが、妙にこっちへ移動してる」
商人
「まさか……また魔王軍が動いてるんじゃないだろうな」
商人2
「縁起でもないこと言うなよ」
「…………」
ノクスが。
その背中を見つめる。
ノクス
「妙だな」
リリア
「うん……」
先ほどまで明るかったリリアの表情も。
少しだけ真剣になっている。
リリア
「魔人だけならともかく、魔獣まで動いてるって……」
ノクス
「偶然とは思わない方がいいだろうな」
ルミナも。
話は聞いていた。
だが。
意識は。
別の場所へ向いている。
「…………」
黒髪。
大剣。
橋の向こうから来た青年。
ヤヌス。
その時。
少し離れた場所で休んでいた旅人たちの会話が耳へ入った。
旅人
「そういや」
「リヴェルナの話、聞いたか?」
「…………!」
ルミナが反応する。
旅人2
「ああ」
「魔人が何体も出たってやつだろ?」
旅人
「それだけじゃねぇよ」
「そいつらを1人で倒した奴がいるらしい」
旅人2
「教会兵か?」
旅人
「違う」
「若い男だ」
ルミナが。
ゆっくり近づく。
旅人
「黒髪で」
「背中に馬鹿みたいにでかい剣を背負ってたらしい」
「…………!」
ルミナの瞳が大きく開く。
旅人2
「魔人は?」
旅人
「Bランク級が何体もいたって話だ」
「それをほとんど1人でやったらしい」
旅人2
「嘘だろ」
旅人
「俺に言うなよ」
「リヴェルナじゃ結構な噂になってるぞ」
ルミナの足が止まる。
今度こそ。
はっきりと。
名前が繋がった。
ルミナ
「リヴェルナ……」
小さく呟く。
ノクス
「ルミナ」
隣に来たノクスが静かに言う。
ノクス
「まだヤヌスだと決まったわけではない」
ルミナ
「ううん」
ルミナは首を横に振った。
迷いはなかった。
ルミナ
「ヤヌスだよ」
ノクス
「根拠は?」
ルミナ
「ない」
ノクス
「…………」
リリア
「ないんだ」
ルミナ
「でも分かるの!」
ルミナが2人を見る。
その顔には。
少しだけ笑みが浮かんでいた。
ルミナ
「黒い髪で」
「大きな剣を持ってて」
「橋の向こうから来て」
「魔人を何体も倒しちゃうような人なんて」
「ヤヌスしかいないよ」
リリア
「それは……」
リリアが苦笑する。
リリア
「まあ、確かにそんな人が何人もいたら怖いかも」
ノクス
「……否定はしない」
ルミナは。
街道の先を見る。
その先。
遠くに。
巨大な城壁が見え始めていた。
ルミナ
「あそこにいる」
胸が高鳴る。
ルミナ
「ヤヌスがいる」
今度こそ。
会える。
ルミナ
「行こう!」
歩き出す。
また少しだけ。
速い。
ノクス
「……ルミナ」
ルミナ
「走ってないよ!」
ノクス
「まだ何も言っていない」
「…………」
リリア
「あははっ!」
3人は。
リヴェルナへ向かった。
けれど。
ルミナが追い続けている青年は。
もう。
その街にはいなかった。
◇◇◇
夜。
《渡り鳥亭》。
カラン、カラン――。
「いらっしゃいませ!」
ニコが顔を上げる。
入ってきたのは。
仕事を終えた商人だった。
「…………」
すぐに。
入口から目を逸らす。
いつもの席。
そこには。
誰も座っていない。
テーブルの上にも。
料理はない。
カラン、カラン――。
また。
扉が開く。
「!」
ニコが振り返る。
違う。
今度は。
旅人が2人。
「…………」
また。
視線が落ちる。
ミレイユは。
そんな息子を。
厨房から見ていた。
ニコが。
入口の近くへ座る。
頬杖をつく。
ニコ
「……遅いね」
ミレイユの手が。
ほんの一瞬だけ止まった。
ミレイユ
「そうね」
ニコ
「大丈夫かな……」
「…………」
ミレイユだって。
心配だった。
あの時のヤヌスの顔。
仮面の魔人。
その言葉を聞いた瞬間。
まるで。
別人になったようだった。
それでも。
ニコの前では。
不安そうな顔はできない。
ミレイユは。
いつものように微笑んだ。
ミレイユ
「ヤヌスさんは強いから」
「きっと大丈夫よ」
「…………」
じーっ。
ニコが。
何も言わずにミレイユを見る。
ミレイユ
「……なに?」
ニコ
「お母さんも心配なんでしょ?」
ミレイユ
「もちろんよ」
ニコ
「ほんとにそれだけ?」
ミレイユ
「……どういう意味?」
ニコの口元が。
にやりと上がった。
ニコ
「お母さん」
「ヤヌスお兄ちゃんのこと、好きなんじゃないの?」
ミレイユ
「なっ……!?」
持っていた皿が。
ガタンッと鳴った。
ミレイユ
「な、何言ってるの!」
ニコ
「だって最近」
「ヤヌスお兄ちゃんのことばっかり気にしてるじゃん!」
ミレイユ
「ニコ!」
ニコ
「朝ご飯もヤヌスお兄ちゃんの好きなやつ多いし」
ミレイユ
「それは、たくさん食べてくれるからでしょ!」
ニコ
「今日も帰ってくると思ってご飯用意してたし」
ミレイユ
「それは……!」
言葉に詰まる。
ニコの笑みが深くなる。
ニコ
「ほらー!」
ミレイユ
「もう!」
ミレイユの頬が。
少しだけ赤くなっていた。
ミレイユ
「ヤヌスさんは、まだ18歳でしょう!」
ニコ
「それがどうしたの?」
ミレイユ
「どうしたのって……!」
ニコが笑う。
ニコ
「じゃあ好きじゃないの?」
ミレイユ
「ヤヌスさんは!」
少しだけ声が大きくなる。
近くの客が振り返った。
ミレイユは。
恥ずかしそうに声を落とす。
ミレイユ
「……大切なお客さんなの」
ニコ
「ふーん?」
ミレイユ
「その顔やめなさい!」
ニコ
「あはははっ!」
ニコの笑い声が。
店内に響く。
ミレイユは困ったように息を吐きながら。
それでも。
少しだけ笑っていた。
いつもの。
《渡り鳥亭》の夜。
――けれど。
少しして。
ニコの笑い声が止まった。
「…………」
入口を見る。
扉は。
閉じたまま。
ニコ
「……ちゃんと」
小さな声。
ニコ
「帰ってくるよね?」
「…………」
今度は。
からかう声ではなかった。
ミレイユも。
扉を見る。
ヤヌスが出ていく時。
ニコは聞いた。
ちゃんと帰ってくる?
ヤヌスは。
答えなかった。
「…………」
胸の奥にある不安を。
押し込める。
ミレイユ
「ええ」
ニコを見る。
優しく。
笑う。
ミレイユ
「きっと」
「帰ってくるよ」
◇◇◇
夜の森。
枝が折れる。
葉が舞う。
その中を。
1人の青年が走っていた。
「はっ……」
呼吸が乱れる。
それでも。
止まらない。
黒い髪が。
風に揺れる。
足元に。
僅かな血痕を見つける。
ヤヌスは足を止めた。
しゃがむ。
指で触れる。
「…………」
まだ。
新しい。
周囲を見渡す。
折れた枝。
踏み荒らされた草。
土に残った足跡。
その先へ。
再び走る。
森の奥へ。
さらに奥へ。
何度痕跡を追っても。
見つからない。
カインはいない。
息が。
荒くなる。
ヤヌス
「どこだ……」
返事はない。
暗い森に。
自分の声だけが消えていく。
拳を握る。
ヤヌス
「どこにいる……」
歯を食いしばる。
ヤヌス
「カイン……!」
その頭には。
もう。
《渡り鳥亭》の灯りも。
ニコの言葉も。
ミレイユの顔も。
浮かんでいなかった。
ただ。
復讐だけが。
ヤヌスを前へ進ませていた。
◇◇◇
その頃。
リヴェルナから離れた森。
さらに。
深い場所。
月明かりさえ届かない闇の中で。
何かが動いた。
1つ。
2つ。
いや。
それだけではない。
木々の隙間。
岩陰。
茂みの奥。
いくつもの瞳が。
暗闇の中で光っている。
低い唸り声。
獣の息遣い。
その間に。
人の形をした影もあった。
魔獣。
魔人。
その数は。
数え切れない。
「…………」
誰も。
大きな声を出さない。
まるで。
何かを待っているように。
森の向こう。
巨大な橋の先に。
リヴェルナの灯りが見える。
人々が暮らす街。
酒場の灯り。
家々の窓。
今も。
何も知らず。
夜を過ごしている。
その街を。
闇の中から。
無数の影が見つめていた。
やがて。
その先頭に立つ魔人が。
ゆっくりと手を上げる。
魔人
「――始めるぞ」
闇の中。
無数の影が。
一斉に動き出した。




