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第1話 橋の向こう


第三章 第1話 橋の向こう


 晴天。


 どこまでも澄んだ青空の下。


 廃棄の森から、一人の青年が歩いてくる。


 肩まで伸びた黒髪は整えられることなく、長い前髪が目元を覆っていた。


 身にまとっているのは、擦り切れた古いマント。


 背中には布でぐるぐると巻かれた大剣。


 そして右腕にも、同じように何重もの布が巻かれている。


 長い前髪の隙間。


 そこから覗く瞳だけが、異様なほど鋭かった。


 ――ヤヌス。


 十八歳。


 かつて泥まみれになって笑っていた少年の面影は、もうほとんど残っていない。


 森を抜けた瞬間。


 眩い光が視界を焼いた。


「……っ」


 思わず顔を背ける。


「明るいな……」


 片手で目元を覆いながら、空を見上げた。


 青。


 ただ、それだけ。


 なのに。


 見ているだけで落ち着かない。


 奈落には、こんな光はなかった。


 レオンたちと森で暮らしていた頃でさえ、日差しは生い茂った木々に遮られ、葉の隙間から細く差し込む程度だった。


 これほど何にも遮られない太陽を、ヤヌスは初めて見た。


 暖かい。


 眩しい。


 そして――どこか居心地が悪い。


「……まぶしい」


 小さく呟き、フードを深く被る。


 それだけで少し落ち着いた。


 乾いた土を踏みしめながら、さらに歩く。


「ここら辺も……あんまり変わらんな」


 誰に聞かせるでもなく言葉が漏れる。


 自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。


 奈落を出た。


 それなのに、まだ世界に取り残されているような感覚があった。


 しばらく歩くと。


 遠くに、大きな橋が見えた。


「……?」


 その先。


 巨大な城壁。


 高く積み上げられた石壁が、まるで一つの山のように聳えている。


 橋はそのまま、城壁に設けられた巨大な門へと繋がっていた。


「あれが……街……」


 足が止まる。


 門の向こうから、人の声が聞こえてくる。


 話し声。


 笑い声。


 馬車の車輪。


 金属を叩く音。


 知らない音が、いくつも重なっていた。


 ヤヌスはしばらくその光景を見つめていた。


 初めて見る。


 人間が集まり、暮らす場所。


◇◇◇


 城門前。


 門兵が、橋の向こうを睨んでいた。


門兵


「おい……誰か歩いてくるぞ」


 隣の門兵も、すぐに武器へ手を掛ける。


門兵2


「ああ」


「魔族かもしれんな」


 二人の間に緊張が走る。


 その時。


 城壁の上から声が飛んできた。


門兵3


「待て!」


「……人間だ」


 望遠鏡を覗いていた門兵が、さらに目を凝らす。


門兵


「人間だと?」


門兵2


「馬鹿な……」


「あっちの方角は、もうとっくに――」


門兵3


「背中に剣を背負ってる」


「たぶん魔獣狩りだろう」


 やがて。


 ヤヌスが門の前まで辿り着く。


門兵


「と、止まれ!」


 ヤヌスは言われた通り足を止めた。


門兵2


「顔を見せろ!」


 ヤヌスは無言でフードを下ろす。


 ぼさぼさの黒髪。


 長い前髪。


 その奥。


 鋭い眼光が、門兵たちを射抜く。


門兵2


「ひっ……」


 反射的に声が漏れた。


門兵


「な、なんだ……」


「やっぱり人間じゃないか」


 少し安心したように息を吐く。


 だが視線はすぐに、ヤヌスの背中へ向いた。


門兵


「随分でかいもん背負ってるな」


「アンタ……魔獣狩りか?」


ヤヌス


「……魔獣?」


 ヤヌスは首を傾げる。


「……ああ」


「あの熊か」


門兵2


「熊って……」


 二人が顔を見合わせる。


門兵


「アンタ、やっぱり魔獣狩りだろ?」


「魔族と戦うために、魔獣を倒してるんじゃないのか?」


ヤヌス


「違う」


 ヤヌスは平然と答えた。


「腹が減ったから殺したりはしたけどな」


 一瞬。


 静寂。


 次の瞬間。


門兵2


「ぷっ……!」


 笑いを堪えきれなかった。


門兵3


「ははははっ!」


「魔獣を食べるって!」


「兄ちゃん、面白えな!」


 城壁の上から大笑いする。


 ヤヌスは眉をひそめた。


ヤヌス


「何が面白いんだ?」


 心底分からない。


 その反応が、さらに門兵たちの笑いを誘う。


門兵3


「まあいい!」


「兄ちゃん、気に入ったよ!」


「入りな!」


「魔獣なんかより、もっと美味いもん食わせてやるからよ!」


 門兵3が合図を送る。


 重たい音を立てながら、大門がゆっくりと開いていった。


ヤヌス


「……魔獣は、食べないのか」


 ヤヌスはぼそりと呟きながら、門を潜った。


◇◇◇


 城壁の内側。


 その光景を目にした瞬間。


 ヤヌスの足が止まった。


「…………」


 人。


 どこを見ても、人。


 道の両側には石造りや木造の建物が建ち並び、店先には色とりどりの布や野菜、果物が並べられている。


 荷馬車が石畳を進み。


 職人が金槌を振るい。


 子どもたちが路地を駆け抜けていく。


 焼いた肉の匂い。


 甘い菓子の香り。


 酒の匂い。


 馬の匂い。


 人の汗。


 奈落にはなかった匂いが、いくつも混ざり合っていた。


 騒がしい。


 うるさい。


 なのに。


 不思議と嫌ではなかった。


 ヤヌスは、まるで初めて世界を見る子どものように辺りを見回している。


門兵3


「すげえだろ?」


 いつの間にか門番の勤務を終えた男が隣を歩いていた。


ヤヌス


「……人、多いな」


門兵3


「そこかよ!」


 豪快に笑う。


門兵3


「この街は昔は交易で栄えててな」


「今でも旅人とか魔獣狩りが結構集まるんだよ」


 ヤヌスは聞いているのかいないのか。


 走り回る子ども。


 店先で喧嘩する夫婦。


 果物を値切る老婆。


 その一つ一つに目を奪われていた。


門兵3


「今から行く《渡り鳥亭》ってのはな」


「この街で一番の店さ」


「魔獣狩り連中もよく使ってる」


 自分の店でもないのに、なぜか得意げだった。


門兵3


「それでよ」


「そこの旦那が数年前、教会に迎えられてな」


「今は女将さんと息子の二人で切り盛りしてるんだ」


ヤヌス


「そうか」


 返事だけはする。


 だが。


 ヤヌスの視線は、通りを走る犬へ向いていた。


門兵3


「……お前、全然聞いてねえだろ?」


ヤヌス


「聞いてる」


門兵3


「絶対嘘だな」


 そんなやり取りをしているうちに。


 大きな木造の建物の前へ辿り着いた。


門兵3


「ささっ! 着いたぜ!」


 入口の上。


 大きな木製看板。


 そこには、一羽の鳥が翼を広げた絵と共に文字が彫られている。


 ――《渡り鳥亭》。


 二階建ての古い建物。


 外壁には長年の雨風に晒された跡がある。


 決して豪華ではない。


 だが、窓から漏れる暖かな灯りと、中から聞こえてくる笑い声には、人を引き寄せる不思議な温かさがあった。


 旅人が立ち寄り。


 酒を飲み。


 飯を食い。


 また別の土地へ旅立っていく。


 そんな人間たちを、何年も見送ってきた店なのだろう。


 ヤヌスはしばらく看板を見上げていた。


門兵3


「何してんだ?」


「入るぞ!」


 扉が開く。


 その瞬間。


 むわっとした熱気が押し寄せた。


「…………」


 また。


 ヤヌスの目が大きくなる。


 店内は満席に近かった。


 酒を飲んで笑う男たち。


 黙々と飯を食う旅人。


 大声で武勇伝を語る魔獣狩り。


 近所の住人らしき老人たち。


 皿のぶつかる音。


 笑い声。


 酒の匂い。


 焼けた肉の香り。


 何もかもが初めてだった。


ニコ


「いらっしゃいませー!!」


 元気な声。


タッタッタッタッ。


 小さな男の子が、皿を抱えながら駆けてくる。


 軽い足音。


ニコ


「門兵さん、こんにちは!」


「今日も来てくれたんだね!」


門兵3


「おう! ニコ!」


「今日も母ちゃんの手伝いか?」


「偉いなぁ!」


 そう言って、ぐしゃぐしゃと頭を撫でる。


ニコ


「ちょっ……髪ぐちゃぐちゃになるよ!」


 頬を膨らませる。


 その視線が、隣に立つヤヌスへ向いた。


 そして。


 背中の巨大な包みに釘付けになる。


ニコ


「お兄ちゃん、それなに?」


ヤヌス


「剣」


ニコ


「でっか!」


 目を丸くする。


 ヤヌスも、なぜ驚かれているのか分からず首を傾げた。


 厨房から女性の声が飛んでくる。


ミレイユ


「ニコー!」


「早くお客様を席へ案内して!」


門兵3


「ミレイユさん!」


「今日も来たぜー!」


「いつもの頼む!」


ミレイユ


「はーい!」


「ありがとうございます!」


 明るい声。


 その声の主が、一瞬だけ厨房から顔を覗かせた。


 三十歳前後の女性。


 忙しそうに髪をまとめ、エプロン姿で次々と料理を仕上げている。


 疲れているはずなのに。


 客へ向ける笑顔は、どこか柔らかかった。


ニコ


「こっち!」


 案内され、二人は空いた席へ座る。


門兵3


「兄ちゃんも飲むだろ?」


 ニカッと笑う。


ヤヌス


「……飲む?」


「まあ……喉は乾いてるな」


ニコ


「門兵さん、昼間から飲んで大丈夫なの?」


 そう言いながら、木樽のジョッキを二つ運んでくる。


門兵3


「今日はもう上がりなんだよ!」


「仕事終わりの一杯ってやつさ!」


 ジョッキを掴む。


 そのまま。


 ごく、ごく、ごく。


 一気に飲み干した。


門兵3


「くぅぅぅぅ〜!」


「おかわり!」


 空になったジョッキを高く掲げる。


門兵3


「ささっ!」


「兄ちゃんも飲みな!」


 煽られるまま、ヤヌスもジョッキを口へ運ぶ。


 麦の香り。


 微かな苦味。


 舌を刺すような独特の刺激。


「ぐっ……」


 一瞬だけ止まった。


 だが。


 そのまま一気に飲み干す。


ヤヌス


「……変な味だな」


 口元を拭う。


「でも、悪くない」


門兵3


「いい飲みっぷりだぁ!」


「ニコ! 二杯おかわり!」


 指を二本立てる。


ニコ


「はいはい」


 慣れた様子で笑う。


 しばらくして。


 ニコが大皿を抱えて戻ってきた。


 テーブルへ置かれたのは――。


 分厚く切られた豚肉を炙り、香草と果実酒の甘辛いソースを絡めた肉料理。


 付け合わせには、焼いた芋と玉葱。


 鉄板の上では、まだ脂がじゅうじゅうと音を立てている。


 香ばしい匂いが立ち上る。


門兵3


「うほっー!!」


 門兵の目が輝く。


 だが。


 それ以上に。


「…………」


 ヤヌスの動きが止まっていた。


 鼻が僅かに動く。


 唾を飲み込む。


 奈落で食べてきたもの。


 魔獣。


 アベラント。


 焼いただけの肉。


 ヴァルドが作ってくれた料理。


 それ以来。


 こんな匂いを嗅いだことがなかった。


「……ぐっ」


 腹が鳴る。


 その時。


 ドォォォン!!


 店の扉が勢いよく開いた。


門兵


「はぁ……はぁ……!」


「魔獣が来た!!」


 瞬間。


 店内から音が消えた。


 酒を飲んでいた者も。


 飯を食っていた者も。


 全員が入口へ顔を向ける。


 先ほどまで笑っていた門兵三の目つきも変わっていた。


門兵3


「ランクと数は?」


門兵


「狼型魔獣!」


「恐らくCランク!」


「数は今見えてるだけで五体だ!」


門兵3


「そうか」


 椅子から立ち上がる。


門兵3


「仕事だな!」


 剣を取る。


 そしてヤヌスへ振り返った。


門兵3


「行くぞ! 兄ちゃん!」


 だが。


ヤヌス


「ガッ……!」


 ヤヌスは肉へ齧りついていた。


「……う、美味い!!」


 目を見開く。


 噛む。


 飲み込む。


 また齧る。


 完全に料理しか見えていない。


門兵3


「……兄ちゃん?」


「魔獣が出たぞー?」


 少し呆れた声。


 だがヤヌスは止まらない。


ヤヌス


「これ……なんだ?」


ニコ


「豚肉だよ?」


ヤヌス


「……豚……」


 また食べる。


「美味い……」


 その様子を見ていた店の奥。


 一人の大柄な男が口を開いた。


魔獣狩り


「その程度なら、こいつらで十分だろう」


 周囲では、歴戦の猛者らしき男たちが既に武器を手に立ち上がっていた。


魔獣狩り


「行ってこい」


 男自身は座ったまま指示を出す。


門兵3


「仕方ねぇなぁ……」


 呆れたように頭を掻く。


門兵3


「兄ちゃん!」


「ちゃんと飯代払っとけよ!」


 そう言い残し、魔獣狩りたちと共に店を飛び出していった。


 静まり返っていた店内に、少しずつざわめきが戻る。


 その中。


 先ほどの大柄な魔獣狩りが、ヤヌスをじっと見ていた。


魔獣狩り


「おい、小僧」


「貴様、どこから来た?」


 返事はない。


「…………」


 ヤヌスは料理を食べている。


ヤヌス


「……おかわり」


ニコ


「えっ?」


「まだ食べるの!?」


 魔獣狩りの眉が動く。


魔獣狩り


「おい」


 ニコが慌ててヤヌスの袖を引っ張った。


ニコ


「お、お兄ちゃん!」


「あの魔獣狩りさんが話しかけてるよ!」


 ヤヌスがようやく顔を上げる。


 ちらりと男を見る。


ヤヌス


「悪い」


「聞いてなかった」


 店内の空気が、一瞬だけ張った。


 だが。


 ヤヌス自身に悪気はない。


 ただ本当に聞いていなかっただけだった。


 魔獣狩りは低い声で繰り返す。


魔獣狩り


「次はないぞ」


「貴様、どこから来た?」


 ヤヌスは入口の方を指差した。


ヤヌス


「橋の向こうだ」


 男の目が大きく開く。


魔獣狩り


「……小僧」


「馬鹿にしてるのか?」


ヤヌス


「え?」


「なんでだ?」


魔獣狩り


「橋の向こうに人間の住処なんて、とっくに消えたはずだ」


ヤヌス


「そうなのか」


 あまりにも素直な返答。


 魔獣狩りは眉間に皺を寄せた後、ふっと笑った。


魔獣狩り


「……まあいい」


「面白い冗談だ」


 視線がヤヌスの背中へ向く。


魔獣狩り


「ところで」


「今まで何体の魔獣を殺してきた?」


「その剣……随分使い込まれてるな」


ヤヌス


「魔獣?」


 ヤヌスは少し考える。


「最近だと、腹が減った時にしか殺してない」


 沈黙。


 そして。


魔獣狩り


「はははははっ!!」


 天井を仰ぎながら豪快に笑う。


魔獣狩り


「やっぱり面白いな、お前!」


「魔獣を食べるってか!」


「小僧」


 右手を差し出す。


魔獣狩り


「うちに来ないか?」


「悪いようにはしねぇ」


ニコ


「す、すご……」


 料理を抱えたまま、目を輝かせる。


ニコ


「魔獣狩りに勧誘されてる……!」


 ヤヌスは差し出された手を見た。


 そして。


ヤヌス


「断る」


 即答だった。


「俺には、やらなきゃいけないことがある」


 魔獣狩りの笑みが消える。


魔獣狩り


「何だ?」


 ヤヌスは少しも迷わなかった。


ヤヌス


「俺は――」


 一拍。


「仮面の魔人を殺す」


 店内が凍り付いた。


 さっきまで聞こえていた話し声も。


 食器の音も。


 全部消えた。


 魔獣狩りの顔から完全に笑みが消える。


魔獣狩り


「……小僧」


「今の冗談は笑えないぞ」


ヤヌス


「?………本気だ」


 次の瞬間。


 椅子が倒れる。


 魔獣狩りが立ち上がり、一気に距離を詰めた。


 ヤヌスの胸ぐらを掴む。


ニコ


「……っ!」


 ニコがその場で固まる。


魔獣狩り


「仮面の魔人だと?」


「つい先日、あいつ一人に人間の街が壊滅した!」


 怒りで声が震えている。


魔獣狩り


「教会兵だって軍隊で立ち向かった!」


「だが――何も通用しなかった!」


「一人残らず殺されたんだ!」


 拳に力が入る。


魔獣狩り


「軽々しく、あいつのことを口に出すな」


 ヤヌスは男の目を見返した。


 恐怖はない。


 怒りもない。


 ただ。


 冷たいほど静かだった。


ヤヌス


「関係ない」


魔獣狩り


「……何?」


ヤヌス


「そいつらが弱かっただけだ」


 男の顔が歪む。


「居場所を知ってるか?」


「知ってるなら教えてくれ」


 一拍。


「今から殺しに行く」


魔獣狩り


「てめぇ……!」


 拳が振り上げられる。


 その時。


ミレイユ


「駄目ですっ!!」


 一人の女性が、二人の間へ飛び込んだ。


 両手を広げる。


渡り鳥亭の女将だった。


ミレイユ


「お店で暴力沙汰は許しません!」


「みんなで決めたルールでしょう!」


 ヤヌスと魔獣狩りの間。


 小柄な身体で、必死に二人を遮っている。


 ニコは少し離れた場所で両手で目を覆っていた。


 指の隙間から、しっかり見ている。


魔獣狩り


「……チッ」


 舌打ち。


 胸ぐらを離す。


 そして机の上へ硬貨を置くと、そのまま店を出ていった。


 ヤヌスは、その硬貨を見つめた。


「…………」


 なるほど。


 これが。


「……金」


 マントの内側へ手を入れる。


 小袋を取り出した。


 それを、そのままミレイユへ差し出す。


ヤヌス


「すまなかった」


「これが……お金だ」


ミレイユ


「え?」


 受け取る。


 何気なく袋を開く。


 そして。


 固まった。


 中には。


 大量の金貨。


ミレイユ


「…………え?」


 もう一度見る。


 やっぱり金貨。


 顔を上げた時には、ヤヌスはすでに出口へ向かっていた。


ミレイユ


「お、お客様!!」


 ヤヌスが振り返る。


ヤヌス


「なんだ?」


ミレイユ


「こんなに頂けません!!」


ヤヌス


「……?」


 ヤヌスは本気で分かっていない顔をしている。


「そうなのか?」


「全部渡すんじゃないのか?」


 魔獣狩りが金を置いた机を見る。


「さっきの奴みたいに」


ミレイユ


「違います!」


 思わず声が大きくなる。


ミレイユ


「ちゃんと料金表があります!」


 机の上。


 手書きのメニュー表を指差す。


 ヤヌスはじっと見る。


 長い沈黙。


「…………」


ミレイユ


「……お客様?」


ヤヌス


「すまない」


 困ったように頭を掻く。


「あんまり読めないんだ」


ニコ


「ぷっ!」


 吹き出した。


ニコ


「お兄ちゃん、文字読めないの?」


ミレイユ


「こら! ニコ!」


「笑わないの!」


ニコ


「ご、ごめんなさい!」


 口元を押さえる。


 まだ少し笑っている。


ミレイユ


「本当にすみません」


 ミレイユが深々と頭を下げた。


ヤヌス


「いや」


 ヤヌスは視線を落とす。


「俺が悪い」


「他に渡せるものがないんだ。」


 少し申し訳なさそうだった。


 ミレイユは小袋の中をもう一度見る。


 そして。


 金貨を一枚だけ取り出した。


ミレイユ


「それでしたら――今日は、この一枚だけ頂きます」


 残りを袋へ戻し、ヤヌスへ差し出す。


ミレイユ


「それで」


「明日も」


「明後日も」


「その次の日も」


 柔らかく笑う。


ミレイユ


「また食べに来てください」


 ヤヌスの目が僅かに開く。


ヤヌス


「……いいのか?」


ミレイユ


「もちろん」


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 ヤヌスの表情が柔らいだ。


ヤヌス


「分かった」


「明日も来る」


ニコ


「ほんと!?」


「じゃあ次は僕のおすすめ教える!」


ヤヌス


「……美味いか?」


ニコ


「めちゃくちゃ美味い!」


ヤヌス


「じゃあ食う」


ミレイユ


「ふふっ」


 小さく笑う。


 ヤヌスは袋をマントへ戻し、再び扉へ向かう。


 外から差し込む光。


 街の喧騒。


 ヤヌスは一度だけ店内を振り返った。


 暖かい灯り。


 笑い声。


 料理の匂い。


 そして。


 自分に笑いかける親子。


 何か。


 胸の奥に。


 ほんの僅かに、昔を思い出すような感覚があった。


 だが。


 それが何なのか考える前に、ヤヌスは扉を開いた。


 外へ出る。


 扉が閉まる。


 店内には再び、いつもの喧騒が戻っていった。


ミレイユ


「……変なお客さん」


 そう呟きながらも。


 その口元には、小さな笑みが残っていた。

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