第9話 剣聖の終焉
黒印のヤヌス
第2章 剣聖
第9話 剣聖の終焉
少し前――。
奈落。
鬱蒼と生い茂る森の中へ、鋭い剣戟の音が響き渡っていた。
ガァンッ――!
2本の木剣が激突する。
ヤヌスは弾かれた剣を素早く引き戻し、間髪を入れずに踏み込んだ。
低く身を沈める。
狙うのは、ヴァルドの脇腹。
しかし、横薙ぎに振るわれた木剣を、ヴァルドは半歩退いただけでかわした。
ヤヌス
「くっ……!」
逃がさない。
振り抜いた木剣を返し、今度は肩口へ斬り上げる。
ヴァルドは片手で木剣を振るい、その軌道を外へ逸らした。
乾いた音とともに、ヤヌスの腕が大きく開く。
ヴァルド
「脇が甘い」
直後。
胸元へ、ヴァルドの足裏が押し当てられた。
ドンッ――!
ヤヌス
「ぐっ!」
ヤヌスの身体が後方へ弾かれる。
両足で地面を滑り、湿った土へ深い跡を刻んだ。
それでも倒れない。
木剣を地面へ突き立て、身体を支える。
荒くなりかけた呼吸を整えながら、ヤヌスは正面を睨んだ。
ヴァルドは追ってこない。
異形へ変わった半身へ黒い布を巻いた老人は、木剣を片手に提げたまま、その場からほとんど動いていなかった。
口元には、余裕を示す笑みが浮かんでいる。
ヴァルド
「こんなんでは、いつまで経っても復讐の旅とやらには行けんのぉ」
ヤヌス
「うるせーっ!!」
地面を蹴る。
一気に間合いを詰め、正面から木剣を振り下ろした。
ヴァルドが木剣を持ち上げる。
ガァンッ――!
重い衝撃が、ヤヌスの両腕を駆け抜けた。
以前なら、ここから力任せに押し切ろうとしていただろう。
だが、今は違う。
ぶつかった刃を滑らせ、ヴァルドの木剣を外側へ流す。
空いた懐へ身体を入れ、肩からぶつかるように踏み込んだ。
ヴァルド
「ほう」
初めて。
ヴァルドの右足が、僅かに後ろへ下がった。
ヤヌスは見逃さない。
剣だけではなく。
足。
呼吸。
重心。
視線。
ヴァルドから教えられたすべてを見ていた。
次の動きを予測し、先回りするように木剣を振るう。
鋭い剣先が、ヴァルドの胸元へ迫った。
しかし。
届く直前、ヴァルドの身体が僅かに沈んだ。
ヤヌスの木剣が頭上を通り過ぎる。
次の瞬間には、その足を払われていた。
ヤヌス
「うわっ!?」
支えを失った身体が宙へ浮く。
背中から地面へ叩きつけられた。
ドサッ――!
肺から空気が押し出される。
仰向けに倒れたヤヌスの喉元へ、ヴァルドの木剣が静かに向けられた。
ヴァルド
「すぐに熱くなって、動きが荒くなる」
剣先が、ヤヌスの喉を軽く小突く。
ヴァルド
「まだまだじゃな」
ヤヌス
「今に見てろよ……」
ヴァルド
「はっはっはっ。あと100年は掛かりそうじゃ」
ヤヌス
「そんなに掛かるか!」
ヤヌスは木剣を手で押し退け、勢いよく起き上がった。
服についた土を払いながら、ヴァルドを睨む。
だが、すぐには構え直さなかった。
ヤヌス
「それと……」
ヴァルド
「なんじゃ」
ヤヌスは木剣の柄を握り直し、僅かに視線を逸らした。
ヤヌス
「外では、あんまり子供扱いするなよ」
ヴァルド
「は?」
ヤヌス
「なんだよ、その顔」
ヴァルド
「また何を言い出したのかと思っただけじゃ」
ヤヌス
「だからさ……」
言いづらそうに頬を掻く。
それから、何でもないことのように言った。
ヤヌス
「ジジイと一緒に外に出た時に」
ヴァルドの表情が止まった。
森を抜ける風が、2人の間を通り過ぎる。
木々の葉が静かに擦れ合った。
ヤヌスは、その沈黙の意味に気づかない。
ヤヌス
「色んな街へ行くんだろ。そこで今みたいに子供扱いされたら困るんだよ」
ヴァルドは何も答えず、黒い布に覆われた自らの半身へ視線を落とした。
布の下。
人間ではないものへ変わった腕が、僅かに疼いている。
ヴァルド
「まだ、そんなことを言っておるのか」
低く呟き、ゆっくりと顔を上げる。
ヴァルド
「前にも言ったが、ワシはこんな姿じゃ。外の世界へ出られるわけがなかろう」
だが。
ヤヌスは迷わなかった。
ヤヌス
「関係ねえ」
ヴァルド
「…………」
ヤヌス
「俺も前に言っただろ。姿なんて関係ねえ」
真っ直ぐにヴァルドを見る。
ヤヌス
「もし外の世界でジジイを馬鹿にする奴がいたら、俺がぶっ飛ばしてやる」
異形へ変わった腕も。
人間とは異なる半身も。
ヤヌスにとっては、ヴァルドを否定する理由にならない。
ヤヌスは口元を緩めた。
ヤヌス
「ジジイを馬鹿にするのは、俺だけで十分だ」
ヴァルドは何も言わず、その顔を見つめた。
やがて堪えきれなくなったように、吹き出す。
ヴァルド
「ハハッ……まったく、馬鹿弟子が」
ヤヌス
「なんだよ」
ヴァルド
「なんでもないわ」
ヴァルドは木剣を持ち上げながら、どこか得意げに胸を張った。
ヴァルド
「言っておくが、ワシは外の世界では少しばかり有名人じゃ」
ヤヌス
「ジジイが?」
ヴァルド
「その顔はなんじゃ」
ヤヌス
「いや。嘘くさいなって」
ヴァルド
「お主……」
ヴァルドの眉間へ深い皺が寄る。
しかし、すぐに口元を吊り上げ、木剣を構えた。
ヴァルド
「外の世界で、ワシに恥をかかせるなよ?」
ヤヌス
「言われなくても!まだまだ俺は強くなる!」
ヤヌスも木剣を構える。
再び、2人の間から音が消えた。
次の瞬間。
同時に地面を蹴る。
ガァンッ――!
激しい剣戟の音が、奈落の森へ響き始めた。
◇◇◇
修行を終えたヤヌスは、太い木の根元へ仰向けに倒れていた。
胸が大きく上下している。
額から流れた汗がこめかみを伝い、湿った土へ落ちた。
ヤヌス
「腹減った……」
少し離れた場所では、ヴァルドが平然とした顔で木剣についた土を払っている。
ヴァルド
「先ほどまでの威勢は、どこへ行ったんじゃ」
ヤヌス
「全部、ジジイが叩き落とした」
ヴァルド
「ならば拾ってこい。ついでに食えるものも探してくるんじゃな」
ヤヌス
「結局、俺に狩りへ行かせたいだけだろ」
ヴァルド
「察しがよくなったではないか」
ヤヌス
「そんなところで成長を褒めるなよ……」
ヤヌスは深く息を吐くと、地面へ手をついて重い身体を起こした。
剣を腰へ差し、森の奥へ向かって歩き出す。
ヴァルド
「食えるものにしろよ」
ヤヌス
「分かってる!」
ヴァルド
「前に獲ってきたものは、ひどい味じゃった」
ヤヌス
「あれを料理したのはジジイだろ!」
ヴァルド
「素材が悪かったんじゃ」
ヤヌス
「絶対、料理のせいだからな!」
声を返しながら、ヤヌスの姿が木々の向こうへ消えていく。
ヴァルドは、その背中を黙って見送っていた。
足音が遠ざかる。
気配が完全に消えたことを確かめた瞬間、その顔から笑みが消えた。
ヴァルド
「ぐっ……!」
黒い布に覆われた腕を、反対の手で強く押さえる。
指先が震えている。
布の下で蠢く何かが、肩から胸元へ向かって侵食を広げていた。
骨が軋む。
血が沸騰するような熱が、身体の奥を走り抜ける。
ヴァルドは歯を食いしばり、声を押し殺した。
やがて。
痛みが僅かに遠のく。
荒くなった呼吸を整え、震える指をゆっくりと握り込んだ。
まだ動く。
剣も握れる。
だが。
残された時間が、ほとんどないことも分かっていた。
森の奥から、ヤヌスの声が飛んでくる。
ヤヌス
「デカいの獲ってくるからな!」
ヴァルドは顔を上げた。
痛みを押し隠し、いつもの調子で声を返す。
ヴァルド
「食えるやつにしろ!」
ヤヌス
「分かってるって!」
遠ざかっていく声を聞きながら、ヴァルドは静かに目を細めた。
◇◇◇
夕暮れ。
木々の隙間から差し込む光が、赤く染まり始めていた。
ヤヌス
「ジジイー! 帰ったぞー!」
森の奥から、巨大な魔獣を担いだヤヌスが戻ってくる。
獣に似た四足の魔獣。
その胴体には、剣によってつけられた深い傷が1つだけ刻まれていた。
ヤヌスの服は泥と返り血にまみれ、髪にも枯れ葉が絡みついている。
小屋の前にいたヴァルドは、その姿を見て呆れたように眉を下げた。
ヤヌス
「なんだよ」
ヴァルド
「また、そんなに汚しおって……」
ヤヌス
「戦ってたんだから仕方ないだろ」
担いでいた魔獣を地面へ下ろす。
ズンッ――!
重い音とともに、土埃が舞い上がった。
ヤヌス
「ジジイ、飯頼む。腹が減りすぎて死にそうだ」
ヴァルド
「いつも言っておるじゃろう。先に風呂へ入れ」
ヤヌス
「飯が先」
ヴァルド
「風呂じゃ」
ヤヌス
「本当に死ぬぞ」
ヴァルド
「お主なら3日は大丈夫じゃ」
ヤヌス
「ひでぇ」
不満そうに口を尖らせながら、ヤヌスは風呂のある小屋の裏手へ向かう。
その背中へ、ヴァルドが声を掛けた。
ヴァルド
「ヤヌス」
ヤヌス
「ん?」
振り返ったヤヌスを、ヴァルドはしばらく見つめた。
ほんの僅かに迷ったあと、いつもの命令口調で告げる。
ヴァルド
「今日はワシも入る。背中を流せ」
ヤヌス
「……は?」
思いがけない言葉に、ヤヌスは目を丸くした。
◇◇◇
小屋の裏手。
岩で囲まれた湯船から、白い湯気が立ち上っていた。
夕暮れの冷たい空気へ溶けていく湯気の向こうで、ヤヌスは肩まで湯へ浸かっている。
ヤヌス
「ぷはぁぁ……」
浴槽の縁へ頭を預け、長く息を吐き出した。
ヤヌス
「生き返る……」
ヴァルド
「年寄りみたいな声を出すな」
その隣。
ヴァルドも静かに湯へ浸かっていた。
異形へ変わった半身のうち、ヤヌスが既に知っている部分は隠していない。
だが、胸元から背中へ広がり始めた侵食は、深い湯と立ち込める湯気に覆われていた。
ヤヌス
「ジジイに言われたくない」
ヴァルド
「誰がジジイじゃ」
ヤヌス
「ジジイだろ」
ヴァルド
「もう少し敬意を持って呼べんのか」
ヤヌス
「ヴァルド様」
ヴァルド
「気持ちが悪い。やめろ」
ヤヌス
「どうしろってんだよ」
ヤヌスが呆れたように笑う。
ヴァルドの口元にも、僅かな笑みが浮かんだ。
これまで。
ヤヌスが一緒に入ろうと誘っても、ヴァルドは何かしら理由をつけて断っていた。
だからこそ。
並んで湯へ浸かっていることが、ヤヌスには少しだけ嬉しかった。
湯の揺れる音。
木々を抜ける風。
遠くから聞こえる、名も知らぬ生き物の鳴き声。
特別なものなど何もない。
いつもの奈落に流れる、穏やかな時間だった。
やがて。
ヴァルドが沈黙を破った。
ヴァルド
「ヤヌス」
ヤヌス
「ん?」
ヴァルド
「レオンの言葉を覚えておるか?」
不意に出された名前に、ヤヌスは浴槽の縁から頭を起こした。
ヤヌス
「レオン?」
ヴァルド
「世界は広い」
その言葉を聞き、ヤヌスは静かに目を伏せた。
森の家。
焚き火の傍ら。
レオンが話していた、まだ見たことのない世界。
ヤヌス
「……自分の目で見ろ」
記憶の中にある言葉を辿る。
ヤヌス
「自分で見たものを、自分で考えろ」
ヴァルド
「ああ」
ヴァルドは空を見上げた。
夕日の色が薄れ始めた空には、夜の青が混じり始めている。
ヴァルド
「レオンは、お主へ答えを与えなかった」
ヤヌスは黙って耳を傾ける。
ヴァルド
「人間が正しいとも、魔族が悪いとも言わなかった」
ヴァルドは湯の中で、異形へ変わった手をゆっくりと握った。
ヴァルド
「世界へ出れば、色々なものを見ることになる。お主の知らんものも、納得できんものもな」
握った手を見つめたまま、言葉を続ける。
ヴァルド
「正しいと信じていたものが、間違っていたと知ることもあるじゃろう。反対に、憎んでいたものの中に、守るべきものを見つけることもあるかもしれん」
ヤヌスは何も答えなかった。
ヴァルド
「じゃから、誰かに言われたからではなく、自分で見て、自分で考えろ」
ヴァルドがヤヌスを見る。
その眼差しは、師が弟子へ向けるものというよりも。
遠い場所へ旅立つ家族を見送る者のように、穏やかだった。
ヴァルド
「最後に決めるのは、お主じゃ」
ヤヌス
「……分かってるよ」
ヴァルド
「ならよい」
ヴァルドは再び空へ視線を戻す。
それから、思い出したように口を開いた。
ヴァルド
「それとな」
ヤヌス
「まだあるのか?」
ヴァルド
「黙って聞け」
ヤヌス
「はいはい」
ヴァルド
「返事が軽い」
ヤヌス
「聞いてるって」
ヴァルドは小さく息を吐いた。
湯気の向こうで。
ヤヌスの顔を、深く記憶へ刻むように見つめる。
ヴァルド
「これからお主が、どんな姿になろうとも」
ヤヌスの表情から、僅かに笑みが消える。
ヴァルド
「どんな風に変わろうとも」
ヤヌスの右手には、黒い布が巻かれている。
その下にあるものを、ヴァルドは知っていた。
その黒が、いずれ何をもたらすのか。
どこまでヤヌスを変えてしまうのか。
すべてを知っているわけではない。
それでも。
これだけは、迷わず告げることができた。
ヴァルド
「レオンは、お主の父親じゃ」
ヴァルドは静かに胸を張る。
ヴァルド
「そして、ワシは――お主の師匠じゃ」
湯の揺れる音だけが、2人の間へ残る。
ヴァルド
「たとえ世界がお主の敵になろうとも、レオンとワシはお主の味方じゃ」
ヤヌスは何も答えなかった。
黒い布に覆われた右手を見つめる。
やがて。
誤魔化すように湯を掬い、顔へ掛けた。
ヤヌス
「急に、なんなんだよ」
ヴァルド
「たまには師匠らしいことを言おうと思ってな」
ヤヌス
「いつも言ってるだろ。剣を見ろとか、足を見ろとか」
ヴァルド
「あれは事実を教えておるだけじゃ」
ヤヌス
「今のは違うのか?」
ヴァルド
「今のは……そうじゃな」
ヴァルドが目を細める。
ヴァルド
「ワシの我が儘じゃ」
ヤヌスは、その言葉の意味を尋ねなかった。
ヴァルドも説明しない。
空には既に、幾つかの星が輝き始めていた。
ヴァルドは、その光を見上げたまま呟く。
ヴァルド
「ヤヌス」
ヤヌス
「今度はなんだよ」
ヴァルド
「ワシらのところへ辿り着いてくれて、ありがとう」
ヤヌスの顔から、僅かに表情が消えた。
ヴァルド
「お主と過ごした時間は……すこぶる楽しかった」
ヤヌス
「……なんだよ」
居心地が悪そうに視線を逸らす。
ヤヌス
「急に気持ち悪いな」
ヴァルド
「なんじゃと?」
ヤヌス
「いや……」
言葉を濁し、ヤヌスは少しだけ考えた。
レオンは、自分にとって父親だった。
血は繋がっていない。
けれど。
それ以外の呼び方など思いつかないほど、大切な家族だった。
なら。
自分へ剣を教え。
飯を作り。
叱り。
毎日のようにくだらない言い合いをしてきた、この老人は。
ヤヌス
「レオンが父親なら……」
ヤヌスがヴァルドを見る。
照れを隠すように頬を掻きながら、それでも柔らかく笑った。
ヤヌス
「ジジイは、爺ちゃんみたいなもんだな」
ヴァルドの動きが止まった。
目を見開き、まるで今の言葉を聞き間違えたかのようにヤヌスを見つめる。
やがて。
皺の刻まれた顔を崩し、声を上げて笑った。
ヴァルド
「はははっ……そうか」
ヤヌス
「なんだよ、その反応」
ヴァルド
「なら、少しは年寄りを労れ」
ヤヌス
「嫌だよ」
ヴァルド
「馬鹿孫が」
ヤヌス
「誰が馬鹿孫だよ!」
ヴァルド
「お主が言ったんじゃろうが!」
ヤヌス
「馬鹿は余計だ!」
ヴァルド
「馬鹿は馬鹿じゃ!」
2人の笑い声が、夜を迎え始めた奈落の森へ響いた。
笑いながら。
ヴァルドは、隣にいる少年を見つめる。
かつて。
剣を握り、戦うことしか知らなかった。
多くのものを失い。
最後には人の姿さえ失いかけた自分に。
家族と呼べる者ができた。
もう何も残せないと思っていた老いぼれに。
最後の最後で、孫ができた。
ヴァルド
「……悪くない人生じゃったな」
ヤヌス
「何か言ったか?」
ヴァルドは目元を緩めたまま、わざとらしく顔を逸らす。
ヴァルド
「馬鹿孫には聞こえんじゃろうな」
ヤヌス
「誰の事だ!」
ヴァルド
「お主じゃ」
ヤヌス
「クソジジイ!」
また。
2人の笑い声が重なった。
◇◇◇
風呂を出たヤヌスは、濡れた髪を乱暴に拭きながら小屋へ向かっていた。
ヤヌス
「腹減った」
ヴァルド
「そればかりじゃな」
ヤヌス
「昼から何も食ってないんだから、当たり前だろ」
ヴァルド
「獲った魔獣を運びながら、木の実を食っとったではないか」
ヤヌス
「見てたのかよ」
ヴァルド
「口元に汁がついておった」
ヤヌスが慌てて口元を拭う。
それを見たヴァルドが、小さく笑った。
小屋の扉へ手を掛ける直前、ヴァルドが背後から声を掛ける。
ヴァルド
「飯を食ったら、もう1度やるぞ」
ヤヌスが振り返った。
ヤヌス
「まだやるのか?」
ヴァルド
「昼間の感覚を忘れんうちに、身体へ染み込ませろ」
ヤヌス
「ジジイから誘うなんて珍しいな」
ヴァルド
「嫌なら、やめても構わんぞ」
ヤヌス
「誰がやめるって言った」
ヤヌスの口元へ、好戦的な笑みが浮かぶ。
ヤヌス
「次は当てる」
ヴァルド
「100年早いわ」
ヤヌス
「じゃあ、100年付き合えよ」
先を歩いていたヴァルドの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
だが。
ヤヌスは気づかない。
濡れた髪を拭きながら、先に小屋へ向かっていく。
ヤヌス
「俺、先に戻ってるぞ」
ヴァルド
「……ああ」
ヴァルドは、その背中を見送った。
迷いのない足取り。
これから先も。
何度でも同じ日が続くと信じている背中。
やがて、ヤヌスが小屋の中へ消える。
ヴァルドは夜空を見上げた。
それから。
寂しさを押し隠すように、僅かに笑う。
ヴァルド
「……馬鹿孫が」
◇◇◇
夜。
小屋の中には、焼いた肉の香ばしい匂いが満ちていた。
食卓の中央へ置かれているのは、昼間にヤヌスが仕留めた魔獣の肉。
豪華な料理ではない。
普段と変わらない、ヴァルドの作った飯だった。
ヤヌス
「うまっ」
ヤヌスは焼いた肉へ噛みつき、勢いよく咀嚼する。
ヴァルド
「もう少し、ゆっくり食え」
ヤヌス
「腹減ってんだよ」
ヴァルド
「誰も取らん」
ヤヌス
「ジジイが取るかもしれないだろ」
ヴァルド
「いらんわ」
ヤヌス
「じゃあ、見るなよ」
ヴァルド
「行儀が悪いから見ておるんじゃ」
ヤヌス
「飯食うのに行儀とか関係ないだろ」
ヴァルド
「あるわ。口に物を入れたまま喋るな」
ヤヌス
「喋らせてるの、ジジイだろ」
ヴァルド
「屁理屈を言うな」
いつもの食卓。
いつもの飯。
いつもの言い合い。
ヤヌスは何も知らず、次々と肉を口へ運んでいく。
その向かい側で。
ヴァルドは食事へほとんど手をつけず、少年の姿を静かに見つめていた。
ヤヌス
「何見てんだよ」
ヴァルド
「別に」
ヤヌス
「食わないなら、それ貰うぞ」
ヴァルド
「勝手に取るな」
ヤヌス
「いらないって言っただろ」
ヴァルド
「これはワシの分じゃ」
ヤヌス
「どっちだよ」
伸ばされたヤヌスの箸を、ヴァルドが自分の箸で叩き落とす。
ヤヌス
「痛っ!」
ヴァルド
「飯くらい静かに食え」
ヤヌス
「先に叩いたのはジジイだろ!」
ヤヌスの声が、温かな明かりに包まれた小屋へ響く。
この時間が。
この食卓が。
今夜で最後になることを。
ヤヌスだけが知らなかった。
◇◇◇
食事を終えると。
ヤヌスは満足そうに腹を撫で、椅子へ深く腰掛けた。
向かい側では、ヴァルドが静かに箸を置く。
ヴァルド
「さて」
ヤヌス
「ん?」
ヴァルドが椅子から立ち上がる。
ヴァルド
「行くぞ」
ヤヌス
「もうやるのか?」
ヴァルド
「食休みでもしたいのか?」
ヤヌス
「必要ない」
ヤヌスも勢いよく立ち上がる。
ヤヌス
「次こそ当てる」
ヴァルド
「口だけは達者じゃな」
ヤヌス
「逃げるなよ」
ヴァルド
「誰に向かって言っておる」
ヴァルドが一歩踏み出す。
その瞬間。
身体の奥から、鋭い痛みが突き抜けた。
人間ではないものへ変わった脚が、僅かに震える。
ヴァルドは食卓へ片手をつき、その震えをヤヌスから隠した。
ヤヌス
「どうした?」
ヴァルド
「食いすぎたお主を見て、胃が重くなっただけじゃ」
ヤヌス
「ジジイはほとんど食ってないだろ」
ヴァルド
「見ているだけで胸焼けがする」
ヤヌス
「ひでぇ」
ヤヌスは疑うことなく、小屋の扉を開けた。
冷たい夜気が流れ込む。
外へ出ていく背中を見ながら、ヴァルドは食卓へ置いていた手をゆっくりと離した。
もう。
本当に時間がない。
◇◇◇
月明かりに照らされた森。
その一角へ、聖剣アウロラが墓標として突き立てられていた。
アウロラに巻かれた黒い布が、夜風を受けて僅かに揺れている。
レオンの墓から少し離れた場所で、ヤヌスとヴァルドは向かい合っていた。
ヴァルドの手には、刃を潰した木剣ではなく。
研ぎ澄まされた真剣が握られている。
その刃が月明かりを受け、冷たい光を放っていた。
ヤヌス
「珍しいな。今日は本物の剣か」
ヴァルド
「ああ」
ヴァルドは、用意していたもう1本の剣をヤヌスへ投げ渡す。
ヤヌスは片手で柄を掴み、鞘から刃を引き抜いた。
僅かな金属音が、静かな森へ響く。
ヴァルド
「昼間の感覚を、今夜で身体へ染み込ませろ」
ヴァルドが懐から黒い布を取り出し、ヤヌスへ放る。
ヴァルド
「ほれ。目隠しじゃ」
ヤヌス
「何だよ。見えねえのかよ」
ヴァルド
「自信がないのか?」
悪戯をするように、ヴァルドが笑う。
ヤヌス
「そんなわけないだろ!」
ヤヌスは黒い布を受け取った。
ヴァルド
「木剣とは勝手が違う。気を抜けば、腕の1本くらい簡単に落ちるぞ」
ヤヌス
「ジジイこそ、怪我しても知らないからな」
ヴァルド
「ほざけ」
ヤヌスは両目を覆うように布を巻き、後頭部で強く結ぶ。
視界が闇に閉ざされた。
見えるものは何もない。
聞こえるのは。
風に揺れる葉の音。
土を踏む自分の足音。
ヴァルドの静かな呼吸。
そして。
鞘から剣が抜かれる、僅かな金属音。
ヤヌスは剣を両手で握り、腰を落とした。
ヴァルドも構える。
ヴァルド
「お主も、随分と形になった」
ヤヌス
「今更気づいたのか?」
ヴァルド
「調子に乗るな」
ヴァルドの口元へ、穏やかな笑みが浮かぶ。
ヴァルド
「今日は――最後に、本気で相手をしてやろう」
ヤヌスは、その言葉を。
今日最後の修行という意味にしか受け取らなかった。
ヤヌス
「後悔すんなよ」
ヴァルド
「誰に言っとる」
風が止まる。
2人の間から、すべての音が消えた。
ヤヌスには何も見えない。
ただ。
目の前から伝わってくる気配だけが、普段とは僅かに違っていた。
静かで。
穏やかで。
どこか遠い。
その違和感の意味を考えるよりも早く、ヴァルドが地面を蹴った。
湿った土を踏む音。
風を切る刃。
鋭い気配が、ヤヌスの首元へ迫る。
ヴァルド
「剣だけを見るな!」
ヤヌスは身体を沈めた。
銀色の刃が頭上を通り過ぎる。
見えてはいない。
それでも、刃が空気を裂く音と、肌へ触れる殺気から軌道を読んでいた。
身を沈めたまま踏み込み、ヴァルドの胴を狙って剣を振るう。
ガキィンッ――!
刃と刃が激突した。
両腕に重い衝撃が走る。
剣を弾かれても、ヤヌスは崩れない。
すぐに右足を引き、重心を戻す。
ヴァルド
「足を止めるな!」
声と同時に、ヴァルドが横から斬り込んでくる。
ヤヌスは退かない。
刃が触れる寸前。
剣を斜めに当て、その一撃を受け流した。
鋭い刃が肩口を掠める。
服が裂け、皮膚へ細い傷が走った。
熱い血が滲む。
だが。
ヤヌスは止まらなかった。
空いたヴァルドの胸元へ向け、剣を突き出す。
風が動く。
次の瞬間、脇腹へ柄頭を叩き込まれた。
ヤヌス
「ぐっ!」
息が詰まる。
それでも。
痛みに身体を固めない。
攻撃を受けた勢いに逆らわず、横へ転がる。
直後。
先ほどまで頭のあった場所へ、ヴァルドの刃が振り下ろされた。
ザンッ――!
地面が深く斬り裂かれる。
ヤヌスは転がった勢いのまま立ち上がり、ヴァルドへ斬りかかった。
ヴァルド
「力だけで振るな!」
振り下ろした剣が、ヴァルドの刃によって外側へ流される。
だが、ヤヌスは無理に止めない。
流された力を利用し、身体を回転させた。
背を向ける寸前。
逆方向から、もう1度剣を振るう。
ヴァルド
「……!」
風の流れが乱れた。
切っ先が、ヴァルドの胸元の衣服を僅かに裂く。
ヤヌス
「今の惜しかっただろ!」
ヴァルド
「戦闘中に喋るな!」
声とともに、鋭い連撃が襲いかかる。
右。
左。
上。
下。
目で見ても追いきれない速度。
ヤヌスは耳を澄ませた。
剣が風を裂く音。
足が土を踏む位置。
ヴァルドの呼吸。
動く直前に、僅かに変わる空気。
剣を受ける。
かわす。
前へ出る。
今まで教えられてきたことが、頭で考えるよりも先に身体を動かしていた。
右手が疼く。
黒い布の下。
痣から熱が走り、指先へ力が溢れようとする。
もっと速く。
もっと強く。
その力を使えば、届くかもしれない。
ヤヌスは深く息を吐いた。
右手から力を抜く。
黒から流れ込もうとする衝動を、自らの意思で押し留めた。
頼らない。
これは。
ヴァルドから教わった剣で届かなければ意味がない。
黒の疼きが、少しずつ静まっていく。
その時。
ヴァルドの気配が、僅かに緩んだ。
顔は見えない。
それでも。
笑っているような気がした。
ヴァルド
「ヤヌス」
打ち合いの最中、ヴァルドの声が届く。
ヤヌス
「なんだよ!」
ヴァルド
「レオンの剣を持っていけ」
ヤヌスの眉が寄る。
飛んできた刃を受け流し、そのまま後方へ跳ぶ。
ヤヌス
「急に何言ってるんだ?」
ヴァルド
「聖剣アウロラじゃ。あの剣には、今もレオンの意思が残っておるように思える」
ヤヌス
「でも、あれはレオンの墓だろ」
ヴァルド
「墓標は、また作ればよい。レオンの形見だ、持っていけ。」
ヴァルドが踏み込む。
鋭い斬撃が、ヤヌスの頬を掠めた。
血が飛ぶ。
ヤヌスはすぐに剣を返す。
ヤヌス
「ジジイが良いって言うんなら、持っていく」
ヴァルド
「それから、小屋の引き出しに金が入っておる」
ヤヌスの剣を受け止めながら、ヴァルドは続ける。
ヴァルド
「ワシが現役だった頃から貯めておったものじゃ。外へ出れば、何をするにも金が要る。全部持っていけ」
ヤヌス
「だから、何の話だよ!」
ヴァルド
「師匠の話は黙って聞け」
ヤヌス
「修行が終わってから聞く!」
ヴァルド
「なら、忘れるな」
刃が重なる。
鍔迫り合いの向こうから、ヴァルドの声が届く。
ヴァルド
「アウロラと、引き出しの金じゃ」
ヤヌス
「分かったよ!」
ヤヌスは深く考えなかった。
外へ出る準備を、ヴァルドがようやく始めたのだと思った。
今夜が終わっても。
明日になれば、また続きが聞ける。
そう信じていた。
ヴァルド
「来い、ヤヌス!」
ヤヌス
「言われなくても!」
ヤヌスが踏み込む。
地面が弾けた。
今までよりも速い。
ヴァルドが剣を振るう。
ヤヌスはその一撃を受けず、僅かに身体を横へずらした。
刃が頬を掠める。
血が散る。
それでも、前へ出る。
間合いの内側へ潜り込み、剣を斬り上げた。
ガキィンッ――!
ヴァルドが受け止める。
だが、ヤヌスは止まらない。
受け止められることまで読んでいた。
刃を滑らせ。
踏み込むと見せて、左へ回る。
ヴァルドの気配が追う。
その瞬間。
ヤヌスは地面を強く踏み、逆方向へ身体を返した。
ヴァルドの死角。
背後へ回り込む。
横薙ぎの刃が、脇腹へ迫る。
だが。
僅かに届かない。
切っ先が衣服だけを斬り、布の切れ端が宙へ舞った。
ヤヌス
「今のも惜しかっただろ!」
ヴァルド
「……ああ」
ヤヌス
「やっぱり!」
ヴァルド
「調子に乗るな」
そう言いながらも。
その声は笑っていた。
ヤヌスの剣は、確かに届き始めている。
足も。
呼吸も。
重心も。
間合いも。
教えてきたすべてが、その身体へ染み込んでいた。
ヴァルド
「ヤヌス」
ヴァルドの気配が正面で止まる。
剣を構え直す音がした。
ヴァルド
「本当に……よくぞ、ここまで強くなった!」
ヤヌスの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
ヤヌス
「……急に褒めんなよ」
照れを隠すように、剣を握る手へ力を込める。
ヴァルド
「褒められて油断するようでは、まだまだじゃ」
ヤヌス
「してない!」
ヴァルド
「ならば、来い!」
再び、2人の剣が激突する。
甲高い金属音。
散る火花。
荒くなる呼吸。
月明かりの下。
師匠と弟子の剣が、幾度も交わった。
ヤヌスにとっては、いつもと変わらない修行だった。
明日へ続く。
これから先も、何度だって繰り返す。
ヴァルドへ勝つための、数え切れない修行の中の1つ。
だが。
ヴァルドにとっては違う。
受け止める1撃ごとに。
かわす剣の1振りごとに。
弟子と過ごした時間を確かめていた。
初めて剣を握らせた日。
力任せに木剣を振り回していた少年。
何度倒れても。
悪態をつきながら立ち上がった姿。
今、その剣が。
自分へ届こうとしている。
やがて。
ヴァルドが大きく距離を取った。
ヤヌスも追わず、その場で剣を構え直す。
静寂が戻る。
ヴァルドは剣を両手で握った。
腕の感覚が、少しずつ遠のいている。
視界が赤く滲む。
身体の奥から、人間ではない衝動が這い上がってくる。
次に理性を失えば。
もう、戻ることはできない。
ヴァルド
「さぁ……」
それでも。
声だけは、いつもと変わらなかった。
ヴァルド
「これで最後だ」
ヤヌスは、その言葉へ僅かな違和感を覚えた。
しかし。
すぐに今夜最後の1撃という意味だと思い直す。
ヴァルド
「渾身の一振りを見せてみろ」
ヤヌスの口元へ、好戦的な笑みが浮かぶ。
ヤヌス
「ジジイ」
腰を落とす。
ヤヌス
「ビビるなよ」
ヴァルド
「誰に言っとる」
ヤヌスが呼吸を整える。
剣だけを見るな。
足を止めるな。
力だけで振るな。
呼吸。
重心。
間合い。
ヴァルドから教えられた言葉が、身体の奥へ深く沈んでいく。
肩から力を抜く。
剣を強く握りすぎない。
右足へ重心を置く。
相手の呼吸を読む。
黒には頼らない。
ヴァルドから教わった剣だけで。
師匠へ届く。
今の自分が放てる、渾身の1撃。
それでも。
きっと、この老人なら止める。
何事もなかったように受け流し。
また自分を地面へ転がして。
まだまだじゃなと笑う。
だから。
迷う必要などなかった。
すべてを込めて、振ればいい。
ヤヌスが地面を蹴った。
ダンッ――!
土が弾ける。
今までで最も速く。
今までで最も鋭い踏み込み。
迷いのない剣が、真っ直ぐにヴァルドへ迫る。
ヴァルドには見えていた。
避けられる。
受け止めることもできる。
まだ。
その程度の力は残っている。
だが。
ヴァルドは動かなかった。
迫る弟子の剣を見つめたまま。
ほんの僅かに笑った。
ザンッ――。
刃が、ヴァルドの身体を斬り裂いた。
ヤヌス
「…………え?」
温かな血が、ヤヌスの頬へ飛び散る。
両手には、肉を断った生々しい感触が残っていた。
剣を振り抜いた姿勢のまま、ヤヌスは動けない。
背後で、ヴァルドの身体が僅かに揺れた。
ヤヌス
「ジジ……?」
ヴァルドの口元から、赤い血が流れ落ちる。
それでも。
その顔には、安堵したような笑みが浮かんでいた。
ヴァルド
「……まに」
掠れた声。
呼吸とともに、血が喉から溢れる。
ヴァルド
「まに……あってくれた」
ヤヌス
「何……言って……」
ヤヌスの手から、剣が滑り落ちる。
カラン――。
冷たい金属音が、静かな森へ響いた。
ヴァルド
「人間として……」
力を失った身体が、ゆっくりと傾いていく。
ヴァルド
「死なせ…て…くれて……」
ヴァルドの瞳が、最後までヤヌスを見つめる。
ヴァルド
「あり……がとう」
その身体が、地面へ崩れ落ちた。
ヤヌス
「ジジイ?」
返事はない。
ヤヌスは両目を覆っていた布を、震える手で外した。
ヤヌス
「え……?」
月明かりが、視界へ流れ込む。
最初に見えたのは。
地面へ倒れた、異形の姿だった。
黒く硬い皮膚。
人間のものとは思えないほど歪んだ腕。
赤黒く浮き上がった血管。
衣服を内側から押し上げる、変形した骨。
それは。
一瞬、ヴァルドとは思えなかった。
自分の前に倒れているものが。
修行をつけ。
飯を作り。
先ほどまで笑っていた老人だとは、どうしても思えなかった。
だが。
異形に呑まれかけた顔。
人間の形を僅かに残す、その横顔。
穏やかに閉じられた瞼。
口元に残る微かな笑み。
間違えるはずがない。
倒れているのは。
本物のヴァルドだった。
ヤヌス
「おい……」
足が震える。
それでも、倒れた身体へ駆け寄る。
近づくほどに。
ヴァルドの身体に起きていた異変が、はっきりと見えた。
ヤヌスが知っていたのは、黒い布に覆われた腕と半身だけだった。
だが、侵食はその範囲を遥かに越えている。
腕。
肩。
胸。
背中。
首元。
人間の肌は、黒く硬い皮膚へ変わっていた。
指先の爪は鋭く伸び、もはや人の手とは呼べない。
背中の一部では骨が歪み、内側から皮膚を突き破ろうとしている。
異形が。
人間だったヴァルドを、ほとんど食い尽くしていた。
ヤヌス
「……嘘だ」
今日の言葉が、次々と脳裏へ蘇る。
『ワシはこんな姿じゃ。外の世界へ出られるわけがなかろう』
『ワシらのところへ辿り着いてくれて、ありがとう』
『お主と過ごした時間は……すこぶる楽しかった』
『たとえ世界がお主の敵になろうとも、レオンとワシはお主の味方じゃ』
どうして。
突然、一緒に風呂へ入ったのか。
どうして。
あんな言葉を残したのか。
どうして。
アウロラと金を持っていけと言ったのか。
どうして。
最後の攻撃を避けなかったのか。
すべてが。
今になって繋がっていく。
ヴァルドは知っていた。
今日。
自分が死ぬことを。
完全に人間ではなくなる前に。
自ら育てた弟子の剣を受け、人間として死ぬつもりだった。
ヤヌス
「……嘘だ」
もう1度。
喉から、掠れた声が漏れる。
ヤヌスはヴァルドの傍へ膝をついた。
身体を抱き起こす。
まだ温かい。
血も流れている。
けれど。
呼吸はない。
ヤヌス
「起きろよ……」
肩を揺らす。
ヤヌス
「ジジイ……」
返事はない。
ヤヌス
「起きろって……」
今までなら。
うるさいと怒るはずだった。
年寄りを乱暴に扱うなと、剣の柄で頭を叩くはずだった。
だが。
何度揺らしても。
ヴァルドの瞼は閉じたままだった。
ヤヌス
「まだ俺……」
声が震える。
言葉を続けようとしても、息が喉へ引っ掛かる。
ヤヌス
「まだ俺……1回も勝ってないだろ……」
ヴァルドの服を強く掴む。
ヤヌス
「勝つまで……」
涙が視界を滲ませる。
ヤヌス
「勝つまで、付き合えよ……」
『じゃあ、100年付き合えよ』
少し前。
何も知らず、笑いながら口にした言葉。
その時から。
ヴァルドは答えを知っていた。
100年どころか。
次の日さえ。
2人には残されていなかった。
ヤヌス
「ジジイ……」
地面へ落ちた剣が見える。
刃には、ヴァルドの血がべったりと付着していた。
それを握っていた、自分の手。
掌にも。
指にも。
温かな血が残っている。
手が震える。
自分が斬った。
ヴァルドが避けなかったとしても。
この剣を振ったのは自分だった。
ヤヌス
「俺が……」
理解したくない。
認めたくない。
それでも。
手に残った感触が。
目の前に横たわる身体が。
逃げ場のない現実を突きつける。
ヤヌス
「俺が……ジジイを……」
レオンは、目の前で殺された。
伸ばした手は届かず。
何もできないまま、大切な家族を奪われた。
今度は違う。
今度は。
自分が家族を殺した。
ヤヌス
「…………っ」
息ができない。
胸の奥が潰れそうに痛む。
喉から声を出そうとしても、掠れた空気しか漏れなかった。
ヤヌスはヴァルドの身体を抱き締めたまま、ただ子供のように震えていた。
ヤヌス
「う……」
喉の奥から、押し殺せない声が漏れる。
ヤヌス
「うあああああああああああああっ!!」
叫びが、夜の奈落へ響き渡った。
木々が揺れる。
鳥が飛び立つ。
遠くの魔獣が息を潜める。
それでも。
ヴァルドは目を開かない。
ヤヌス
「ジジイ……!」
何度呼んでも、返事はなかった。
ヤヌスは、その傍から動くことができない。
溢れる涙を拭うこともせず。
血に濡れたヴァルドの身体を抱き締め続ける。
少し離れた場所には、レオンの墓があった。
地面へ突き立つ聖剣アウロラ。
その黒い布が、夜風に揺れている。
ヤヌスには、2人いた。
父親。
師匠。
血など繋がっていなくても。
紛れもない家族だった。
そして今。
どちらもいない。
月明かりの下。
レオンの墓と。
ヴァルドの亡骸の間で。
ヤヌスの泣き声だけが、いつまでも響き続けていた。
◇◇◇
現在――。
魔女の街。
星幽の塔。
最上階にある、エリュシアの部屋。
開け放たれた窓から、冷たい夜風が入り込んでいた。
エリュシアは窓辺へ立ち、窓枠に置かれたグラスへ指を添えている。
その数歩後ろ。
ルミナもまた、声を出せないまま立ち尽くしていた。
2人の視線の先。
家々の屋根を越え。
深い森の、さらに向こう。
奈落が存在する方角には、暗い夜空が広がっていた。
ルミナは胸元へ両手を添える。
理由は分からない。
それでも。
胸の奥へ、冷たいものが広がっていく。
今すぐヤヌスの名を叫びたかった。
奈落へ駆けつけたかった。
だが。
どれほど願っても、ここからでは届かない。
エリュシアも何も言わない。
暗闇の先を見つめたまま、微動だにしなかった。
やがて。
グラスへ触れていた指先から、震えが消える。
ふと、その瞼が閉じられた。
長い沈黙。
奈落から吹いてきたかのような冷たい風が、赤紫の髪を揺らした。
エリュシア
「……逝ったか」
小さな声だった。
それでも。
ルミナの耳には、はっきりと届いた。
何を尋ねることもできない。
エリュシアは目を開き、再び奈落の方角を見つめる。
僅かに。
本当に僅かに。
その口元が緩んだ。
笑っているようにも。
泣いているようにも見えた。
やがて。
頬を1筋の涙が伝う。
エリュシアは拭おうとしない。
月明かりを受けた涙が、静かに落ちていく。
エリュシア
「クソジジイ……」
掠れた声が。
誰もいない夜へ消えた。




