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第11話 終わりの足音

黒印のヤヌス


第2章 剣聖


第11話 終わりの足音


 轟音が、奈落を揺るがした。


 空から落ちた巨大な火球が大地へ激突し、灼熱の炎を撒き散らす。


 爆風に呑まれたヤヌスの身体が、枯れ葉と土を巻き上げながら地面を転がった。


ヤヌス

「ぐっ……!」


 背中を打ちつけ、肺から息が押し出される。


 耳の奥で、甲高い音が鳴り続けていた。


 何が起きたのか分からない。


 視界は舞い上がった土煙に覆われ、何も見えなかった。


 焼けた土と木々の匂いが鼻を刺す。周囲では炎が燃え広がり、黒ずんだ枝葉を赤く照らしていた。


 ヤヌスは咳き込みながら地面へ手をつき、片膝を立てる。


 全身が痛む。


 それでも、顔を上げた。


 目の前。


 先ほどまで謎の男が立っていた場所を中心に、地面が大きく抉れている。


 何本もの木々が薙ぎ倒され、土と岩が熱によって溶かされていた。巨大な窪地の中では、今も赤い炎が渦巻いている。


ヤヌス

「…………」


 あれが何なのか分からない。


 誰が放ったものなのか。


 どこから飛んできたのか。


 何も分からなかった。


 ただ、凄まじい威力だった。


 少し離れた場所にいたヤヌスでさえ、爆風だけで立っていられなかった。


 あの男は、巨大な火の玉が落ちた中心にいた。


 避ける様子もなかった。


 あれをまともに受けて、生きていられるはずがない。


 ヤヌスは、炎の向こうを見つめた。


 やがて、風が吹き抜ける。


 立ち込めていた土煙が、少しずつ横へ流されていく。


 その奥で、何かが動いた。


 ザッ――。


ヤヌス

「……?」


 炎を踏み越える音。


 ザッ――。


 土煙の中から、人影が浮かび上がる。


???

「いやぁ……」


 聞き覚えのある、気の抜けた声。


 ヤヌスの瞳が大きく開かれた。


ヤヌス

「……!」


 男が歩いてくる。


 服には僅かに土埃がついている。


 だが、傷らしい傷はない。


 髪にも。


 肌にも。


 身体のどこにも、火傷さえ見当たらなかった。


 まるで、先ほどの火球など最初から存在しなかったかのように。


 男は燃え盛る炎の中から、変わらない足取りで姿を現した。


 ヤヌスは言葉を失う。


 男は自らの身体へ視線を落とし、上着についた埃を軽く払った。


 次に片手を持ち上げる。


 指先を開き、何かを確かめるように、ゆっくりと握り込んだ。


???

「空間を飛び越えてなお、この威力」


 男の声には、恐怖も怒りもない。


 僅かな感心だけが滲んでいた。


 男は顔を上げる。


 火球が飛来した方角。


 奈落から遠く離れた、夜空の彼方を見つめた。


???

「そんな所にいたんだね」


 小さく笑う。


???

「エリシュア」


ヤヌス

「……?」


 知らない名前だった。


 だが、男はあれほどの攻撃を放った者を知っている。


 攻撃を受けたことさえ、久しく会っていなかった知人に見つけられた程度にしか感じていない。


 ヤヌスは剣を握り締めたまま、男を見つめる。


 その時だった。


 ドゴォンッ――!!


 男の身体が、横から何かに殴り飛ばされた。


???

「――」


ヤヌス

「……!?」


 凄まじい衝撃。


 男の身体が何本もの木を薙ぎ倒し、森の奥へ消えていく。


 太い幹が折れ、枝葉が舞い、大地へ長い破壊の跡が刻まれた。


ヤヌス

「な……」


 何が起きたのか。


 目で追うことさえできなかった。


 ヤヌスは弾かれたように振り返る。


 そこには、巨大な異形が立っていた。


 人間を遥かに超える身体。


 皮膚を覆う、黒く硬い外殻。


 歪に膨れ上がった筋肉。


 そして、片側だけが失われた腕。


ヤヌス

「……あいつ」


 忘れるはずがない。


 以前、ヴァルドが戦ったアベラント。


 最後には腕を斬り落とされ、森の奥へ逃げていった上位個体。


ヤヌス

「まだ……生きてたのか」


 上位個体は、残った腕を振り抜いた姿勢のまま、謎の男が吹き飛んだ方向を見つめていた。


 その巨体が僅かに上下している。


 濁った瞳が忙しなく動き、黒い外殻の隙間から震える息が漏れた。


上位個体

「ルルルルル……」


 喉の奥で、不気味な音が鳴る。


 怒りだけではない。


 焦り。


 あるいは、恐怖。


 何かを激しく警戒するように、上位個体が身を低くした。


上位個体

「ルルルルアァッ!!」


 人間の声とは似ても似つかない威嚇が、森を震わせる。


 ヤヌスは傍らへ落ちていた剣を拾い上げた。


 力の入らない指を柄へ絡ませ、どうにか構える。


 なぜ、今になってこいつが現れたのか分からない。


 謎の男を襲った理由も。


 その男に対して何を恐れているのかも。


 何ひとつ理解できなかった。


 ただ。


 上位個体が危険な存在であることだけは、身体が覚えている。


 すぐ傍には、ヴァルドの亡骸がある。


 これ以上。


 誰にも触れさせるつもりはなかった。


 その時。


 上位個体の視線が僅かに動いた。


ヤヌス

「……?」


 濁った瞳が向けられた先。


 そこには、異形へ変わり果て、地面へ横たわるヴァルドの亡骸があった。


 ほんの一瞬。


 上位個体は、ヴァルドを見た。


 先ほどまで漏らしていた唸り声が止まる。


 表情は変わらない。


 ただ。


 確かに、その姿を見つめた。


 ヤヌスは息を詰める。


 アベラントに、心など残っていない。


 ヴァルドからは、そう教えられていた。


 なら。


 今の視線に、意味などないはずだった。


 次の瞬間。


 上位個体はヴァルドから目を離し、再び森の奥へ顔を向けた。


 倒れた木々の向こうから、足音が近づいてくる。


 枝を踏み。


 折れた幹を越え。


 土煙の中から、謎の男が現れた。


 あれほどの勢いで吹き飛ばされたにもかかわらず、やはり傷らしい傷は見当たらない。


 男は上着についた木屑を払い落とし、片腕の上位個体へ目を向けた。


???

「次は、こっちか」


 それだけだった。


 怒りも。


 驚きもない。


 まるで、道端で別の珍しいものを見つけたような声。


上位個体

「ルルルルル……!」


 上位個体が、さらに深く身を沈める。


 謎の男は微笑んだまま、その姿を見つめていた。


 そして。


 別の場所から、枝の折れる音が聞こえた。


 バキッ――。


ヤヌス

「……?」


 森の奥。


 黒ずんだ木々の間から、1体のアベラントが姿を現した。


 獣とも。


 人とも呼べない異形。


 地面へ長い腕をつき、濁った瞳で謎の男だけを見ている。


 反対側の茂みが、激しく揺れた。


 もう1体。


 岩の陰からは、別の異形が這い出してくる。


 枝が折れる。


 爪が岩を削る。


 何かを引きずるような音が、幾つも重なっていく。


 右。


 左。


 背後。


 木の上。


 崩れた岩の向こう。


 どこに、これほどの数が潜んでいたのか。


 1体。


 2体。


 5体。


 それでも終わらない。


 新たな異形が森の奥から現れ、男を中心に包囲を広げていく。


 ヤヌスは剣を構えたまま、息を呑んだ。


ヤヌス

「なんで……」


 これまで、奈落で暮らしてきた。


 魔獣も。


 アベラントも。


 何度も見てきた。


 それでも、これほどの光景など、ほとんど見たことがない。


 そして。


 さらに奇妙なことがあった。


 誰も、ヤヌスを見ていない。


 すぐ傍にいるヴァルドの亡骸にも。


 片腕の上位個体にも。


 視線を向けない。


 すべてのアベラントが、謎の男だけを見つめていた。


 男は周囲を見渡す。


???

「へぇ」


 その口元が、僅かに持ち上がった。


???

「こんなに隠れていたんだ」


 楽しそうに笑う。


 次の瞬間。


 大地が揺れた。


 アベラント達が、一斉に地面を蹴る。


 1体。


 2体。


 5体。


 10体。


 正面から。


 頭上から。


 左右から。


 背後から。


 巨大な異形が、四方より謎の男へ殺到する。


???

「おっと」


 男の姿が消えた。


 違う。


 逃げたのではない。


 見えなくなった。


 最初の1体が男へ飛びかかり、その上へ次の異形が覆い被さる。


 さらに、その背中へ別のアベラントが飛びついた。


 腕。


 脚。


 牙。


 黒く変質した肉体が、次々と折り重なっていく。


 瞬く間に、巨大な異形の塊が作り上げられた。


 謎の男の姿は、もうどこにも見えなかった。


 アベラントの肉体が折り重なった塊が、激しく蠢いている。


 何本もの腕が振り上げられ、鋭い爪が中心へ向かって振り下ろされる。


 地面が揺れ、土が跳ねる。


 肉と肉がぶつかる、鈍い音が続いていた。


 その奥で何が起きているのかは見えない。


 まだ生きているのかさえ、ヤヌスには分からなかった。


ヤヌス

「なんなんだよ……」


 掠れた声が漏れる。


 理解できるものが、何ひとつない。


 突然、空から飛んできた巨大な火の玉。


 それを受けても傷1つ負わない男。


 死んだと思っていた上位個体。


 奈落の奥から現れた、大量のアベラント。


 そして。


 すべての異形が、ただ1人の男だけを襲っている。


 少し離れた場所では、片腕の上位個体が同じ光景を見つめていた。


 動かない。


 濁った瞳からは、何を考えているのか読み取れない。


 ヤヌスは剣を握り直した。


 今なら。


 あの上位個体の意識は、謎の男へ向いている。


 ヴァルドの亡骸を抱え、ここから離れられるかもしれない。


 ここへ置いていくことなどできない。


 ヤヌスが、ヴァルドへ視線を向ける。


 その瞬間だった。


 上位個体の顔が動く。


 濁った瞳が、真っ直ぐにヤヌスを捉えた。


ヤヌス

「……!」


 身構えるより早く。


 上位個体の姿が消えた。


ヤヌス

「ッ!」


 次の瞬間には、巨大な異形が目の前にいた。


 残された腕が大きく引かれている。


 逃げられない。


 ヤヌスは反射的に剣を持ち上げ、両手で柄を握り締めた。


ヤヌス

「くそっ……!」


 異形の腕が振り抜かれる。


 剣と拳が激突した。


 ドゴォンッ――!!


ヤヌス

「がっ――!?」


 重い。


 そのような言葉では足りなかった。


 受け止めた腕の骨が、一瞬で砕けたかと思った。


 両肩が軋む。


 衝撃が胸を貫き、内臓を激しく揺さぶった。


 足が地面から浮く。


ヤヌス

「うぁぁぁぁッ!!」


 剣で防いでいるはずだった。


 それでも。


 上位個体の一撃は、剣ごとヤヌスの身体を弾き飛ばす。


 視界が激しく回転する。


 背中が、太い木の幹へ叩きつけられた。


 バキッ――!!


 幹を突き破る。


 止まらない。


 次の木へ激突し。


 さらに、その奥へ。


 枝が身体へ突き刺さり、皮膚を裂く。


 骨が軋む。


 それでも勢いは弱まらない。


 ヤヌスの身体は、先ほどまでいた場所から遠く離れた森の奥へ飛ばされていく。


ヤヌス

「ぐっ……!」


 呼吸ができない。


 剣だけは手放さないよう、必死に握り締めていた。


(なんだよ……)


 視界の端で、何本もの木々が流れていく。


(この……威力……!)


 最後に。


 身体が地面へ激突した。


 ドッ――!!


ヤヌス

「がっ……」


 湿った土を抉りながら、何度も地面を転がる。


 やがて。


 木の根元へ背中を打ちつけ、ようやく止まった。


 身体が動かない。


 肺が空気を求めているのに、喉からは掠れた音しか漏れなかった。


 視界が滲む。


 握っていた剣が、指の間から滑り落ちる。


 少しずつ。


 周囲の音が遠ざかっていった。


◇◇◇


 先ほどまで、ヤヌスがいた場所。


 大量のアベラントは、今も1か所へ群がっていた。


 異形の腕。


 脚。


 歪んだ背中。


 黒く硬い外殻。


 幾つもの肉体が折り重なり、巨大な塊となって蠢いている。


 謎の男の姿は完全に埋もれ、どこにも見えない。


 やがて。


 その動きが僅かに止まる。


 異形達の荒い呼吸だけが、森へ響いた。


 短い静寂。


 その中で。


 肉の塊の奥から、声が聞こえた。


???

「おやぁ」


 先ほどまでと何も変わらない。


 穏やかで。


 どこか気の抜けた声。


???

「逃げられたようだね」


 片腕の上位個体が何をしたのか。


 男は気づいていた。


 それでも、ヤヌスを追おうとはしなかった。


 大量の異形に埋もれたまま。


 ただ。


 楽しそうに笑う声だけが、奈落の森へ響いた。


◇◇◇


 森の奥。


ヤヌス

「……ぐ……」


 ヤヌスの指が僅かに動く。


 冷たい土へ手をつき、身体を起こそうとする。


 だが。


 腕へ力を込めた瞬間、全身に激痛が走った。


ヤヌス

「……っ」


 肘が折れ、再び地面へ倒れ込む。


 息をするたび、胸の奥が鋭く痛んだ。


 何本か。


 骨が折れているのかもしれない。


 それでも。


 戻らなければならなかった。


 ヴァルドがいる。


 あの場所へ置き去りにしたまま。


 自分だけが、ここに倒れているわけにはいかない。


 ヤヌスは歯を食いしばり、もう1度立ち上がろうとする。


 足が動かない。


 視界の端から、少しずつ闇が広がっていく。


ヤヌス

「待って……ろ……」


 誰へ向けた言葉なのか。


 自分でも分からない。


 最後に脳裏へ浮かんだのは、地面へ横たわるヴァルドだった。


 人の姿をほとんど失いながら。


 最期には、穏やかに笑っていた師匠。


ヤヌス

「……ジジイ……」


 掠れた声が、土の上へ落ちる。


 指先から力が抜けた。


 視界が完全に閉ざされる。


 ヤヌスの意識は、深い闇の中へ沈んでいった。


◇◇◇


 魔女の街。


 星幽の塔。


 屋上へ、赤紫の光が降り立った。


 エリシュアの足が石床へ触れる。


 次の瞬間。


 身体が大きく揺れた。


 片膝をつきかけ、どうにか踏み止まる。


エリシュア

「はぁ……」


 荒い息が漏れる。


エリシュア

「はぁ……」


 肩が大きく上下していた。


 額から流れた汗が、頬を伝って落ちる。


 空間を越えて奈落へ届かせた大魔法。


 その負担は、魔女の頂点に君臨するエリシュアを明らかに消耗させていた。


 それでも、エリシュアは休もうとしない。


 片手を膝へつき、奈落のある方角を睨み続けている。


 夜空の彼方。


 大魔法が切り裂いた雲の向こうを、瞬きもせずに見つめていた。


 背後。


 屋上へ続く階段から、幾つもの足音が響く。


リリア

「エリシュア様!」


ノクス

「ご無事ですか!?」


 リリアとノクスが、屋上へ駆け込んでくる。


 2人とも、エリシュアの姿を見た瞬間に息を呑んだ。


 これほど疲弊した師を見るのは、初めてだった。


 遅れて。


 白銀の髪を揺らしながら、ルミナも姿を現す。


ルミナ

「お師匠様!」


 ルミナはエリシュアへ駆け寄ろうとする。


 だが。


 エリシュアの周囲に残る魔力へ触れ、足を止めた。


 膨大な力が、今も制御しきれず周囲の空気を震わせている。


リリア

「そんな大魔法を使ったら、エリシュア様のお身体が……!」


ノクス

「街の結界も不安定になっています!」


 ノクスが屋上の外周へ目を向ける。


 街を覆っている巨大な結界が、不規則に明滅していた。


 ところどころで光が歪み、術式を構成する線が現れては消えている。


 先ほどの魔法は、エリシュア自身だけではなく、魔女の街を守る結界からも大量の魔力を引き出していた。


エリシュア

「はぁ……」


 エリシュアは答えない。


エリシュア

「はぁ……」


 声は届いているはずだった。


 それでも。


 反応する余裕がないのか。


 あるいは、他のことなど何も考えられないのか。


 ただ。


 奈落から目を離さない。


ルミナ

「お師匠様……?」


 不安に揺れる声。


 エリシュアの指先が、小さく震えた。


 やがて。


 荒い呼吸の合間から、一言だけ告げる。


エリシュア

「移動する」


ノクス

「…………」


リリア

「……え?」


ルミナ

「移動……?」


 誰も。


 すぐには言葉の意味を理解できなかった。


 ただ1人。


 ノクスだけが、僅かに目を見開く。


 魔女の街そのものを、現在地から移す。


 エリシュアは、そう命じていた。


ノクス

「……分かりました」


 最初に動いたのは、ノクスだった。


 エリシュアへ深く頭を下げると、すぐに階段へ向かう。


リリア

「ちょっと待って!」


 リリアがノクスの腕を掴んだ。


リリア

「今から街を移すの!?」


 ノクスは振り返らない。


リリア

「エリシュア様だって、こんな状態なのに!」


 返事はない。


 エリシュアは奈落を見つめたまま、動こうとしなかった。


リリア

「それに結界も不安定なんでしょ!? 今、移動術式を使ったら――」


ノクス

「リリア」


 硬い声が、言葉を遮る。


 リリアの動きが止まった。


 ノクスが振り返る。


 その表情にも不安はある。


 だが。


 今は、迷うことを自らへ許していなかった。


ノクス

「命令を優先する」


リリア

「…………」


ノクス

「エリシュア様が、街を移す必要があると判断された」


 一度。


 不安定な結界へ視線を向ける。


ノクス

「ならば、私達は成功させるだけだ」


 リリアは唇を噛む。


 それでも。


 掴んでいた手を離した。


リリア

「……分かった」


 ノクスが階段へ向かって走り出す。


 リリアも僅かに迷ったあと、その背中を追った。


 屋上へ残されたのは、エリシュアとルミナの2人だけ。


ルミナ

「…………」


 ルミナは、息を切らしたまま奈落を見つめ続ける師の背中を見た。


 これまで。


 何度もエリシュアの力を目にしてきた。


 どれほど強大な魔法を使っても。


 誰を相手にしても。


 その余裕が崩れることはなかった。


 世界のすべてを知っているかのように、いつも静かに立っていた。


 そのエリシュアが。


 今は汗を流し。


 息を切らし。


 街そのものを現在地から移そうとしている。


 いったい。


 奈落に何がいるのか。


 なぜ。


 エリシュアは、あれほどの恐怖を浮かべたのか。


 そして。


 奈落には。


ルミナ

「…………」


 ヤヌスがいる。


 胸の奥が、強く締めつけられる。


ルミナ

「お師匠様」


 呼びかけても、エリシュアは振り返らない。


ルミナ

「ヤヌスは……」


 その名を口にした瞬間。


 エリシュアの肩が、僅かに揺れた。


 だが。


 答えは返ってこない。


 否定も。


 無事だという言葉もなかった。


 その沈黙が、ルミナの不安をさらに大きくした。


◇◇◇


 街中へ、鐘の音が鳴り響いた。


 ゴォォォォン――。


 魔女の街で暮らす者達が、一斉に顔を上げる。


 先ほどまで夜空へ浮かぶ巨大な魔法陣を見上げていた者。


 不安定になった結界を修復していた者。


 家の中で、怯える子供を抱き締めていた者。


 誰もが、鐘の意味を理解していた。


 街の移動。


 普段は滅多に発令されることのない緊急命令。


魔女

「街を移すの……?」


別の魔女

「この状態で?」


 戸惑いの声が上がる。


 だが。


 立ち止まっている者はいなかった。


 魔女達が一斉に動き出す。


 街の外周。


 地面へ刻まれた巨大な術式へ、何人もの魔女が集まっていく。


 星幽の塔から伸びる魔力の線が、街の各所へ繋がっていた。


ノクス

「結界の状態を報告しろ!」


 広場へ降りたノクスが声を張り上げる。


結界担当の魔女

「北側の第3術式が不安定です!」


別の魔女

「西側も出力が落ちています!」


ノクス

「移動術式を起動する前に、結界を安定させる!」


 地面へ片手をつく。


 青白い魔力が、石畳に刻まれた術式へ流れ込んだ。


ノクス

「各区画で出力を合わせろ! 僅かでもずれれば、移動中に結界が崩壊する!」


魔女達

「はい!」


 幾つもの声が重なる。


 リリアは、街の西側へ駆けていた。


 明滅を繰り返す術式の前で立ち止まり、両手を突き出す。


リリア

「こっちは私がやる!」


 赤い魔力が溢れ出す。


 不安定だった術式へ、強引なまでの力が注ぎ込まれた。


 消えかけていた光が、再び鮮明な線を描き始める。


結界担当の魔女

「でも、この出力では長く持ちません!」


リリア

「長く持たせる必要はない!」


 額に汗を浮かべながら、リリアが叫ぶ。


リリア

「街が移動を終えるまで持たせればいい!」


 至るところで、魔女達の声が飛び交っていた。


 状況を知らされていない住民達が、家の外へ出てくる。


街の魔女

「何が起きたの?」


街の女性

「どうして突然……」


母親

「大丈夫よ」


 怯える子供を抱き寄せる。


母親

「すぐに終わるから」


 その声も。


 表情も。


 不安を隠しきれてはいなかった。


 街を覆う結界が大きく脈打つ。


 バチンッ――!


 空中で光が弾けた。


 一部の術式が歪み、夜空へ細かな亀裂のようなものが走る。


ノクス

「出力を落とすな!」


 ノクスの声が街へ響く。


ノクス

「術式を繋げろ! 星幽の塔を中心に、すべての区画を同期させる!」


 命令を受けた魔女達が、さらに魔力を注ぎ込む。


 石畳。


 建物の壁。


 家々の屋根。


 街の至るところへ刻まれていた術式が、1つずつ光を放ち始めた。


 小さな光は線となり、線は互いに繋がっていく。


 やがて。


 魔女の街全体を包み込む、巨大な魔法陣が完成した。


 ゴォォォォォ――!!


 低い音が、大地の底から響き渡る。


 建物が軋む。


 街路樹が揺れ、窓硝子が激しく震え始めた。


 星幽の塔。


 住宅。


 商店。


 石畳。


 街を構成するすべてが、淡い光へ包まれていく。


 空間が歪む。


 周囲の森が、水面へ映った景色のように大きく揺らいだ。


 屋上。


 ルミナは、光の中で奈落の方角を見つめていた。


 見えるはずがない。


 どれほど目を凝らしても。


 ヤヌスの姿など、見つけられるはずがない。


 それでも。


 目を逸らすことができなかった。


ルミナ

(ヤヌス……)


 奈落へ落ちながら、自分へ手を伸ばしていた少年の姿が浮かぶ。


 レオンの手記を読み、ヤヌスが生きていることを知った。


 いつか。


 もう1度会えると信じていた。


 だが。


 街が移動すれば、奈落との距離はさらに遠くなる。


 どこへ移るのかも。


 この場所へ戻れるのかも分からない。


 ルミナの指が、胸元の布を強く掴む。


ルミナ

「ヤヌスッ!」


 巨大な魔法陣が、眩い光を放った。


 次の瞬間。


 魔女の街が消えた。


 建物も。


 道も。


 高く聳えていた星幽の塔も。


 何もかも。


 その空間から跡形もなく消え去る。


 あとに残ったのは、木々に囲まれた何もない土地だけだった。


 夜風が。


 誰もいなくなった森を、静かに吹き抜けていった。


◇◇◇


 空間が激しく歪む。


 次の瞬間。


 眩い光とともに、魔女の街が別の土地へ姿を現した。


 大地が震える。


 周囲の木々が強風に煽られ、大きく枝葉を揺らした。


 星幽の塔。


 幾つもの建物。


 石畳の道。


 街を囲む結界。


 そのすべてが、遠く離れた新たな場所へ移されていた。


 移動は成功した。


 だが。


 街を覆っていた巨大な魔法陣は、すぐには消えなかった。


 不安定に明滅し、至るところから魔力の火花を散らしている。


ノクス

「各区画、結界の状態を確認しろ!」


 ノクスの声が、慌ただしい街へ響く。


ノクス

「移動術式との接続を切る! 残留魔力を結界へ戻せ!」


魔女

「東側、術式に亀裂があります!」


別の魔女

「治癒を使える者を呼んで! 負傷者がいる!」


 街の至るところで、魔女達が走り回っていた。


 乱れた結界を修復する者。


 移動時に倒れた住民を治療する者。


 新たな土地の周囲を調査する者。


 事情を知らない住民へ説明を行う者。


 移動を終えても、誰1人として休むことはできなかった。


 星幽の塔の前。


 ルミナは、慌ただしく行き交う者達を見つめていた。


 街は無事だった。


 大きな建物の崩壊も。


 結界の完全な消失も起きていない。


 それでも。


 胸の奥にある不安は、少しも薄れなかった。


 奈落は。


 もう、どの方角にあるのかさえ分からない。


 移動によって、遥か遠くへ離れてしまった。


 ルミナは、胸元へ手を当てる。


 鼓動が速い。


 何度、深く息を吸っても落ち着くことができなかった。


 その時。


 白い光で作られた小鳥が、ルミナの前へ舞い降りた。


ルミナ

「……?」


 魔力の鳥は、ルミナの肩へ止まると、エリシュアの声を発した。


エリシュアの声

『ルミナ。私の部屋へ来い』


 短い言葉。


 用件は告げられなかった。


 光の鳥は役目を終えると、細かな粒となって消えていく。


 ルミナは、星幽の塔を見上げた。


◇◇◇


 星幽の塔。


 エリシュアの自室。


 ルミナが部屋へ入ると、背後で扉が静かに閉じた。


 室内にいるのは、エリシュアとルミナだけだった。


 いつもなら。


 窓際に立っているか。


 酒の入ったグラスを手にしているエリシュアが。


 今は、机の前に置かれた椅子へ腰掛けていた。


 赤紫の髪は僅かに乱れている。


 呼吸は、既に落ち着いていた。


 だが。


 顔には疲労の色が残り、肌も普段より青白い。


 机の上に酒はない。


 エリシュアが、いつものようにグラスへ手を伸ばすこともなかった。


ルミナ

「…………」


 聞きたいことは、幾つもある。


 奈落へ放った大魔法。


 エリシュアが感じ取った何者か。


 あれほどの恐怖を浮かべた理由。


 突然、魔女の街を移動させなければならなかった理由。


 そして。


 奈落にいるヤヌスのこと。


 どこから尋ねればよいのか分からない。


 何を聞けば、答えてもらえるのかも分からなかった。


 それでも。


 黙っていることはできない。


 ルミナは意を決し、口を開いた。


ルミナ

「お師匠様……」


エリシュア

「ルミナ」


 重ねられた声が、ルミナの言葉を遮った。


ルミナ

「……はい」


 エリシュアが、ゆっくりと顔を上げる。


 真っ直ぐに、ルミナを見つめた。


 そこに、いつもの師匠の目はなかった。


 厳しさ。


 迷い。


 そして。


 隠しきれない不安が、瞳の奥で揺れている。


 エリシュアは僅かな沈黙のあと、告げた。


エリシュア

「お前が、この街から出ることを禁ずる」


ルミナ

「…………」


 一瞬。


 何を言われたのか理解できなかった。


 街から出ることを禁じる。


 それは。


 魔女の街を離れることも。


 外の世界へ行くことも。


 ヤヌスを捜しに行くことも許さないという意味だった。


 ルミナの瞳が、ゆっくりと見開かれていく。


ルミナ

「――え?」


 掠れた声が、静まり返った部屋へ落ちた。

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