第4話 宿り木
第三章 第4話
剣と爪が激突した。
甲高い金属音が響き、火花が散る。
「ぐっ……!」
アークの身体が大きく弾き飛ばされた。
地面を転がり、土煙を上げながら数m滑る。
だが、止まった瞬間には剣を地面へ突き立て、無理やり身体を起こした。
額から流れた血が頬を伝う。
呼吸は荒い。
握っている剣も、僅かに震えていた。
その正面。
人の倍近い巨躯を持つ魔人が、ゆっくりと歩いてくる。
全身を覆う黒褐色の皮膚。
異様に発達した両腕。
指先から伸びる爪は、剣と打ち合っても欠けてすらいない。
――Aランク。
単独で街に甚大な被害をもたらす可能性を持つ魔人。
その周囲には、何人もの教会兵が倒れていた。
死んではいない。
負傷者を後方へ下げながら、残った者たちは戦いを見守っている。
そして、その中心。
腕を組み、微動だにせず立つ男がいた。
聖騎士――ガレス・ヴァルハイト。
ガレスは剣に手を掛けてすらいない。
ただ。
戦うアークを見ていた。
ガレス
「どうした」
低い声が飛ぶ。
「単体のAランクに、助けが必要か?」
アークが顔を上げる。
アーク
「いえっ!」
息を整える暇すらない。
魔人が地面を蹴った。
巨体からは想像できない速度で距離を詰めてくる。
アークは剣を構えた。
アーク
「俺……1人でも!」
爪が振り下ろされる。
アークは横へ跳んだ。
直後。
ドゴォンッ!!
地面が砕ける。
石と土が飛び散り、アークの頬を切り裂いた。
それでも止まらない。
横へ回り込みながら剣を振るう。
「はぁぁぁッ!!」
刃が魔人の脇腹へ食い込んだ。
浅い。
魔人が吠える。
「グォォォォッ!!」
「うわっ!?」
腕を振られた。
剣で受ける。
凄まじい衝撃。
足が地面から浮いた。
また吹き飛ばされる。
今度は木へ背中から叩きつけられた。
「がっ……!」
肺から空気が押し出される。
剣が手から落ちた。
視界が揺れる。
魔人が迫ってくる。
アークは咳き込みながら、地面へ手をついた。
「……っ」
身体が重い。
痛い。
立ちたくない。
ほんの一瞬。
そんな弱音が頭を過った。
その時。
「勇者様……!」
遠くから声がした。
アークが僅かに顔を上げる。
戦場から離れた場所。
教会兵たちに守られながら、村人たちがこちらを見ていた。
老人。
女性。
子供。
怯えている。
それでも逃げずに。
自分を見ている。
「…………」
アークは。
震える手を伸ばした。
落ちた剣を掴む。
アーク
「……死ねば」
立ち上がる。
ガレスから。
何度も言われた。
アーク
「何も……守れない……!」
魔人が跳んだ。
巨大な爪が振り下ろされる。
逃げない。
アークは真正面から踏み込んだ。
「うぉぉぉぉぉッ!!」
爪と剣。
激突。
耳を塞ぎたくなるほどの金属音。
「ぐ……!」
押される。
足が地面へめり込んでいく。
力なら。
完全に相手が上。
なら――。
アークは。
突然、力を抜いた。
魔人の身体が前へ傾く。
その瞬間。
身体を横へ。
爪を受け流す。
ガレスとの訓練で。
何度も。
何度も。
叩き込まれた動き。
半歩。
横へ。
魔人の懐が開いた。
「――ここだ!」
踏み込む。
剣を両手で握り。
全身の力を込めて。
振り抜いた。
刃が。
魔人の胸を深く切り裂いた。
「グ……ォ……」
巨体が揺れる。
それでも。
倒れない。
「……嘘だろ」
アークの顔が引きつった。
魔人の腕が動く。
ガレス
「アーク!」
「っ!」
反射的に剣を構える。
爪。
剣。
再び衝突する。
だが。
先ほどまでの力はない。
「……!」
アークは気づいた。
今の一撃。
効いている。
アーク
「だったら……!」
もう1歩。
前へ出る。
「これで――!」
剣が。
魔人の胸を貫いた。
「終わりだぁぁぁぁッ!!」
魔人の身体が大きく仰け反る。
血が飛び散った。
数歩。
後退し。
そして。
ズズン――。
地面が揺れた。
巨体が倒れる。
「…………」
静寂。
アークは剣を握ったまま動かない。
魔人を見つめる。
動かない。
本当に。
終わった。
アーク
「……勝った?」
後ろから歓声が上がった。
「勇者様がやったぞ!!」
「魔人を倒した!!」
「勇者様!!」
アークの肩から力が抜ける。
アーク
「……よかったぁ」
そのまま。
尻餅をついた。
「マジで死ぬかと思った……」
周囲の教会兵から笑いが漏れた。
そんな中。
ガレスだけは腕を組んだまま。
倒れた魔人。
そして。
地面へ座り込むアークを見る。
やがて。
ゆっくりと口を開いた。
ガレス
「遅い」
アーク
「えぇ……」
アークの顔が引きつる。
ガレス
「動きに無駄が多い」
「相手の力に正面から付き合いすぎだ」
「最初の3撃で相手の力量は測れたはずだ」
「それをお前は――」
アーク
「いやいやいや!」
思わず立ち上がる。
「俺、今Aランクの魔人を1人で倒したんですよ!?」
「もうちょっとこう……」
「よくやった、とか!」
「成長したな、とか!」
「あるでしょう!?」
ガレスの眉間に皺が寄る。
ガレス
「まだまだ……レオンには及ばないな」
アーク
「またレオンさん!?」
アークが頭を抱える。
「それ言われたら何も言い返せないんですけど!」
教会兵たちが笑う。
ガレスは鼻を鳴らし、アークに背を向けた。
その口元が。
ほんの僅かに緩んでいたことに。
アークは気づかなかった。
初めて訓練場で剣を交えた時。
アークなら。
今の魔人には勝てなかった。
少なくとも。
1人では。
だが。
今日は勝った。
助けを求めず。
自分で考え。
最後まで立っていた。
まだ遠い。
あの男には。
あまりにも遠い。
それでも。
確実に。
前へ進んでいる。
◇◇◇
戦いが終わると。
アークたちは村へ戻った。
「勇者様!」
「ありがとうございます!」
「本当に……本当に助かりました!」
戻った途端。
村人たちに囲まれた。
アーク
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「俺、今かなり身体痛いんで!」
肩を叩かれるたび。
「いっ!」
「痛っ!」
顔を歪める。
それでも。
笑っていた。
そんなアークの前に。
数人の子供がやってくる。
1人の少年が。
じーっと。
アークを見上げた。
「…………」
アーク
「ん?」
少年は。
アークの破れた服を見る。
泥だらけの顔。
額から流れた血。
傷だらけの腕。
そして。
真顔で言った。
少年
「勇者様なのに、ボロボロ」
「…………」
アークの笑顔が固まる。
周囲から。
笑い声が上がった。
アーク
「いや!」
「強かったんだって、あいつ!」
子供たちが笑う。
少年
「勇者様って、もっとこう……」
木の棒を振り回す。
「ズバーン! ってやったら」
「魔人がドーン! ってなるんじゃないの?」
アーク
「ならない!」
「勇者を何だと思ってるんだ!」
少女
「でもレオン様は強かったって、お父さんが言ってたよ?」
アーク
「うっ……」
後ろ。
ガレスが。
僅かに口角を上げた。
アーク
「ガレスさん!」
「今、笑いましたよね!?」
ガレス
「知らんな」
アーク
「絶対笑った!」
村に。
笑い声が響く。
ほんの少し前まで。
魔人に怯えていた村。
その場所に。
笑顔が戻っていた。
アークは。
それを見渡す。
「…………」
自分は。
レオンではない。
まだ弱い。
Aランク1体を倒すだけで。
こんなにも傷だらけになる。
それでも。
守れた。
誰も。
魔人に奪われなかった。
それだけで。
今は十分だった。
◇◇◇
その日の夕方。
村長の家を借り。
ガレスたちは今後の移動について話し合っていた。
その時だった。
教会兵
「ガレス様!」
教会兵が駆け込んでくる。
表情が硬い。
ガレスが振り返る。
ガレス
「どうした」
教会兵
「リヴェルナより緊急報告です!」
アークも顔を上げた。
教会兵
「街の周辺で、複数の魔人が確認されました!」
「確認された個体は――」
息を整える。
「Bランク相当!」
「少なくとも3体です!」
ガレスの目つきが変わった。
アークが椅子から立ち上がる。
アーク
「ガレスさん!」
「行きましょう!!」
ガレス
「待て」
ガレスは地図を見る。
現在地からリヴェルナまで。
すぐに到着できる距離ではない。
アーク
「でも!」
「複数いるんですよ!?」
「早く行かないと――」
その時。
再び。
扉が開いた。
教会兵2
「続報です!」
全員の視線が集まる。
教会兵2
「リヴェルナ周辺に出現した魔人ですが――」
「討伐されました!」
「…………」
アーク
「……え?」
つい先ほど。
出現の報告を受けたばかり。
ガレス
「被害は」
教会兵2
「魔獣狩り数名が死亡」
「しかし、リヴェルナの街そのものへの被害はありません」
ガレスは僅かに眉を寄せた。
ガレス
「どこの部隊だ?」
「近辺に聖騎士の部隊はいないはずだ」
教会兵2
「それが……」
兵士が言い淀む。
ガレス
「どうした」
教会兵2
「何かの間違いだと思うのですが……」
「生存者の証言では」
「討伐したのは――」
困惑した表情。
「大剣を背負った、1人の青年だと」
ガレス
「なんだと?」
部屋の空気が変わる。
ガレスが立ち上がった。
ガレス
「1人でか?」
教会兵2
「はい」
「それも……」
報告書へ目を落とす。
「剣を抜いた形跡がない、と」
「…………」
ガレスが黙る。
Bランク。
単体なら。
優秀な戦士であれば討伐は可能だ。
だが。
複数。
しかも。
武器すら使わず。
その報告が事実なら。
アーク
「へぇー……」
隣で。
アークだけが。
妙に楽しそうな声を出した。
ガレスが見る。
ガレス
「何が面白い」
アーク
「いや」
「だって」
アークは自分の身体を見る。
包帯だらけ。
傷だらけ。
服も破れている。
つい先ほど。
Aランク1体を倒すために。
死にかけた。
アーク
「俺がこんなボロボロになってる間に」
「Bランクを何体も倒した奴がいるんですよね?」
笑う。
「しかも大剣持ってるのに、剣を抜かずに」
ガレス
「笑い事ではない」
アーク
「分かってますよ」
それでも。
アークの目には。
警戒より。
興味が浮かんでいた。
アーク
「でも」
「一度、会ってみたいですね」
ガレスは答えない。
ただ。
地図に記された。
リヴェルナという街を見つめていた。
◇◇◇
――交易都市リヴェルナ。
その頃。
街では。
ある噂が広がっていた。
「聞いたか?」
「ああ」
「魔人を倒した奴の話だろ?」
「3体だってよ」
「魔獣狩りじゃないらしいぞ」
「教会の人間でもないって」
「じゃあ何者なんだ?」
「知らねぇよ」
「ただ、でかい剣を背負った若い男だったって――」
そんな声が。
街の至るところから聞こえてくる。
そして。
その噂の本人は。
「…………」
露店に並べられた焼き菓子を見ていた。
昨日までなら。
金貨を差し出していたかもしれない。
だが。
今日は。
少し考え。
財布を開く。
「…………」
分からない。
結局。
何も買わずに歩き出した。
その横を。
男たちが通り過ぎる。
「魔人を素手で殺したって話だぞ」
「嘘だろ?」
「生き残った魔獣狩りが言ってるらしい」
「…………」
ヤヌスは。
自分の話だとは気づいている。
だが。
どうでもよかった。
知りたいのは。
カインの居場所。
それだけだ。
その時。
背後から聞き慣れた声がした。
門兵3
「よう! ニイチャン!」
ヤヌスが振り返る。
そこには。
昨日の門兵がいた。
ヤヌス
「……お前か」
門兵3
「お前か、じゃねぇよ!」
「命懸けで一緒についてった仲だろ!」
ヤヌスは少し考える。
ヤヌス
「お前、何もしてなかっただろ」
門兵3
「言うな!!」
通行人が振り返るほどの声だった。
門兵は咳払いする。
門兵3
「まあいい」
「兄ちゃん、これから飯だろ?」
ヤヌス
「ああ」
門兵3
「だと思った」
2人が向かう方向は。
同じだった。
どちらから言うでもなく。
並んで歩く。
やがて。
見慣れ始めた看板が見えてくる。
鳥を模した看板。
《渡り鳥亭》。
カラン、カラン――。
扉を開ける。
ニコ
「いらっしゃいませー!」
元気な声。
そして。
すぐに。
ニコの顔が輝いた。
ニコ
「あっ!」
「ヤヌスお兄ちゃん!」
厨房から。
ミレイユも顔を出す。
ミレイユ
「いらっしゃいませ」
笑っている。
ヤヌスは。
昨日と同じ席へ向かう。
門兵も。
その向かいへ座った。
注文は。
しない。
少しすると。
ニコが酒を運んできた。
その後。
ミレイユが料理を置く。
焼いた肉。
野菜。
パン。
ヤヌスの前には。
昨日より。
少しだけ量が多い。
ヤヌス
「…………」
料理を見る。
ニコを見る。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん、いっぱい食べるから!」
得意げだった。
門兵が笑う。
門兵3
「完全に覚えられてんな、兄ちゃん」
ヤヌスは。
少し考え。
ヤヌス
「……悪くない」
肉を口へ運ぶ。
すぐに。
食べる速度が上がった。
ミレイユが。
小さく笑った。
いつの間にか。
注文しなくても。
酒が出てくる。
料理が出てくる。
座る場所まで決まっている。
この街へ来て。
まだ。
ほんの数日。
それなのに。
《渡り鳥亭》では。
ヤヌスが来ることが。
少しずつ。
当たり前になり始めていた。
◇◇◇
「いたぞ!」
店の奥から。
大きな声が飛んだ。
「こいつだ!」
ヤヌスが顔を上げる。
そこには。
包帯を巻いた男が立っていた。
見覚えがある。
森で。
魔人に首を掴まれていた魔獣狩り。
昨日。
死んだと思っていた男。
ヤヌス
「生きてたのか」
魔獣狩り
「お前なぁ!」
「第一声がそれかよ!」
店内から笑い声が上がる。
魔獣狩りは足を引きずりながら近づいてくる。
魔獣狩り
「昨日は……助かった」
ヤヌスの前で。
頭を下げた。
「仲間は……死んじまったが」
「俺は、お前のおかげで生きてる」
ヤヌスは答えない。
ただ。
肉を食べる手が少し止まった。
魔獣狩り
「みんな!」
「聞いてくれ!」
男が振り返る。
「昨日、魔人を倒したのはこいつだ!」
ざわっ。
店内が騒がしくなる。
「本当に?」
「この兄ちゃんが?」
「若すぎないか?」
魔獣狩り
「俺は見た!」
「3体いた魔人を――」
男は。
興奮しながら。
昨日の出来事を話し始めた。
首が飛んだこと。
腕を落としたこと。
大剣を1度も抜かなかったこと。
門兵が。
何度も頷く。
門兵3
「マジだぞ」
「俺も見てた」
「もうな」
「意味分かんなかった」
「気づいたら首が落ちてんだよ!」
店内が沸く。
その中。
ニコだけは。
目を輝かせていた。
ニコ
「すげぇぇぇぇ!!」
ヤヌスの隣へ飛んでくる。
「ヤヌスお兄ちゃん!」
「めちゃくちゃ強いんだね!!」
「剣使ってないの!?」
ヤヌス
「ああ」
ニコ
「じゃあ、そのでっかい剣使ったらもっと強いの!?」
「…………」
ヤヌスの手が。
僅かに止まった。
背中。
壁へ立て掛けた。
布に包まれた大剣。
アウロラ。
それは。
自分の剣ではない。
父親の剣。
ヤヌス
「……どうだろうな」
ニコ
「かっけぇ……!」
ニコは気づかない。
ただ。
純粋に。
ヤヌスを見ていた。
憧れるように。
その時。
ミレイユ
「ニコ」
優しい声。
「ヤヌスさんを困らせないの」
ニコ
「はーい」
ミレイユが。
ヤヌスを見る。
ミレイユ
「それと」
「ヤヌスさん」
ヤヌス
「…………?」
少し。
困ったように笑う。
ミレイユ
「昨日は、本当に心配したんですよ」
「…………」
ミレイユ
「帰ってきてくれて」
「安心しました」
ヤヌスは。
何も言わなかった。
ただ。
その言葉だけが。
妙に。
耳に残った。
◇◇◇
夜。
店の客も。
少なくなっていた。
門兵3
「じゃあな、兄ちゃん!」
「俺、明日早ぇから!」
門兵が立ち上がる。
ヤヌス
「ああ」
門兵3
「また明日な!」
「…………」
ヤヌスは。
返事をしなかった。
だが。
門兵は気にする様子もなく帰っていった。
やがて。
ヤヌスも最後の肉を食べ終える。
ヤヌス
「ごちそうさま」
椅子から立つ。
アウロラを背負う。
外へ向かおうとした時。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん」
呼び止められる。
振り返る。
ヤヌス
「なんだ?」
ニコ
「そういえば」
「ヤヌスお兄ちゃんって、どこに泊まってるの?」
「…………?」
ヤヌスは。
質問の意味が。
一瞬分からなかった。
ヤヌス
「泊まる?」
ニコ
「寝るところ!」
「宿屋?」
「…………」
ヤヌスは答える。
ヤヌス
「木の上だ」
「…………」
ニコが固まった。
ニコ
「……木?」
ヤヌス
「ああ」
ニコ
「木って」
「外の?」
ヤヌス
「そうだ」
「…………」
数秒。
沈黙。
そして。
ニコ
「お母さーーーん!!」
突然。
厨房へ走っていった。
ヤヌスが目を瞬く。
ヤヌス
「……?」
すぐに。
ニコがミレイユの手を引いて戻ってくる。
ミレイユ
「ちょっと、ニコ」
「どうしたの?」
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん!」
「木で寝てるんだって!」
「…………」
ミレイユが。
ヤヌスを見る。
ミレイユ
「……木?」
ヤヌス
「ああ」
ミレイユ
「毎日ですか?」
ヤヌス
「そうだ」
「慣れてる」
奈落では。
地面で眠る方が危険だった。
眠っている間。
魔獣に襲われる。
だから。
木の上で眠る。
いつの間にか。
それが普通になった。
だが。
ミレイユとニコにとっては。
普通ではないらしい。
ニコ
「それだったらさ!」
ニコが。
ヤヌスを見る。
「ここに泊まればいいじゃん!」
「…………」
ヤヌス
「ここに?」
ニコ
「うん!」
「上に部屋あるよ!」
「空いてるところもあるし!」
「木より絶対いいよ!」
ヤヌスが。
ミレイユを見る。
ニコも。
母親を見る。
ニコ
「いいでしょ?」
ミレイユは。
少し考えた。
目の前の青年。
素性は。
ほとんど知らない。
どこから来たのか。
何をしてきたのか。
あの大剣が何なのか。
なぜ。
仮面の魔人を探しているのか。
何も知らない。
ただ。
不思議と。
怖くはなかった。
ニコを見る。
父親を知らずに育った息子。
そのニコが。
ここ数日。
楽しそうに。
ヤヌスの話ばかりしている。
そして。
ヤヌス自身も。
無愛想で。
世間知らずで。
時々、何を考えているのか分からない。
それでも。
どこか。
放っておけなかった。
ミレイユ
「……そうですね」
微笑む。
「よろしければ」
「うちに泊まっていきませんか?」
「…………」
ミレイユ
「宿として使っていた部屋もありますから」
「木の上よりは」
「ゆっくり眠れると思いますよ」
ヤヌスは。
2人を見る。
断る理由は。
特になかった。
ヤヌス
「そうか」
懐へ手を入れる。
ミレイユ
「……?」
ジャラ。
嫌な予感がした。
ミレイユ
「ヤヌスさん?」
ヤヌスが。
金貨を取り出す。
1枚。
2枚。
3枚。
ミレイユ
「待ってください」
4枚目。
ミレイユ
「待ってください!」
手を掴まれた。
ヤヌスが止まる。
ヤヌス
「なんだ?」
ミレイユ
「多すぎます!」
ヤヌス
「そうなのか?」
ミレイユ
「そうです!」
ニコが。
腹を抱えて笑い始める。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん!」
「またやってる!」
ヤヌス
「…………」
ヤヌスは。
少し不満そうだった。
ヤヌス
「金は難しいな」
ミレイユも。
耐えきれず。
笑った。
ミレイユ
「ふふっ……」
「本当に」
「変な人ですね」
ヤヌスは。
何がおかしいのか分からない。
ただ。
笑っている2人を。
黙って見ていた。
◇◇◇
その夜。
ヤヌスは。
《渡り鳥亭》の2階にいた。
小さな部屋。
ベッド。
机。
椅子。
窓。
それだけ。
豪華なものは。
何もない。
「…………」
ヤヌスは。
ベッドの前に立っていた。
柔らかい。
指で押すと。
沈む。
ヤヌス
「……柔らかすぎるな」
落ち着かない。
木の枝なら。
背中に硬さがある。
風がある。
葉の音がある。
何かが近づけば。
すぐに分かる。
ここには。
それがない。
壁がある。
天井がある。
扉がある。
逃げ道が少ない。
無意識に。
窓の位置を確認する。
そこから。
外の木が見えた。
「…………」
あっちで寝るか。
一瞬。
本気で考えた。
その時。
コンコン。
扉が鳴る。
身体が反応した。
右手が。
アウロラへ伸びかける。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん?」
「…………」
力が抜ける。
ヤヌス
「なんだ?」
扉が少し開く。
ニコが顔を出した。
ニコ
「ちゃんと寝てるかなって」
ヤヌス
「今から寝る」
ニコ
「ベッドで?」
ヤヌス
「……たぶん」
ニコ
「木に行っちゃ駄目だよ!」
ヤヌス
「分かった」
ニコが笑う。
ニコ
「じゃあ、おやすみ!」
扉を閉めようとして。
もう1度。
顔を出す。
ニコ
「ヤヌスお兄ちゃん」
ヤヌス
「?」
ニコ
「明日もいる?」
「…………」
ヤヌスは。
答えるまでに。
少し時間がかかった。
ヤヌス
「……朝飯は食う」
ニコ
「うん!」
満足したのか。
今度こそ。
扉が閉まった。
足音が遠ざかっていく。
「…………」
ヤヌスは。
ベッドへ腰を下ろした。
身体を横にする。
天井を見る。
やはり。
落ち着かない。
目を閉じる。
聞こえる。
下の階から。
皿を片付ける音。
ミレイユとニコの声。
小さな笑い声。
人の気配。
それを聞いていると。
不思議と。
右手の力が抜けた。
昔も。
こんな夜があった。
レオンがいて。
ルミナがいて。
誰かの声を聞きながら。
眠った夜。
「…………」
胸の奥が。
僅かに痛んだ。
ヤヌスは。
目を閉じる。
木の上ではない。
奈落でもない。
誰もいない場所でもない。
人の声がする。
暖かな家の中で。
その夜。
ヤヌスは。
3年ぶりに――。
人のいる家で眠った。




