第8話 2度目の命日
黒印のヤヌス
第2章 剣聖
第8話 2度目の命日
星幽の塔。
魔法によって作られた、真っ白な修練場。
壁も天井も見えない空間で、4人の魔女が向かい合っていた。
片側には、ルミナ、リリア、ノクス。
その反対側。
3人から少し離れた場所に、エリュシアが1人で立っている。
腕を組み、静かな眼差しで弟子達を見つめていた。
エリュシア
「準備はいいか?」
リリア
「もちろん!」
リリアは勢いよく答え、両手を胸の前で構えた。
橙色の髪が揺れ、その足元へ赤い魔力が広がっていく。
ノクス
「大丈夫です」
隣に立つノクスも、既に戦闘態勢へ入っていた。
黒髪の隙間から覗く瞳は、正面に立つエリュシアだけを見据えている。
ルミナ
「はい!」
2人の後方。
ルミナは胸元へ両手を添え、自らの内側へ意識を集中させた。
身体の奥から湧き上がる魔力が、穏やかな光となって全身を巡る。
白銀の魔法陣が足元へ浮かび、幾重もの紋様を形作った。
3人の準備が整ったことを確認し、エリュシアが組んでいた腕を解く。
エリュシア
「なら――来い」
空気が揺れた。
修練場を満たしていた魔力が、一瞬でエリュシアの周囲へ集まっていく。
その言葉を合図に、リリアとノクスが同時に床を蹴った。
リリアは右へ。
ノクスは左へ。
互いに反対方向へ散り、エリュシアを挟み込むように走る。
ルミナは動かない。
2人の姿を視界へ収めながら、その場で魔法陣を展開した。
これまでの修行で作り上げてきた、3人の基本陣形。
前衛を担うリリアとノクスが攻撃し、ルミナが後方から2人を支える。
最初に仕掛けたのは、リリアだった。
リリア
「はぁぁぁっ!!」
両手を突き出す。
赤い魔法陣から放たれた炎が、巨大な奔流となってエリュシアへ迫った。
ゴォォォォッ――!!
白い空間が赤く染まる。
正面から押し寄せる炎を前にしても、エリュシアは動じない。
炎が身体へ触れる直前、僅かに足を動かした。
それだけで、エリュシアの身体は炎の射線から外れる。
リリアの炎が背後を通り過ぎていく。
だが。
避けた先には、既にノクスがいた。
ノクス
「ふっ!」
青白い魔力を纏った腕が振るわれる。
空気が凍りつき、鋭い氷の刃がエリュシアの首元へ迫った。
エリュシアは上体を反らし、紙一重で刃をかわす。
そのまま指先をノクスへ向けた。
赤紫の光が弾ける。
ノクスの眼前に、魔力の矢が生まれた。
ノクス
「――ッ!」
ルミナ
「ノクス姉さん!」
ルミナの声と同時に、白銀の障壁がノクスの前へ展開する。
キィン――!!
放たれた魔力の矢が結界へ衝突し、眩い光を散らした。
結界は揺れる。
だが、砕けない。
ノクスは守られたことを確認するより早く、結界の陰から横へ跳んだ。
ノクス
「リリア!」
リリア
「分かってる!」
エリュシアの背後。
回り込んでいたリリアの両手へ、再び炎が集まっている。
先ほどよりも小さい。
だが、その分だけ速い。
圧縮された炎が、幾つもの弾丸となって放たれた。
シュバババッ――!!
エリュシアが振り返る。
片手を上げると、半透明の障壁が現れた。
次々と炎が衝突し、赤い火の粉が弾ける。
その直後。
エリュシアの足元へ、青白い魔法陣が広がった。
距離を取ったノクスが、床へ片手をついている。
ノクス
「凍れ」
冷気が走る。
エリュシアの足元から氷が噴き上がり、両脚へ絡みついた。
リリアの炎を防いでいる間に、ノクスが動きを封じる。
2人の攻撃が、寸分違わず重なっていた。
エリュシアが僅かに目を細める。
その指先が動くより早く、ルミナの魔法が発動した。
ルミナ
「2人とも、そのまま!」
リリアとノクスの身体が、淡い白銀の光に包まれる。
身体強化。
足へ流れる魔力が増し、踏み込む速度が上がる。
腕へ流れる力が強まり、放たれる魔法の威力も増していく。
リリアが床を蹴った。
先ほどまでとは比較にならない速度で、エリュシアとの間合いを詰める。
リリア
「いっけぇぇぇ!!」
拳へ集めた炎を、至近距離から叩き込む。
エリュシアは氷に拘束された足を強引に引き抜き、身体を横へ滑らせた。
炎を纏った拳が、その外套を掠める。
リリア
「惜しい!」
エリュシア
「戦闘中に余所見をするな」
リリア
「え――」
エリュシアの掌が、リリアへ向けられていた。
至近距離。
回避は間に合わない。
赤紫の光が、リリアの眼前で膨れ上がる。
ルミナ
「っ!」
ドォンッ――!!
魔力の衝撃が炸裂する。
だが、リリアの身体へは届かなかった。
白銀の結界が、その身を包み込んでいる。
ルミナが展開した半球状の障壁。
衝撃を正面から受け止めた結界の表面へ亀裂が走る。
それでも、最後まで砕けることはなかった。
リリア
「ありがとう、ルミナ!」
ルミナ
「まだだよ!」
ルミナの声に反応し、リリアがその場から飛び退く。
次の瞬間。
結界のあった場所へ、幾つもの魔力の槍が降り注いだ。
ドドドドドッ――!!
白い床が抉られる。
僅かでも退くのが遅れていれば、模擬戦用に威力を抑えられているとはいえ、無傷では済まなかった。
だが、エリュシアの攻撃は終わらない。
背後へ魔法陣が浮かび、そこから放たれた光がノクスへ迫る。
ノクス
「くっ……!」
ノクスは氷の盾を作り、正面から光を受け止めた。
衝撃に押され、両足が床を滑る。
氷の表面へ大きな亀裂が走った。
さらに左右から、新たな魔力の矢が迫る。
ルミナ
「ノクス姉さん、右へ!」
声と同時に、ノクスの左側へ白銀の結界が展開した。
ノクスは迷わず右へ跳ぶ。
左から迫っていた魔力の矢は結界が防ぎ、右から来たものだけを氷の刃で弾き落とした。
ノクスが着地すると、その足元へ白銀の光が走る。
疲労していた脚へ魔力が流れ込み、動きが僅かに軽くなった。
リリアの周囲にも、同じ光が満ちている。
身体強化。
結界。
魔力の補助。
ルミナは2人の位置と状態を常に把握し、必要な魔法を必要な瞬間に送り続けていた。
判断に迷いはない。
魔力の流れにも無駄がない。
以前は、自分を守るだけで精一杯だった。
今は、異なる場所で戦う2人へ同時に魔法を施しながら、エリュシアの動きまで追っている。
エリュシアは、次々と繰り出される攻撃をさばきながらルミナを見た。
支援役としての判断は速い。
魔力操作も正確だった。
だが――。
ルミナ自身は、まだ1度も攻撃魔法を放っていない。
自分が攻撃へ加われば、さらに相手を追い詰められる場面でも。
ルミナは2人の支援だけに徹していた。
エリュシアの目が、僅かに細くなる。
再び、リリアの炎が白い空間を駆け抜けた。
リリア
「はぁぁぁっ!!」
エリュシアが結界を張る。
炎が正面からぶつかり、激しい火花が散った。
その横から、ノクスが踏み込む。
青白い魔力を纏った氷の刃を振り下ろした。
エリュシアは身を沈めてかわし、ノクスの腕を掴もうとする。
だが、ノクスは無理に攻め込まない。
捕まる前に腕を引き、その場から素早く離れた。
直後。
ノクスのいた場所を、リリアの炎が通り抜ける。
避ければ、その先には再びノクスが待っている。
攻撃が途切れない。
どちらかが仕掛け。
もう片方が次の逃げ道を潰す。
危険が迫れば、ルミナが2人を守る。
以前までの3人にはなかった連携だった。
エリュシアはノクスの氷を片手で弾く。
背後から迫るリリアの炎を振り返らずにかわし、そのまま2人の間を抜けた。
リリアとノクスが、すぐに向きを変える。
ルミナの視線も、移動したエリュシアを正確に追っていた。
その時。
エリュシアの目が、ルミナへ向いた。
ほんの一瞬。
弟子の姿を確かめるように。
次に踏み出した足が、僅かに遅れる。
リリアの炎が迫る。
エリュシアは、それを横へ避けた。
だが。
避けた先にはノクスがいる。
ノクス
「はっ!」
鋭い氷の刃が振るわれる。
エリュシアは片手で受け流す。
しかし、勢いを殺しきれなかったように身体が僅かに傾いた。
片足が床を滑る。
腕が下がる。
正面が大きく開いた。
完全な隙。
ノクスが目を見開く。
今まで、どれほど攻撃を重ねても作れなかった好機。
その正面にいるのは、後方で魔力を蓄えていたルミナだった。
ノクス
「ルミナ!」
鋭い声が、白い空間へ響く。
ルミナの肩が揺れた。
ノクス
「今だ! 撃て!!」
ルミナ
「……!」
考えるより早く、ルミナは右手をエリュシアへ向けていた。
足元へ、白銀の魔法陣が広がる。
身体の奥にある魔力が、一気に右腕へ流れ込んだ。
眩い光が掌へ集まる。
狙いは外れていない。
距離も近い。
エリュシアの正面を遮るものはない。
今なら。
当てられる。
今まで1度も捉えることのできなかった師へ、確実に攻撃を届かせられる。
掌の光が膨れ上がる。
空気が震え、白い床へ細かな亀裂が走った。
あとは放つだけ。
それだけだった。
ルミナ
「…………」
指先が動かない。
無防備なエリュシアが見える。
いつも自分達を導き。
叱り。
守ってくれた師匠。
もし、この魔法が当たったら。
傷つく。
加減を誤れば、もっと酷いことになるかもしれない。
光が不安定に揺れた。
ルミナ
「…………っ」
撃てない。
魔力は集まっている。
術式も完成している。
狙いも定まっている。
それでも。
最後の1歩を踏み出せない。
ノクス
「ルミナ!?」
その声が届いた時には、もう遅かった。
エリュシアの目から隙が消える。
傾いていた身体が戻り、下がっていた腕が上がった。
次の瞬間。
エリュシアの姿が消えた。
ルミナ
「え――」
声を漏らした時には、冷たい魔力がルミナの首筋へ触れていた。
いつの間にか、エリュシアが目の前に立っている。
その指先から伸びた、赤紫の魔力の刃。
僅かでも動けば、首へ触れる距離。
リリア
「ルミナ!」
リリアが助けに向かおうとする。
だが、その背後へ巨大な魔法陣が浮かび上がった。
赤紫の光が収束し、今にも放たれようとしている。
リリア
「――ッ!」
動けない。
振り返ることもできない。
同時に。
ノクスの喉元にも、小さな魔法陣が現れていた。
魔力の矢が形成され、その先端が首へ向けられている。
ルミナ。
リリア。
ノクス。
3人とも、完全に動きを封じられていた。
白い修練場へ、静寂が落ちる。
ルミナの掌へ集まっていた光が力を失い、細かな粒となって消えていく。
エリュシア
「――そこまで」
その一言と同時に、ルミナの首元にあった刃が消えた。
リリアの背後と、ノクスの喉元に浮かんでいた魔法陣も、跡形もなく霧散する。
誰も動かなかった。
今まで響いていた魔法の轟音も、床を蹴る足音もない。
荒い呼吸だけが、真っ白な空間へ残っている。
リリアが、ゆっくりと両腕を下ろした。
リリア
「……うちらの負けだね」
ノクス
「……ああ」
ノクスも悔しそうに唇を噛み、構えを解いた。
ルミナは何も言えないまま、自分の右手を見つめていた。
つい先ほどまで、確かに魔力が集まっていた手。
撃てる状況だった。
自分が撃っていれば。
結果は違っていたかもしれない。
それでも。
ルミナは最後まで、魔法を放つことができなかった。
◇◇◇
模擬戦の終了を告げる声が消えた直後。
リリア
「つっかれたぁぁぁーーー!!」
リリアが、白い床へ大の字になって倒れ込んだ。
両腕と両脚を投げ出し、荒い呼吸を繰り返している。
ノクス
「お前は……少しは静かに――」
注意しようとしたノクスも、最後まで言い切ることができなかった。
その場へ膝をつき、額に浮かんだ汗を拭う。
ルミナも息を整えようとしながら、ゆっくりと床へ膝をついた。
リリアとノクスを支え続けたことで、魔力を大きく消耗している。
それでも。
疲労よりも、自分が攻撃できなかったことの方が重く胸へ残っていた。
エリュシア
「全然駄目だな」
間髪を入れずに告げられた言葉に、3人の動きが止まる。
リリア
「えっ?」
リリアが、きょとんとした顔で上体を起こした。
模擬戦に勝てなかったことは分かっている。
だが、以前よりも遥かに長く戦えた。
3人の連携も上手くいっていた。
少なからず手応えを感じていたのだろう。
その表情が、エリュシアの言葉を受けて少しずつ曇っていく。
リリア
「…………」
リリアは肩を落とし、俯いた。
ノクスも、床へついた手を強く握る。
ノクス
「ぐっ……」
悔しさを噛み殺すような声が漏れた。
エリュシアは3人の反応を見ても、表情を変えない。
静かに弟子達の前まで歩いてくる。
エリュシア
「リリア」
リリア
「はい!」
リリアは床へ座ったまま、背筋を伸ばした。
エリュシア
「火力は申し分ない。以前より、魔力を収束させる速度も上がっている」
その言葉を聞いた途端。
俯いていたリリアが、勢いよく上体を起こした。
リリア
「ほら!」
エリュシア
「だが、大技に頼りすぎだ」
リリア
「…………はい」
浮かびかけた笑みが、一瞬で消えた。
エリュシア
「高威力の魔法を放つことばかり考え、細かな制御を疎かにしている。今もノクスと連携できたから戦えただけだ」
リリア
「でも! 当たりさえすれば!」
エリュシア
「当たればな」
短い返答に、リリアが口を閉じる。
エリュシア
「当たらない魔法に、どれほどの威力があろうと意味はない。力だけに頼るな」
リリア
「……はい」
今度は素直に頷いた。
エリュシアの視線が、その隣へ移る。
エリュシア
「ノクス」
ノクス
「はい」
エリュシア
「状況判断も魔力操作も悪くない。リリアの動きを見ながら、次の攻撃へ繋げたことも評価できる」
ノクスは表情を変えず、エリュシアの言葉を聞いている。
エリュシア
「だが、決定打に欠ける」
ノクスの眉が、僅かに寄った。
エリュシア
「お前は失敗しないことを優先しすぎる。安定はしているが、自ら勝負を決める一手がない」
ノクス
「……はい」
エリュシア
「器用さに甘えるな。お前にしかできないものを見つけろ」
ノクス
「はい、エリュシア様」
エリュシアは最後にルミナを見た。
ルミナの肩が、僅かに強張る。
エリュシア
「ルミナ」
ルミナ
「……はい」
エリュシア
「結界、治癒、補助、魔力操作。どれも十分に形になってきた」
ルミナは顔を上げた。
エリュシア
「今の模擬戦で2人が動き続けられたのも、お前の支援によるところが大きい」
自分の働きを認められても、ルミナの表情は晴れなかった。
エリュシアが何を尋ねるのか。
既に分かっていた。
エリュシア
「だからこそ聞く。なぜ撃たなかった?」
ルミナ
「…………」
ルミナは答えられない。
自分の右手へ視線を落とす。
エリュシア
「私の隙は見えていただろう」
ルミナ
「……はい」
エリュシア
「ノクスの声も聞こえていたな」
ルミナ
「はい……」
エリュシア
「魔力も集まっていた。術式にも問題はなかった」
すべて、その通りだった。
撃てなかった理由は、技術でも魔力でもない。
エリュシア
「なら、なぜ撃たなかった?」
ルミナ
「…………」
沈黙が続く。
エリュシアは急かさない。
ルミナが、自分の中にある答えへ辿り着くまで静かに待っている。
エリュシア
「私だったからか?」
ルミナ
「……え?」
エリュシア
「攻撃する相手が私でなければ、撃てたのか?」
ルミナ
「それは……」
言葉が止まった。
相手がエリュシアだったから。
自分の師匠だったから。
そう答えようとした。
だが。
もし目の前にいたのが、知らない人間だったなら。
敵だったなら。
自分は本当に撃てたのか。
ルミナには分からなかった。
エリュシア
「傷つけるのが怖いか?」
核心を突かれたように。
ルミナの指が、小さく震えた。
ルミナ
「……はい」
エリュシア
「殺すのが怖いか?」
ルミナは息を呑んだ。
模擬戦であっても、攻撃魔法を放つ瞬間には、その先にあるものを考えてしまう。
肉を裂く光景。
流れる血。
倒れた者が、2度と起き上がらないかもしれないという恐怖。
長い沈黙のあと。
ルミナは、小さく頷いた。
ルミナ
「…………はい」
エリュシア
「そうか」
エリュシアは否定しなかった。
怒鳴ることも。
弱さだと切り捨てることもしない。
エリュシア
「だが、戦場で敵は待ってくれん」
静かな声だった。
それでも、その言葉は重く響いた。
エリュシア
「今の戦いで、お前が撃たなかった結果は分かるな?」
ルミナが、ゆっくりとリリアとノクスを見る。
2人とも何も言わない。
責めるような目も向けていない。
だからこそ。
胸が苦しくなった。
エリュシア
「お前1人の犠牲で済むのなら、まだいい」
ルミナの呼吸が止まる。
エリュシア
「だが――今ので、3人とも死んだ」
ルミナ
「…………!」
身体が強張った。
模擬戦だから。
今、3人は生きている。
怪我さえしていない。
だが。
もし、あれが本当の戦場だったなら。
自分の首は切られ。
リリアは背後から魔法を受け。
ノクスの喉も貫かれていた。
自分が躊躇した、ほんの一瞬で。
2人まで死なせていた。
ルミナの顔から、血の気が引いていく。
エリュシア
「ルミナ。守ることは大切だ。傷ついた者を治すこともな」
エリュシアの視線が、ルミナの右手へ向く。
エリュシア
「だが――守るだけでは、大切なモノを守れない時がある」
ルミナ
「…………」
エリュシア
「敵を倒さなければ守れない命もある。その時、お前はどうする?」
ルミナの唇が僅かに動く。
だが、声にはならなかった。
エリュシア
「誰かにやらせるのか?」
エリュシアの目が、真っ直ぐにルミナを捉える。
エリュシア
「ヤヌスにやらせるのか?」
ルミナ
「……!」
その名前を聞いた瞬間。
ルミナが、はっと顔を上げた。
エリュシア
「お前は誰も傷つけず、誰も殺さず――ヤヌスにばかり殺させるのか?」
胸の奥へ、冷たいものが落ちていく。
エリュシア
「ヤヌスにばかり、罪を背負わせ続けるのか?」
ルミナの脳裏に、あの日の光景が蘇った。
倒れたレオン。
その身体から流れる血。
白い仮面をつけたカイン。
そして。
怒りと悲しみに呑まれ、1人で戦い続けたヤヌス。
右半身を黒に覆われ。
何度倒されても立ち上がり。
自分を守ろうと、レオンを取り戻そうと、カインへ向かっていった。
自分は何もできなかった。
声を上げることしか。
その背中を見つめることしかできなかった。
最後には。
伸ばした手さえ届かず、ヤヌスは奈落へ落ちていった。
ルミナ
「…………」
膝の上で、両手を強く握る。
爪が掌へ食い込む。
それでも、その手から力を抜くことができなかった。
エリュシア
「ルミナ」
呼ばれ、ルミナが顔を上げる。
エリュシアの表情に怒りはない。
ただ。
逃げることを許さない、静かな厳しさがあった。
エリュシア
「お前は本当に、ヤヌスの隣に立つ気があるのか?」
ルミナ
「…………」
答えられない。
立ちたい。
もう1度会いたい。
今度こそ、自分がヤヌスを守りたい。
その想いだけなら、ずっと胸の中にある。
だが。
ヤヌスが歩く道に血が流れるのなら。
誰かを傷つけなければ、隣に立つことさえできないのなら。
今の自分は。
本当に、その覚悟を持っているのか。
ルミナには答えが出せなかった。
白い空間へ、長い沈黙が落ちる。
やがて。
エリュシアは3人へ背を向けた。
エリュシア
「今日はここまでだ」
それ以上、何も告げない。
赤紫の髪を揺らし、エリュシアは白い空間の奥へ歩いていく。
やがて、その姿は光へ溶けるように消えた。
残されたルミナは、自分の手を見つめ続けていた。
守るための手。
治すための手。
けれど。
ヤヌスの隣に立つためには。
この手で、誰かを傷つけなければならない時が来るかもしれない。
その現実だけが。
重く胸へ残っていた。
◇◇◇
夜。
魔女の街にある公衆浴場。
石造りの露天風呂から、白い湯気が立ち上っていた。
高い壁の向こうには、雲1つない夜空が広がっている。
無数の星が輝き、淡い月明かりが湯の表面で揺れていた。
昼間の修行を終えたルミナ達は、並んで湯へ浸かっている。
温かな湯が、疲れた身体へ染み込んでいく。
誰も口を開かない。
昼間の模擬戦。
そして、エリュシアから告げられた言葉が、3人の間へ残っていた。
その静けさを最初に破ったのは、リリアだった。
リリア
「ぷはぁぁぁーーーっ!!」
勢いよく立ち上がると、浴槽の縁へ片足を掛ける。
その姿を見たノクスの眉が動いた。
ノクス
「リリア」
リリア
「何?」
ノクス
「まさかとは思うが、飛び込むつもりではないだろうな」
リリアが振り返る。
その顔には、悪戯を思いついた子供のような笑みが浮かんでいた。
リリア
「とうっ!」
ノクスが止めるよりも早く、リリアが湯船へ飛び込んだ。
バシャァンッ――!!
ルミナ
「きゃっ!」
ノクス
「リリア!!」
大量の湯が跳ね上がり、ルミナとノクスへ降り注ぐ。
湯の中へ沈んだリリアが、すぐに顔を出した。
リリア
「気持ちいい!」
ノクス
「湯船に飛び込むな!」
リリア
「誰もいないんだからいいでしょ」
ノクス
「私達がいる!」
リリア
「ノクスは相変わらず真面目だねぇ」
ノクス
「お前が不真面目なんだ」
濡れた顔を手で拭いながら、ルミナが小さく笑った。
昼間から胸の奥へ溜まっていた重さが、ほんの少しだけ薄らぐ。
ルミナ
「リリア姉さん。さすがに今のは駄目だよ」
リリア
「ルミナまで!?」
ノクス
「当然だ」
リリア
「2人とも、細かいことばっかり言うんだから」
不満そうに頬を膨らませながら、リリアがノクスを見る。
その視線が、ゆっくりと下がった。
ノクスの胸元で止まる。
リリア
「だから胸も小さいんだよ」
空気が止まった。
ノクスの眉が、ゆっくりと吊り上がる。
ノクス
「……なんだと?」
リリア
「魔力操作と一緒だよ。細かいことばっかり気にしてるから、成長しないんじゃない?」
ノクス
「胸と魔力操作に何の関係がある!」
ノクスが両手で湯を掬い、リリアの顔へ浴びせた。
バシャッ――!!
リリア
「やったな!」
リリアもすぐに湯を掛け返す。
露天風呂へ何度も水音が響いた。
ルミナは巻き込まれないよう、浴槽の端へ逃げようとする。
だが。
その動きへ気づいたリリアが、素早く背後へ回り込んだ。
リリア
「そういえば――」
リリアの視線が、ルミナの胸元へ落ちる。
リリア
「ルミナは、こっちが立派に成長したよねぇ」
ルミナ
「え?」
背後から両腕が伸びる。
むにっ。
ルミナ
「きゃっ!?」
ルミナの身体が跳ねた。
慌ててリリアの手を振りほどき、両腕で胸元を隠す。
ルミナ
「リリア姉さんっ!!」
リリア
「成長確認!」
ルミナ
「しなくていい!」
顔を真っ赤にするルミナを見て、リリアが楽しそうに笑う。
その隣。
ノクスは、自分の胸元へ視線を落とした。
次に。
ルミナを見る。
もう1度、自分を見る。
ノクス
「……なぜだ……」
ルミナ
「ノクス姉さんまで、どこ見てるの!?」
リリア
「あー! やっぱりノクス、気にしてるんだー!」
ノクス
「違う! 成長とは不公平だと実感しているだけだ!」
リリア
「それを気にしてるって言うんだよ!」
再び湯が飛び交う。
怒るノクス。
笑うリリア。
巻き込まれ、困り果てるルミナ。
昼間の模擬戦で生まれた重苦しい空気も、今だけは湯気の向こうへ消えていた。
しばらくして。
騒ぎ疲れた3人は、並んで湯へ浸かっていた。
リリアは浴槽の縁へ頭を預け、満足そうに目を閉じている。
ノクスも口では文句を言いながら、先ほどより肩の力が抜けていた。
ルミナは、頭上に広がる夜空を見上げている。
星の光。
かつて、森の家から見上げたものと変わらない。
あの頃は。
隣にレオンとヤヌスがいた。
ノクス
「そういえば、ルミナ」
ルミナ
「ん?」
ノクス
「ヤヌスとやらは大丈夫なのか?」
ルミナが、夜空からノクスへ視線を戻す。
ルミナ
「うん……。お師匠様の旧友のところで頑張ってるみたい」
リリア
「エリュシア様から聞いたの?」
ルミナ
「うん。こっちに来た時に教えてもらったの」
ノクス
「エリュシア様の旧友なら、信頼できる人物なのだろう」
ルミナ
「そうだと思う」
詳しい場所は知らない。
どのような修行をしているのかも。
今、ヤヌスがどのような顔で過ごしているのかも分からない。
それでも。
生きている。
誰かが傍にいてくれる。
そのことだけが、ルミナの心を支えていた。
リリア
「早く会いたいでしょ?」
ルミナ
「……うん」
飾らない、小さな声。
だが。
迷いのない答えだった。
リリアが、にやりと笑う。
リリア
「愛しの王子様に?」
ルミナ
「ヤ、ヤヌスはそんなんじゃないよ!!」
ルミナが勢いよく顔を上げる。
頬が僅かに赤くなっていた。
リリア
「じゃあ、ヤヌスってルミナの何?」
ルミナ
「何って……」
少しだけ考える。
ヤヌスは家族。
この世界に残された、たった1人の大切な人。
けれど。
その想いへ、どのような名前をつければいいのか。
ルミナ自身にも、まだ分からない。
ルミナ
「ヤヌスは……弟みたいな感じかな」
そう答えたルミナの口元へ、自然と柔らかな笑みが浮かんだ。
リリア
「ほんとにぃ?」
ルミナ
「本当だよ」
ノクス
「ヤヌスの話をする時だけ、随分と表情が柔らかくなるな」
ルミナ
「ノクス姉さんまで……」
リリア
「やっぱり、王子様だ」
ルミナ
「違うってば!」
湯気の中へ、リリアの笑い声が響く。
ルミナは赤くなった顔を隠すように、鼻の下まで湯へ沈んだ。
それから。
もう1度、夜空を見上げる。
瞳に映る星の光が、寂しそうに揺れた。
ルミナ
「ヤヌス……」
誰へ聞かせるでもなく、小さく呟く。
ルミナ
「元気にしてるかな……」
返事はない。
穏やかな夜空だけが、静かに広がっていた。
◇◇◇
風呂を出た3人は、夜の魔女の街を歩いていた。
軒先へ灯された魔法灯が、石畳へ淡い光を落としている。
夜風が、火照った身体を心地よく冷ましていった。
ルミナとリリアが並んで歩き、その少し後ろをノクスがついてくる。
リリア
「でも、本当に弟みたいなものなら、会った時に抱き締めたりするの?」
ルミナ
「しないよ!」
リリア
「じゃあ、手は繋ぐ?」
ルミナ
「繋がない!」
リリア
「本当かなぁ」
ルミナ
「ノクス姉さん!」
助けを求めるように、ルミナが振り返る。
ノクス
「いい加減にしておけ、リリア」
リリア
「ノクスだって気になるでしょ?」
ノクス
「ならん」
リリアが不満そうに振り返った、その時だった。
ルミナの前へ、淡い赤紫の光が舞い降りる。
ルミナ
「……?」
細かな光が集まり、小さな鳥の形を作った。
魔力によって生み出された伝達術。
鳥はルミナの肩へ止まると、エリュシアの声を発した。
エリュシアの声
『ルミナ。星幽の塔へ来い』
それだけ告げると、光の鳥は宙へ溶けるように消えた。
リリア
「この時間に?」
ノクス
「珍しいな」
ルミナも、光の消えた場所を見つめる。
何の用件なのかは告げられていない。
昼間の模擬戦について。
まだ話があるのかもしれない。
ルミナ
「私、行ってくるね」
リリア
「また怒られたら逃げてきな」
ノクス
「無理に決まっているだろう」
リリア
「分かんないよ。ルミナなら逃げ切れるかも」
ノクス
「エリュシア様から逃げ切れる者がいると思うか?」
ルミナは2人のやり取りを聞き、思わず笑みを零した。
ルミナ
「ふふっ。大丈夫だよ」
リリアとノクスへ手を振り、1人で星幽の塔へ向かう。
その時のルミナは。
まだ笑っていた。
◇◇◇
星幽の塔。
最上階にある、エリュシアの自室。
静かな部屋の中へ、窓から月明かりが差し込んでいた。
壁一面に並ぶ書物。
古びた机。
その上には、幾つもの書類と魔導具が置かれている。
部屋の奥。
大きく開かれた窓の傍へ、エリュシアが1人で立っていた。
片手には、透き通った酒の入ったグラス。
赤紫の長い髪が、窓から入り込む夜風に揺れている。
扉の前へ立ったルミナは、小さく息を整えた。
ルミナ
「失礼します」
エリュシア
「来たか」
ルミナ
「はい」
ルミナが部屋へ入る。
扉が閉じると、外の音は完全に遮断された。
エリュシアは窓の外を見たまま、グラスを傾ける。
すぐには話を始めない。
静かな時間だけが、2人の間を流れていく。
ルミナはエリュシアの背中を見つめながら、声を待っていた。
やがて。
エリュシア
「ルミナ」
ルミナ
「はい」
エリュシアは振り返らない。
エリュシア
「私は……厳しいか?」
思いがけない問いに、ルミナが僅かに目を見開いた。
ルミナ
「厳しくないとは……言えないです」
迷った末に、正直に答える。
エリュシアが僅かにグラスを傾けた。
エリュシア
「そうだろうな」
ルミナ
「でも――」
ルミナが胸元へ手を添える。
ルミナ
「間違っていないと思います」
昼間の模擬戦が蘇る。
目の前へ現れた隙。
ノクスの声。
掌へ集まった魔力。
それでも。
最後まで動かなかった指先。
ルミナ
「私が撃てなかったせいで……もし、あれが本当の戦いだったら」
声が僅かに震える。
ルミナ
「リリア姉さんも、ノクス姉さんも……死んでいました」
口にした途端。
その事実が、さらに重みを増した。
ルミナは俯きかける。
だが。
逃げるように目を逸らすことはしなかった。
両手を強く握り、エリュシアの背中を見る。
ルミナ
「私……強くなります」
エリュシアのグラスが止まる。
ルミナ
「守るだけじゃなくて、必要な時に戦えるように」
昼間、答えることのできなかった問い。
その答えを探すように、言葉を続ける。
ルミナ
「ちゃんと、ヤヌスの隣に立てるように」
エリュシアは、すぐには答えなかった。
窓の外を見たまま。
やがて、静かに目を伏せる。
エリュシア
「……そうか」
短い言葉だった。
だが。
その声には、昼間とは異なる柔らかさがあった。
再び、沈黙が訪れる。
エリュシアはグラスの中へ視線を落とす。
月明かりが酒へ映り、僅かに揺れていた。
エリュシア
「今日はな……」
低い声が落ちる。
ルミナが顔を上げた。
エリュシアは窓の外。
遥か遠くにある何かを見つめている。
エリュシア
「旧友の命日なんだ」
ルミナ
「……命日?」
エリュシア
「剣聖ヴァルド」
初めて聞く名。
だが。
剣聖という言葉には聞き覚えがあった。
エリュシア
「レオンの師だった男だ」
ルミナ
「レオンの……?」
エリュシア
「ああ」
エリュシアの声が、僅かに遠くなる。
エリュシア
「そして――今、ヤヌスと共にいる男でもある」
ルミナ
「……!」
ルミナの瞳が大きく開かれた。
つい先ほどまで。
元気にしているだろうかと考えていたヤヌス。
その傍にいる男。
その男の命日だと、エリュシアは言った。
ルミナ
「でも……命日って……」
生きているはずだ。
今もヤヌスと共にいるなら。
命日という言葉は、おかしい。
エリュシアが、ゆっくりとグラスを置いた。
エリュシア
「正確には――今日が、ヤツの2度目の命日だ」
ルミナ
「2度目……?」
意味が分からない。
困惑するルミナへ、エリュシアは静かに語り始める。
エリュシア
「1度目は、私の制止を振り切り、レオンと共に教会へ向かった日だ」
ルミナは息を呑んだ。
ヴァルドという男と。
レオン。
2人の過去を、ルミナは何も知らない。
エリュシア
「止めた。何度もな」
エリュシアの指が、窓枠へ触れる。
僅かに力が込められた。
エリュシア
「行けば帰ってこられないと思った。だから、行くなと言った」
それでも。
ヴァルドは行った。
レオンと共に。
教会へ。
エリュシア
「止められなかった」
静かな声だった。
エリュシア
「ヴァルドも。レオンも」
夜風が、エリュシアの髪を揺らす。
エリュシア
「私は、大切なものを守れなかった」
ルミナは何も言えない。
いつも感情を表へ出さず。
何でも知っているように見えたエリュシアの声が。
今は。
僅かに震えている。
エリュシア
「だから、あの日――私の中で、ヤツは1度死んだ」
エリュシアの瞳が、遠い過去を見ている。
そして。
その視線が現在へ戻った。
エリュシア
「そして今日、本当の死を迎える」
ルミナ
「…………」
告げられた言葉を。
すぐには理解できなかった。
意味が胸へ落ちた瞬間。
ルミナの身体が動く。
ルミナ
「だったら……!」
エリュシアへ詰め寄る。
ルミナ
「助けに行きましょう!」
エリュシアは答えない。
ルミナ
「まだ間に合うかもしれません! お師匠様なら、奈落へ行けるんですよね!?」
ルミナの脳裏へ、ヤヌスの姿が浮かぶ。
ヴァルドが死ぬ。
それは。
今のヤヌスから、傍にいる者がまた失われるということ。
ルミナ
「ヤヌスも、そこにいるんですよね!?」
エリュシアの目が、僅かに揺れる。
それでも。
窓の外を向いたまま、低い声で答えた。
エリュシア
「いや、行かない」
ルミナ
「……え?」
エリュシア
「私は行かない」
ルミナは、自分の耳を疑った。
ルミナ
「どうしてですか!?」
エリュシア
「ヴァルド自身が選んだことだ」
ルミナ
「そんなの……!」
声が大きくなる。
師へ向かって声を荒らげることなど、これまでほとんどなかった。
それでも。
今は止めることができない。
ルミナ
「生きてるんですよね!?」
窓の外へ向けられたエリュシアの背中を、真っ直ぐに見つめる。
ルミナ
「まだ、助けられるかもしれないんですよね!?」
エリュシアは答えない。
ルミナ
「だったら、行きましょうよ!」
エリュシアは動かない。
背を向けたまま、ルミナの言葉を受け止めている。
その沈黙が。
ルミナの感情を、さらに強く揺さぶった。
ルミナ
「お師匠様が行かないなら――」
拳を強く握る。
ルミナ
「私1人でも行きます!」
その瞬間。
エリュシアが振り返った。
ルミナ
「……え……」
言葉が止まる。
エリュシアの頬を。
1筋の涙が伝っていた。
月明かりを受け。
静かに光りながら落ちていく。
いつも余裕を崩さない魔女。
魔女の街を統べる者。
世界の真実を知り、多くの者を導くエリュシア。
その姿は。
今だけは、どこにもなかった。
エリュシア
「私に……」
掠れた声が落ちる。
エリュシアの唇が、僅かに震えている。
エリュシア
「2度も、友の死を見ろと言うのか……」
ルミナ
「…………」
何も言えなかった。
世界でも有数の力を持つ魔女でもない。
街を統べる長でもない。
そこにいるのは。
大切な友人を、もう1度失おうとしているエリュシアだった。
ルミナの握っていた拳から、少しずつ力が抜けていく。
長い沈黙。
窓から入り込む風だけが、2人の間を通り過ぎた。
やがて。
エリュシアは涙を拭うことなく、再び窓の外へ顔を向ける。
エリュシア
「ヤヌスは……これを越えねばならん」
ルミナ
「…………」
エリュシア
「そして、お前もだ」
ルミナが、僅かに顔を上げる。
エリュシア
「これからお前達が進む道では、守れないものもある」
昼間の模擬戦が蘇る。
エリュシア
「救えないものもある」
レオンへ伸ばすことのできなかった手。
奈落へ落ちるヤヌスへ、届かなかった指先。
エリュシア
「失うものもある」
胸の奥が締めつけられる。
守りたいと願うだけでは。
すべてを守ることはできない。
エリュシア
「それでも――前へ進まねばならん時が来る」
ルミナは俯かない。
両手を強く握り、窓の外を見つめた。
星幽の塔から見える、夜の魔女の街。
その遥か先。
深い森と。
奈落が存在する方角。
今。
ヤヌスは、何をしているのだろう。
隣にいる者へ、どのような顔を向けているのだろう。
まだ。
自分から大切な者が失われようとしていることなど。
何も知らずに。
ルミナ
「…………」
声を出せば。
胸の中にある不安が溢れてしまいそうだった。
それでも。
小さく。
その名を呼ぶ。
ルミナ
「ヤヌス……」
エリュシアも、同じ方角を見つめている。
何も言わない。
ただ。
窓枠へ置かれたグラスだけが。
触れている指先の震えを受け。
僅かに揺れていた。




