第13話 始まりの足音
黒印のヤヌス
第2章 剣聖
第13話 始まりの足音
奈落。
黒ずんだ木々の間を縫うように、冷たい川が流れていた。
絶え間なく響く水音。
湿った土の匂い。
瘴気に覆われた空からは、弱々しい光が降り注いでいる。
川辺に座り込んだヤヌスは、俯いたまま動けずにいた。
泣き腫らした目が熱を持っている。
頬に残っていた涙の跡は、既に冷たい風に乾かされていた。
あれほど溢れていた涙も、今はもう出てこない。
胸の奥には、何かを抉り取られたような空洞だけが残っていた。
身体中が痛む。
片腕の上位個体に吹き飛ばされた時の傷が、呼吸をするたびに軋んでいた。
それでも。
身体の痛みなど、胸へ残るものに比べれば小さかった。
(あいつは……)
ヤヌスの脳裏へ、謎の男の姿が浮かぶ。
顔は見えていた。
目も。
鼻も。
口もあった。
それなのに。
どれほど思い出そうとしても、男の顔を認識することができない。
ヴァルドを知っていた。
自分がレオンを失ったことも。
ルミナを守れなかったことも知っていた。
空から落ちてきた巨大な火球をまともに受けても、傷1つ負わなかった。
(なんだったんだよ……あいつ)
考えても答えは出ない。
ただ。
男が残した言葉だけが、今なお頭の奥へこびりついている。
『強者は奪う』
『弱者は奪われる』
忘れようとしても。
違うと否定しても。
その声だけが、消えてくれなかった。
そして。
ヴァルドは死んだ。
自分の剣で斬った。
何度、その事実を否定しようとしても。
手に残った感触が、逃げ場のない現実を突きつけてくる。
ヤヌス
「…………」
川面へ映る自分の顔を見つめる。
酷い顔だった。
赤く腫れた目。
泥と血に汚れた頬。
生きている者の顔には見えなかった。
もう、何も考えたくない。
何も感じたくない。
このまま。
水の流れる音だけを聞きながら、すべてが終わってしまえばいい。
そう思った時だった。
ガサッ――。
背後の茂みが揺れた。
重い足音が、枯れ葉を踏み砕く。
ヤヌスは振り返らない。
やがて、木々の間から異形が姿を現した。
人間に似た身体。
異様に長く伸びた両腕。
黒く硬い皮膚の隙間から、赤黒い筋が脈打っている。
アベラント。
濁った瞳が、川辺に座るヤヌスを捉えた。
ヤヌス
「…………」
少し離れた地面には、上位個体と共に吹き飛ばされた剣が落ちている。
手を伸ばせば届く。
それでも。
ヤヌスは拾おうとしなかった。
アベラントが近づいてくる。
1歩。
また1歩。
粘ついた涎が、開かれた口から地面へ落ちた。
逃げなければならない。
戦わなければならない。
頭では分かっている。
それでも、身体は動かなかった。
レオンはいない。
ルミナもいない。
ヴァルドもいない。
守りたい者も。
帰りを待つ者も。
もう、どこにもいない。
ヤヌス
「……もう」
剣へ向けていた視線を落とす。
ヤヌス
「いいか……」
その声に反応し、アベラントが身を沈めた。
次の瞬間。
異形の身体が、ヤヌスへ飛びかかった。
避けない。
牙の並んだ口が開かれる。
ガブッ――!
ヤヌス
「ぐっ……!」
鋭い牙が、左肩へ深く食い込んだ。
肉が裂ける。
温かな血が溢れ、服を赤く染めていく。
激痛が全身を駆け抜けた。
それでも。
ヤヌスは抵抗しなかった。
アベラントを押し返すことも。
地面へ落ちている剣を拾うこともない。
ただ、牙に噛まれたまま俯いている。
このまま殺されるのなら。
それでもいいと思った。
その時。
ドクン――。
ヤヌス
「…………」
右手の奥で、何かが脈打った。
布の下。
黒い痣が、心臓とは異なる鼓動を刻んでいる。
ドクン――。
熱が指先から腕へ這い上がった。
布の隙間から、細い黒の筋が姿を現す。
ジワリ。
ジワリと。
生き物のように皮膚を侵食しながら、肘へ向かって伸びていく。
ヤヌス
「…………」
忌々しい黒。
レオンが死んだ時も。
怒りと悲しみに呑まれた自分の中から現れ。
身体も。
意識も。
すべてを奪おうとした力。
その黒が、再び広がっていく。
それを見ても。
ヤヌスは止めようとしなかった。
このままアベラントに殺されるか。
黒にすべてを飲み込まれるか。
どちらでもよかった。
自分で何も考えなくて済むのなら。
何も感じずに済むのなら。
その方が、ずっと楽だった。
(俺は……)
ヴァルドの亡骸が浮かぶ。
レオンの血に濡れた身体。
奈落へ落ちながら、最後まで届かなかったルミナの手。
(奪われてばかりだ……)
その瞬間。
記憶の底から、男の声が蘇った。
顔を見ても認識することのできない男。
何でもないことのように笑いながら、世界の仕組みを語った声。
謎の男
『強者は奪う』
黒い筋が、さらに腕を這い上がる。
謎の男
『弱者は奪われる』
ヤヌス
「…………」
以前なら。
すぐに否定できた。
レオンは違う。
ヴァルドも違う。
強い者が、すべてを奪うわけではないと。
だが、今は。
同じ言葉を返すことができなかった。
謎の男
『お前は、何も守れなかった』
レオンを守れなかった。
謎の男
『弱かったから』
ルミナの手を掴めなかった。
ヴァルドの異変にも気づけなかった。
毎日、傍にいた。
一緒に剣を振り。
同じ食卓を囲み。
言い合いながら笑っていた。
それなのに。
ヴァルドの身体が、人ではないものへ喰われていたことも。
残された時間が、ほとんどなかったことも。
最後まで気づくことができなかった。
そして。
自分の剣で斬った。
(……そうなのかもな)
認めたわけではない。
それでも。
男の言葉は、胸の奥へ深く突き刺さっていた。
生きていても。
大切なものを奪われ続ける。
守ろうとしても、何ひとつ守れない。
だったら。
もう――。
黒い筋が、肩へ向かって伸びていく。
ヤヌスの瞳から。
僅かに残っていた光が消えた。
その時。
レオン
『生きろ……』
ヤヌス
「…………」
遠い記憶の中から。
血に濡れたレオンの声が聞こえた。
最後まで自分を守り。
生きろと告げた父親の声。
そして。
ヴァルド
『力に飲まれるな』
ヤヌス
「――!」
閉じかけていた瞳が、大きく開かれた。
黒が、さらに腕を侵食しようとしている。
ヤヌス
「ぐっ……!」
ヤヌスは噛みついているアベラントの頭を掴んだ。
痛みを堪えながら、渾身の力で押し返す。
ヤヌス
「離れろッ!」
アベラントの牙が肩から抜けた。
肉が引き裂かれ、鮮血が飛び散る。
異形の身体が地面を転がった。
ヤヌスは左肩を押さえながら、荒い息を吐く。
ヤヌス
「はぁ……」
ヤヌス
「はぁ……」
血が指の間から溢れている。
痛い。
苦しい。
それでも。
今は、その痛みが自分を現実へ繋ぎ止めてくれていた。
視線の先。
地面へ落ちている剣。
レオンは、最後に生きろと言った。
ヴァルドは、最後まで自分へ剣を教えた。
生き残るための力を。
黒に飲み込まれないための意志を。
自分へ残した。
ヤヌス
「…………」
ここで死んだら。
2人の言葉まで、何もなかったことになる。
そのような終わり方だけは。
選ぶことができなかった。
ヤヌス
「このままじゃ……」
血に濡れた手を伸ばし、剣の柄を掴む。
ヤヌス
「終われない」
剣を支えにして立ち上がる。
押し返されたアベラントも、既に起き上がっていた。
怒りに濁った声を漏らし、もう1度ヤヌスへ飛びかかる。
ヤヌスは剣を構えた。
アベラントの腕ではない。
足を見る。
踏み込む瞬間の呼吸を読む。
重心が前へ移る。
ヴァルドから、何度も教えられた。
剣だけを見るな。
相手のすべてを見ろ。
鋭い爪が迫る。
身体を僅かにずらし、その軌道から外れる。
異形の腕が頬を掠めた。
ヤヌスは退かない。
懐へ踏み込み。
剣を振り抜く。
ザンッ――!
刃が、アベラントの胴を深く斬り裂いた。
異形の動きが止まる。
赤黒い血が噴き出し、その身体が地面へ崩れ落ちた。
ヤヌス
「はぁ……」
剣先を下げる。
アベラントは、もう動かない。
静けさが戻る。
その直後。
ドクンッ――!
ヤヌス
「……!」
右手が、大きく脈打った。
ドクンッ!
ドクンッ!
先ほどよりも速い。
黒い筋が、布の下で激しく蠢いている。
アベラントとの戦いが終わっても。
黒は止まろうとしない。
まるで。
今すぐ自分を食い破り、外へ出ようとしているように。
ヤヌス
「…………っ」
剣を左手へ持ち替える。
右手を押さえても、鼓動は収まらなかった。
ヤヌスは近くにある太い木へ歩み寄る。
そして。
ドンッ――!!
黒に侵された右手を、幹へ叩きつけた。
ヤヌス
「ぐっ……!」
指の骨が軋む。
構わず、もう1度振り上げる。
ドンッ――!!
硬い樹皮が砕けた。
血が滲む。
それでも、右手を木へ押しつけたまま。
ヤヌスは布の下で脈打つ黒を睨みつける。
ヤヌス
「お前は……」
呼吸を整える。
力に飲まれるな。
ヴァルドの声を、何度も胸の中で繰り返す。
ヤヌス
「お前は出てくるな」
ドクンッ――。
黒が抵抗するように、大きく脈打つ。
ヤヌスは右手を引かなかった。
痛みに顔を歪めながらも。
自分の内側に潜むものから、目を逸らさなかった。
◇◇◇
魔女の街。
星幽の塔にある、白い修練場。
床も。
壁も。
天井も。
すべてが白一色で統一された空間。
その中央へ、エリシュアとルミナが向かい合って立っていた。
エリシュア
「まずは、手本を見せる」
ルミナ
「はい」
エリシュアは目を閉じた。
普段と変わらない立ち姿。
何か特別な構えを取るわけでもない。
それでも。
目を閉じた瞬間。
ルミナの表情が変わった。
ルミナ
「……え?」
エリシュアは、確かに目の前に立っている。
姿も見える。
呼吸もしている。
気配も消えてはいない。
だが。
普段なら意識を向ければ僅かに感じられていた魔力が、完全に消えていた。
世界でも有数の魔女。
その身体に宿る膨大な魔力が。
今は、どこにも感じられない。
まるで。
最初から魔力など持っていない、ただの人間のようだった。
ルミナ
「お師匠様……?」
エリシュア
「ここにいる」
目の前から返ってきた声に、ルミナは僅かに安堵した。
ルミナ
「本当に、何も感じません……」
エリシュアが目を開く。
その瞬間。
押し隠されていた膨大な魔力が、僅かに輪郭を取り戻した。
エリシュア
「魔力を漏らさないとは、小さくすることではない」
エリシュアは、自らの胸元へ指を添える。
エリシュア
「内に秘める魔力を、外部から完全に遮断するんだ」
ルミナ
「完全に……」
エリシュア
「次はお前の番だ。やってみろ」
ルミナ
「はい」
ルミナが修練場の中央へ進む。
両目を閉じ。
腕を身体の横へ下ろした。
部屋の中には、僅かに白銀の光が漂っている。
ルミナの身体から、無意識に漏れ出している魔力だった。
エリシュア
「漏れている」
ルミナ
「……!」
指摘された瞬間。
ルミナの肩が僅かに跳ねた。
慌てて意識を集中させる。
身体の外へ漏れていた魔力を、少しずつ自分の中へ戻していく。
白銀の光が薄れ始める。
やがて。
修練場を漂っていた魔力が、ほとんど見えなくなった。
エリシュア
「右肩」
ルミナ
「はい……」
意識を右肩へ向ける。
自分では抑え込めているつもりだった。
だが。
よく感じ取ってみれば、右肩から僅かに魔力が流れ出している。
ルミナは呼吸を整え。
漏れ出す魔力を、ゆっくりと身体の中へ押し戻した。
エリシュア
「今度は足だ」
ルミナ
「……っ」
今度は、両脚。
右肩へ意識を向けたことで、別の場所から魔力が漏れ始めていた。
慌てて抑える。
すると。
再び、右肩から光が零れた。
ルミナ
「…………」
額へ汗が浮かぶ。
魔力を魔法へ変えること自体は、ルミナにとってそれほど難しくない。
結界を作る。
傷を癒やす。
身体を強化する。
膨大な魔力を形へ変え、外へ放つことなら。
考えるよりも先に、身体が動く。
だが。
今行っているのは、その逆だった。
膨大な魔力を内へ秘め。
1滴も漏らすことなく、身体の中へ閉じ込め続ける。
少しでも集中が乱れれば。
抑えていた魔力が、すぐに身体の外へ溢れ出してしまう。
静かな時間が続く。
ルミナは呼吸を乱さず。
身体の隅々まで意識を巡らせていた。
白銀の光が消える。
今度こそ。
完全に抑えられた。
そう思った時。
エリシュア
「ヤヌス」
ルミナ
「!」
ボッ――!
白銀の魔力が、ルミナの全身から噴き出した。
慌てて目を開く。
修練場の床へ広がった光が、ゆっくりと霧散していく。
ルミナ
「…………」
エリシュア
「…………」
ルミナは、不満そうな目でエリシュアを見つめた。
エリシュア
「なんだ?」
ルミナ
「今のは、ズルくないですか?」
エリシュア
「何がだ」
ルミナ
「急にヤヌスの名前を出すなんて……」
エリシュア
「敵がお前に気を遣うと思うか?」
ルミナ
「…………」
何も言い返せない。
エリシュアの言う通りだった。
実際の戦いでは。
いつ、何が起きるか分からない。
ヤヌスが傷つく姿を目にすることもある。
危険に晒されることもある。
そのたびに魔力を暴発させていれば。
敵だけではなく。
守りたい者まで、自分の力へ巻き込むことになる。
エリシュア
「感情を捨てろとは言わん」
エリシュアは腕を組んだまま、静かに続ける。
エリシュア
「時には怒りが、限界を超える力になる」
エリシュア
「誰かを想う気持ちに、救われることもある」
ルミナを真っ直ぐに見る。
エリシュア
「だが、感情に力を支配させるな」
ルミナ
「…………」
エリシュア
「力を使うのは、お前だ」
その言葉を、ルミナは胸の奥へ刻み込む。
小さく息を吸い。
もう1度、両目を閉じた。
ルミナ
「……はい」
エリシュア
「初めからだ」
ルミナ
「はい」
再び。
身体の中を巡る魔力へ、意識を向ける。
呼吸。
鼓動。
血の流れ。
そのすべてに沿って流れる、膨大な魔力。
少しずつ。
丁寧に。
自分の中へ閉じ込めていく。
◇◇◇
長い時間が過ぎた。
白銀の光は、もう修練場へ漏れ出していない。
ルミナの額から、1筋の汗が流れた。
それでも。
集中を切らさず、自らの魔力を内側へ留め続けている。
エリシュア
「よし……」
その声で。
ルミナが、ゆっくりと目を開いた。
エリシュア
「今日のところは、そこまでだ」
ルミナ
「はぁ……」
張り詰めていた息を吐く。
途端に。
僅かな白銀の光が肩から漏れた。
エリシュア
「今の感覚を忘れるな」
ルミナ
「はい……」
額の汗を拭うルミナへ、エリシュアが告げる。
エリシュア
「次だ」
ルミナ
「もうですか?」
エリシュア
「街を出たいのだろう?」
ルミナ
「やります」
疲れていたはずのルミナの背筋が、一瞬で伸びた。
修練場の端へ移動する。
正面。
離れた場所には、人の形に作られた魔法修練用の標的が置かれている。
幾つもの魔法を受けることを前提に作られた、頑丈な標的。
並の魔女が攻撃魔法を放っても。
表面へ傷を残すことができれば、十分な威力と認められる。
その標的の前へ。
エリシュアが立った。
エリシュア
「次は攻撃魔法だ」
ルミナ
「はい」
エリシュア
「まず、最も単純なものから始める」
エリシュアが片手を持ち上げる。
特別な術式を組むこともなく。
指先へ、小さな炎を生み出した。
掌へ収まるほどの火球。
ルミナが料理に使う炎と、ほとんど変わらない大きさだった。
ルミナ
「それで壊すんですか?」
エリシュア
「見ていろ」
指先を僅かに動かす。
ヒュンッ――。
小さな火球が、標的へ向かって飛んでいく。
直撃した。
次の瞬間。
ドンッ――!!
ルミナ
「きゃっ……!」
爆風が修練場を駆け抜ける。
ルミナの白銀の髪が、大きく後方へ靡いた。
炎が消える。
そこに残っていたのは。
粉々に砕け、床へ散らばった標的の破片だった。
ルミナ
「…………」
跡形もない。
傷をつけるどころではなかった。
あれほど頑丈だった標的が、僅かに残った炎の中で黒い破片へ変わっている。
ルミナ
「今の……」
エリシュアを見る。
ルミナ
「本当に、普通の炎ですか?」
エリシュア
「普通だ」
ルミナ
「嘘です」
エリシュア
「嘘は言わん」
ルミナ
「だって、粉々になりましたよ?」
エリシュア
「使い手が違う」
ルミナ
「…………」
エリシュアは、当然のように言い切った。
ゴゴゴゴゴ――。
新しい標的が、床からせり上がってくる。
元の標的と変わらない。
傷1つない、真新しい人形。
エリシュア
「次はお前だ」
エリシュアが場所を譲る。
ルミナは標的の前へ立ち、右手を向けた。
魔力を抑える修練ではない。
今度は、自らの意思で魔力を放つ。
攻撃するために。
エリシュア
「今、私が使ったものと同じでいい」
エリシュア
「炎を作り、標的へぶつけろ」
ルミナ
「……はい」
ただの人形。
生きてはいない。
痛みも感じない。
傷つけても。
誰かが苦しむわけではない。
それでも。
攻撃するという意識を持った瞬間。
胸の奥へ、僅かな躊躇いが生まれる。
エリシュアがルミナの隣へ立つ。
そして。
その肩へ、そっと手を置いた。
エリシュア
「考えすぎるな」
ルミナ
「はい……」
深く息を吸う。
右手へ魔力を集めていく。
白銀の光が、掌の前へ集まり始めた。
その中心へ。
小さな炎が灯る。
最初は。
エリシュアが作ったものと変わらない大きさだった。
エリシュア
「魔力は感情に左右される、とも言ったな」
ルミナは炎へ意識を向けたまま、黙って聞いている。
エリシュア
「思い出せ。あの日を」
(あの日……?)
エリシュア
「レオンが殺された日」
ルミナの指先が震えた。
エリシュア
「ヤヌスが串刺しにされ、奈落へ落とされた日だ」
ルミナ
「っ!!」
次の瞬間。
ゴォォォォォ――!!
小さかった火球が、爆発するように膨れ上がった。
人の頭ほどの大きさ。
さらに。
ルミナの身体を覆い隠すほどの巨大な火球へ変わっていく。
凄まじい熱が、白い修練場を赤く染めた。
エリシュア
「…………」
ルミナ
「お師匠様」
エリシュア
「なんだ」
ルミナ
「大きくなりすぎてませんか?」
エリシュア
「なっているな」
ルミナ
「どうしましょう」
エリシュア
「まずは慌てるな」
ルミナ
「はい」
エリシュア
「あと、こちらへ向けるな」
ルミナ
「あっ、ごめんなさい!」
巨大な火球が、エリシュアの方角へ傾く。
エリシュアが素早く横へ移動した。
エリシュア
「謝る前に戻せ!」
ルミナ
「はいっ!」
慌てて標的へ向け直す。
激しく燃え盛る炎が、白い修練場を赤く染めていた。
これほどの大きさなら。
標的を壊すどころか。
修練場の壁まで吹き飛ばしかねない。
エリシュア
「そのまま撃て」
ルミナ
「いきます!」
攻撃する。
標的を壊す。
迷わず。
真っ直ぐに。
ルミナが右手を突き出した。
ルミナ
「――っ!」
ゴォォォォォ――!!
巨大な火球が放たれる。
空気を焼きながら。
標的へ向かって突き進む。
そして。
直撃した。
ドォォォンッ――!!
轟音。
爆炎。
白い修練場を、赤い光が埋め尽くした。
ルミナは腕で顔を庇う。
エリシュアは微動だにせず、炎の向こうを見つめていた。
やがて。
炎が収まっていく。
ルミナ
「…………」
標的には。
傷1つついていなかった。
焼けてもいない。
欠けてもいない。
それどころか。
薄い白銀の膜が、標的の全身を覆っている。
先ほどの巨大な炎から。
標的を守り抜いた結界。
ルミナ
「……あれ?」
標的へ近づき。
表面を覆う魔力の膜へ、そっと指を触れた。
パチッ――。
小さな光が弾ける。
ルミナ
「なんで……?」
エリシュア
「はぁー……」
背後から、深いため息が聞こえた。
ルミナが振り返る。
ルミナ
「当たりましたよね?」
エリシュア
「当たったな」
ルミナ
「炎も出ましたよね?」
エリシュア
「出たな」
ルミナ
「すごく大きかったですよね?」
エリシュア
「大きかったな」
ルミナ
「だったら、どうして無傷なんですか?」
エリシュア
「お前が守ったからだ」
ルミナ
「私が……?」
エリシュア
「攻撃が当たる直前、標的の周囲へ結界を張った」
ルミナ
「…………」
エリシュア
「自分で放った炎から、自分で標的を守ったんだ」
ルミナ
「そんなこと、できるんですか?」
エリシュア
「普通は無理だ」
ルミナ
「…………」
エリシュア
「だが、お前は今やった」
ルミナは、きょとんとした顔で標的を見る。
エリシュアが結界へ指先を当てた。
バチンッ――!
結界が、その指を弾く。
エリシュア
「しかも強固だ」
エリシュア
「離れた標的だけを、これほど正確に守るのは難しい」
ルミナ
「えっ!?」
ルミナの顔が、ぱっと明るくなる。
ルミナ
「それじゃあ、私――」
エリシュア
「何を嬉しそうな顔をしている」
ルミナ
「だって、守れる魔法が増えたんですよね!」
エリシュア
「標的を守ってどうする」
ルミナ
「あっ……」
標的を見る。
それから。
エリシュアへ申し訳なさそうに頭を下げた。
ルミナ
「すみません……」
ルミナの肩が落ちる。
先ほどまで輝いていた表情が、一瞬でしおれていった。
攻撃するつもりで放った魔力が。
無意識のうちに、守るための力へ変わった。
ルミナらしい。
あまりにも、ルミナらしい結果だった。
だが。
それだけでは。
街の外へ出すことはできない。
エリシュア
「解除しろ」
ルミナ
「はい……」
ルミナが手を向ける。
白銀の結界が、細かな光の粒となって消えていく。
エリシュア
「もう1回だ」
ルミナ
「はい!」
先ほどまでの落ち込みを振り払うように。
ルミナが、もう1度標的へ向き直る。
右手を伸ばす。
今度こそ。
守るためではなく。
壊すための炎を放つ。
そう自分へ言い聞かせながら。
再び、掌へ魔力を集め始めた。
◇◇◇
奈落。
ヤヌスは、森の中を歩いていた。
左肩へ巻きつけた布は、既に赤黒く染まっている。
深く噛みつかれた傷から流れていた血は、いつの間にか止まっていた。
だが。
傷が消えたわけではない。
腕を動かすたび、裂かれた肉へ鈍い痛みが走った。
全身へ残る痛みも。
右手で脈打つ黒も。
完全には収まっていない。
それでも。
足を止めることはできなかった。
ヴァルドのもとへ戻る。
亡骸を、あの場所から連れ帰る。
そして。
きちんと弔う。
今のヤヌスに残されたものは、それだけだった。
ヤヌス
「…………」
自分が吹き飛ばされてきたと思われる方角へ。
剣を握り、黒ずんだ木々の間を進んでいく。
折れた枝。
抉られた地面。
自分の身体が木々へぶつかった時に残した、僅かな破壊の跡。
それらを辿りながら。
元いた場所へ戻ろうとしていた。
その時。
ガサッ――。
前方の茂みが大きく揺れた。
ヤヌスが足を止める。
低い唸り声。
茂みの奥から、獣に似た魔獣が姿を現した。
背中から伸びる硬い棘。
鋭い牙。
地面を抉るほど太い四肢。
魔獣は口元から涎を垂らしながら、ヤヌスを睨んでいる。
ヤヌス
「……今度は魔獣か」
剣を構える。
先ほどのアベラントとの戦いで。
身体は、さらに疲弊している。
できるだけ早く終わらせなければならない。
魔獣が身を低くする。
次の瞬間。
地面を蹴った。
ダンッ――!
土が弾ける。
真っ直ぐに迫ってくる魔獣へ。
ヤヌスが剣を振るった。
首元を捉えた。
そう思った。
だが。
スッ――。
ヤヌス
「……?」
刃が空を切る。
魔獣の身体は。
ヤヌスの剣先を掠めるように横へ逸れていた。
(今……)
当たったと思った。
間合いも。
踏み込む瞬間も。
間違えていなかったはずだった。
考える暇はない。
魔獣が地面へ着地すると同時に、身体を反転させる。
太い尾が、横薙ぎに振るわれた。
ヤヌス
「くっ……!」
剣を立てる。
ガァンッ――!
重い衝撃が両腕へ走った。
足が地面を滑る。
踏み止まるよりも早く。
魔獣が横から飛びかかってきた。
ヤヌスは身体を捻り、剣を返す。
ザンッ――!
今度は。
刃が魔獣の肩口へ食い込んだ。
赤黒い血が飛び散る。
(やった……!)
確かな手応えがあった。
だが。
魔獣は止まらない。
傷を負ったまま。
勢いに任せて、ヤヌスへ体当たりした。
ヤヌス
「がっ……!」
身体が弾かれる。
地面へ片膝をつき。
すぐに立ち上がる。
ヤヌス
「……効いてない?」
確かに斬った。
浅い傷ではない。
それでも。
魔獣の動きは、ほとんど鈍っていなかった。
魔獣が再び地面を蹴る。
速い。
ヤヌスは剣を構えながら、僅かに目を見開いた。
(こいつ……)
迫る牙を、身体を沈めてかわす。
頭上を魔獣の巨体が通り過ぎる。
(こんなに速かったか?)
これまでにも。
同じ種類の魔獣と戦ったことはある。
ヴァルドとの修行を始めてから。
何度も、1人で狩ってきた。
苦戦する相手ではなかったはずだ。
それなのに。
今は、動きを追うだけで精いっぱいだった。
小さな違和感が、胸の奥へ生まれる。
魔獣が着地する。
ヤヌスは追いかけない。
足を見る。
呼吸を読む。
ヴァルドの教えを思い出す。
魔獣が再び身を沈めた。
今度は。
僅かに右足へ重心が偏っている。
直進ではない。
左へ回り込む。
ヤヌスは先回りするように、剣を構えた。
魔獣が地面を蹴る。
予想した通り。
左側から、ヤヌスの喉元へ牙を向けた。
ヤヌスは半歩だけ退く。
魔獣の口が、目の前で閉じた。
直後。
全身の力を乗せ、剣を振り下ろす。
ザンッ――!
刃が首筋を深く斬り裂いた。
魔獣の身体が地面へ叩きつけられる。
何度か脚を動かし。
やがて。
完全に動かなくなった。
ヤヌス
「はぁ……」
ヤヌス
「はぁ……」
荒い呼吸を繰り返す。
剣を握る指へ、ほとんど力が残っていない。
ヤヌス
「なんなんだよ……」
これまでなら。
もっと簡単に倒せていたはずだった。
自分が傷ついているから。
数日間、ほとんど何も口にしていないから。
それだけでは説明できないほど。
魔獣が強く感じられた。
その時。
ガサッ――。
別の茂みが揺れた。
ヤヌス
「……?」
剣を持ち上げる。
木々の向こうから現れたのは。
別の魔獣。
ではなかった。
歪んだ人型の身体。
黒く硬い皮膚。
濁った瞳。
アベラント。
ヤヌス
「…………」
今度の違和感は、はっきりしていた。
(おかしい……)
これまで。
魔獣と戦っている最中に。
アベラントが姿を見せることなど、ほとんどなかった。
少なくとも。
自分とヴァルドが暮らしていた周辺では。
魔獣の血の匂いが広がっても。
他の異形が、すぐに寄ってくることはなかった。
それなのに。
今は。
何の警戒もなく、目の前へ現れている。
アベラントが口を開く。
人の声とも。
獣の声とも呼べない唸りが漏れた。
次の瞬間。
ヤヌスへ襲いかかる。
ヤヌス
「なんなんだよ……!」
剣を構え。
迫る爪を受け流す。
ギィンッ――!
傷ついた腕へ、重い衝撃が走った。
踏み止まれない。
後方へ弾かれる。
アベラントが追いすがる。
ヤヌスは痛む足を強引に動かし。
木の陰へ回り込んだ。
鋭い爪が幹へ突き刺さる。
その一瞬。
無防備になった脇腹へ、剣を突き立てた。
ザシュッ――!
赤黒い血が溢れる。
アベラントが苦鳴を上げる。
ヤヌスは刃を引き抜き。
続けて首元を斬り払った。
ドサッ――。
異形が地面へ倒れる。
ヤヌス
「はぁ……!」
息を整える暇もない。
木々の奥。
別の場所から、獣の唸り声が聞こえた。
さらに。
違う方角から、木の枝が折れる音。
もう1体。
何かが近づいてくる。
ヤヌス
「…………」
明らかに。
今までとは違う。
ヤヌスは、片腕の上位個体に吹き飛ばされた時のことを思い出す。
凄まじい一撃。
剣で防いだにもかかわらず。
自分の身体は、幾つもの木を突き破りながら遥か遠くまで飛ばされた。
ヤヌス
「まさか……」
周囲を見回す。
見覚えのない木々。
知らない地形。
今までより強く感じる魔獣。
次々と姿を現すアベラント。
ヤヌス
「ここは奈落の奥地なのか……?」
上位個体の一撃によって。
自分は。
これまで足を踏み入れたことのない場所へ飛ばされた。
そう考えれば。
すべて説明できるように思えた。
今まで見てきたものより。
魔獣が強い。
アベラントも多い。
ヴァルドでさえ近づかなかった。
奈落の、さらに深い場所。
ヤヌス
「…………」
ここで立ち止まるわけにはいかない。
ヴァルドのもとへ戻るには。
まず、自分がどこにいるのか確かめなければならない。
ヤヌスは痛む身体を引きずり。
再び森の中を歩き始めた。
木々の奥から聞こえてくる気配を避け。
時には。
向かってくる魔獣やアベラントを斬り伏せながら。
1歩ずつ進んでいく。
やがて。
ヤヌス
「……?」
足が止まった。
視線の先。
1本の木の幹へ、古い剣傷が刻まれている。
斜めに走る傷。
深さはなく。
途中で刃が弾かれたように歪んでいた。
ヤヌスは、ゆっくりとその木へ近づいた。
指先で、古い傷へ触れる。
ヤヌス
「…………」
知っている。
まだ。
剣を振るう時に力を込めすぎていた頃。
ヴァルドへ攻撃をかわされ。
勢いを止められず、木の幹へ剣をぶつけた。
あの時につけた傷だった。
ヤヌス
「……なんで」
周囲を見る。
少し離れた場所。
別の木へも、幾つもの傷が刻まれている。
ヴァルドの剣を受けきれず。
吹き飛ばされた自分の身体がぶつかった跡。
その先には。
途中だけ不自然に土が剥げた、細い道が続いている。
毎朝。
ヴァルドに走らされ。
何度も転び。
自分の足で踏み固めた道だった。
見覚えがないと思っていた。
だが。
少しずつ。
記憶の中にある景色と、目の前の森が重なっていく。
何度も通った地形。
何度も剣を振った場所。
ヴァルドと共に。
毎日のように歩いた森。
ヤヌス
「…………」
ゆっくりと。
1つの事実を理解する。
ヤヌス
「違った……」
掠れた声が漏れる。
ヤヌス
「ここは、奈落の奥地なんかじゃない」
剣傷へ触れたまま。
周囲の森を見つめる。
ヤヌス
「ここは……いつもの奈落だ」
ここは。
ヴァルドと暮らしていた場所から。
それほど遠く離れてはいなかった。
ならば。
なぜ。
魔獣が、あれほど速く感じたのか。
なぜ。
これまで倒せていた相手へ、攻撃が通らなかったのか。
なぜ。
アベラントが、平然と姿を現すようになったのか。
ヤヌス
「…………」
答えは。
奈落が変わったからではない。
魔獣が、突然強くなったわけでもない。
アベラントが、急に増えたわけでもなかった。
変わったものは。
1つだけ。
ヤヌス
「ジジイが……」
いない。
その言葉は、最後まで声にならなかった。
ヤヌスは。
先ほど倒した魔獣と、アベラントを見る。
今まで。
この周辺では、ほとんど見かけることのなかった異形達。
ヴァルドが死んだ途端。
次々と姿を現した。
ヤヌス
「こいつら……」
最初から。
この奈落へ棲んでいた。
突然、現れたわけではない。
強くなったわけでもない。
ヤヌス
「最初から、いたんだ……」
これまで。
自分の前へ近づいてこなかっただけ。
ヴァルドがいたから。
剣聖と呼ばれた男が、この場所にいたから。
魔獣も。
アベラントも。
その気配を恐れ。
簡単には近づくことができなかった。
ヴァルドは。
ヤヌスの知らないところで、毎日戦っていたわけではない。
剣を振るう必要さえなかった。
ただ。
そこにいる。
それだけで。
周囲に棲む異形達を遠ざけていた。
だから。
ヤヌスは忘れていた。
自分達が暮らしていた場所が。
本当は、どれほど危険な場所だったのか。
奈落に棲む魔獣が。
どれほど強かったのか。
そのすべてを。
ヴァルドの存在が覆い隠していた。
ヤヌス
「…………」
修行の日々が蘇る。
何度も剣を振り。
何度も地面へ倒された。
少しずつ。
ヴァルドの動きを追えるようになった。
魔獣を1人で狩れるようになった。
アベラントとも戦えるようになった。
自分は。
強くなったと思っていた。
もう。
守られるだけの子供ではない。
ヴァルドと共に。
外の世界へ出ることができる。
いつかは。
師匠を超えることさえできる。
そう信じていた。
だが。
違った。
ヤヌス
「俺……」
剣を握る手が震える。
今になって。
ようやく気づいた。
ヤヌス
「ずっと……守られてたんだ……」
声が掠れる。
頬を。
1筋の涙が伝った。
ヴァルドは。
1度も、そのことを口にしなかった。
自分が守っているなど。
恩着せがましく言うこともなかった。
ただ。
そこにいた。
剣を教え。
飯を作り。
言い合いながら笑っていた。
その存在だけで。
何も知らないヤヌスを守り続けていた。
ヤヌスが泥だらけになって帰れるように。
腹が減ったと文句を言えるように。
明日も剣を教えてもらえると、疑いもせず眠れるように。
ヴァルドは。
奈落の危険から。
その日常ごと、守っていた。
『食えるやつにしろ!』
『先に身体を洗ってこい』
『馬鹿弟子が』
いつもと変わらない声が、次々と耳の奥へ蘇る。
ヴァルドは最後まで。
自分が人ではないものへ変わろうとしていることさえ隠した。
ヤヌスに恐怖を与えないように。
残された日々を。
これまでと変わらない師匠として過ごした。
苦しかったはずなのに。
痛かったはずなのに。
そんな姿を。
1度も見せなかった。
それどころか。
最後の瞬間まで。
弟子へ剣を教え。
生き方を残そうとしていた。
ヤヌス
「…………っ」
視界が滲む。
泣き尽くしたと思っていた目の奥へ、再び熱いものが込み上げた。
『本当に……よくぞここまで強くなった!』
最後に褒められた言葉が。
今は、胸へ深く突き刺さる。
あの時。
自分は嬉しかった。
ようやく。
師匠へ認めてもらえたと思った。
だが。
ヴァルドは。
その言葉を残して。
自分の剣を受けた。
弟子が1人でも生きていけると。
そう信じて。
すべてを託した。
ヤヌス
「俺は……」
拳を強く握る。
爪が掌へ食い込む。
ヤヌス
「俺は全然……」
声が震える。
強くなったつもりだった。
ヴァルドの隣へ立てると。
いつか。
守られる側ではなくなるのだと。
勝手に思い込んでいた。
だが。
今。
ヴァルドがいなくなっただけで。
これまで何度も狩ってきたはずの魔獣へ苦戦し。
傷だらけになり。
立っていることさえ精いっぱいだった。
ヤヌス
「俺は全然……強くなんかなってねぇ……」
その言葉が、誰もいない森へ落ちる。
返事はない。
馬鹿弟子と笑い。
まだまだだと剣を向けてくる者は。
もう、どこにもいなかった。
残っているのは。
守られていたことさえ。
その人を失うまで気づけなかった弟子だけだった。
その時。
ズドォンッ――!!
ヤヌス
「……!」
遠くから。
何かが崩れるような轟音が響いた。
足元の地面が、僅かに揺れる。
木々へ止まっていた鳥が、一斉に空へ飛び立った。
ヤヌスが顔を上げる。
音の聞こえた方角。
森の奥。
その先にあるものを。
ヤヌスは知っていた。
ヤヌス
「……家……?」
ヴァルドと暮らした小屋。
毎日。
修行を終えたあとに帰っていた場所。
嫌な予感が、胸の奥へ広がっていく。
考えるよりも早く。
ヤヌスの身体が動いた。
ヤヌス
「っ……!」
傷ついた足で、地面を蹴る。
枝を掻き分け。
木々の間を走り抜ける。
伸びた枝が頬へ当たる。
鋭い痛み。
塞がり始めていた肩の傷が開き。
布へ、再び赤い血が滲み始める。
構わない。
今は。
痛みなど、どうでもよかった。
再び。
遠くから破壊音が響く。
バキィッ――!
木が折れる音とは違う。
何かを力任せに砕き。
引き剥がすような、乾いた音。
音が響くたび。
嫌な予感が、確信へ近づいていく。
ヤヌス
「頼む……」
息が乱れる。
足がもつれそうになる。
それでも。
止まることはできない。
ヤヌス
「頼む……!」
何に祈っているのか。
自分でも分からない。
レオンも。
ヴァルドも。
もういない。
それでも。
残されたものまで失いたくなかった。
ヤヌス
「頼むから……!」
木々の隙間から、見慣れた空間が見え始める。
小屋。
修行をしていた場所。
レオンの墓。
そこへ続く森。
ヤヌスは最後の力を振り絞り。
木々の間を抜けた。
そして。
ヤヌス
「…………」
足が止まった。
ヴァルドと暮らした小屋。
その周囲へ。
何体ものアベラントが群がっている。
歪んだ腕が、小屋の壁へ突き立てられた。
バキッ――!
木の板が剥がされる。
別のアベラントが、屋根へ身体を叩きつける。
バキバキバキッ――!
支えを失った屋根が傾き。
大きな音を立てて崩れ落ちた。
もう1体。
開け放たれた入り口から、小屋の中へ入っていく。
ドンッ――!
食卓が踏み潰される。
ヴァルドと向かい合い。
毎日のように飯を食った場所。
くだらないことで言い合った場所。
食いすぎだと怒られ。
隙を見てヴァルドの肉を奪おうとした場所。
そのすべてが。
異形の足によって、簡単に壊されていく。
ヤヌス
「…………」
声が出ない。
身体も動かない。
ただ。
目の前で壊されていく光景を、見つめることしかできなかった。
バキィッ――!!
小屋を支えていた柱が折れる。
建物全体が、大きく傾いた。
ヤヌス
「……やめろ」
掠れた声。
アベラント達には届かない。
異形の1体が、壁を掴む。
力任せに引き剥がした。
小屋の中が剥き出しになる。
眠っていた場所。
剣の手入れをしていた場所。
ヴァルドが料理を作っていた場所。
初めて。
本当の家族のように笑えた場所。
目の前で。
少しずつ失われていく。
ヤヌス
「やめろよ……」
1歩。
足を前へ出そうとする。
だが。
力が入らない。
傷ついた身体は。
ヤヌスの意思に反して動こうとしなかった。
アベラントが。
小屋の中に残されていた椅子を踏み砕く。
バキッ――!
ヴァルドが座っていた椅子。
食事をしながら。
何度も自分を叱った場所。
風呂を出たあと。
最後の食卓を囲んだ場所。
ヤヌス
「もう……」
声が震える。
胸の奥が、引き裂かれるように痛む。
レオンを奪われた。
ルミナとも離れ離れになった。
ヴァルドも失った。
それでも。
ここへ戻れば。
ヴァルドと過ごした時間だけは、残っていると思っていた。
小屋がある。
食卓がある。
眠っていた場所がある。
ヴァルドが生きていた証が。
ここには残っている。
そう思っていた。
ヤヌス
「やめてくれ……」
祈るような声。
だが。
アベラント達は止まらない。
バキバキバキッ――!
最後まで残っていた壁が崩れる。
屋根が完全に落ち。
土煙が舞い上がった。
ヤヌスの目の前から。
ヴァルドと暮らした小屋が消えていく。
ただの小屋ではない。
レオンを失い。
ルミナと離れ。
奈落へ落ちたヤヌスが。
もう1度、手に入れた家。
ヴァルドと過ごした数年間、そのもの。
そして。
ヤヌスがまだ。
家族を信じ。
人を信じ。
人間として生きていられた、最後の居場所。
そのすべてが。
目の前で壊されていく。
ヤヌス
「…………」
アベラント達を止めることもできず。
剣を構えることさえできないまま。
ヤヌスは。
崩れ落ちていく最後の居場所を見つめ。
ただ。
その場へ立ち尽くしていた。




