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第1章 第3話 勇者の終焉

第1章 勇者の終焉


第3話 勇者の終焉


 レオンの肩から流れた血が、草の上へ落ちていく。


 1滴。


 また、1滴。


 夜の闇に沈むはずの赤が、ヤヌスの目には焼きつくほど鮮明に見えた。


「…………」


 レオンが傷ついた。


 その事実を、頭が受け入れようとしない。


 どれほど挑んでも。


 何度不意を突いても。


 ヤヌスの剣は、レオンの身体へ届かなかった。


 倒れるところなど見たことがない。


 誰かに負ける姿など、想像したことすらなかった。


 そのレオンが。


 今、血を流している。


ルミナ

「レオン……」


 隣から、ルミナの震えた声が聞こえた。


 その声に反応するように、レオンが僅かに顔を動かす。


 ヤヌスとルミナがいる。


 気づいた瞬間、レオンの表情が変わった。


レオン

「なぜ来た!」


 怒声が森を震わせる。


 いつもの叱り声よりも強い。


 初めて聞くほど、切羽詰まった声だった。


ヤヌス

「何も言わずにいなくなるからだろ!」


レオン

「今すぐ家へ戻れ!」


ヤヌス

「そんなの無理に決まって――」


レオン

「戻れッ!」


「…………」


 ヤヌスの言葉が止まる。


 レオンは、それ以上こちらを見なかった。


 肩の傷を押さえることもせず、アウロラを構え直す。


 仮面の魔人は動かない。


 剣を片手に下げたまま、ヤヌス達へ向けられていたレオンの背中を見つめている。


「…………」


 レオンが地面を蹴った。


 その大きな身体が、視界から消える。


 仮面の魔人の目前へ踏み込み、アウロラを下から振り上げた。


 仮面の魔人が剣を傾ける。


 刃がぶつかる寸前。


 レオンは手首を返し、斬撃の軌道を変えた。


 首ではない。


 剣を握る腕を狙う。


 白銀の刃が、黒い外套を斬り裂いた。


 だが。


 そこに腕はなかった。


 仮面の魔人は半歩だけ身体を引き、アウロラをかわしていた。


 同時に、黒い外套の下から膝が突き上がる。


「ぐッ……!」


 鈍い音。


 腹へ食い込んだ膝が、レオンの身体を持ち上げた。


 口から血が飛ぶ。


 それでも、アウロラを離さない。


 歯を食いしばり、至近距離から大剣を振るう。


 仮面の魔人が顔を逸らした。


 切っ先が仮面の表面を掠め、細い傷を刻む。


「…………」


 仮面の奥の目が、僅かに細くなった。


 レオンの脇腹へ、蹴りが突き刺さる。


 空気が弾けた。


 レオンの身体が横へ飛び、太い木の幹へ背中から激突する。


 幹が大きく揺れた。


 枝葉が擦れ合い、頭上から無数の葉が降り注ぐ。


レオン

「がはっ……!」


 地面へ落ちたレオンが、血を吐いた。


ヤヌス

「レオン!」


 考えるより先に身体が動いた。


 ヤヌスがレオンへ向かって駆け出す。


ルミナ

「駄目!」


 背後から腕を掴まれた。


 勢いを止められ、ヤヌスが振り返る。


ヤヌス

「離せ!」


 ルミナの顔は青ざめていた。


 掴んでいる手も震えている。


 それでも。


 ヤヌスの腕を離そうとはしなかった。


ルミナ

「今行ったら、ヤヌスまで死ぬ!」


ヤヌス

「じゃあ見てろっていうのかよ!」


ルミナ

「違う!」


 ルミナが声を張り上げた。


 目に涙を溜めながら、それでもヤヌスを真っ直ぐに見る。


ルミナ

「私だって行きたいよ……!」


「…………」


 ヤヌスの動きが止まった。


 ルミナは泣いている。


 レオンへ駆け寄りたいのは、彼女も同じだった。


 それでも。


 ヤヌスを失わないために、その腕を掴んでいる。


「…………」


 ヤヌスは奥歯を噛み締めた。


 何もできない。


 目の前でレオンが傷ついている。


 なのに。


 自分達には、近づくことさえできない。


 地面へ伏していたレオンの腕が動いた。


 アウロラを土へ突き立てる。


 柄を握り締め、震える腕で身体を起こした。


 膝を上げる。


 足の裏が地面を捉える。


 よろめきながら。


 それでも、立ち上がった。


 仮面の魔人が歩き出す。


 急ぐ様子はない。


 倒れた枝を踏み越え、レオンとの距離を詰めていく。


 レオンは荒い呼吸を繰り返しながら、アウロラを引き抜いた。


 両手で構える。


 大剣の切っ先が、僅かに揺れていた。


「…………」


 仮面の魔人の足が止まる。


 レオンが地面を蹴った。


 同時に。


 仮面の魔人の姿も消えた。


 ガギィンッ!!


 森の右側で、火花が弾ける。


 ヤヌスが顔を向けた時には、もう誰もいない。


 ドンッ!!


 今度は左側の地面が陥没した。


 衝撃で土と枯れ葉が舞い上がる。


 その中から、甲高い剣戟が連続して響いた。


 ギィンッ!


 ガンッ!


 ガギィンッ!!


 音のたびに、違う場所から火花が散る。


 木々の間。


 地面の上。


 倒れかけた巨木の幹。


 2人の姿は、どこにも見えない。


 ただ。


 刃がぶつかった瞬間だけ、暗闇の中に輪郭が浮かび上がる。


 次には消える。


 また、別の場所で衝撃が弾ける。


 ヤヌスの目では追えなかった。


 どちらが剣を振り。


 どちらが受けたのか。


 何も分からない。


 空気を打ちつける圧力だけが、遅れて肌へ届く。


 そのたびに身体が揺れ、頭上から葉が降り注いだ。


 バキィッ!!


 太い木が途中から折れる。


 レオンと仮面の魔人の影が、その幹を挟んで交差した。


 剣がぶつかる。


 火花。


 衝撃。


 砕けた幹が宙を舞う。


 直後。


 腹の底まで震わせる轟音が、森を打ち抜いた。


 ドゴォンッ!!


 土煙の中から、1つの影が弾き出される。


「――ッ!」


 レオンだった。


 肩から血を引きながら地面へ叩きつけられ、何度も土の上を転がっていく。


 アウロラの刃が地面を削る。


 身体は止まらない。


 倒れていた木へ背中から激突し、幹を砕いてようやく静止した。


ヤヌス

「レオンッ!」


 ヤヌスが再び踏み出そうとする。


 ルミナの手が、その腕を強く握った。


 レオンは動かない。


 俯せに倒れたまま。


 指先さえ動かなかった。


 ヤヌスの中で、何かが冷たくなる。


「…………」


 やがて。


 レオンの肩が僅かに動いた。


「……っ」


 土へ手をつく。


 起き上がろうと腕へ力を込める。


 だが。


 途中で支えきれなくなり、もう1度地面へ崩れ落ちた。


 激しく咳き込む。


レオン

「ごほっ……ぐ……!」


 口元を押さえた手の隙間から、血が溢れた。


 肩の傷から流れているものとは違う。


 もっと深い場所から。


 身体の内側に溜まっていた血を吐き出すように。


 何度も。


 何度も。


「…………」


 仮面の魔人は、それを見ていた。


 驚いた様子はない。


 まるで。


 そうなることを最初から知っていたかのように。


仮面の魔人

「言ったはずだ」


 低い声が落ちる。


「そんな身体で、何を守れる」


「…………!」


 ヤヌスが仮面の魔人を見る。


 何を言っている。


 何のことだ。


 今、斬られた肩ではない。


 それだけは、ヤヌスにも分かった。


 レオンは何も答えない。


 血に濡れた手で、胸元を押さえている。


 服の下。


 そこに何があるのか。


 ヤヌスは知らない。


 何度か胸を押さえていた。


 今日の昼も。


 修行を終えたあと、苦しそうに立ち止まっていた。


 問いかけても。


 レオンは、いつも話を逸らした。


ヤヌス

「レオン……?」


 呼びかけても、返事はない。


 レオンはアウロラへ手を伸ばす。


 血に濡れた指が、何度も柄から滑った。


 それでも掴む。


 大剣を支えに、ゆっくりと立ち上がった。


 足が震えている。


 呼吸は浅く、顔からは血の気が失われていた。


 もう戦える身体ではない。


 誰が見ても分かる。


 それなのに。


 レオンは、ヤヌスとルミナを背に庇う位置へ戻った。


 アウロラを構える。


 仮面の魔人との間に立つ。


「…………」


 その背中を見て。


 ヤヌスは何も言えなくなった。


 いつもと同じだった。


 危険なものがあれば、レオンは自分達より先に立つ。


 魔獣が現れた時も。


 ヤヌスが無茶をした時も。


 必ず。


 あの背中が前にあった。


 けれど。


 今は、その背中があまりにも傷ついている。


 今にも倒れそうなほど小さく見えた。


レオン

「……今度こそ」


 掠れた声が落ちる。


「…………」


 レオンの胸元に、淡い光が灯った。


ヤヌス

「……なんだ?」


 ヤヌスは目を細めた。


 あんなものは、今まで1度も見たことがない。


 隣では、ルミナも息を呑んでいる。


 弱々しい光だった。


 風に吹かれれば消えてしまいそうなほど、小さな輝き。


 それが、心臓の鼓動に合わせて脈打った。


 ドクン。


 光が広がる。


 レオンの胸元に、複雑な紋様が浮かび上がった。


 白銀の輝きが紋様から溢れ、傷だらけの身体を包み込んでいく。


ルミナ

「……印?」


 ルミナが小さく呟く。


 その声にも、レオンは振り返らない。


 乱れていた呼吸が収まる。


 震えていた足が、大地を踏み締める。


 血に濡れた両手が、アウロラの柄を握り直した。


 胸元から溢れた力が腕を伝い、刀身へ流れ込んでいく。


 アウロラが輝く。


 白銀の光が夜の森を押し退け、周囲の木々を昼間のように照らし出した。


「…………!」


 ヤヌスは息を呑んだ。


 さっきまで立っていることさえできなかったはずなのに。


 今のレオンから溢れる力は、これまでに見た何よりも強い。


 大気が震える。


 地面に落ちていた葉が浮かび上がり、光の周囲を渦巻いていく。


ルミナ

「……レオン」


 ルミナの声に、僅かな希望が戻る。


 ヤヌスも同じだった。


 まだ。


 終わっていない。


 レオンには、まだこれだけの力が残っている。


 この男なら。


 勇者なら。


 目の前の魔人にだって。


「…………」


 レオンがアウロラを構える。


 仮面の魔人を真っ直ぐに見据えた。


レオン

「今度こそ……俺は守るぞ」


 白銀の光が、さらに強くなる。


 アウロラの刀身へ力が集まり、周囲の空気が大きく歪んだ。


 レオンが後ろ足へ力を溜める。


 足元の地面に、亀裂が走る。


 踏み込む。


 その直前。


「…………」


 仮面の魔人の姿が消えた。


 ヤヌスは瞬きすらしていなかった。


 ずっと見ていた。


 それでも。


 いつ動いたのか分からなかった。


 黒い外套だけが、一瞬前まで男が立っていた空間に残像のように揺れる。


仮面の魔人

「……その程度でか?」


 声は。


 レオンのすぐ前から聞こえた。


「…………!」


 気づいた時には。


 仮面が、白銀の光の内側にあった。


 まだレオンは1歩も踏み出していない。


 振り下ろすはずだったアウロラも、構えた位置から動いていない。


 仮面の魔人の刃だけが。


 すでにレオンの胸へ向けられていた。


 レオンが剣を引き戻そうとする。


 遅い。


 刃が白銀の光を突き破る。


 肉を貫く湿った音。


 レオンの身体が止まった。


「…………」


 仮面の魔人の剣が、胸を貫いていた。


 背中から突き出した切っ先を伝い、血が地面へ落ちる。


ルミナ

「……え?」


 掠れた声。


 何が起きたのか。


 ルミナにも理解できていない。


 ヤヌスは目を見開いたまま、動けなかった。


 さっきまで森を満たしていた白銀の光が揺らぐ。


 アウロラを覆っていた輝きが消えていく。


 仮面の魔人が剣を捻った。


レオン

「がっ……!」


 レオンの口から血が溢れる。


 柄を握る指が緩んだ。


 仮面の魔人はレオンの胸を蹴り、刃を引き抜く。


 血が宙へ散った。


 身体が後ろへ倒れかける。


 その手から離れたアウロラを、仮面の魔人の剣が打ち払った。


 大剣が激しく回転しながら森の奥へ飛ぶ。


 月明かりを反射した白銀の刀身が、木々の向こうへ消えた。


 少し遅れて。


 遠くから、地面を貫く重い音が響いた。


「…………」


 レオンが膝をつく。


 両手が地面へ落ちた。


 胸に開いた傷から、血が止めどなく溢れていく。


 もう。


 誰の目にも分かった。


 助からない。


「…………」


 終わった。


 その言葉が、ヤヌスの頭に浮かんだ。


 否定しようとしても。


 何も出てこない。


 レオンは剣を失った。


 胸を貫かれた。


 もう立つこともできない。


 終わった。


 全部。


ルミナ

「いや……」


 ルミナが小さく首を振る。


ルミナ

「いや……いや……!」


 足が前へ出る。


 今度はヤヌスも止めなかった。


 止めることすら考えられなかった。


 仮面の魔人が、膝をついたレオンを見下ろす。


 剣先から、レオンの血が滴り落ちていた。


「…………」


 仮面の魔人が剣を持ち上げる。


 切っ先が、レオンの喉元へ向けられた。


 その時。


 レオンの胸元で。


 消えかけていた印が、もう1度脈打った。


 ドクン。


 小さな光。


 今にも途切れそうな輝きが、レオンの身体から滲み出す。


「…………」


 仮面の魔人の視線が、僅かに動いた。


 レオンが顔を上げる。


 焦点の合わない目で、ヤヌスとルミナを探している。


レオン

「……まだ……だ……」


 地面についた手が、土を掴む。


 立ち上がる力は残っていない。


 剣も、もう手の中にはない。


 それでも。


 胸元の光だけは消えなかった。


 仮面の魔人の刃が動く。


 レオンの喉へ、真っ直ぐに突き出された。


ヤヌス

「レオンッ!」


 レオンの両手が上がった。


 喉元へ迫った刃を、左右から挟み込む。


 切っ先が皮膚へ触れる。


 血が、首筋を伝った。


 仮面の魔人が剣を押し込む。


 レオンの両手が裂ける。


 指の間から血が溢れた。


 それでも離さない。


 残された力のすべてで、刃を受け止める。


「…………」


 レオンは仮面の魔人を見る。


 次いで。


 その向こうにいる、ヤヌスとルミナへ目を向けた。


 自分の傷を塞ぐためではない。


 命を繋ぎ止めるためでもない。


 もう1度立ち上がるためでもない。


 ただ。


 この男を。


 2人へ近づけないために。


 胸元の印が強く輝いた。


 白銀の光が爆発した。


「――ッ!」


 突風が森を駆け抜ける。


 ヤヌスとルミナの身体が押し戻され、髪と衣服が激しく揺れた。


 光がレオンと仮面の魔人を呑み込む。


 瞬く間に膨れ上がり、2人の姿を完全に覆い隠した。


 夜の森の中に。


 巨大な白銀の光が浮かび上がる。


「…………!」


 ヤヌスは腕で目元を庇う。


 眩しい。


 見ていることすら難しいほどの輝きだった。


 光の中で何が起きているのかは分からない。


 レオンの姿も。


 仮面の魔人の姿も見えない。


 ただ。


 白銀の光が激しく脈打っている。


 大気が震え。


 地面から小石が浮かび上がる。


 レオンの力が、あの魔人を閉じ込めている。


 そう見えた。


ルミナ

「レオンが……」


 ルミナが光を見つめる。


 涙に濡れた瞳へ、白銀の輝きが映っていた。


ルミナ

「押さえてる……?」


「…………」


 ヤヌスの胸にも、もう1度だけ希望が戻る。


 まだ終わっていない。


 あの光の中で。


 レオンは戦っている。


 もしかしたら。


 仮面の魔人を倒せるかもしれない。


 また。


 3人で家へ帰れるかもしれない。


「…………」


 白銀の光の中心。


 何も見えない輝きの中で。


 小さな黒い染みが生まれた。


 最初は。


 見間違いだと思った。


 白銀の光が強く瞬き、黒を押し潰す。


 染みが薄れる。


 消えた。


 そう見えた。


 だが。


 同じ場所から、再び黒が滲み出した。


「…………」


 ヤヌスの表情が強張る。


 黒い染みは、先ほどよりも大きい。


 光の中心へ根を張るように黒い筋が伸びていく。


 白銀の輝きが抵抗する。


 光が強くなる。


 黒を押し返す。


 黒が、また広がる。


 巨大な光が何度も明滅した。


 夜の森が。


 白と黒に、交互に染め上げられる。


ルミナ

「何……あれ……」


 ルミナの声が震える。


 光の中で。


 何が起きているのかは見えない。


 それでも。


 レオンの白銀が。


 仮面の魔人の黒に喰われている。


 そのことだけは分かった。


ヤヌス

「やめろ……」


 声が漏れる。


 黒は止まらない。


 白銀の光の内側から、少しずつ広がっていく。


 右へ。


 左へ。


 上へ。


 逃げ場を塞ぐように。


 巨大な輝きを端から塗り潰していく。


ヤヌス

「やめろ……!」


 ヤヌスが光へ向かって手を伸ばす。


 届く距離ではない。


 それでも。


 何かを掴もうとするように、指を開いた。


 さっきまで。


 あの光は温かかった。


 見ているだけで。


 レオンがそこにいると分かった。


 その温もりが。


 少しずつ失われていく。


ヤヌス

「やめろッ!」


 叫んでも、黒は止まらない。


 白銀の光が最後の力を振り絞るように強く瞬いた。


 夜の森が、一瞬だけ白く染まる。


 その輝きの中に。


 2つの影が浮かんだ。


 刃を両手で受け止めるレオン。


 その前に立つ、仮面の魔人。


 次の瞬間。


 白銀の光を。


 黒が呑み込んだ。


「…………」


 森から。


 すべての音が消えた。


 風も。


 木の葉の擦れる音も。


 誰かの呼吸さえも。


 何も聞こえない。


「…………」


 黒が薄れていく。


 光の消えた場所に、2人の姿が現れる。


 仮面の魔人は立っていた。


 外套の一部が裂けている。


 仮面には、細い亀裂が走っていた。


 だが。


 倒れてはいない。


 その前で。


 レオンが膝をついている。


 刃を受け止めていた手は落ち。


 身体が大きく傾いていた。


「…………」


 仮面の魔人が剣を引く。


 レオンの首筋から、細い血が流れた。


 片手を地面につき、辛うじて倒れるのを堪えている。


 肩は大きく上下している。


 けれど。


 もう、息を吸う音さえほとんど聞こえなかった。


 仮面の魔人が、血に濡れたレオンを見下ろす。


仮面の魔人

「そこまでして、守るか」


「…………」


 レオンは顔を上げた。


 仮面の魔人ではなく。


 その向こうにいる、ヤヌスを見る。


 もう、はっきりとは見えていないはずだった。


 それでも。


 レオンの目は、ヤヌスを探し当てた。


「…………」


 初めて会った日のことを思い出す。


 森の中で。


 何も信じようとせず。


 伸ばした手を何度も振り払った、小さな少年。


 どこから来たのかも。


 誰の子なのかも。


 何ひとつ話そうとしなかった。


 食事を置けば。


 こちらを睨みながら、隠すように食べた。


 眠る時でさえ。


 いつでも逃げられるように、小さな身体を丸めていた。


 その少年が。


 今は、自分を見て泣いている。


 帰ろうと。


 3人で帰ろうと。


 叫んでいる。


 血が繋がっているかなど。


 もう、どうでもよかった。


 共に食べた飯も。


 何度も打ち合った木剣も。


 怒鳴った声も。


 笑い合った夜も。


 積み重ねた時間のすべてが。


 レオンにとっての答えだった。


レオン

「……俺の子だ」


 掠れた声。


 それでも。


 その言葉だけは、はっきりと森へ響いた。


「…………」


 仮面の魔人は何も答えない。


 仮面の奥から。


 ただ、レオンを見つめている。


 レオンは、ルミナへ目を向けた。


 泣きながら。


 今にもこちらへ駆け出しそうな少女。


 その姿を確かめてから、もう1度ヤヌスを見る。


 血の気を失った顔に、僅かな笑みが浮かんだ。


 上手く笑えてはいない。


 口元は血に濡れ。


 呼吸をするだけで身体が震えている。


 それでも。


 ヤヌスには分かった。


 いつもの笑い方だった。


 怪我をした時。


 不安で眠れなかった夜。


 大丈夫だと言ってくれた時と、同じ顔だった。


ヤヌス

「……やめろ」


 足が動いた。


 1歩。


 レオンへ向かう。


ヤヌス

「そんな顔するなよ……」


 もう1歩。


 足元がふらつく。


ヤヌス

「帰るぞ」


 声が震えた。


 喉が詰まる。


 息を吸っても、上手く声が出ない。


ヤヌス

「嫌だ……行くなよ、レオン」


 レオンは答えない。


 ただ。


 ヤヌスを見つめている。


ヤヌス

「なあ……聞こえてるんだろ?」


 ヤヌスが走り出す。


 レオンへ向かって手を伸ばした。


ヤヌス

「俺達を置いていくなよ!」


「…………」


 レオンの唇が動く。


 吐息に紛れてしまいそうな、小さな声。


 それでも。


 ヤヌスの耳には届いた。


レオン

「……生きろ」


「…………」


 ヤヌスの足が止まる。


 レオンはヤヌスを見る。


 続いて。


 隣にいるルミナを見た。


レオン

「お前達なら……大丈夫だ」


 ボロボロの顔で。


 レオンが笑った。


「…………」


 いつもの笑顔だった。


 不器用で。


 少しだけ困ったような。


 それでも2人を安心させようとする、父親の笑顔。


ヤヌス

「……何言ってんだよ」


 生きろ。


 そんな言葉が欲しかったわけではない。


 一緒に帰ると言ってほしかった。


 また明日と。


 そう言ってほしかった。


ヤヌス

「そんなこと言うなよ……」


 涙が頬を伝う。


 拭うこともできない。


ヤヌス

「みんなで一緒に帰るんだよ」


 レオンの笑みが、僅かに深くなった。


ヤヌス

「レオン……?」


 レオンの指先に、淡い光が浮かび上がる。


 血に濡れた手が、白い粒となってほどけ始めた。


「…………」


 ヤヌスは動けなかった。


 何が起きているのか。


 理解したくなかった。


 レオンの腕が光へ変わる。


 肩へ。


 胸へ。


 傷だらけの身体が、少しずつ白い輝きへほどけていく。


ルミナ

「いや……」


 ルミナが首を振った。


 声を震わせながら、レオンへ駆け寄る。


ルミナ

「待って……」


 伸ばした手が、レオンの肩へ触れる。


 だが。


 指先は淡い光をすり抜けた。


ルミナ

「待って、レオン……!」


 掴めない。


 抱き締めることもできない。


 光となった身体が、ルミナの指の間から夜空へ昇っていく。


ルミナ

「行かないで……!」


 レオンは、ルミナを見る。


 その目が、優しく細められた。


 声は、もう出なかった。


 それでも。


 大丈夫だと。


 そう伝えるように、レオンは最後まで笑っていた。


ルミナ

「いや……」


 ルミナの膝が崩れる。


 地面へ手をつき。


 光の中へ何度も腕を伸ばす。


ルミナ

「いやああああああああああッ!!」


 悲鳴が森を震わせた。


 レオンの輪郭が消えていく。


 腕が。


 胸が。


 顔が。


 無数の光となって、夜の中へ昇っていく。


 最後まで残っていたのは。


 2人へ向けられた、穏やかな笑顔だった。


「…………」


 その笑顔も。


 淡い光へ変わっていく。


 やがて。


 最後の1粒が、夜空へ消えた。


「…………」


 そこには。


 もう、誰もいなかった。


 風が吹く。


 白い光の残滓が舞い上がり、木々の間へ消えていく。


 地面に残されたのは。


 レオンの血だけだった。


「…………」


 ヤヌスは立ち尽くしていた。


 さっきまで。


 そこにレオンがいた。


 いつものように。


 自分達の前に立っていた。


 声も聞こえた。


 笑っていた。


 それなのに。


 もう、いない。


「…………」


 頭の中で。


 最後の言葉だけが繰り返される。


『生きろ』


 分からない。


 なぜ、そんなことを言った。


 なぜ、自分達を残した。


 なぜ。


 一緒に生きてくれなかった。


「…………」


 ヤヌスが顔を上げる。


 光の消えた場所。


 その向こう。


 仮面の魔人が立っていた。


 剣を下ろし。


 何も言わず。


 レオンが消えた場所を見つめている。


「…………」


 右手が熱い。


 包帯の下。


 黒い痣が、脈打った。


 ドクン。


「――ッ」


 焼けた刃を押し込まれたような痛みが、右手を貫く。


 ヤヌスは反射的に右手首を掴んだ。


 爪が皮膚へ食い込む。


 息が詰まる。


 包帯の下で。


 黒い痣が、もう1度。


 大きく脈打った。

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