第5話 同じ空の下
第三章 第5話
――魔女の街。
まだ街の大半が眠っている早朝。
淡い朝靄の中を、ルミナは1人歩いていた。
肩には旅用の鞄。
腰には小さな革袋。
動きやすい服の上から、使い慣れた外套を羽織っている。
必要なものは、昨夜のうちに全て詰めた。
この街へ来た時は、何も持っていなかった。
行く場所も。
帰る場所も。
これからどうすればいいのかさえ。
分からなかった。
「…………」
ルミナが足を止める。
目の前には、いつもの修練場があった。
何度、ここで倒れただろう。
何度、魔力を使い果たしただろう。
最初の頃は、魔力を隠すことすらまともにできなかった。
少しでもヤヌスのことを考えれば集中が乱れ、エリュシアには何度も叱られた。
それでも毎日、ここへ来た。
雨の日も。
身体が痛む日も。
心が折れそうな日も。
ヤヌスに会う。
そのために。
ルミナは再び歩き出した。
いつもの道。
いつもの家々。
早朝だというのに、どこからかパンを焼く香りが漂ってくる。
「あら?」
店先を掃除していた女性が顔を上げた。
「ルミナちゃん?」
ルミナ
「おはようございます!」
街の女性
「あらあら、そんな大荷物で」
女性は箒を止める。
そして、何かを察したのだろう。
「……今日なのね」
ルミナ
「はい!」
ルミナは笑った。
「行ってきます!」
街の女性
「そう。気をつけてね」
「ちゃんと帰ってくるのよ」
ルミナ
「はい!」
手を振って、再び歩き出す。
すると今度は、向かいから歩いてきた別の女性がルミナに気づいた。
街の女性2
「あら、ルミナ!」
「もう出るの?」
ルミナ
「はい!」
街の女性2
「寂しくなるわねぇ」
「向こうでもちゃんと食べるのよ?」
ルミナ
「もう、子供じゃないですよ!」
街の女性2
「私たちから見たら、まだまだ子供よ」
ルミナ
「もう……!」
女性が楽しそうに笑う。
ルミナもつられて笑い、手を振った。
それからも。
「ルミナちゃん!」
「頑張ってね!」
「また帰っておいで!」
何度も声をかけられた。
その度に、ルミナは笑って手を振った。
いつの間にか。
知っている顔が、こんなにも増えていた。
「…………」
長かった。
けれど。
振り返ってみれば、あっという間だったような気もする。
やがて、自分が暮らしていた建物の前を通る。
ルミナの足が止まった。
窓を見上げる。
昨日まで、あそこに自分がいた。
泣いた日もあった。
笑った日もあった。
眠れない夜もあった。
レオンを思い出して。
ヤヌスを思い出して。
1人で泣いた夜も、何度もあった。
でも。
いつからか、1人ではなくなっていた。
リリアがいた。
ノクスがいた。
エリュシアがいた。
街の人たちがいた。
ここはもう、ただの修行場所ではない。
レオンを失って。
ヤヌスとも離れて。
全てを失ったと思っていた自分を。
もう1度、立たせてくれた場所。
――第2の家。
「…………」
それでも。
行かなければならない。
理由は1つしかなかった。
ルミナ
「……待っててね」
小さく呟く。
「ヤヌス」
ルミナは星幽の塔へ向かった。
◇◇◇
塔の前まで来たところで。
ルミナの足が止まった。
ルミナ
「…………え?」
2人いる。
見慣れた顔。
ノクス。
そして、リリア。
それだけなら驚かなかった。
だが。
2人とも旅支度をしている。
リリアは大きな鞄を背負い、ノクスも普段とは違って旅用の外套を羽織っていた。
ルミナ
「……2人とも、何してるの?」
リリア
「ん?」
リリアが笑う。
「見て分からない?」
ルミナ
「分かるから聞いてるの!」
「なんで2人まで旅支度してるの!?」
リリア
「だって、一緒に行くから!」
ルミナ
「え?」
リリア
「だから、私たちも一緒に行くの!」
ルミナ
「ええっ!?」
ルミナは慌ててノクスを見る。
ルミナ
「ノクスも!?」
ノクス
「ああ」
ルミナ
「でも……これは私の旅だよ?」
「ヤヌスを探すための……」
ノクス
「知っている」
「だから行く」
ルミナ
「でも……」
ノクス
「今さら遠慮するな」
「ずっと一緒にいたんだ」
「食事も、修行も」
「辛い時もな」
ノクスはいつもの落ち着いた顔でルミナを見る。
ノクス
「もう姉妹みたいなものだろう」
「…………」
ルミナの目が揺れた。
すると、リリアが横から顔を覗き込んでくる。
リリア
「そういうこと!」
「ルミナだけ行かせるわけないよ!」
ルミナ
「リリア……」
リリア
「それにさ」
リリアが少しだけ視線を逸らす。
「外に出るのも久しぶりだし」
「ちょっと楽しみなんだよねぇ」
ノクス
「……やはり、それが目的か」
リリア
「違うよ!」
リリアが慌てて振り返る。
「ルミナが心配なのが1番!」
ノクス
「今、楽しみだと言っただろう」
リリア
「それはそれ!」
「ルミナのことは別!」
ルミナ
「ふふっ……」
リリア
「あっ、ルミナまで笑った!」
堪えきれず。
ルミナが笑う。
朝の塔の前に、3人の声が響いた。
その時。
頭上から声が降ってきた。
エリュシア
「朝から騒がしいぞ」
「!」
3人が同時に顔を上げる。
エリュシア
「ルミナ」
「出る前に、私のところへ来い」
「話がある」
ルミナ
「……はい!」
◇◇◇
星幽の塔。
エリュシアの部屋。
ルミナは以前にも、この場所でエリュシアと向き合った。
あの頃とは。
何もかも違う。
身体も。
魔力も。
そして、心も。
エリュシアは椅子へ腰掛け、ルミナを見つめていた。
エリュシア
「覚えているか?」
ルミナ
「……何をですか?」
エリュシア
「お前がこの街を出るために」
「私が出した条件だ」
「…………」
忘れるはずがない。
エリュシアが指を1本立てる。
エリュシア
「1つ」
「魔力操作を完璧にすること」
「人間の街に紛れても、魔力を視られないほどにな」
この街へ来たばかりの頃。
ルミナは、自分の魔力すらまともに制御できなかった。
感情が乱れれば、魔力も乱れた。
特に。
ヤヌスのことになると酷かった。
エリュシア
「そして」
もう1本。
指が立つ。
「攻撃魔法」
「この世に存在する攻撃魔法なら何でもいい」
「どれか1つ」
「私を超えること」
「…………」
ルミナの脳裏に、あの日の自分が浮かぶ。
『エリュシア様を……?』
『そんなの、無理です』
『だめだ』
『これは絶対だ』
あの時は、本当に無理だと思った。
けれど。
今は。
エリュシアの足元で砕け散った結界を覚えている。
自分の魔法が。
初めて。
あの人へ届いた日を。
エリュシア
「魔力操作」
「合格だ」
「攻撃魔法も、条件を満たした」
ルミナの拳が僅かに握られる。
エリュシア
「ここへ来た頃のお前とは、比べるまでもない」
エリュシアが真っ直ぐルミナを見る。
「今のお前なら」
「外の世界でも、簡単には死なん」
ルミナの表情が少しだけ緩んだ。
だが。
エリュシア
「――だからこそ」
空気が変わった。
「聞いておく」
ルミナも表情を戻す。
エリュシア
「ヤヌスを見つけて」
「どうするつもりだ?」
「…………」
答えは。
ずっと前から決まっている。
ルミナ
「守ります」
迷わなかった。
「今度は」
「私がヤヌスを守ります」
胸元へ手を当てる。
ルミナ
「あの頃のヤヌスを……」
「取り戻します」
「…………」
エリュシアは何も言わない。
ただ、ルミナを見ている。
しばらくして。
エリュシア
「お前が知っているヤヌスと」
「今のお前が追おうとしている男が」
「同じだとは限らん」
「…………」
ルミナの瞳が僅かに揺れる。
エリュシア
「お前たちは、もう子供ではない」
「人間が変わるには十分すぎるほどの時間が流れた」
「ましてや――」
そこで言葉を切る。
エリュシア
「ヤヌスがいたのは奈落だ」
ルミナの指先が僅かに動く。
エリュシア
「それだけではない」
「奴はそこで」
「最悪な男と出会っている」
ルミナ
「…………」
分かっている。
あの男。
ヤヌスの心へ入り込み。
弱さを否定し。
憎しみを煽った男。
ルミナは。
その全てを知っているわけではない。
けれど。
ヤヌスが変わってしまうには、十分すぎる何かがあったことだけは分かっている。
自分はここにいた。
暖かい食事があった。
眠る場所があった。
リリアがいた。
ノクスがいた。
エリュシアがいた。
街のみんながいた。
でも。
ヤヌスは違う。
あの場所で。
何を見たのか。
何を失ったのか。
どうやって。
長い時間を生き抜いてきたのか。
自分は何も知らない。
それでも。
ルミナ
「……分かっています」
「それでも」
「行きます」
エリュシアはしばらく黙っていた。
そして。
小さく息を吐く。
エリュシア
「……そう言うと思った」
椅子から立つ。
「なら」
「行ってこい」
ルミナの顔が明るくなる。
ルミナ
「はい!」
頭を下げる。
そして、扉へ向かう。
手を伸ばした。
エリュシア
「ルミナ」
「?」
振り返る。
エリュシアの顔から、先ほどまでの僅かな柔らかさが消えていた。
エリュシア
「もう1つ」
「約束しろ」
「…………」
あの日。
エリュシアが言った。
『必要なものは、しっかり準備しておけ』
『――心の準備もな』
その言葉の意味を。
ルミナはまだ知らなかった。
エリュシア
「もし」
「ヤヌスが自分自身を失った時――」
ルミナの表情が僅かに強張る。
エリュシアは目を逸らさない。
エリュシア
「お前が止めろ」
ルミナ
「……分かってます」
エリュシア
「いや」
「お前は分かっていない」
ルミナ
「え……?」
エリュシアの目を見て。
ルミナは。
その言葉が意味するものに気づいた。
止める。
ただ。
説得するという意味ではない。
力ずくでも。
それでも止まらなければ。
――殺してでも。
「…………」
かつて。
この街へ来た時。
エリュシアから試された。
ヤヌスを。
殺せるのか。
あの時。
ルミナは殺さない道を選んだ。
何があっても。
ヤヌスを助ける。
そう決めた。
なのに。
今。
同じ相手から。
正反対にも思える約束を求められている。
ルミナ
「……もし」
喉が乾く。
「ヤヌスが……」
「戻れなくなったら……?」
エリュシアは答えない。
答えないことが。
答えだった。
ルミナの指が震える。
エリュシア
「お前はヤヌスを追うために外へ出る」
「だが」
「ヤヌスだけを見ていればいいわけではない」
静かな声。
けれど。
逃げ道はなかった。
エリュシア
「外には人間がいる」
「子供がいる」
「家族がいる」
「何も知らずに生きている者たちがいる」
「…………」
エリュシア
「もしヤヌスが」
「その者たちへ牙を向けた時」
「それでもお前は」
「ヤヌスだからという理由だけで」
「見逃すのか?」
ルミナ
「そんなこと……!」
言い返そうとして。
止まった。
できるのか。
自分に。
ヤヌスが誰かを殺そうとしていたら。
その前に立てるのか。
それでも止まらなかったら。
「…………」
怖かった。
魔人と戦うことではない。
旅に出ることでもない。
ヤヌスに会えないことでもない。
ようやく会えたヤヌスが。
もう。
自分の知っているヤヌスではなかったら。
それが。
怖い。
エリュシア
「ルミナ」
静かに名前を呼ばれる。
エリュシア
「守るというのは」
「隣に立つことだけではない」
「…………」
エリュシア
「間違えた時に」
「止めることもだ」
ルミナの目に。
僅かに涙が滲んだ。
「…………」
長い沈黙。
それでも。
最後には顔を上げた。
ルミナ
「…………はい」
小さな声。
でも。
逃げなかった。
ルミナ
「約束します」
「もし」
「ヤヌスが……自分を失ったら」
拳を握る。
「私が」
「止めます」
エリュシアはその答えを聞いて。
ようやく。
僅かに目を細めた。
エリュシア
「それでいい」
「…………」
ルミナは深く息を吸う。
そして。
改めてエリュシアへ向き直った。
ルミナ
「お師匠様」
エリュシア
「なんだ?」
ルミナは深く頭を下げる。
ルミナ
「本当に……」
「ありがとうございました」
「私」
「ここに来られて」
「本当によかったです」
「…………」
エリュシアはしばらく何も言わなかった。
やがて。
いつもの調子で口を開く。
エリュシア
「礼などいらん」
「私は」
「お前が勝手に死なない程度に」
「鍛えただけだ」
ルミナが顔を上げる。
少し。
笑っていた。
ルミナ
「はい」
エリュシア
「……何がおかしい」
ルミナ
「何でもありません!」
エリュシア
「なら行け」
「ノクスとリリアを待たせているんだろう」
ルミナ
「はい!」
ルミナが扉へ向かう。
開く。
廊下へ。
1歩。
踏み出す。
エリュシア
「ルミナ」
足が止まった。
振り返る。
エリュシアは。
こちらを見ていた。
いつもの。
何を考えているのか分からない顔。
でも。
その声だけは。
少し違った。
エリュシア
「生きて帰ってこい」
「…………」
ルミナの目から。
涙が1粒落ちた。
それでも。
笑う。
ルミナ
「はい!」
◇◇◇
塔の外へ出る。
リリア
「遅ーい!」
すぐに声が飛んできた。
リリア
「もう、待ちくたびれたよー!」
ノクス
「馬鹿を言うな」
「さっきまで平気だと言っていただろう」
リリア
「それはさっきの話!」
ノクス
「大して経っていない」
リリア
「ノクスは細かいなぁ」
ルミナが目元を拭う。
リリアはそれに気づいた。
けれど。
何も聞かなかった。
代わりに、いつもの明るい笑顔を向ける。
リリア
「準備できた?」
「…………」
ルミナは2人を見る。
ノクス。
リリア。
長い時間。
ずっと一緒だった。
そして。
これからも。
一緒に来てくれる。
ルミナ
「うん!」
笑う。
「行こう!」
◇◇◇
街の外れ。
エリュシアが3人の前へ立っていた。
その周囲に。
淡い光が浮かんでいる。
空間が少しずつ歪んでいく。
エリュシア
「先に言っておく」
「ヤヌスの正確な位置までは分からん」
ルミナが頷く。
エリュシア
「私が辿れたのは」
「森を出た時に残った魔力の残滓だけだ」
「繋げられるのは」
「この地方まで」
ルミナ
「十分です」
エリュシア
「そうか」
エリュシアが片手を上げる。
魔力が一気に膨れ上がった。
目の前の空間に。
光の亀裂が走る。
広がる。
そして。
向こう側に。
別の景色が現れた。
青い空。
草原。
遠くに伸びる街道。
外の世界。
「…………」
ルミナの胸が大きく鳴った。
その景色を見た瞬間。
遠い日の記憶が蘇る。
◇◇◇
見知らぬ空間だった。
さっきまで聞こえていた街の喧騒は。
もうどこにもない。
酒場の笑い声も。
馬車の音も。
人の気配も。
すべてが。
薄い膜の向こう側に置き去りにされたようだった。
音が違う。
空気が違う。
足元にあるはずの地面すら。
どこか頼りない。
あの時。
ルミナは1人だった。
リリア
『そのしおり……』
初めて会った少女が。
レオンの名を知っていた。
リリア
『私たちの英雄だよ!!』
その言葉だけで。
涙が出た。
レオンのことを。
知っている人がいた。
否定しない人がいた。
そして。
リリアに手を引かれ。
この街へ来た。
あの日。
ルミナは。
魔女の街に迎えられた。
◇◇◇
そして今。
今度は。
自分から出ていく。
ルミナが振り返る。
魔女の街。
長い時間を過ごした場所。
自分を救ってくれた。
第2の家。
寂しくないわけではない。
離れたくない気持ちだってある。
それでも。
行く。
ルミナは前を見る。
門の向こう。
その世界のどこかに。
ヤヌスがいる。
ルミナ
「行ってきます!」
1歩。
踏み出した。
光の向こうへ。
全てを失って。
この街へ辿り着いた少女は。
今。
大切な人を取り戻すため。
魔女の街を出た。
◇◇◇
「うわぁぁぁ……!」
街道へ出るなり。
リリアが目を輝かせた。
リリア
「やっぱり外って広いねぇ!」
ノクス
「当たり前だ」
リリア
「分かってるよ!」
「でも久しぶりなんだから、ちょっとくらい感動させてよ!」
道の向こうから馬車がやってくる。
荷物を満載した馬車。
商人らしい男が御者台に座り。
後ろには旅人たちが乗っている。
リリアがじっと目で追う。
リリア
「馬車だ……!」
ノクス
「初めて見るわけでもあるまい」
リリア
「久しぶりに見ると違うの!」
そんな2人の少し前を。
ルミナは歩いていた。
周囲を見ながら。
何かを探すように。
ノクス
「ルミナ」
ルミナ
「ん?」
ノクス
「速いぞ」
ルミナ
「え?」
振り返る。
2人が少し後ろにいる。
ルミナ
「あっ……ごめん!」
慌てて歩調を緩める。
だが。
しばらくすると。
ノクス
「ルミナ」
ルミナ
「……なに?」
ノクス
「また速い」
ルミナ
「…………」
リリア
「あははっ!」
「ルミナ、さっきからそればっかりだよ」
ルミナ
「ご、ごめん……」
リリア
「気持ちは分かるけどさ」
「ヤヌスがどこにいるかも分からないんだよ?」
ルミナ
「分かってるよ」
リリア
「本当に?」
「…………」
ルミナ
「……分かってる」
そう答えながらも。
ルミナの視線は前へ向いている。
ルミナ
「でも」
「今、この地方のどこかにいるんだよ?」
「そう思ったら……」
ノクスがルミナの肩へ手を置いた。
ノクス
「焦るな」
「…………」
ノクス
「道も分からん」
「ヤヌスがどこへ向かったのかも分からん」
「闇雲に動けば」
「かえって遠ざかるかもしれないぞ」
正論だった。
ルミナが少し頬を膨らませる。
ルミナ
「……ノクスって」
「時々、お師匠様みたい」
ノクス
「それは褒めているのか?」
ルミナ
「んー……」
「どうだろう?」
ノクス
「おい」
リリア
「あはははっ!」
3人の笑い声が。
街道に響いた。
馬車とすれ違い。
小さな村へ立ち寄り。
露店で食べ物を買う。
リリア
「んー! これ美味しい!」
ノクス
「リリア」
「さっきも食べていただろう」
リリア
「いいの!」
「せっかく外に出たんだから!」
ノクス
「理由になっていない」
リリア
「細かいことは気にしない!」
ルミナも。
思わず笑った。
焦りは消えない。
それでも。
1人ではない。
それだけで。
少しだけ。
心が軽くなった。
◇◇◇
昼を過ぎた頃。
3人は街道沿いの小さな集落へ立ち寄った。
水と食料を補充するためだった。
その時。
近くにいた旅人たちの会話が。
ルミナの耳へ入った。
旅人
「しかし、最近は物騒だな」
旅人2
「ああ」
「リヴェルナの近くに魔人まで出たんだろ?」
「…………」
ルミナの足が僅かに止まる。
魔人。
それだけなら。
気にしなかった。
だが。
旅人
「でも、倒されたらしいぞ」
旅人2
「教会か?」
旅人
「いや」
「若い男だって話だ」
「…………」
ルミナが振り返る。
ルミナ
「若い男……?」
旅人
「ああ」
「なんでも」
「橋の向こうから来たらしい」
胸が鳴る。
旅人
「黒髪で」
「でっかい剣を背負った青年だってよ」
「…………!」
ルミナの目が大きく開いた。
黒髪。
大剣。
橋の向こう。
旅人2
「それで、魔人を何体も1人で倒したらしい」
「そんな奴いるか?」
旅人
「知らねぇよ」
「俺も聞いた話だ」
ルミナの指が震える。
ルミナ
「……ヤヌス」
名前が零れた。
考えるより。
先だった。
ルミナが走り出す。
ノクス
「待て」
襟を掴まれた。
ルミナ
「わっ!?」
その場で止められる。
ルミナ
「ノ、ノクス!」
ノクス
「どこへ行くつもりだ」
ルミナ
「ヤヌスのところ!」
ノクス
「場所は?」
ルミナ
「…………」
固まる。
リリア
「ルミナぁ……」
リリアが呆れたように笑う。
「せめて方向くらい聞いてから走ろうよ」
「…………」
ルミナ
「……はい」
旅人たちが笑いを堪えている。
ルミナは少しだけ顔を赤くした。
それでも。
胸の鼓動は収まらない。
いる。
本当に。
いる。
ずっと探していた人が。
何度も名前を呼んだ人が。
何度も夢に見た人が。
もう。
手を伸ばせば。
届くかもしれない場所にいる。
◇◇◇
その頃。
――リヴェルナ。
《渡り鳥亭》。
「…………」
ルミナが必死になって追いかけている青年は。
朝食を食べていた。
焼きたてのパン。
卵。
野菜。
それに。
厚めに切られた肉。
ヤヌスは黙々と食べている。
その向かい。
ニコがじーっとヤヌスを見ていた。
「…………」
ヤヌスが顔を上げる。
ヤヌス
「なんだ?」
ニコ
「別に」
「…………」
ヤヌス
「なら見るな」
ニコ
「気になるんだもん」
厨房からミレイユが出てくる。
ヤヌスの前へ飲み物を置いた。
ミレイユ
「よく眠れました?」
ヤヌス
「ああ」
短く答える。
ニコが待ってましたとばかりに身を乗り出した。
ニコ
「木の上より?」
「…………」
ヤヌスの手が止まる。
ニコの口元が。
にやにやしている。
ヤヌス
「…………」
ニコ
「どっち?」
ヤヌス
「うるさい」
ニコ
「あははははっ!」
店内にニコの笑い声が響く。
ミレイユも口元を押さえて笑っていた。
ヤヌスは少し不満そうに。
残ったパンを口へ放り込んだ。
初めて。
《渡り鳥亭》で迎えた朝。
木の葉の音ではなく。
食器の音で目を覚ました。
魔獣の気配ではなく。
1階から聞こえる。
ミレイユとニコの声で。
目を覚ました。
まだ慣れない。
それでも。
悪くはなかった。
◇◇◇
食事を終え。
ヤヌスが立ち上がろうとした時だった。
ニコ
「あっ!」
ニコがテーブルの上に置かれていた紙を指差した。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん」
「これ読める?」
「…………」
ヤヌスが見る。
店で使っている仕入れの一覧らしい。
いくつか読める文字はある。
だが。
全てではない。
ヤヌス
「……全部は分からん」
ニコ
「やっぱり!」
ヤヌス
「何がやっぱりなんだ」
ニコ
「この前もメニュー読めなかったもん!」
「…………」
ヤヌスが少し眉を寄せる。
ニコ
「じゃあ僕が教えてあげる!」
ヤヌス
「必要ない」
ニコ
「大事!」
ヤヌス
「困ってない」
ニコ
「困ってたじゃん!」
「メニュー読めなかったし!」
「…………」
ニコ
「お金もまだよく分かってないし!」
「…………」
反論できない。
厨房からミレイユが笑っている。
ニコ
「決まり!」
「今日から僕が先生ね!」
ヤヌス
「断る」
ニコ
「ダメ!」
ヤヌス
「なんでお前が決めるんだ」
ニコ
「先生だから!」
ヤヌス
「今決めただろ」
ニコは得意げに胸を張った。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃんより文字読めるから!」
「…………」
ヤヌスは何も言えなかった。
ニコが勝ち誇った顔をする。
こうして。
ヤヌス本人の意思とは関係なく。
《渡り鳥亭》で。
小さな先生が1人誕生した。
◇◇◇
しばらくして。
ヤヌスはアウロラを背負った。
右腕の布を確かめる。
今日もカインを探す。
目的は。
何も変わっていない。
ミレイユ
「今日も探しに行くんですか?」
ヤヌス
「ああ」
ミレイユはそれ以上聞かなかった。
何を探しているのか。
もう知っている。
仮面の魔人。
カイン。
ただ。
ヤヌスがなぜそこまで。
その魔人を追うのか。
それはまだ知らない。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん!」
入口へ向かうヤヌスへ。
ニコが声をかける。
ニコ
「晩ご飯までに帰ってきてね!」
ヤヌス
「分からん」
ニコ
「ダメ!」
「帰ってきて!」
「…………」
ヤヌス
「探してる奴が見つかるかもしれない」
ニコ
「でも帰ってきて!」
「…………」
ヤヌスがニコを見る。
真っ直ぐ。
こちらを見ている。
これまで。
帰る時間など。
考えたこともなかった。
腹が減れば。
何かを食べる。
眠くなれば。
安全な木を探す。
それだけだった。
でも。
今は。
帰ってこいと言う奴がいる。
「…………」
少しだけ。
間を置いて。
ヤヌス
「……分かった」
ニコが笑う。
ニコ
「絶対だよ!」
ヤヌスは返事をせず。
扉を開けた。
カラン、カラン――。
外へ出る。
扉が閉まる。
ミレイユはその扉を。
しばらく見つめていた。
ここに泊まり始めて。
まだ間もない。
なのに。
不思議だった。
もう。
今夜も。
あの青年が。
ここへ帰ってくるような気がしている。
◇◇◇
夕方。
街道を3人の少女が歩いていた。
空が少しずつ茜色へ変わっていく。
何人目かの旅人へ。
ルミナは同じことを聞いていた。
ルミナ
「すみません!」
「黒髪で、大きな剣を背負った男の人を知りませんか?」
旅人
「黒髪?」
男が考える。
「大剣……」
「…………」
ルミナが祈るように返事を待つ。
旅人
「ああ」
「もしかして」
「リヴェルナで噂になってる奴か?」
「!」
ルミナ
「リヴェルナ!?」
旅人
「ああ」
「最近来た若い男らしい」
「なんでも魔人を何体も――」
ルミナ
「どこですか!?」
旅人が驚く。
旅人
「え?」
ルミナ
「リヴェルナです!」
「どっちですか!?」
旅人
「あ、あっちだよ」
指を差す。
街道の先。
遠く。
夕暮れの向こう。
巨大な城壁が小さく見えていた。
そして。
そのさらに先へ伸びる。
大きな橋。
「…………」
ルミナの瞳が揺れる。
あそこに。
いる。
ヤヌスが。
いるかもしれない。
ルミナ
「……行こう!」
歩き出す。
今度は。
ノクスも止めなかった。
リリアも笑って。
その後を追った。
3人が。
リヴェルナへ向かう。
夕暮れの街道を。
その頃。
同じ街の反対側。
リヴェルナから離れるように。
1人の青年が歩いていた。
黒い髪。
背中には。
布に包まれた大剣。
ヤヌス。
仮面の魔人を探して。
今日も。
街の外へ出ていた。
距離は。
もう。
それほど離れていない。
同じ空の下。
同じ夕暮れの中。
1人は。
ヤヌスを探して。
街へ向かう。
1人は。
カインを探して。
街から離れていく。
まだ。
2人は。
互いの存在に気づかない。
◇◇◇
日が沈み始めた。
《渡り鳥亭》。
ニコが入口の扉を少し開け。
外を覗いていた。
「…………」
通りを歩く人々。
仕事を終えた商人。
家へ帰る親子。
けれど。
探している黒髪は。
まだ見えない。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん」
「遅いなぁ」
後ろ。
ミレイユがテーブルへ料理を並べている。
1皿。
多い。
誰に言われたわけでもない。
それでも。
用意していた。
ミレイユ
「大丈夫」
ニコが振り返る。
ミレイユは。
いつものように。
穏やかに笑っていた。
ミレイユ
「きっと」
「帰ってきますよ」
夕暮れの街道。
ヤヌスはまだ歩いている。
そして。
別の道から。
ルミナたちも。
リヴェルナへ向かっている。
かつて。
離れた2人。
片方には。
新しい帰る場所ができ始め。
片方は。
自分を救ってくれた場所を離れた。
そして今。
2人の道は。
少しずつ。
同じ場所へ。
近づいていた。




