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第10話 呪い

黒印のヤヌス


第2章 剣聖


第9話 呪い


 奈落。


 空を覆う瘴気は、今日も陽の光を遮っていた。


 昼なのか、夜なのか。


 見上げても、もう分からない。


 冷たい風が森を抜け、黒ずんだ木々を揺らしていく。枝葉の擦れる音だけが、静まり返った奈落へ絶え間なく響いていた。


 それでも。


 ヤヌスは動かなかった。


 地面へ座り込み、俯いたまま。


 目の前に横たわるヴァルドを見つめている。


 正しくは。


 ヴァルドだった亡骸を。


 黒く硬い皮膚が、腕から肩、胸元、首筋にまで広がっている。背中では歪んだ骨が大きく隆起し、指先には人のものとは思えない爪が伸びていた。


 顔に残された人の肌も僅かしかない。


 事情を知らない者が見れば、そこに横たわっているものが、かつて人間だったとは思わないだろう。


 ましてや。


 それが剣聖ヴァルドだったことなど、誰にも分からない。


 だが。


 ヤヌスにとっては違った。


 どれほど姿が変わっても。


 もう声を返してくれなくても。


 そこにいるのは、ヴァルドだった。


 あの夜から、どれほどの時間が過ぎたのか。


 ヤヌスには分からなかった。


 ヴァルドを斬った夜が明けた。


 重い瘴気の向こうで、僅かに空が明るくなった。


 やがて再び暗くなり。


 また、朝が来た。


 一度、雨も降った。


 冷たい雨が髪を濡らし、服へ染み込み、ヴァルドの身体に残っていた血を洗い流していった。


 それでも。


 ヤヌスは、その傍から一歩も動かなかった。


 何も食べていない。


 水も飲んでいない。


 眠った記憶もなかった。


 腹が減っているのか。


 喉が渇いているのか。


 身体が寒いのか。


 もう何も分からない。


 少し離れた地面には、ヴァルドを斬った剣が落ちている。


 雨に濡れた刃には、僅かに赤黒い血が残っていた。


 ヤヌスは、その剣へ触れようともしなかった。


 ヴァルドの身体を埋めることも。


 小屋へ戻ることもできない。


 ただ。


 座っている。


 涙は、もう出なかった。


 泣き尽くしてしまったのかもしれない。


 目の奥は焼けるように痛むのに、涙だけがどこにも残っていなかった。


 風が吹く。


 木々が揺れる。


 遠くで魔獣の鳴き声が聞こえる。


 世界だけが、何もなかったかのように時間を進めている。


 ヤヌスだけが。


 ヴァルドを斬った、あの瞬間に取り残されていた。


『人間として……』


 掠れた声が蘇る。


『死なせて……くれて……』


 血に濡れた口元。


 それでも、安堵したように笑っていた顔。


『あり……がとう』


 ヤヌスの指先が僅かに震えた。


 理解できない。


 何度思い返しても。


 あの言葉の意味を、受け入れることができなかった。


 自分は。


 ヴァルドに死んでほしかったわけではない。


 人間として死なせてやりたかったわけでもない。


 救ったつもりなど、少しもなかった。


 ただ。


 これからも一緒にいたかった。


 ずっと。


 ずっと。


 今までと同じように。


『前にも言ったが、ワシはこんな姿じゃ。外へ出られるわけがなかろう』


『俺も前に言った。姿なんて関係ねえ』


『もし外の世界でジジイを馬鹿にする奴がいたら、俺がぶっ飛ばしてやる』


 黒く硬い皮膚。


 歪んだ骨。


 人とは異なる腕。


 そんなものは、どうでもよかった。


 人間でも。


 化け物でも。


 どのような姿へ変わっても。


 ヴァルドはヴァルドだった。


 毎朝、自分を叩き起こす。


 剣を振れば、何度でも地面へ転がされる。


 汚れて帰れば、先に風呂へ入れと怒られる。


 腹が減ったと言えば、文句を言いながら飯を作ってくれる。


 くだらないことで言い合って。


 馬鹿弟子と笑う。


 そんな日々が、これからも続くと思っていた。


『レオンが父親なら……ジジイは、爺ちゃんみたいなもんだな』


 あの時。


 ヴァルドは笑っていた。


 嬉しそうに。


 少しだけ泣きそうな顔で。


 笑っていた。


 なのに。


 もう2度と、その声は聞こえない。


 もう2度と。


 馬鹿弟子と呼んではくれない。


(……なんでだろうな)


 ヤヌスは、ヴァルドの動かない顔を見つめる。


(なんで俺の周りから……)


 胸の奥が、鈍く痛んだ。


(大事な人ばっかり、いなくなるんだろう)


 レオン。


 ヴァルド。


 そして――。


(ルミナも……)


 瞼を閉じる。


 最後に見たルミナの姿が浮かぶ。


 伸ばされた手。


 涙に濡れた顔。


 自分の名を呼ぶ声。


 奈落へ落ちながら伸ばした手は、最後まで届かなかった。


 今、どこにいるのか分からない。


 無事なのか。


 傷ついていないのか。


 生きているのかさえ。


 何も分からない。


(……会いたい)


 今だけは。


 カインへの復讐さえ、頭になかった。


 ただ。


 ルミナに会いたい。


 レオンが死んだ時と同じように。


 傍にいてほしい。


 名前を呼んでほしい。


 もう1人ではないと。


 そう言ってほしかった。


 だが。


 森の中にいるのは、ヤヌスと。


 もう言葉を返さないヴァルドだけだった。


 静寂の中。


 ザッ――。


 湿った土を踏む音がした。


 ヤヌスの眉が、僅かに動く。


 ザッ。


 ザッ。


 枯れ葉を踏み。


 小枝を折りながら。


 誰かが森の奥から近づいてくる。


 アベラントのものではない。


 地面を這う魔獣でもない。


 2本の足で。


 ゆっくりと歩いている。


 足音を隠そうともしない。


 警戒している様子もない。


 まるで奈落ではなく。


 穏やかな森の小道でも歩いているような、気の抜けた足取りだった。


(……人?)


 僅かな疑問が浮かぶ。


 すぐに消えた。


(どうでもいい)


 顔を上げない。


 逃げようともしない。


 落ちている剣へ手を伸ばすこともなかった。


 何者であろうと。


 今のヤヌスには、関係がなかった。


 足音は止まらない。


 木の根を避け。


 枯れ葉を踏み。


 真っ直ぐ、ヤヌスのいる場所へ近づいてくる。


 やがて。


 すぐ傍で止まった。


???

「おやぁ?」


 男の声だった。


 敵意も。


 警戒もない。


 心から珍しいものを見つけたような、気の抜けた声。


???

「こんな所に子供がいる」


 少し間を置き。


 男は楽しそうに続けた。


???

「珍しいなぁ」


 ヤヌスは反応しない。


 視線も上げない。


 男がどのような姿をしているのかさえ、確かめようとしなかった。


 男は、ごく普通の村人のような服を着ていた。


 飾り気のない上着。


 泥に汚れた靴。


 武器も持っていない。


 奈落にいるという一点を除けば、どこにでもいそうな男だった。


 男はヤヌスから返事がないことを気にした様子もなく、ヴァルドの亡骸へ目を向けた。


 そして。


 あまりにも自然な動作で、ヤヌスの隣へ腰を下ろした。


 ヴァルドの亡骸の、すぐ傍へ。


???

「へぇ」


 男は興味深そうに、ヴァルドの身体を眺める。


 黒く変質した皮膚。


 歪んだ骨。


 人間のものではなくなった腕。


 僅かに残された、人としての顔。


 そのすべてを見たあと。


 小さく頷いた。


???

「頑張ったんだね」


 ヤヌスの眉が僅かに寄る。


???

「最後まで、人間でいようとしたんだ」


 その言葉で。


 ヤヌスは、初めて顔を上げた。


 隣に座る男を見る。


 知らない男だった。


 だが。


 目にした瞬間。


 説明のできない違和感が、胸の奥へ生まれた。


 顔は見えている。


 目もある。


 鼻も。


 口もある。


 穏やかな笑みさえ、はっきり見える。


 それなのに。


 認識できない。


 ほんの少し視線を外しただけで、どのような顔だったのか思い出せなくなる。


 もう1度見る。


 確かに男はそこにいる。


 だが、その顔を覚えることができない。


(なんなんだ……こいつ)


 男が、ヤヌスへ顔を向ける。


???

「君の家族かな?」


 ヤヌスは答えなかった。


 男も、返事を求めてはいないようだった。


???

「そうか」


 勝手に納得し。


 もう1度、ヴァルドを見る。


???

「それは残念だったね」


 声には。


 本当に死を悼んでいるような優しさがあった。


 だからこそ。


 続いた言葉が、あまりにも異質だった。


???

「でも、仕方ないよね」


 ヤヌスの瞳が僅かに動く。


 男は微笑んだまま。


 何でもないことのように言った。


???

「弱かったんだから」


ヤヌス

「……は?」


◇◇◇


 魔女の街。


 星幽の塔。


 最上階にあるエリュシアの部屋。


 開け放たれた窓から入り込む風が、薄いカーテンを揺らしていた。


 ヴァルドが死んだ夜から。


 既に幾度か、朝と夜が巡っている。


 その間。


 エリュシアは、ほとんどこの部屋を離れなかった。


 窓辺に立ち。


 奈落の方角を見つめ続けている。


 眠ることも。


 食事を取ることもせず。


 まるで。


 そこに残された誰かを見守るように。


 部屋にいるのは、エリュシアとルミナだけだった。


 ルミナは、その背中から少し離れた場所に立っている。


 何度声を掛けても。


 返ってくるのは短い言葉だけ。


 ヤヌスがどうしているのか尋ねても。


 エリュシアは答えなかった。


 けれど。


 奈落へ向けられた横顔を見れば分かる。


 何かを感じ取っている。


 そして。


 決して目を離せない何かが、今も奈落で続いている。


 その時。


 エリュシアの動きが止まった。


 本当に。


 何の前触れもなく。


 呼吸さえ忘れたように、全身が硬直した。


ルミナ

「……お師匠様?」


 返事はない。


 エリュシアの瞳が、僅かに見開かれる。


 窓枠へ添えられていた指先が震えた。


 ゆっくりと。


 何かを確かめるように、奈落の方角へ顔を向ける。


 ガシャンッ――!!


 手から滑り落ちたワイングラスが、床へ叩きつけられた。


 砕けた硝子とともに、赤い酒が床へ飛び散る。


ルミナ

「お師匠様!?」


 ルミナが駆け寄ろうとする。


 だが。


 エリュシアの横顔を見た瞬間、足が止まった。


 普段の余裕が、完全に消えている。


 僅かに開かれた唇。


 強く見開かれた瞳。


 その顔に浮かんでいるのは、怒りだけではない。


 憎しみ。


 そして――。


 恐怖。


 ルミナが、これまで1度も見たことのない表情だった。


エリュシア

「なんで……」


ルミナ

「……え?」


エリュシア

「なんで……」


 掠れた声。


 窓枠へ置かれたエリュシアの手が、軋むほど強く握られる。


エリュシア

「なんで、貴様がそこにいる……」


ルミナ

「お師匠様……?」


 次の瞬間。


 エリュシアの身体から、膨大な魔力が溢れ出した。


 ドンッ――!!


 空気が弾ける。


 窓が激しく震え。


 壁一面の本棚が軋みを上げた。


 机の上に置かれていた書類が舞い上がり、魔導具が次々と床へ落ちる。


 塔そのものが。


 エリュシアの怒りへ呼応するように振動していた。


ルミナ

「……っ!」


 押し寄せる魔力に耐えきれず。


 ルミナは両腕で顔を庇い、後方へよろめいた。


ルミナ

「お師匠様、何を……!」


 エリュシアは答えない。


 奈落の方角を睨んだまま。


 呼吸を大きく乱している。


 何かを恐れるように。


 今すぐ失われようとしているものへ手を伸ばすように。


 エリュシアは、窓辺から夜空へ踏み出した。


◇◇◇


ヤヌス

「仕方なかったって……」


 奈落。


 ヤヌスの声が、低く震える。


ヤヌス

「弱かったって……」


 俯いていた顔を上げる。


 何日もの間。


 何も映していなかった瞳へ、少しずつ光が戻っていく。


 目の前の男が何を言っているのか。


 ヤヌスには、本当に理解できなかった。


 ヴァルドの強さを知らないから、そのようなことが言えるのか。


 それとも。


 死んだ者なら、誰であろうと弱いと言っているのか。


 男の言葉は。


 ヤヌスが知るヴァルドの姿と、あまりにもかけ離れていた。


ヤヌス

「何言ってるんだ……お前」


 男は変わらず、穏やかな顔で座っている。


 ヤヌスは地面へ手をついた。


 力の入らない脚を叱りつけるように、ゆっくりと立ち上がる。


 傍らへ落ちていた剣を掴む。


 ヴァルドが死んでから。


 初めて。


 ヤヌスは、自分の意思で立ち上がった。


ヤヌス

「取り消せよ」


 鞘のない剣を握り締める。


 刃へ残っていた血が、乾いた音を立てて剥がれ落ちた。


ヤヌス

「今の言葉」


 男は座ったまま首を傾げた。


???

「どうして?」


ヤヌス

「ジジイは弱くない!」


 叫びが森へ響く。


 男の表情は変わらない。


ヤヌス

「ジジイは、あんな身体になっても……!」


 記憶が蘇る。


 異形へ変わっていく身体。


 耐え難い痛み。


 指先の震え。


 それらを隠し。


 ヴァルドは、いつもと変わらず笑っていた。


ヤヌス

「いつも笑って……」


 剣を教えてくれた。


 飯を作ってくれた。


 どれほど身体が苦しくても。


 自分の前では。


 いつも、強い師匠でいてくれた。


ヤヌス

「冗談言って……」


 声が震える。


ヤヌス

「剣が速くて……見えなくて……」


 何度挑んでも。


 何度立ち上がっても。


 その背中には届かなかった。


ヤヌス

「何回やっても……勝てなくて……!」


 枯れたと思っていた涙が、再び視界を滲ませる。


ヤヌス

「ジジイは……」


 喉が詰まる。


 それでも。


 必死に声を絞り出す。


ヤヌス

「ジジイは……!!」


 剣を握った両手が震える。


ヤヌス

「一番強かったんだ!!」


 叫びが瘴気に満ちた奈落を突き抜ける。


 木々の間を駆け抜け。


 遥か遠くまで響いていく。


 長い静寂。


 男は、怒ることも。


 笑うこともしなかった。


 ただ。


 ヴァルドの亡骸へ目を向ける。


 そして。


 冷たい事実だけを告げた。


???

「でも、死んだ」


 ヤヌスの呼吸が止まった。


 風も。


 木々の音も。


 何も聞こえなくなる。


 その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返された。


ヤヌス

「…………」


???

「弱いから死んだんだ」


ヤヌス

「違う……」


???

「ヴァルドが強ければ、あんな身体にならずに済んだ」


 ヤヌスの瞳が揺れた。


ヤヌス

「……なんで」


 男が、ゆっくりと立ち上がる。


 服についた土を、軽く手で払った。


ヤヌス

「なんでお前が……ジジイの名前を知ってる」


 男は答えない。


 穏やかな笑みを浮かべたまま。


 当然のようにヴァルドの名を口にする。


???

「ヴァルドが強ければ、こんな場所へ隠れて暮らす必要もなかった」


 ヤヌスの胸へ、新たな疑問が生まれる。


 この男は。


 ヴァルドが何者だったのかを知っている。


 なぜ、この姿になったのかも。


 ここで暮らしていた理由も。


 そして。


 自分が斬ったことさえ。


 すべて知っている。


ヤヌス

「お前……何者だ」


 男は答えず。


 ヤヌスへ一歩近づく。


???

「自分の最期すら選べず」


 もう一歩。


???

「弟子に斬ってもらわなければ――」


 男の顔には。


 侮蔑も。


 嘲笑もない。


 ただ真実を語っていると、心の底から信じている。


???

「人間として死ぬことさえできなかった」


 ヤヌスの手が震える。


 剣が肉を斬った感触。


 頬へ飛び散った血。


 地面へ崩れ落ちるヴァルド。


『あり……がとう』


ヤヌス

「黙れ……」


 喉から漏れた声は、あまりにも弱かった。


 男が歩みを止める。


???

「全ては、己が弱かったから起きたことなんだ」


ヤヌス

「黙れッ!!」


 剣を振り上げる。


 その切っ先を、真っ直ぐに男へ向けた。


 胸の中には。


 明確な殺意さえあった。


 それでも。


 男は変わらず、微笑んでいた。


 まるで。


 剣を向けられていることさえ、取るに足りない出来事であるかのように。


 男が歩き出す。


 ヤヌスへ向かって。


 ザッ――。


ヤヌス

「…………」


 ザッ。


 男が一歩近づくたび。


 剣先が小さく揺れた。


 カタカタと。


 乾いた音を立てる。


ヤヌス

「……?」


 剣ではない。


 震えているのは、それを握る自分の手だった。


 腕が。


 肩が。


 両脚が。


 全身が、止められないほど震えている。


(なんでだよ……)


 ヤヌスは歯を食いしばる。


(なんで、震えてるんだ……)


 男から殺気は感じない。


 魔力も。


 敵意もない。


 それなのに。


 身体が勝手に怯えている。


 カインとも違う。


 ヴァルドとも。


 奈落に棲むアベラントとも違う。


 強い。


 そのような言葉だけでは足りなかった。


 理解しようとすることさえ、本能が拒んでいる。


 逃げろ。


 近づくな。


 見るな。


 触れるな。


 身体の奥で。


 何かが叫び続けている。


 それでも。


 脚は動かなかった。


 背を向けることも。


 剣を振ることもできない。


ヤヌス

「く……来るな……!」


 掠れた声で叫ぶ。


 男は止まらない。


 また一歩。


 ヤヌスとの距離を詰める。


 そして。


 男の手が、ヤヌスの肩へ静かに置かれた。


 その瞬間。


 身体が完全に硬直した。


 指1本。


 動かすことができない。


 男が、ヤヌスの耳元へ顔を寄せる。


 吐息が触れそうな距離。


 それでも。


 男の顔を認識することはできなかった。


???

「いいかい、坊や」


???

「この世界は、力が全てなんだ」


???

「憎い相手がいるのかい?」


???

「なら、殺せばいい」


???

「奪われたのかい?」


???

「なら、奪い返せばいい」


???

「欲しいものがあるのかい?」


???

「なら、奪えばいい」


???

「世界は、驚くほど単純なんだ」


???

「強者は奪う」


???

「弱者は奪われる」


???

「君の父は、どうだった?」


???

「君の師は、どうだった?」


???

「優しかった」


???

「立派だった」


???

「愛されていた」


???

「だが、死んだ」


???

「何故だと思う?」


???

「弱かったからだ」


ヤヌス

「……違う」


???

「優しさは守らない」


???

「正義も守らない」


???

「愛も守らない」


???

「守るのは、力だけだ」


 男の手が、ヤヌスの肩から離れた。


 身体は動くようになった。


 それでも。


 ヤヌスは剣を振るえなかった。


 男の言葉が、耳の奥へ残っている。


 記憶の中にある声を、押し潰すように。


 何度も。


 何度も繰り返されている。


 ヤヌスは、ゆっくりと自分の手を見る。


 レオンを守れなかった手。


 ルミナへ届かなかった手。


 そして。


 ヴァルドを斬った手。


 何ひとつ守れず。


 大切なものを失い続けた手。


 男はヤヌスの前に立ったまま、僅かに身を屈めた。


 視線の高さを合わせる。


 その顔は見えているのに。


 やはり、どのような顔なのか理解できない。


???

「坊や」


 優しく呼びかける。


???

「お前は、何も守れなかった」


ヤヌス

「…………」


 反論しようとする。


 だが。


 言葉が出てこない。


???

「弱かったから」


 レオンは死んだ。


???

「だから泣いている」


 ルミナを守れなかった。


 ヴァルドも死んだ。


 自分は。


 何もできなかった。


 ヤヌスの呼吸が震える。


 胸が苦しい。


 否定したいのに。


 男の言葉へ重なる記憶が、何も言わせてくれない。


???

「次は、どうする?」


 認識できない瞳が、真っ直ぐにヤヌスを見つめている。


 その瞬間。


 風の音が消えた。


 木々のざわめきも。


 遠くにいる魔獣の声も。


 自分の荒い呼吸さえ、聞こえなくなる。


 世界から、すべての音が失われる。


 残っているのは。


 目の前に立つ男の声だけだった。


???

「また、奪われる側でいるか?」


 男の口元が、僅かに持ち上がった。


???

「それとも――」


 笑う。


 恐ろしいほど穏やかに。


???

「奪う側になるか?」


ヤヌス

「…………」


 その言葉が、心の奥へ落ちる。


 冷たく。


 重い何かとなって。


 深い場所へ沈んでいく。


 この男の言葉を、認めたくない。


 認めてはいけない。


 それだけは分かっていた。


 ヤヌスは震える指へ力を込める。


 剣の柄を握り直す。


ヤヌス

「……違う」


 男が僅かに首を傾げた。


???

「ん?」


ヤヌス

「違う……」


 脚はまだ震えている。


 呼吸も整わない。


 それでも。


 ヤヌスは顔を上げた。


 目の前の男から、視線を逸らさない。


ヤヌス

「レオンは……そんな奴じゃなかった」


 レオンは強かった。


 だが。


 他者から何かを奪うために、その力を振るったことなどない。


 弱い者を守り。


 自分達へ生き方を教えた。


ヤヌス

「ジジイだって……」


 ヴァルドも強かった。


 誰よりも強く。


 誰よりも恐ろしい剣を持っていた。


 それでも。


 奪わなかった。


 自分へ剣を教え。


 飯を作り。


 最後まで守ろうとした。


ヤヌス

「強い奴が……」


 声が震える。


 それでも。


 最後まで言い切る。


ヤヌス

「全部、お前みたいな奴なわけじゃない」


 男は怒らなかった。


 否定されたことを、不快に思った様子もない。


 笑うことさえせず。


 ただ。


 ヤヌスの答えを聞いていた。


???

「そうか」


 男は身体を起こし、ヤヌスを見下ろす。


???

「なら、覚えておくといい」


 もう1度。


 ヤヌスの心へ刻み込むように告げる。


???

「強者は奪う」


 その言葉が、胸の奥へ突き刺さる。


???

「弱者は奪われる」


ヤヌス

「…………」


???

「いつか君自身が、答えを出すよ」


 否定した。


 確かに。


 ヤヌスは男の言葉を否定した。


 レオンも。


 ヴァルドも。


 この男の言うような存在ではなかった。


 そう言い返した。


 それなのに。


『弱者は奪われる』


 ヴァルドの亡骸が目に入る。


『弱者は奪われる』


 レオンが倒れた瞬間が蘇る。


『お前は、何も守れなかった』


 奈落へ落ちながら。


 ルミナへ伸ばした手。


『弱かったから』


 自分の手を見る。


 震えている。


 何も守れなかった手。


 家族を斬った手。


ヤヌス

「…………っ」


 胸元を掴む。


 息が苦しい。


 男の言葉が、頭から離れない。


 忘れたい。


 今すぐ消してしまいたい。


 違うと叫んでも。


 レオンとヴァルドの生き方を思い返しても。


 言葉だけが残り続ける。


 強者は奪う。


 弱者は奪われる。


 何度否定しても。


 心の奥へ沈んでいく。


 深く。


 深く。


 いつか。


 ヤヌス自身の言葉へ変わる時を待つように。


 まるで。


 呪いのように。


 その時。


 男が、ふと空を見上げた。


???

「……おやぁ?」


 初めて。


 その声に僅かな変化が生まれた。


 驚きではない。


 恐怖でもない。


 思いがけない客を見つけたような、小さな興味。


ヤヌス

「……?」


 男の視線につられ。


 ヤヌスも顔を上げる。


 瘴気に覆われた奈落の空。


 その遥か上。


 黒い雲の向こうに、小さな赤い光が見えた。


 星ではない。


 光は瞬きをする間に大きくなり、空そのものを赤く染めていく。


 熱。


 まだ届いていないはずなのに。


 肌が焼けるような熱を感じた。


◇◇◇


 魔女の街。


 夜の大通り。


 魔法灯の淡い光が、石畳を照らしている。


 ノクスは、リリアと並んで歩いていた。


 その足が、不意に止まる。


ノクス

「…………?」


 何かを感じ取るように、ゆっくりと空を見上げた。


 数歩先へ進んでいたリリアが振り返る。


リリア

「どうしたの?」


 ノクスは答えない。


 夜空を見つめたまま、僅かに眉を寄せている。


 肌が粟立つ。


 街を覆う結界の外。


 遥か上空へ。


 膨大な魔力が集まっていた。


 魔女の街に暮らしてきたノクスでさえ。


 これほどの魔力を感じたことは、ほとんどない。


リリア

「ノクス?」


 リリアも、遅れて異変へ気づいた。


 表情から笑みが消える。


 空を見上げた瞳が、大きく開かれた。


リリア

「……なに、これ」


 街の上空。


 夜空の一角だけが、赤紫の光へ染まっている。


 渦巻く魔力が雲を引き裂き。


 風が街の屋根を激しく打ちつけていた。


ノクス

「まさか……!」


 2人は同時に走り出した。


 建物の間を抜け。


 視界の開けた広場へ向かう。


 大通りでは、幾つもの扉や窓が開いていた。


 異変を察知した魔女達が、次々と外へ飛び出してくる。


街の魔女

「何が起きているの!?」


別の魔女

「結界の外よ!」


若い魔女

「この魔力……エリュシア様なの?」


 眠っていた街が、一瞬で騒然となる。


 魔法灯が激しく明滅し。


 街を覆う結界の表面へ、幾重もの波紋が走っていた。


 何人もの魔女が屋根へ上がる。


 杖を手にした者が、広場へ集まる者達を建物の陰へ誘導する。


 幼い魔女を抱きかかえ、空から遠ざけようとする者もいる。


街の魔女

「全員、建物の中へ!」


別の魔女

「結界を補強して! 早く!」


 誰も状況を理解できていない。


 ただ。


 空へ集まり続ける魔力が、尋常なものではないことだけは分かっていた。


 夜空から降り注ぐ風が、髪と衣服を激しく靡かせる。


 広場へ飛び出したリリアとノクスは。


 そこで。


 空に浮かぶ人影を見つけた。


 魔女の街を見下ろすほどの高さ。


 赤紫の長い髪。


 夜の闇へ溶ける外套。


 エリュシア。


 奈落の方角へ、片腕を伸ばしている。


 その掌の先。


 夜空を覆い尽くすほど巨大な魔法陣が展開されていた。


 赤紫の紋様が幾重にも重なり。


 中心には、灼熱の炎が凝縮されている。


 膨れ上がる火球が、夜を赤く染めていた。


エリュシア

「はぁ……」


 荒い息が漏れる。


エリュシア

「はぁ……」


 肩が大きく上下している。


 魔力を消耗したからではない。


 抑えきれない感情が、呼吸を乱していた。


ノクス

「エリュシア様!!」


 ノクスの声が、夜空へ響く。


リリア

「何してるの!?」


 2人の声は、エリュシアへ届いているはずだった。


 それでも。


 振り返らない。


 奈落の方角だけを睨んでいる。


 その横顔には、普段の余裕など欠片も残っていなかった。


 怒り。


 憎しみ。


 そして。


 隠すことのできない恐怖。


 伸ばされた腕が。


 小さく震えている。


エリュシア

「これ以上……」


 掠れた声が漏れる。


 脳裏へ。


 遠い過去の光景が蘇る。


 だが。


 それが何なのか。


 誰の姿を見ているのか。


 地上から見上げる者達には分からない。


エリュシア

「私達から……」


 瞳の奥へ、怒りが燃え上がる。


 魔法陣が激しく明滅した。


 凝縮されていた炎が大きく脈打ち、夜空へ灼熱の風が吹き荒れる。


 エリュシアは。


 奈落へ伸ばしていた腕を、力の限り振り抜いた。


エリュシア

「奪うなッ!!!」


 巨大な火球が放たれる。


 ズドォォォォォォンッ――!!


 夜空が燃えた。


 火球は街の結界を通り抜け、雲を焼き払いながら奈落へ向かう。


 余波だけで大気が震え。


 大通りの窓硝子が一斉に鳴った。


 広場へ集まった魔女達が、吹き荒れる熱風から顔を庇う。


 ノクスも。


 リリアも。


 誰も声を出せない。


 夜空を引き裂く炎を、ただ見つめていた。


 エリュシアの叫びは、警告ではなかった。


 怒り。


 憎しみ。


 恐怖。


 そして。


 これ以上、大切なものを失いたくないという。


 1人の女の、悲鳴だった。


◇◇◇


 瘴気に覆われた奈落の空を。


 巨大な火球が突き破った。


 灼熱の光が、大地へ迫る。


ヤヌス

「――ッ!?」


 次の瞬間。


 爆炎が弾けた。


 大地が激しく隆起し。


 周囲の木々が、根元から吹き飛ばされる。


 ヤヌスの身体も、凄まじい風圧に呑み込まれた。


 視界が。


 炎と土煙で埋め尽くされていった。

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