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第12話 残された者

黒印のヤヌス


第2章 剣聖


第12話 残された者


 奈落。


 瘴気に覆われた森の奥。


 黒ずんだ木々の根元へ、1人の少年が倒れていた。


 冷たい風が枝葉を揺らす。


 遠くから、魔獣の鳴き声が聞こえてくる。


 それでも。


 少年は、身じろぎ1つしなかった。


 どれほどの時間が過ぎただろう。


 土に触れていたヤヌスの指先が、僅かに動いた。


ヤヌス

「…………」


 ゆっくりと瞼が開く。


 ぼやけた視界へ、歪んだ木々と暗い空が映った。


 起き上がろうとした瞬間。


ヤヌス

「ぐっ……!」


 全身へ激痛が走った。


 背中。


 肩。


 脇腹。


 身体中の骨が、軋むように痛む。


 息を吸うだけで、胸の奥へ鋭い痛みが突き刺さった。


 上位個体の一撃を剣で防ぎ。


 何本もの木を突き破りながら、ここまで吹き飛ばされた。


 致命傷にならなかったことの方が不思議だった。


 ヤヌスは歯を食いしばり、震える腕を地面へつく。


 何度か力が抜けそうになりながらも、どうにか上体を起こした。


ヤヌス

「はぁ……」


「はぁ……」


 荒い息を繰り返しながら、周囲を見回す。


 見覚えのない場所だった。


 折れ曲がった木々。


 湿った土。


 瘴気の中へ続く、獣道とも呼べない僅かな隙間。


 あの男はいない。


 大量のアベラントもいない。


 片腕の上位個体の姿もなかった。


 そして。


 ヴァルドも、ここにはいない。


ヤヌス

「…………」


 途切れていた記憶が、少しずつ戻ってくる。


 突然、空から降ってきた巨大な火球。


 その直撃を受けながら、傷1つ負わなかった謎の男。


 男が口にした、エリシュアという名前。


 直後に現れた、片腕の上位個体。


 奈落の至るところから姿を現し、謎の男だけへ殺到した大量のアベラント。


 その光景を前に。


 上位個体は、ヴァルドの亡骸を見た。


 ほんの一瞬だけ。


 そして。


 次に狙われたのは、自分だった。


 残された片腕から放たれた一撃。


 剣で防いだにもかかわらず。


 ヤヌスの身体は、剣ごと森の奥へ吹き飛ばされた。


ヤヌス

「……あいつ」


 何かが引っかかる。


 あの上位個体は、最初から自分を狙っていたわけではない。


 真っ先に襲ったのは、謎の男だった。


 大量のアベラントが男へ殺到したあとも、上位個体は同じ場所を見ていた。


 それなのに。


 突然、自分へ向かってきた。


 そして。


 謎の男から遠ざけるように、ここまで吹き飛ばした。


ヤヌス

「…………」


 脳裏へ、あり得ない考えが浮かぶ。


(まさか……)


 あの一撃は。


(俺を……助けたのか?)


 ヤヌスは、すぐに首を振った。


ヤヌス

「……んなわけねぇだろ」


 アベラント。


 人間の身体を失い。


 理性も。


 感情も。


 すべてを喰らい尽くされた異形。


 ヴァルドからも、そう教えられていた。


 以前。


 黒の力へ飲み込まれ、暴走した自分へ襲いかかってきた。


 その戦いへ割って入ったヴァルドに片腕を斬り落とされ、森の奥へ逃げていった存在。


ヤヌス

「あいつは化け物だぞ……」


「意思なんて……あるわけねぇ」


 自分自身へ言い聞かせるように呟く。


 それでも。


 上位個体がヴァルドへ向けた、あの僅かな視線が。


 頭の隅へ残り続けていた。


ヤヌス

「…………」


 だが。


 今は、そのようなことを考えている場合ではない。


 ヴァルドのもとへ戻らなければならない。


 あの場所には。


 まだ、ヴァルドの亡骸が残されている。


 謎の男と。


 大量のアベラントに囲まれた場所へ。


 置き去りにしてしまった。


ヤヌス

「戻ら……ねぇと……」


 近くへ落ちていた剣を拾う。


 地面へ切っ先を突き立て、杖の代わりにして立ち上がろうとする。


 両脚へ力を込めた瞬間。


 全身へ、再び激痛が走った。


ヤヌス

「ぐっ……!」


 膝が折れかける。


 それでも。


 剣へしがみつくようにして、どうにか立ち上がった。


 どの方角から飛ばされてきたのか。


 どれほど離れてしまったのか。


 何も分からない。


 それでも。


 戻らなければならない。


 ヤヌスは剣を杖代わりにしながら。


 一歩ずつ。


 森の中を歩き始めた。


◇◇◇


 歩く。


 ただ。


 ひたすら歩き続ける。


 枝が頬を掠める。


 地面から伸びた根へ足を取られ、何度も転びそうになる。


 そのたびに。


 剣を地面へ突き立て、辛うじて身体を支えた。


 全身が痛む。


 傷口へ泥が入り込み。


 乾き始めていた血が、再び服へ滲んでいく。


 それでも。


 立ち止まることはできなかった。


ヤヌス

「はぁ……」


「はぁ……」


 自分が、どれほど長く歩いているのかも分からない。


 喉が渇いていることさえ。


 最初は感じていなかった。


 ヴァルドが死んだ夜から、既に何度も空の明るさが変わっている。


 正確に数えてはいない。


 だが。


 少なくとも数日は経っていた。


 その間。


 何も食べていない。


 水も、一滴すら飲んでいない。


 さらに上位個体に吹き飛ばされ。


 どれほどの間、意識を失っていたのかも分からなかった。


 身体は。


 とっくに限界を迎えている。


 それでも。


 ヴァルドのもとへ戻る。


 そのことだけを考え、足を動かし続けた。


 やがて。


 僅かな音が聞こえた。


 風でもない。


 木々の擦れる音でもない。


 絶え間なく続く、柔らかな水音。


ヤヌス

「……?」


 足を止める。


 耳を澄ませた。


 木々の向こうから。


 確かに、水の流れる音が聞こえる。


ヤヌス

「……水……」


 声にした瞬間。


 焼けつくような渇きが、一気に蘇った。


 喉が痛い。


 舌が張りつく。


 身体の中から。


 水を求める声が聞こえる。


 ヤヌスは、ふらつく足で音の方角へ進んだ。


 枝を掻き分ける。


 視界が開ける。


 黒ずんだ木々の間を縫うように。


 冷たい川が流れていた。


ヤヌス

「…………」


 剣を地面へ落とす。


 川辺へ駆け寄ろうとするが、足がもつれた。


 そのまま膝から地面へ崩れ落ちる。


 両手を川へ伸ばし。


 震える指で水を掬った。


 口元へ運ぶ。


 冷たい水が、乾ききった喉を通っていく。


ヤヌス

「…………っ」


 足りない。


 もう1度。


 両手で水を掬い、口へ運ぶ。


 それでも。


 まるで足りなかった。


 水を飲んだことで。


 身体がようやく、自分の乾きを思い出してしまった。


 何日もの間。


 感じることさえ忘れていた渇きが。


 一気にヤヌスへ襲いかかる。


ヤヌス

「……っ」


 もう。


 手で掬う時間さえ惜しかった。


 ヤヌスは川へ身を乗り出し。


 顔ごと、冷たい水の中へ突っ込んだ。


 ゴクッ。


 ゴクッ。


 ゴクッ。


 息をすることも忘れ。


 夢中で水を飲み続ける。


 川の冷たさが、熱を持った顔へ染み込んでいく。


 肺が息を求める。


 限界まで水を飲み。


 ヤヌスは勢いよく顔を上げた。


ヤヌス

「プハぁっ!!」


 水飛沫が宙へ散る。


 大きく口を開き。


 何度も空気を吸い込む。


ヤヌス

「はぁ……!」


「はぁ……!」


 頬から。


 顎から。


 冷たい水が滴り落ちる。


 ようやく。


 渇きが少しだけ遠のいた。


 生き返った。


 そう思った瞬間だった。


ヤヌス

「…………っ」


 顔が。


 クシャクシャに歪んだ。


 頬を伝う水へ、温かな涙が混ざった。


 一度溢れ始めると。


 もう、止めることができなかった。


ヤヌス

「なんで……」


 掠れた声が、水音に混じって消える。


ヤヌス

「なんで……」


 もう1度。


 声にする。


 それでも。


 胸の中に詰まっているものは、少しも軽くならない。


 ヤヌスは濡れた手を地面へつき。


 俯いたまま、強く歯を食いしばった。


ヤヌス

「なんで……!」


 堪えていたものが。


 胸の奥から、一気に溢れ出す。


ヤヌス

「なんで、いつも俺の大事な人がいなくなるんだよ……!」


 声が震える。


 レオン。


 血に濡れながら。


 最後まで自分とルミナを守った父親。


 ルミナ。


 奈落へ落ちる自分へ。


 泣きながら手を伸ばしていた、大切な家族。


 そして。


 ヴァルド。


 剣を教え。


 飯を作り。


 毎日のように馬鹿弟子と笑ってくれた師匠。


 全員。


 自分の傍からいなくなった。


ヤヌス

「嫌だ……」


 首を振る。


 子供のように。


 目の前の現実を拒むように。


ヤヌス

「嫌だよ……」


 声が崩れる。


 もう。


 強がることなどできなかった。


ヤヌス

「レオンも……」


 地面へ落ちる涙が。


 湿った土へ小さな染みを作る。


ヤヌス

「ルミナも……」


 伸ばしても届かなかった手。


 最後に見た、涙に濡れた顔。


ヤヌス

「ジジイも……」


 自分の腕の中で。


 少しずつ冷たくなっていった身体。


ヤヌス

「みんな、なんでいなくなるんだよ……!」


 叫んでも。


 答える者はいない。


 川の水が流れる音だけが。


 変わらず、ヤヌスの前を通り過ぎていく。


ヤヌス

「置いていかないでくれよ……」


 復讐も。


 カインも。


 謎の男が残した言葉も。


 黒い力も。


 今は、何も考えることができなかった。


 強くなりたいわけではない。


 世界を変えたいわけでもない。


 ただ。


 大切な人に。


 傍にいてほしかった。


ヤヌス

「嫌だ……」


 両膝を抱え込む。


 身体を丸め。


 顔を伏せる。


ヤヌス

「もう嫌だ……」


 嗚咽が漏れる。


 何度息を吸っても。


 胸の奥が締めつけられ、上手く呼吸ができない。


ヤヌス

「1人に……」


 レオンに守られていた少年でもない。


 ヴァルドへ反抗する弟子でもない。


 復讐を誓った者でもない。


 そこにいるのは。


 家族を失った、15歳の少年だった。


ヤヌス

「1人にしないでくれよ……」


 返事はない。


 誰も。


 名前を呼んではくれない。


 抱き締めてもくれない。


 ヤヌスは。


 誰もいない川辺で。


 声が枯れるまで、泣き続けた。


◇◇◇


 魔女の街。


 移動を終えた星幽の塔。


 エリシュアの自室。


 机の前へ置かれた椅子へ、エリシュアが腰掛けている。


 その正面。


 ルミナは。


 告げられた言葉の意味を理解できず、立ち尽くしていた。


エリシュア

「お前が、この街から出ることを禁ずる」


ルミナ

「――え?」


 掠れた声が、静まり返った部屋へ落ちた。


 街の移動による混乱は、まだ収まっていない。


 扉の向こうからは。


 慌ただしく塔を行き交う魔女達の足音が、僅かに聞こえている。


 だが。


 ルミナの耳には。


 もう、何も入ってこなかった。


ルミナ

「どういう……ことですか?」


エリシュア

「言葉の通りだ」


 エリシュアの声に迷いはない。


ルミナ

「待ってください」


 思わず一歩、前へ出る。


ルミナ

「私は、ヤヌスを探しに――」


エリシュア

「ルミナ」


 低い声が、ルミナの言葉を遮った。


 視線がぶつかる。


 短い沈黙。


 エリシュアは。


 ルミナから目を逸らさないまま、告げた。


エリシュア

「お前が知っているヤヌスは……死んだ」


ルミナ

「…………」


 表情が消える。


 何を言われたのか。


 理解できなかった。


 理解したくなかった。


ルミナ

「お師匠様……」


 一度。


 息を吸う。


 それでも。


 胸の奥へ空気が入ってこない。


ルミナ

「言っている意味が……分かりません」


 声は静かだった。


 だが。


 その瞬間。


 部屋の空気が大きく震えた。


 ゴゴゴゴゴ――。


 床が軋む。


 窓硝子が甲高い音を立てる。


 壁一面へ並べられた本が、小刻みに揺れ始めた。


 机の上に置かれていた書類が浮き上がり。


 周囲の魔導具が、次々と淡い光を放つ。


 ルミナの身体から。


 膨大な魔力が溢れ出している。


ルミナ

「ヤヌスが……」


 白銀の髪が。


 膨れ上がる魔力に煽られ、激しく揺れた。


ルミナ

「死んだなんて……」


 部屋を満たす魔力が、さらに強くなる。


 抑えきれない感情へ呼応し。


 星幽の塔そのものが震え始めた。


エリシュア

「…………」


 エリシュアは椅子へ座ったまま。


 静かに片手を持ち上げた。


 パチン――。


 指が鳴る。


 次の瞬間。


 ルミナから溢れていた魔力が。


 見えない壁へ押し込まれたように、強制的に身体の中へ戻された。


 ドサドサドサッ――!


 宙へ舞い上がっていた書物と書類が、一斉に床へ落ちる。


 ガシャンッ――!


 棚から滑り落ちた魔導具が砕け、硬い破片が床を転がった。


ルミナ

「……!」


 突然、周囲を満たしていた力が消える。


 ルミナはよろめき。


 咄嗟に胸元へ手を当てた。


エリシュア

「落ち着け」


ルミナ

「でも!」


エリシュア

「落ち着けと言っているだろう!」


ルミナ

「……!」


 エリシュアの怒声が、部屋へ鋭く響いた。


 ルミナの身体が、びくりと止まる。


 声を荒らげられたことよりも。


 いつも冷静なエリシュアが、感情を露わにしたことへ驚いていた。


 再び。


 部屋へ静寂が戻る。


 床には。


 落下した書物や書類が散乱している。


 エリシュアは僅かに息を吐くと、声を落として続けた。


エリシュア

「ヤヌスのことになると……お前は、すぐに自分を見失う」


ルミナ

「…………」


 何も言い返せなかった。


 今。


 自分が何をしたのか。


 ルミナ自身にも、ほとんど分かっていない。


 ヤヌスが死んだ。


 その言葉を聞いた瞬間。


 感情と一緒に。


 魔力まで身体の外へ溢れ出していた。


 ルミナは俯き。


 胸元で両手を握った。


ルミナ

「……すみません」


 消え入りそうな声だった。


エリシュア

「今の話は、半分は本当で、半分は違う」


ルミナ

「…………」


 伏せていた顔を上げる。


ルミナ

「半分は……本当……?」


 胸の奥が痛む。


 聞きたくない。


 それでも。


 目を逸らすことはできなかった。


エリシュア

「お前が知っているヤヌスは、どんな奴だ?」


ルミナ

「……え?」


エリシュア

「答えろ」


 ルミナは。


 戸惑いながら、記憶を辿った。


 泥だらけになって笑うヤヌス。


 レオンに叱られ、不満そうに頬を膨らませるヤヌス。


 負けても。


 倒されても。


 何度でも剣を握り、立ち上がるヤヌス。


 ルミナが傷つけば。


 自分のことなど考えず、誰よりも先に駆けつけてくれたヤヌス。


 森の家で。


 いつも隣にいた。


 家族で。


 弟のようで。


 それでも。


 弟という言葉だけでは言い表せないほど。


 大切な存在。


 自然と。


 ルミナの口元へ柔らかな笑みが浮かんだ。


ルミナ

「馬鹿で……すぐ怒って……」


 エリシュアが黙って聞いている。


ルミナ

「でも、笑った顔が可愛くて……」


 ヤヌスが聞けば。


 子供扱いするなと怒るだろう。


 その姿まで。


 簡単に思い浮かべることができた。


ルミナ

「いっつも……一生懸命なんです」


 部屋の空気が、僅かに温かくなる。


 ルミナの周囲へ。


 白銀の魔力が、淡い光となって漏れ出していた。


エリシュア

「また魔力が漏れているぞ」


ルミナ

「あっ……」


 ルミナは慌てて両手を胸元へ当てる。


 意識を集中し。


 身体の外へ溢れ出した魔力を、ゆっくりと抑え込んだ。


ルミナ

「……すみません」


 少し恥ずかしそうに笑う。


 エリシュアは小さく息を吐いた。


 その表情が。


 再び真剣なものへ戻る。


エリシュア

「正直に言う」


 ルミナが姿勢を正す。


エリシュア

「ヤヌスは今、歪んだ思想を植え付けられた可能性がある」


ルミナ

「……!」


エリシュア

「今のお前が語ったヤヌスには――もう会えないと思っておけ」


ルミナ

「そんな……」


 ルミナの表情が強張った。


ルミナ

「でも……」


 声が震える。


 最も聞きたいことを。


 恐る恐る口にする。


ルミナ

「ヤヌスは……生きているんですよね?」


 エリシュアは、すぐには答えなかった。


 ルミナの揺れる瞳を見つめ。


 やがて、静かに告げる。


エリシュア

「その可能性は高い」


ルミナ

「…………」


 止まりかけていた息が、僅かに戻る。


 胸元を押さえていた指から。


 少しだけ力が抜けた。


 生きている。


 それだけで。


 暗闇の中へ、細い光が差し込んだように感じられた。


 だが。


 エリシュアの表情は変わらない。


エリシュア

「安心するのは早い」


ルミナ

「…………」


エリシュア

「以前と同じヤヌスが待っているとは思うな」


 エリシュアは。


 ルミナの反応を確かめながら続ける。


エリシュア

「もし次に会ったヤヌスが、人を傷つけ、憎しみに囚われ――お前の知っているヤヌスではなくなっていたら」


 ルミナの指先が、僅かに震える。


 それでも。


 今度は魔力を漏らさなかった。


 エリシュアが、真っ直ぐに問いかける。


エリシュア

「それでも、お前は会いに行くのか?」


 部屋へ。


 長い沈黙が落ちる。


 ルミナは、胸の前で握った両手へ視線を落とした。


 変わってしまったヤヌス。


 自分の知る笑顔を失い。


 誰かを傷つけ。


 憎しみだけで生きているかもしれないヤヌス。


 怖くないわけではない。


 それでも。


 答えは、最初から決まっていた。


ルミナ

「……良いんです」


エリシュア

「…………」


ルミナ

「変わっていても……良いんです」


 顔を上げる。


 瞳へ涙が浮かんでいる。


 だが。


 その目は、迷っていなかった。


ルミナ

「生きてさえくれれば……」


 一度。


 声が詰まる。


 それでも。


 ルミナは言葉を続けた。


ルミナ

「生きて……もう1度、会えるなら……」


 頬を。


 涙が伝っていく。


ルミナ

「たとえ昔のヤヌスじゃなくたって、私は……」


 最後まで。


 言葉にすることはできなかった。


 それでも。


 声に込められた想いは。


 エリシュアへ十分に伝わっていた。


エリシュア

「…………」


 しばらく。


 ルミナの顔を見つめる。


 やがて。


 椅子の背へ僅かに身体を預けた。


エリシュア

「私の想定よりも早い段階で、“ヤツ”が表へ出てきた」


ルミナ

「ヤツ……?」


 すぐに。


 思い当たるものがあった。


 奈落へ向けて放たれた巨大な魔法。


 その直前。


 エリシュアが浮かべた、怒りと恐怖。


ルミナ

「さっきの……」


エリシュア

「ああ」


ルミナ

「奈落にいたのは……誰なんですか?」


 エリシュアが口を閉ざす。


 ほんの一瞬。


 過去を見るように、瞳が遠くなる。


エリシュア

「今はまだ、お前が知る必要はない」


ルミナ

「でも――」


エリシュア

「知らない方がいいこともある」


 取りつく島のない声だった。


 それ以上。


 踏み込むことを許さない。


 ルミナは唇を結び。


 問いを飲み込んだ。


 エリシュアは。


 そんなルミナを見つめながら、話を変える。


エリシュア

「ルミナ」


ルミナ

「……はい」


エリシュア

「レオンが、自分が死んだ後、お前へ魔女の街を示した理由を考えたことはあるか?」


ルミナ

「…………」


 レオンが残した手記。


 その中へ書かれていた言葉が蘇る。


『このしおりを持って行け。ルミナ』


『そうすれば、向こうから近づいてくる』


 あの言葉に導かれ。


 ルミナは魔女の街へ辿り着いた。


ルミナ

「私が……1人にならないためですか?」


 レオンは。


 自分がいなくなった後も。


 ルミナとヤヌスが生きていけるように、道を残していた。


 だから。


 魔女の街を示したのだと思っていた。


エリシュア

「それもある。だが、一番の理由は違う」


ルミナ

「……?」


エリシュア

「お前の存在を隠すためだ」


ルミナ

「私を……隠す?」


エリシュア

「ああ」


 エリシュアは椅子から立ち上がる。


 コツ――。


 静かな足音が、部屋へ響いた。


 ゆっくりと。


 ルミナの前まで歩いてくる。


エリシュア

「はっきり言う」


 ルミナを正面から見据える。


エリシュア

「お前は異常だ」


ルミナ

「私が……?」


 何を指しているのか分からない。


 ルミナは戸惑いながら、自分の両手を見る。


エリシュア

「自覚がないのだろうが、お前の魔力量は既に人の域を大きく超えている」


 ルミナが顔を上げる。


エリシュア

「この街で暮らす魔女達と比べても、数段上だ」


ルミナ

「…………」


 言葉が出ない。


 魔女の街へ来てから。


 結界。


 治癒。


 身体強化。


 様々な魔法を学んだ。


 だが。


 自分の魔力が、どれほど異常なものなのか。


 考えたことはなかった。


エリシュア

「しかも、お前はまだ成長の途中にいる」


 真っ直ぐ。


 ルミナを見据える。


エリシュア

「成長に伴い、その魔力はさらに膨れ上がるだろう」


ルミナ

「さらに……」


エリシュア

「いずれ、私を超えるほどにな」


ルミナ

「そんな……」


 世界でも有数の力を持ち。


 魔女の街を統べるエリシュア。


 その魔力を。


 自分が超える。


 すぐには信じられなかった。


エリシュア

「だからこそ、今のお前を外へ出すわけにはいかない」


ルミナ

「…………」


エリシュア

「魔族に存在を知られれば、真っ先に狙われるだろう」


 さらに。


エリシュア

「人間に知られれば、兵器として利用しようとする者も現れる」


ルミナ

「兵器……」


エリシュア

「お前の意思など関係ない。その力を欲しがる者は、必ず現れる」


 エリシュアの目に。


 冗談を言っている様子はない。


エリシュア

「それほどまでに、お前はこの世界において異常な存在なのだ」


 部屋へ静寂が落ちる。


 エリシュアは。


 ルミナが恐怖を浮かべると思っていた。


 自分の力を知り。


 それを狙う者が現れる可能性を告げられれば。


 怯えるのが当然だった。


ルミナ

「良かった……」


エリシュア

「…………?」


 予想していなかった言葉に。


 エリシュアの眉が、僅かに動く。


ルミナ

「良かった……」


 ルミナの目から。


 再び涙が零れた。


エリシュア

「良かった……だと?」


ルミナ

「だって……」


 涙を手の甲で拭う。


 そして。


 安心したように、僅かに笑った。


ルミナ

「それだけ、ヤヌスを助けられるじゃないですか」


エリシュア

「…………」


ルミナ

「ヤヌスと再会できても……今の私に、本当に助けられるのかなって、ずっと考えていました」


 あの日。


 レオンを失った時。


 奈落へ落ちるヤヌスへ。


 手を伸ばすことしかできなかった。


 結局。


 その手さえ届かなかった。


ルミナ

「ヤヌスの傍にいるのに……」


 声が震える。


 それでも。


 エリシュアから目を逸らさない。


ルミナ

「何もできないなんて……もう嫌なんです」


 その瞳には。


 恐怖ではなく。


 確かな覚悟が宿っていた。


エリシュア

「…………」


 エリシュアは。


 しばらく何も言わなかった。


 やがて。


 堪えきれなくなったように、笑い声を漏らす。


エリシュア

「はははっ」


ルミナ

「……?」


 突然笑い始めた師を。


 ルミナが不思議そうに見つめる。


エリシュア

「お前らしいな」


 エリシュアは椅子へ戻り。


 今度は、先ほどよりも深く腰掛けた。


ルミナ

「やっぱり……」


 ルミナは。


 迷いながらも、もう1度口を開いた。


ルミナ

「私は、ヤヌスを探しに行きたいです」


エリシュア

「分かっている」


ルミナ

「だったら――」


エリシュア

「だから、条件を出す」


ルミナ

「条件……?」


エリシュア

「ああ」


 エリシュアは片手を上げると。


 ルミナへ向けて、指を2本立てた。


エリシュア

「お前がこの街から出るための条件が、2つある」


 ルミナの表情が変わる。


 街から出られない。


 そう告げられた時とは違う。


 条件を満たせば。


 ヤヌスを探しに行くことを認めてもらえる。


 僅かに生まれた可能性へ縋るように。


 ルミナは背筋を伸ばした。


ルミナ

「はい」


 エリシュアが。


 立てていた指を1本だけ折る。


エリシュア

「1つ。まずは、魔力操作を完璧にしろ」


ルミナ

「魔力操作……」


エリシュア

「そうだ」


 先ほど。


 感情のままに魔力を暴発させたことを思い出す。


 窓も。


 家具も。


 塔そのものまで震わせた。


 エリシュアが抑えなければ。


 何が起きていたか分からない。


エリシュア

「今のお前の魔力操作は、良くて中の上だ」


ルミナ

「中の上……」


エリシュア

「不満か?」


ルミナ

「い、いえ……」


 褒められているのか。


 足りないと言われているのか。


 判断できなかった。


 エリシュアは構わず続ける。


エリシュア

「この街では、魔力を漏らしていても大きな問題にはならない」


 周囲にいるのは魔女だけ。


 誰もが魔力を持ち。


 それを扱うことに慣れている。


エリシュア

「だが、人間の街へ行けば違う。魔力を視ることのできる者には、すぐにお前の異常性を見抜かれる」


ルミナ

「…………」


エリシュア

「それに、お前は感情に左右されすぎる」


 厳しい視線が、ルミナへ向けられる。


エリシュア

「嬉しければ漏らし、悲しければ乱し――ヤヌスのこととなれば暴発させる」


ルミナ

「……すみません」


エリシュア

「謝って済む話ではない」


 エリシュアの声が、僅かに低くなる。


エリシュア

「お前ほどの魔力が暴走すれば、街の1つや2つ、簡単に消えるぞ」


ルミナ

「……!」


 ルミナの顔から、僅かに血の気が引いた。


 先ほど自分が放った魔力は。


 まだ。


 エリシュアによって即座に抑えられた。


 あれが。


 誰も止められない場所で起きていたなら。


 自分が守りたいと思っている人々を。


 自分自身の力で傷つけることになる。


エリシュア

「魔力を完全に制御しろ」


 ルミナの目を真っ直ぐに見る。


エリシュア

「どのような状況でも、一滴も外へ漏らすな」


 そして。


エリシュア

「その存在を、完璧に隠せるようになれ」


ルミナ

「…………」


 簡単ではない。


 今のルミナは。


 意識していても。


 僅かな感情の揺れで、魔力を外へ漏らしてしまう。


 それを。


 どのような状況でも完全に抑える。


 さらに。


 魔力を持たない人間と変わらないほど、存在を隠す。


 今の自分には。


 遥か遠い技術だった。


 それでも。


 ルミナは強く頷く。


ルミナ

「はい!」


 力の籠もった返事が、部屋へ響いた。


 エリシュアは、その目を確認すると。


 残していた、もう1本の指を僅かに動かした。


エリシュア

「もう1つだ」


ルミナ

「…………」


エリシュア

「以前からのお前の課題――攻撃魔法だ」


 ルミナの表情が強張る。


 白い修練場。


 模擬戦で。


 無防備なエリシュアへ手を向けながら。


 最後まで魔法を放てなかった時のことが蘇る。


『誰かにやらせるのか?』


『ヤヌスにやらせるのか?』


『ヤヌスにばかり、罪を背負わせ続けるのか?』


 今も。


 あの問いへの答えを出せていない。


エリシュア

「まだ、習得できていないな?」


ルミナ

「……はい」


 誤魔化すことはできない。


ルミナ

「まだです」


エリシュア

「この世に存在する攻撃魔法なら、どのようなものでも構わない」


 炎。


 氷。


 雷。


 光。


 攻撃へ使える魔法なら。


 何でもいい。


エリシュア

「どれか1つ――私を超えてみせろ」


ルミナ

「…………」


 言葉の意味を理解するまで。


 少し時間が掛かった。


 やがて。


 ルミナの瞳が大きく見開かれる。


ルミナ

「エリシュア様を……?」


エリシュア

「ああ」


ルミナ

「そんなの……」


 魔女の頂点に君臨する者。


 先ほども。


 遠く離れた奈落へ。


 街の結界さえ不安定にするほどの大魔法を放った。


 そのエリシュアを。


 攻撃魔法で超える。


ルミナ

「無理です……」


エリシュア

「駄目だ」


 即答だった。


ルミナ

「……!」


エリシュア

「これは絶対だ」


 静かな声。


 それでも。


 覆すことを許さない強さがあった。


 魔女の街では。


 エリシュアの決定が、街の総意となる。


 一度下された決定は。


 簡単に覆るものではない。


ルミナ

「…………」


 唇を噛む。


 魔力を完璧に制御し。


 その存在を完全に隠す。


 さらに。


 未だ一度も成功していない攻撃魔法で、エリシュアを超える。


 どちらも。


 今のルミナには、遥か遠い目標だった。


 それでも。


 目を逸らすことはなかった。


 エリシュアが立てていた指を下ろす。


エリシュア

「この2つを満たせ」


 短い沈黙。


エリシュア

「そうすれば――この街から出ることを許す」


ルミナ

「…………」


 胸の奥へ。


 言葉が深く落ちていく。


 今の自分には、あまりにも厳しい条件。


 それでも。


 道は閉ざされていない。


 今のままでは出られないのなら。


 条件を満たせばいい。


 ヤヌスへ辿り着くために。


 必要な力を身につければいい。


ルミナ

「……分かりました」


エリシュア

「…………」


ルミナ

「やります」


 両手を強く握る。


 顔を上げ。


 エリシュアを真っ直ぐに見つめた。


ルミナ

「絶対に、ここから出ます」


 エリシュアは。


 何も言わず、その瞳を見つめ返した。


 そこに。


 迷いはなかった。


 ルミナは胸元へ手を置く。


 ドクン――。


 強い鼓動が、掌へ伝わってくる。


(待っていてね……)


 今。


 ヤヌスがどこにいるのか。


 どのような姿になっているのか。


 何も分からない。


 それでも。


 必ず見つける。


 たとえ。


 以前とは変わっていたとしても。


 もう1度。


 その手を掴む。


(ヤヌス)


 ヤヌスは。


 すべてを失い。


 誰もいない奈落で立ち止まった。


 ルミナは。


 ヤヌスへ辿り着くために。


 ここから歩き始める。


 2人の距離は。


 今はまだ、遠い。


 それでも。


 互いへ続く道は。


 確かに。


 動き始めていた。

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