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第14話 復讐者

黒印のヤヌス


第2章 剣聖


第14話 復讐者


 バキバキバキッ――!!


 最後まで残っていた壁が崩れる。


 屋根が完全に落ち、舞い上がった土煙が、ヴァルドと暮らした小屋を覆い隠していく。


ヤヌス

「…………」


 ヤヌスは動けなかった。


 剣を握っている。


 目の前にいるのは、倒さなければならないアベラント達。


 それでも。


 身体へ力が入らなかった。


 木の板が剥がされる。


 家具が踏み潰される。


 食卓が壊される。


 毎日のように飯を食った場所。


 夜になれば眠った場所。


 修行を終えれば、必ず帰ってきた場所。


 くだらないことで言い合い。


 ヴァルドの料理を奪おうとして怒られ。


 馬鹿弟子と笑われた場所。


 数年間の記憶が、目の前で1つずつ壊されていく。


ヤヌス

「……やめてくれ」


 掠れた声。


 アベラント達には届かない。


 そもそも。


 ヤヌスの声を聞く意思など、最初から持っていない。


 分かっている。


 それでも。


 ヤヌスは縋るように声を絞り出した。


ヤヌス

「やめてくれ……」


 剣を握る手が震える。


 怒りではない。


 もう。


 怒るための力さえ残っていなかった。


ヤヌス

「もう……これ以上……」


 レオンを失った。


 ルミナとも離れ離れになった。


 自分の剣でヴァルドを斬った。


 そして今。


 ヴァルドと暮らした家まで奪われようとしている。


 もう、何もいらない。


 何かを手に入れたいとも思わない。


 だから。


 せめて。


 これ以上だけは。


ヤヌス

「これ以上……奪わないでくれ……」


 懇願する声が、奈落の森へ落ちる。


 だが。


 異形達は止まらない。


 残された家具を壊し。


 壁を剥がし。


 ヴァルドと過ごした時間を、何も知らないまま踏みにじっていく。


 その時。


 小屋を破壊していた1体のアベラントが、不意に顔を上げた。


ヤヌス

「…………」


 異形が、小屋から離れていく。


 ヤヌスへ向かってきたわけではない。


 その濁った瞳が捉えたもの。


 小屋から少し離れた場所。


 静かに立つ、レオンの墓。


 そこには。


 墓標として、聖剣アウロラが突き立てられていた。


ヤヌス

「…………!」


 アベラントが墓へ近づいていく。


ヤヌス

「おい……」


 動かなかった身体が、僅かに前へ傾く。


 だが。


 アベラントは止まらない。


ヤヌス

「待て……」


 ヤヌスは、ふらつきながら歩き出した。


 1歩。


 また1歩。


 傷ついた足では、思うように前へ進めない。


 アベラントが、レオンの墓へ辿り着く。


ヤヌス

「おい!!」


 歩みが走りへ変わる。


 全身へ激痛が走る。


 構わない。


 あれだけは。


 あの場所だけは。


 アベラントが、歪んだ腕を振り上げた。


ヤヌス

「やめろ!!」


 間に合わない。


 距離が遠い。


 どれほど手を伸ばしても。


 奈落へ落ちたあの日と同じように。


 届かない。


ヤヌス

「頼む!!」


 アベラントの腕が振り下ろされる。


ヤヌス

「それだけは……!」


 レオンへ会いたくなった時。


 言葉を交わしたくなった時。


 自分が帰ってくるために残された場所。


ヤヌス

「それだけは、やめてくれッ!!」


 バキィッ――!!


 異形の腕が、墓へ叩きつけられた。


 積み上げられていた石が弾け飛ぶ。


 土が大きく抉られる。


 墓標として立っていたアウロラが抜け落ち、乾いた音を立てて地面へ転がった。


ヤヌス

「…………」


 世界から。


 音が消えた。


 壊された墓。


 抉られた土。


 地面へ転がる、レオンの聖剣。


 その光景を見た瞬間。


 ヤヌスの脳裏へ。


 あの日の記憶が蘇った。


◇◇◇


 ヴァルドと2人で。


 レオンの墓を作った日。


 勇者の肉体は、死ねば光となって消える。


 だから。


 土の下に、レオンの遺体はない。


 骨も。


 形見も。


 何ひとつ埋まっていない。


 完成した墓を前に。


 ヤヌスは、寂しそうに呟いた。


ヤヌス

『……何も入ってないのにな』


 隣に立つヴァルドが、作ったばかりの墓へ目を向ける。


ヴァルド

『墓は、骨を埋めるだけの場所ではない』


ヤヌス

『……?』


ヴァルド

『残された者が、想いを置いていく場所じゃ』


 ヤヌスは、その言葉の意味を理解できず、ヴァルドを見上げた。


 ヴァルドは墓へ歩み寄る。


 そして。


 アウロラが立つ場所へ、そっと手を添えた。


ヴァルド

『帰ってくる場所でもある』


ヤヌス

『帰ってくる……?』


ヴァルド

『会いたくなった時』


ヴァルド

『話したくなった時』


ヴァルド

『あやつのことを、思い出したくなった時』


 穏やかな声。


ヴァルド

『ここへ来ればよい』


ヤヌス

『…………』


 ヤヌスは、完成した墓を見つめた。


 ここにレオンはいない。


 返事もしてくれない。


 それでも。


 レオンへ話しかける場所ができた。


 もう1度。


 帰ってくるための場所ができた。


ヤヌス

『レオン』


 少しだけ照れながら、墓へ向かって口を開く。


ヤヌス

『何度だって来るからな』


 その隣で。


 ヴァルドが、僅かに笑っていた。


◇◇◇


 現在。


 その墓は、跡形もなく壊されていた。


 ヴァルドと2人で積み上げた石は散らばり。


 土は抉られ。


 墓標だったアウロラは、泥の上へ転がっている。


ヤヌス

「…あぁっ………」


 膝から力が抜けた。


 剣を握っていた手が落ちる。


 その場へ座り込む。


ヤヌス

「…はっ…はっ…」

 

 息が吸えない。


 胸の奥が潰されているように苦しい。


 声を出そうとしても。


 喉からは、掠れた音しか漏れなかった。


ヤヌス

「…はっっ…はっ…」


 レオンはいない。


 ルミナもいない。


 ヴァルドもいない。


 最後に残されていた家も。


 レオンへ帰ってくるための場所も。


 何もかも。


 なくなった。


ヤヌス

「はっはっはっ…はっはっ… …ぁ」


 両手で頭を抱える。


 指が髪へ食い込む。


 そして。


ヤヌス

「ああああああああああああああああッ!!!」


 絶叫が、奈落の森を震わせた。


ヤヌス

「ああああああああああああああッ!!!」


 涙も。


 鼻水も。


 呼吸も。


 すべてがぐちゃぐちゃになる。


 もう。


 周囲にいるアベラントのことさえ、目に入らない。


 何度も。


 何度も。


 声が潰れるまで叫び続ける。


ヤヌス

「ああああああああああああッ!!」


 やがて。


 叫びは嗚咽へ変わり。


 その声さえ、少しずつ枯れていった。


ヤヌス

「はぁ……」


ヤヌス

「はぁ……」


 ヤヌスは座り込んだまま、壊された墓を見つめていた。


 涙が頬を伝い、地面へ落ちていく。


ヤヌス

「なんでだ……」


 返事はない。


 壊れた家。


 壊れた墓。


 転がったアウロラ。


 自分の大切なものだけが、次々と壊されていく。


ヤヌス

「なんで、この世界は……」


 声が震える。


ヤヌス

「俺から……全部奪うんだ……」




謎の男

『でも、仕方ないよね』


 頭の奥からあの男の声が聞こえた。




ヤヌス

「……あ……」


 顔を見ても認識できなかった男。


 ヴァルドの亡骸の前で、穏やかに笑っていた男。



謎の男

『弱かったんだから』


 男の言葉が、記憶の底から次々と蘇る。


謎の男

『全ては、己が弱かったから起きたことなんだ』



ヤヌス

「違う!!」


 ヤヌスは、何もない暗闇の中へ。


 足元も。


 空も。


 壊された墓さえ見えない。


 ただ。


 男の声だけが、頭の奥へ響いてくる。




謎の男

『優しさは守らない』



ヤヌス

「違う!!」


ヤヌス

「レオンは……最期まで、俺達を守ってくれた!」


謎の男

『だが、死んだ』




謎の男

『正義も守らない』



ヤヌス

「違う!」


ヤヌス

「レオンは勇者だ……」


ヤヌス

「何人もの人間を守ったって、ジジイが言ってた!」



謎の男

『だが、死んだ』




謎の男

『愛も守らない』



ヤヌス

「違うッ……!」


ヤヌス

「ジジイは……」


ヤヌス

「化け物になった俺を、見放さなかった……!」


ヤヌス

「自分の身体が、バケモノに変わってたのに……」


ヤヌス

「ずっと…俺だけを見ててくれた……!」



謎の男

『だが、死んだ』




謎の男

『優しさは守らない』


謎の男

『正義も守らない』


謎の男

『愛も守らない』


謎の男

『守るのは、力だけだ』



ヤヌス

「……違う」


 もう1度。


 否定する。


 だが。


 自分でも分かっていた。


 次の声は。


 最初より、さらに弱くなっていた。


 ポツ――。


 暗闇の中。


 雨粒が、ヤヌスの頬へ落ちた。


 

謎の男

『強者は奪う』


ヤヌス

「違う……」


謎の男

『弱者は奪われる』


ヤヌス

「違う……」


謎の男

『お前は弱かった』


ヤヌス

「……」


謎の男

『だから、全てを奪われた』


ヤヌス

「……違う」


謎の男

『弱かったからだ』


ヤヌス

「違う!」


謎の男

『弱者は奪われる』


ヤヌス

「違う!」


謎の男

『弱かったから』


ヤヌス

「違うって言ってんだろッ!」


 両手で頭を抱える。


 爪を立て。


 頭の中へ入り込んだ声を、無理やり掻き出そうとする。


ヤヌス

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇッ!!」


 叫んでも。


 男の声は消えない。


謎の男

『仕方ないよね、弱かったんだから』


ヤヌス

「黙れって言ってんだろッ!!」


謎の男

『だから守れなかった』


ヤヌス

「黙れッ!!」


謎の男

『だから奪われた』


ヤヌス

「黙れ黙れ黙れっ!!違う違う違うっ!!黙れ黙れ黙れ黙れっ!!違う違う違うっ!!黙れ黙れっ!!違う違うっ!!」


「……」


「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ違う違う違う違う黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙違う違う違う違う黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇっ!!」


 雨が。


 暗闇を塗り潰すほど激しく降り注ぐ。


 レオン。


 ルミナ。


 ヴァルド。


 壊された小屋。


 壊された墓。


 失ったものが。


 何度も。


 何度も。


 ヤヌスの前へ現れては、壊れていく。


謎の男

『弱者は奪われる』


ヤヌス

「ぁぁああああああああああああああッ!!」


 頭を抱えたまま。


 ヤヌスは、その場へ膝をついた。


 違う。


 違うはずだ。


 レオンは弱くなかった。


 ジジイだって弱くなかった。


 2人とも、誰よりも強かった。


 なのに。


 どうして。


 どうして、俺だけが生きている。


 どうして、俺だけが守られていた。


 どうして、何ひとつ守れなかった。


 どうして。


 どうして。


 どうして。


 …………。


 叫び続ける。


 否定し続ける。


 それでも。


 目の前の現実を覆すことだけはできなかった。


ヤヌス

 「はぁ…はぁ…はぁ…」





 違わない。これが現実だ。



ヤヌス

「……いや」


 静かな声が漏れる。


 そして。


ヤヌス

「違わない。」


 その瞬間。


 バキッ――。


 小屋の柱をへし折ろうとしていたアベラントの腕が、止まった。


 瓦礫を踏み潰していた異形も。


 屋根を引き剥がしていた異形も。


 残された家具を噛み砕いていた異形も。


 1体。


 また1体。


 動きを止める。


 そして。


 まるで、何かに呼ばれたかのように。


 全てのアベラントが。


 一斉に、ヤヌスへ顔を向けた。


 異形の1体が、僅かに後ずさった。


 奈落の森で。


 何かが変わっていた。


 

謎の男

『坊や』


 男の声だけが。


 雨音の中でも、異様なほど鮮明に聞こえる。


謎の男

『お前は、何も守れなかった』


 レオン。


謎の男

『弱かったから』


 ルミナ。


 ヴァルド。


謎の男

『だから泣いている』


ヤヌス

「…………」


 雨が、少しずつ強くなる。


 髪を濡らし。


 顔を濡らし。


 傷ついた身体へ、冷たく染み込んでいく。


ヤヌス

「……ああ」


 もう。


 否定しなかった。


 叫ぶこともない。


 壊れたように泣いていたヤヌスの顔から。


 少しずつ感情が消えていく。


ヤヌス

「俺は弱かった……」


 涙を流したまま。


 静かに認める。


ヤヌス

「だから……奪われた」


 怒りに任せて。


 何もかもを憎んだわけではない。


 ただ。


 目の前に積み重なった現実へ。


 自分なりの答えを出してしまった。


 弱かった。


 だから守れなかった。


 弱かった。


 だから奪われた。


 その答えだけが。


 ヤヌスの中へ、深く根を張っていく。


謎の男

『次は、どうする?』


ヤヌス

「…………」


謎の男

『また、奪われる側でいるか?』


 奪われた家族。


 壊れた家。


 奪われた思い出。


 全て奪われた。


謎の男

『それとも――』


 あの男の笑みが蘇る。


謎の男

『奪う側になるか?』


 ヤヌスは、すぐには答えなかった。


 雨に打たれながら。


 ゆっくりと顔を上げる。


 その瞳から。


 先ほどまでの迷いが消えていた。


ヤヌス

「俺は……」


 次の瞬間。


 ダンッ――!!


 地面が弾けた。


 ヤヌスの姿が消える。


 墓を壊したアベラントが、僅かに顔を動かした時には。


 既に。


 その懐へ潜り込んでいた。


 異形が反応するよりも早く。


 ヤヌスの右手が伸びる。


 ズブッ――!!


 肉を裂く、生々しい音。


 ヤヌスの右手が、アベラントの胸を貫いた。


 異形の身体が大きく震える。


 口を開く。


 だが。


 声を上げることさえできなかった。


 温かな血が、ヤヌスの腕を伝って流れ落ちる。


 アベラントの身体が崩れる。


 ヤヌスは、その胸からゆっくりと右手を引き抜いた。


 血に濡れた手を見つめる。


ヤヌス

「俺が弱かったから……」


 倒れたアベラントへ背を向ける。


 小屋を破壊していた異形達へ。


 1歩。


 歩みを進める。


ヤヌス

「俺が弱かったから、レオンは殺された」


 また1歩。


ヤヌス

「俺が弱かったから、ルミナを守れなかった」


 さらに。


 異形達へ近づいていく。


ヤヌス

「俺が弱かったから……」


 声が僅かに震える。


 それでも。


 立ち止まらない。


ヤヌス

「全部、奪われた」


 その時。


 右腕へ巻かれた布の下で。


 何かが脈打った。


 ドクン――。


 ドクン――。


 ドクン――。


 黒い痣が、布の隙間から這い出してくる。


 指先から。


 腕へ。


 生き物のように、ヤヌスの身体を侵食していく。


ヤヌス

「チッ……」


 ヤヌスは迷わなかった。


 右腕を口元へ引き寄せ。


 黒い痣の上へ噛みつく。


 ブチッ――。


 肉が裂けるほど、強く。


ヤヌス

「出てくるな……」


 血が、腕から口元へ伝う。


 それでも。


 歯を離さない。


ヤヌス

「俺は……」


 黒を押し込めるように。


 さらに強く噛みついた。


◇◇◇


 その頃。


 魔女の街。


 星幽の塔に隣接する修練場。


 夜風が、石畳の上を吹き抜けていた。


 その中央。


 ルミナが1人。


 地面へ描いた魔法陣へ両手をかざしている。


 白銀の光が線を走り。


 少しずつ、複雑な術式を形作っていく。


ルミナ

「はぁ……」


ルミナ

「はぁ……」


 額から汗が流れる。


 何度も魔力を流し。


 何度も失敗し。


 地面へ手をついた両手は擦り切れ、赤く腫れていた。


 それでも。


 ルミナは止まらない。


 乱れた線を消し。


 もう1度。


 初めから魔法陣を書き直していく。


 少し離れた場所。


 リリアとノクスが、その姿を見つめていた。


リリア

「ルミナ……」


 心配そうに名前を呼ぶ。


 だが。


 ルミナは振り返らない。


リリア

「エリシュア様の部屋から戻ってきてから、少し……」


 続く言葉が見つからず。


 リリアが口を閉ざす。


ノクス

「ああ」


 ノクスも、魔法陣へ向かい続けるルミナを見る。


ノクス

「様子がおかしいぞ」


 そして。


 ルミナへ問いかける。


ノクス

「何を、そんなに焦っている」


 返事はない。


 ルミナは乱れた呼吸を整え、再び術式へ魔力を注いでいく。


ルミナ

「まだ……」


 白銀の線が伸びる。


ルミナ

「こんなんじゃ……だめ」


 指先が震えている。


 それでも。


 魔法陣を完成させようとする。


ルミナ

「まだまだ……」


 最後の線が繋がりかける。


 その瞬間。


 バチッ――!!


ルミナ

「……!」


 注ぎ込んだ魔力が乱れた。


 完成しかけた術式が、大きく歪む。


 直後。


 ドンッ――!!


 小さな爆発が起きた。


リリア

「ルミナ!」


 リリアとノクスが、同時に駆け出す。


 爆煙の中。


 ルミナは石畳へ膝をついていた。


リリア

「大丈夫!?」


 リリアが肩を支える。


リリア

「無理しちゃだめだよ!」


ルミナ

「ごめんなさい……」


 ルミナは苦しそうに呼吸を整えながら。


 それでも。


 2人を安心させようと、僅かに笑った。


ルミナ

「でも、大丈夫だから」


ノクスがルミナの顔を覗き込む。


ノクス

「大丈夫な者の顔ではない」


ルミナ

「…………」


 何も言い返せない。


 それでも。


 ルミナは石畳へ手をつき、ふらつきながら立ち上がった。


 そして。


 星の見えない夜空を見上げる。


(ヤヌス)


 エリシュアから告げられた言葉が蘇る。


『今のお前が語ったヤヌスには、もう会えないと思っておけ』


 変わっているかもしれない。


 憎しみに囚われ。


 人を傷つける者になっているかもしれない。


 それでも。


(私は諦めない)


 生きているのなら。


 もう1度、会えるのなら。


(あなたが、どんなに変わっていても)


 たとえ。


 世界中から恐れられる存在になっていたとしても。


(世界中が、あなたの敵になっても)


 ルミナは、赤く腫れた両手を強く握る。


(私だけは、あなたの味方だから)


 頬を伝った涙を拭う。


 もう1度。


 先ほど壊れた魔法陣の前へ立った。


ルミナ

「もう1回」


リリア

「ルミナ……」


 ルミナは俯かない。


 真っ直ぐに、地面へ手を向ける。


ルミナ

「もう1回……!」


 白銀の魔力が溢れ出す。


 新たな魔法陣が、ルミナの足元へ広がり始めた。


◇◇◇


 奈落。


 夜。


 先ほどまでの雨は、いつしか大雨へ変わっていた。


 瘴気に覆われた空から。


 滝のような雨が降り注いでいる。


 木々は激しく揺れ。


 地面へ叩きつけられた雨水が、泥となって流れていた。


 その雨音に混じり。


 暗い森の奥から、異様な音が聞こえる。


 ――ぐちゃ。


 ――ぐちゃ。


 ――ぐちゅ。


 肉が潰れる。


 骨が砕ける。


 何かを噛み、咀嚼する音。


 ――ぶちっ。


 筋が噛み千切られる。


 雲の切れ間から漏れた僅かな月明かりが。


 暗闇の中にいる少年の姿を照らした。


 ヤヌス。


 地面へ倒れた大量のアベラントの死体へ覆い被さり。


 その肉へ、獣のように食らいついている。


 口元。


 頬。


 両手。


 そのすべてが、赤黒い血に染まっていた。


 雨が降り注いでも。


 こびりついた血は、完全には流れ落ちない。


 ――ぐちゃ。


 噛む。


 咀嚼する。


 飲み込む。


 そして。


 再び、異形の肉へ食らいつく。


ヤヌス

「強く……」


 ――ぶちっ。


 肉を噛み千切る。


ヤヌス

「もっと……」


 口の中の肉を、無理やり飲み込む。


ヤヌス

「もっと強く……」


 周囲には、既に何体ものアベラントが倒れていた。


 首を折られたもの。


 胸を貫かれたもの。


 頭を潰されたもの。


 その中心で。


 ヤヌスだけが動いている。


ヤヌス

「強くないと……奪われる……」


 レオン。


 ルミナ。


 ヴァルド。


 壊された小屋。


 壊された墓。


 失ったものが、次々と頭の中へ浮かぶ。


ヤヌス

「弱かったら……」


 呼吸が震える。


ヤヌス

「また……」


 手の中の肉を強く握る。


ヤヌス

「また奪われる……」


 ――ぐちゃ。


 肉を噛む。


 血の味が、口の中へ広がっていく。


ヤヌス

「嫌だ……」


 首を振る。


 逃げるように。


 失ったものを、頭の中から追い出そうとするように。


ヤヌス

「もう嫌だ……」


 震える声。


ヤヌス

「もう……奪われたくない……」


 ヤヌスは、ゆっくりと立ち上がった。


 口元から、血と涎が糸を引く。


 大雨が。


 その顔を激しく打ちつける。


ヤヌス

「強く……」


 ふらつきながら、暗い森の中へ視線を向ける。


ヤヌス

「もっと強く……」


 自分へ言い聞かせるように。


 何度も繰り返す。


ヤヌス

「もっと……」


ヤヌス

「もっと……」


ヤヌス

「もっと……」


 息が乱れていく。


 言葉が途切れるたび、血の混じった呼吸が漏れる。


ヤヌス

「誰よりも強く……」


 その時。


 暗闇の中から、新たなアベラントが飛び出した。


 地面を蹴り、鋭い爪を振り上げる。


 ヤヌスは、ゆっくりと振り返った。


ヤヌス

「奪いに来るなら……」


 異形の爪が届くよりも早く。


 片手で、その頭を掴む。


 そして。


 ドゴンッ――!!


 地面へ叩きつけた。


 泥水が弾け飛ぶ。


 アベラントの身体が大きく跳ねた。


ヤヌス

「容赦しない……」


 もう1度。


 頭を持ち上げる。


 ドゴンッ――!!


 異形の顔が潰れる。


 それでも。


 ヤヌスは手を離さない。


ヤヌス

「俺から奪うなら……」


 さらに。


 ドゴンッ――!!


 骨が砕ける。


 アベラントの身体から力が抜けた。


 それを見下ろし。


 静かに告げる。


ヤヌス

「殺す……」


 動かなくなった異形から手を離す。


 潰れた頭が、力なく泥の中へ落ちた。


ヤヌス

「奪われたら……」


 血に濡れた手を見つめる。


ヤヌス

「奪い返す……」


 脳裏へ。


 白い仮面が浮かぶ。


 長い髪。


 レオンの胸を刃で貫いた男。


 自分を奈落へ落とした男。


 カイン。


ヤヌス

「レオンを奪った奴から……」


 黒い瞳が、暗闇を睨む。


ヤヌス

「全部……」


 その言葉が、一瞬止まった。


 レオンは、もう帰ってこない。


 奪い返すことなどできない。


 それでも。


 ヤヌスには、他の言葉を見つけることができなかった。


ヤヌス

「奪い返す……」


 そして。


 再び。


 壊れたように呟き始める。


ヤヌス

「強く……」


ヤヌス

「強く……」


ヤヌス

「もっと強く……」


 血に濡れた足で、倒れたアベラントへ近づいていく。


ヤヌス

「奪われないために……」


 異形の傍へ膝をつく。


ヤヌス

「殺せるくらい……」


 その肉へ手を伸ばす。


ヤヌス

「奪い返せるくらい……」


 指が、黒く硬い肉へ食い込む。


ヤヌス

「もっと……」


ヤヌス

「もっと……」


ヤヌス

「もっと強く……」


 その時。


 頭の奥へ、ヴァルドの声が蘇った。


ヴァルド

『力だけで振るな』


ヤヌス

「…………」


 肉を掴んだ手が止まる。


ヴァルド

『剣を握ったなら――獣になるな』


ヤヌス

「…………」


 ヤヌスは、ゆっくりと自分の手を見る。


 血に濡れ。


 肉片がこびりついた手。


 剣を握る者の手ではない。


 獣の爪と、何も変わらない手。


ヤヌス

「でも……」


 ヴァルドの教えを、思い出している。


 忘れたわけではない。


 否定したいわけでもない。


 それでも。


ヤヌス

「それじゃ……」


 声が掠れる。


 壊れたような笑みが、僅かに口元へ浮かぶ。


 涙なのか。


 雨なのか。


 もう分からないものが、頬を伝っていく。


ヤヌス

「それじゃ、何も守れなかったよ……ジジイ……」


 レオン。


 ルミナ。


 ヴァルド。


 誰のことも。


 守れなかった。


ヤヌス

「また……奪われる……」


 首を振る。


 身体が震えている。


ヤヌス

「嫌だ……」


 強くなれなければ。


 また。


 大切なものを奪われる。


ヤヌス

「もう、奪われるのは嫌だ……」


 そして。


 ヤヌスは再び、アベラントの肉へ食らいついた。


 ――ぶちっ。


 獣になりたいわけではない。


 ヴァルドを否定したいわけでもない。


 ただ。


 もう1度、何かを奪われることに耐えられなかった。


 失うことが怖かった。


 もう。


 あの痛みを味わいたくなかった。


 その恐怖が。


 ヴァルドから教わった一線すら。


 ヤヌスに越えさせていた。


 ドクンッ――!!


ヤヌス

「…………!」


 右腕が、激しく脈打った。


 ドクンッ!


 ドクンッ!


 ドクンドクンドクンドクンッ――!!


 これまでとは違う。


 まるで。


 ヤヌスが、この答えに辿り着く時を待っていたように。


 歓喜するように。


 黒い痣が脈打っている。


 布の下から黒い筋が溢れ出す。


 腕。


 肩。


 さらに。


 首元へ向かって這い上がっていく。


ヤヌス

「…………」


 ヤヌスは、自らの身体を侵食する黒を見つめた。


 力を与える代わりに。


 身体も。


 意識も。


 すべてを喰らおうとするもの。


ヤヌス

「お前も……」


 掠れた声。


ヤヌス

「俺から……」


 黒が、さらに広がる。


ヤヌス

「奪うのか……?」


 傍らへ置いていた剣を取る。


 迷わない。


 柄を握り。


 切っ先を、黒に侵された自分の右手へ向けた。


 そして。


 ズブッ――!!


ヤヌス

「ぐっ……!」


 刃が、右手を貫いた。


 鮮血が溢れ、指先から地面へ滴り落ちる。


 激痛が、腕から全身へ駆け抜けた。


 それでも。


 ヤヌスは剣を抜かなかった。


ヤヌス

「お前にも……」


 歯を食いしばる。


ヤヌス

「やらねぇ……」


 剣を、さらに深く押し込む。


ヤヌス

「ぐっ……!」


 傷口から、新たな血が噴き出す。


 黒い筋が、僅かに揺らいだ。


ヤヌス

「俺は……」


 自分の身体を奪おうとする黒を睨みつける。


ヤヌス

「奪わせねぇ……!」


 黒の鼓動が、少しずつ弱くなっていく。


 それでも。


 ヤヌスは剣を抜かない。


ヤヌス

「俺の復讐は……」


 息を切らしながら、言葉を絞り出す。


ヤヌス

「俺だけのものだ……」


 レオンを奪った男への憎しみも。


 その男から全てを奪い返すという意思も。


 黒に明け渡すつもりはない。


 自分の身体を奪わせない。


 意識も。


 復讐も。


 何ひとつ渡さない。


 黒にすら。


 自分の復讐を奪わせない。


 やがて。


 歓喜するように脈打っていた黒が。


 静かに。


 布の下へ沈んでいった。


◇◇◇


 しばらくして。


 奈落へ、再び静寂が戻った。


 大雨は過ぎ去り。


 木々の葉から落ちる雫だけが、森の中へ小さな音を響かせている。


 雲の切れ間から差し込む僅かな月明かりが。


 壊された小屋と。


 散らばるアベラントの死体を照らしていた。


 ヤヌスは、右手へ刺していた剣をゆっくりと引き抜いた。


ヤヌス

「……っ」


 傷口から血が溢れる。


 近くへ落ちていた布を拾い、右手へ強く巻きつけた。


 そして。


 何も言わずに歩き出す。


 向かった先。


 壊されたレオンの墓。


 積み上げた石は崩れ。


 地面は大きく抉られている。


 その傍ら。


 泥に汚れたアウロラが、静かに転がっていた。


ヤヌス

「…………」


 その剣を見た瞬間。


 ヴァルドの声が蘇った。


ヴァルド

『アウロラを持っていけ』


 アウロラを手に取ろうとした自分を。


 これまで、何度も止めてきたヴァルド。


 そのヴァルドが。


 最後に初めて。


 この剣を持っていけと告げた。


ヴァルド

『それは、レオンが残したものじゃ』


 あの時は。


 その言葉を受け止めることができなかった。


 ヴァルドを失った直後で。


 アウロラへ手を伸ばすことさえできなかった。


 だが。


 もう。


 墓標として、この場所へ残しておくことはできない。


ヤヌス

「…………」


 レオンが、勇者として振るっていた剣。


 幼い頃。


 何度も憧れた剣。


 自分には、持ち上げることすらできなかった。


 レオンが死んだあと。


 墓標として、この場所へ立てられていた剣。


 ヴァルドが生きている間。


 決して、ヤヌスへ渡されることのなかった剣。


 アウロラの刀身には、以前から黒い布が巻かれていた。


 だが。


 墓が破壊された衝撃で、その布は千切れかけている。


 隙間から覗いた刀身が、僅かな月光を反射していた。


 泥に汚れながらも。


 聖剣の刃は、まだ光を失ってはいない。


ヤヌス

「…………」


 ゆっくりと腰を落とす。


 柄へ手を伸ばし。


 アウロラを拾い上げた。


 以前は持ち上げることさえできなかった剣。


 今は。


 その重さが、両腕へ確かに伝わってくる。


 剣の重さだけではない。


 レオンが背負っていたもの。


 ヴァルドが守り続けたもの。


 失った2人の想いまで、同時に渡されたように感じられた。


 ヤヌスは、外れかけた黒い布を一度解く。


 泥を拭い。


 再び。


 刀身へ巻きつけていく。


 1重。


 2重。


 月明かりを反射していた刀身が、少しずつ黒い布に覆われていく。


 勇者の聖剣が。


 黒へ包まれていく。


 全てを巻き終えると。


 ヤヌスは、黒い布に包まれたアウロラを背負った。


 この瞬間。


 初めて。


 ヤヌス自身が、聖剣アウロラを背負う。


 だが。


 これは、まだヤヌスの剣ではない。


 レオンから残されたもの。


 失った父親が生きた証。


 それを。


 これから自分が背負っていく。


◇◇◇


 月明かりの下。


 壊された小屋。


 壊された墓。


 幾つものアベラントの死体。


 その中心へ。


 ヤヌスが立っていた。


 口元も。


 頬も。


 両手も。


 赤黒い血に染まっている。


 右手には、新たな布が巻かれていた。


 その背には、黒い布に包まれたアウロラ。


 もう。


 泣いてはいない。


 ヤヌスの脳裏へ、1人の男の姿が浮かぶ。


 白い仮面。


 長い髪。


 レオンの胸を刃で貫き。


 自分を奈落へ落とした男。


 全ての始まりとなった男。


ヤヌス

「カイン……」


 低く。


 その名を呼ぶ。


 殺意だけではない。


 怒りだけでもない。


 これ以上。


 何も奪われたくない。


 その恐怖が、ヤヌスを立たせていた。


ヤヌス

「今度は――」


 1歩。


 足を前へ出す。


ヤヌス

「俺が奪う番だ」


 ヤヌスは歩き出した。


 奈落の出口へ向かってではない。


 暗い森の奥。


 月明かりさえ届かない。


 さらに深い奈落の闇へ。


 1歩。


 また1歩。


 黒い布に包まれたアウロラが、僅かな月光を受ける。


 それはもう。


 勇者の聖剣には見えなかった。


 やがて。


 その僅かな光さえ、闇の中へ消えていく。


 全てを失った少年は。


 黒い聖剣を背負い。


 もう奪われないために。


 奪われたものを奪い返すために。


 誰よりも強くなるために。


 月明かりすら届かない、奈落の奥へ進んでいく。


 1歩。


 また1歩。


 その背中が。


 少しずつ闇へ呑み込まれていく。


 そして。


 復讐者となったヤヌスの姿は。


 真っ暗な奈落の闇へ。


 静かに消えていった。


――第2章「剣聖」終了。

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