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第5話 1人の勇者、1人の魔族

黒印のヤヌス


第2章 剣聖


第5話 1人の勇者、1人の魔族


 朝靄の残る訓練場に、鋭い剣戟の音が響いていた。


 ガキィンッ――!!


「…………!」


 弾かれた剣が白い石畳の上を滑り、回転しながら数歩離れた場所へ突き刺さる。


 剣を失った青年の喉元には、銀色の剣先が向けられていた。


ガレス

「13回目だ」


「…………」


 アークは目の前にある刃を見つめたまま、動けなかった。


 額から汗が流れ、乱れた呼吸に合わせて肩が大きく上下している。


 昨日、何万もの人々を前に、人類へ平和を取り戻すと宣言した新たなる勇者。


 その翌朝。


 アークは同じ男を相手に、13回続けて敗れていた。


◇◇◇


 聖都ルーメリア。


 ルーメン教会総本山。


 大聖堂に隣接する訓練場。


 高い壁に囲まれた広場の中央には白い石畳が敷き詰められ、その表面へ幾つもの傷が刻まれている。


 歴代の聖騎士達が、長い年月にわたって修練を重ねてきた場所だった。


 その中央に、2人の男が立っている。


 1人は、純白の訓練着を身につけた青年。


 アーク・レイヴェル。


 右手には、完全に覚醒した聖印が刻まれている。


 聖印が目覚めてから、アークの身体は以前とは比較にならないほど変わっていた。


 地面を蹴れば、一息で数歩の距離を詰められる。


 重い剣も木の枝のように振るうことができ、どれほど走っても以前ほど簡単には息が乱れない。


 目で追えなかったものが見える。


 聞き取れなかった音まで聞こえる。


 だが、その力をアークはまだ使いこなせていなかった。


 もう1人。


 アークの喉元へ剣を向けている男。


 年齢は40代前半。


 短く整えられた髪。鋭い眼差し。太い眉。


 鍛え上げられた身体を、正統な聖騎士の白銀鎧が覆っている。


 背丈はアークよりも頭1つ分ほど高い。無言で立っているだけで、周囲の空気が引き締まるような威圧感を持つ男。


 ガレス・ヴァルハイト。


 ルーメン教会、第一聖騎士。


 ガレスはアークの喉元から剣を下ろし、刃を払って腰の鞘へ収めた。


 カチン――。


 アークは膝をつきそうになる身体を堪え、乱れた呼吸を整えると、石畳へ突き刺さった剣を見た。


アーク

「……もう1回」


 ガレスがアークへ視線を戻す。


アーク

「もう1回、お願いします」


ガレス

「駄目だ」


 即答だった。


 アークが顔を上げる。


アーク

「まだやれます!」


ガレス

「右手を見ろ」


アーク

「右手……?」


 言われるまま自分の右手へ目を落とす。


 剣を握っていた指が小さく震えていた。握り込もうとしても、思うように力が入らない。


 聖印は今も淡い光を放っている。


 だが、その輝きも訓練を始めた時より弱くなっていた。


ガレス

「身体が動くことと、正しく動かせることは違う」


アーク

「でも……」


ガレス

「疲労した身体で続けても、悪い癖がつくだけだ。今日の実戦訓練は終わりだ」


「…………」


 アークは何も言い返せなかった。


 右手は震えている。両脚も、立っているだけで力が抜けそうになっていた。


 勇者になった。


 完全に覚醒した聖印を持っている。


 昨日までは想像もできなかった力が、今の自分には宿っている。


 それでも、ガレスには剣先1つ届かなかった。


 13回。


 どれほど速く踏み込んでも、どこから剣を振っても、すべて見切られ、最後には剣を弾かれた。


 アークは石畳へ突き刺さっている剣へ歩み寄り、柄を握って両手で引き抜いた。


アーク

「……1回くらい、勝たせてくれてもいいじゃないですか……」


ガレス

「何か言ったか?」


アーク

「何でもありません!」


 反射的に背筋を伸ばす。


 ガレスは表情を変えない。


 聞こえていたのか、本当に聞こえなかったのか、アークには分からなかった。


 ガレスが訓練場の出口へ向かって歩き出す。


ガレス

「次は座学だ」


アーク

「げっ……」


 思わず声が漏れた。


 ガレスが足を止め、僅かに振り返る。


アーク

「……剣の方がいいです」


ガレス

「却下だ」


アーク

「ですよね……」


 アークは肩を落とし、剣を鞘へ収めてガレスの背中を追いかけた。


 訓練場を出る直前、1度だけ振り返る。


 石畳の中央。


 自分が13回倒された場所。


 昨日、人々の前で掲げた右手を握る。


 アークは唇を噛むと、何も言わずに訓練場をあとにした。


◇◇◇


 大聖堂へ続く回廊。


 白い柱の間から朝の光が差し込み、壁には歴代勇者と聖騎士の姿を描いた絵が並んでいた。


 アークは汗に濡れた訓練着のまま、両脚を引きずるように回廊を歩いている。


 ガレスは先に座学の準備へ向かった。


 今はアーク1人。


 そう思っていたが。


老司祭

「随分と、しぼられたようですな」


 声に気づき、アークが顔を上げる。


 回廊の先には、昨日、聖印の覚醒を見届けた老司祭が立っていた。


 老司祭は疲れ切ったアークの姿を見て、穏やかに笑っている。


アーク

「見てたんですか?」


老司祭

「最初の数回だけですが」


アーク

「ははは……。見られたのが最初だけでよかったです」


老司祭

「その後は、どうだったのですか?」


アーク

「13回です」


老司祭

「なるほど」


「…………」


 老司祭は驚く様子もなく頷いた。


 アークが僅かに眉を寄せる。


アーク

「そこは、もう少し驚いてくれてもいいんじゃないですか?」


老司祭

「アーク様が勝たれたのなら、大いに驚いておりました」


アーク

「…………」


 慰められている気がしない。


 アークは回廊の柱へ背中を預け、自分の右手を見る。震えは先ほどより治まっていた。


アーク

「……本当に、俺が勇者でいいんですかね」


 老司祭の笑みが僅かに薄れる。


アーク

「昨日は聖印が覚醒して、みんなに勇者って呼ばれて……自分でも、何かできるようになった気がしてたんです」


 だが、現実にはガレスへ触れることさえできなかった。


アーク

「ガレスさんに13回も負けて、最後なんて何をされたのかも分かりませんでした」


老司祭

「ガレス様が相手では、無理もありません」


アーク

「え?」


 予想外の返答に、アークが顔を上げる。


アーク

「そんなに強いんですか?」


 老司祭が回廊の先を見る。


 そこには、剣を地面へ立てた聖騎士の姿を描いた絵があった。


老司祭

「ガレス・ヴァルハイト。ルーメン教会に属する5人の聖騎士を束ねる者です」


 アークも壁の絵へ目を向ける。


老司祭

「ガレス様自身も、聖印を宿しております」


アーク

「ガレスさんも……?」


老司祭

「はい。完全な覚醒には至っておりませんが、」


「 その剣技、肉体、経験、判断力、そして指揮能力。」


「そのすべてにおいて、教会最高峰の戦士です」


「…………」


 第一聖騎士、ガレス・ヴァルハイト。


 5人の聖騎士の中で、最強と認められた男。


 勇者を除けば、現人類の最高戦力。


 今のアークが敵わないのは、当然の相手だった。


アーク

「……そりゃ、勝てないわけだ」


老司祭

「ですが――いつまでも、では困りますな」


アーク

「……ですよね」


 アークは安堵しかけた顔を引きつらせ、力なく笑った。


 完全に覚醒した聖印には、勇者にのみ与えられた途方もない可能性がある。


 今はガレスの方が遥かに強い。


 だが、いつまでも第一聖騎士の背中を追っているだけではいけない。


 いつか追いつき、越えなければならない。


 老司祭は、アークの疲れた顔を見つめた。


老司祭

「そのためにも、まずはガレス様の教えをよく聞くことです」


アーク

「はい……」


老司祭

「座学でも」


アーク

「…………はい」


 アークは気まずそうに視線を逸らした。


 その反応だけで、老司祭には何を考えているのか伝わったらしい。


老司祭

「勇者とは、剣だけ振れれば務まるものではありませんよ」


アーク

「それ、さっきも言われました」


 老司祭の小さな笑い声が、白い回廊へ響いた。


◇◇◇


 大聖堂の一室。


 長机の上へ、大陸アストリアの巨大な地図が広げられていた。


 地図の中央から南方には、幾つもの国と人間の都市が記されている。


 人類の領域。


 対して、北方を中心に広がる黒く塗られた土地。


 魔族の支配領域。


 その境界には赤い線が引かれている。


 魔王軍が侵攻を開始してから、赤い線は少しずつ人類側へ押し込まれていた。


 アークは机の前へ座っている。


 向かい側にはガレス。


 ガレスは大陸の地図を指し示しながら、魔王軍の動きについて説明していた。


ガレス

「北部に位置する3つの街は、既に魔王軍の支配下へ落ちた。」


「西部では街道を押さえられたことで物資が不足している。」


「現在は周辺都市から別の経路を通して食糧を送っているが――」


「…………」


 ガレスの声が、少しずつ遠くなる。


 朝から13回も剣を振ったことで、身体は疲れ切っている。


 椅子へ座り、一定の調子で続く声を聞いていると、瞼が少しずつ重くなっていく。


 ほんの僅かに目を閉じた。


ガレス

「アーク」


アーク

「はい!」


 アークが勢いよく顔を上げる。


 ガレスは地図を指したまま、冷たい目で見ていた。


ガレス

「勇者だからといって、剣だけ振れればいいわけではない」


アーク

「分かってます」


ガレス

「なら、寝るな」


アーク

「寝てません」


ガレス

「目を閉じていただろう」


アーク

「考え事です」


ガレス

「そうか」


 ガレスが地図を指していた棒を下ろす。


ガレス

「なら、今説明した内容を言ってみろ」


アーク

「…………」


 北部の街。


 西部の街道。


 食糧。


 それ以上は、何も思い出せなかった。


アーク

「……北の街が落ちて、西が大変です」


ガレス

「…………」


アーク

「…………」


ガレス

「それだけか?」


アーク

「すみませんでした」


 アークは素直に頭を下げた。


 ガレスは小さく息を吐く。怒鳴りはしない。


 代わりに、先ほどまで開いていた資料を閉じた。


 パタン――。


 僅かな音が部屋へ響く。


 その瞬間、ガレスを取り巻く空気が変わった。


 アークの眠気が一気に消える。


ガレス

「いいか、アーク」


アーク

「……はい」


ガレス

「これから、お前が戦う相手について教える」


 ガレスが新たな資料を取り出す。


 最初の頁には、2つの姿が描かれていた。


 獣に似た姿を持つ生物。


 そして、人に近い姿をした存在。


ガレス

「魔族は、大きく2つに分類される」


 獣に似た姿へ指先を置く。


ガレス

「魔獣」


 次に、人の姿をした存在へ移す。


ガレス

「そして、魔人だ」


アーク

「魔獣と……魔人……」


ガレス

「魔獣は、その名の通り獣に近い姿と習性を持つ。人を襲う理由も、縄張り、飢え、生存本能によるものが多い」


 ガレスが頁をめくる。


 大きな牙を持つ魔獣。空を飛ぶ魔獣。複数の脚を持つ魔獣。


 様々な姿が描かれていた。


ガレス

「ただの魔獣であれば、民間の魔獣狩りで対処できる場合もある」


「…………」


 次に開かれた頁には、人に近い姿を持つ魔族が描かれていた。


ガレス

「だが、魔人は違う。」


「人に近い姿と高い知能を持ち、魔法や武器を扱う。時には集団を率いて行動することもある」


アーク

「魔獣より、魔人の方が危険なんですか?」


ガレス

「基本的には、そう考えていい」


 ガレスが別の頁を開く。


 そこには、巨大な翼を持つ長大な魔獣が描かれていた。


ガレス

「ただし、すべてに当てはまるわけではない。ドラゴンを始めとする一部の魔獣は、並の魔人を遥かに上回る力を持つ」


アーク

「ドラゴン……」


ガレス

「相手の姿だけで強さを判断するな。一瞬の思い込みが、部隊を全滅させることもある」


 ガレスの指が地図の上へ戻り、人類側の都市を示した。


ガレス

「強力な魔人が街へ侵入すれば、一般人に抗う術はない」


「…………」


 昨日、広場で見た人々が浮かぶ。


 子供。


 老人。


 赤子を抱いた母親。


 彼らの前へ魔人が現れれば、逃げることしかできない。


ガレス

「だから俺達がいる」


 ガレスが教会の象徴が刻まれた壁へ目を向ける。


ガレス

「教会兵。聖騎士。そして――勇者」


 最後の言葉が、真っ直ぐにアークへ向けられた。


ガレス

「民衆の希望は、我々ルーメン教会だ。」


「そして」


「我々の希望は勇者。お前だ、アーク」


アーク

「……俺が……」


 昨日も、多くの人々から同じものを向けられた。


 期待。


 祈り。


 希望。


 だが、ガレスの口から告げられると、その言葉はさらに重く感じられた。


 ガレスが机の脇に置いていた分厚い資料を、アークの前へ差し出す。


 ドンッ――。


 黒い表紙の中央には教会の紋章が刻まれ、その下へ文字が記されていた。


 ――魔族危険度指定。


ガレス

「ルーメン教会では、確認された魔族を危険性に応じて格付けしている」


 アークは資料の表紙を開く。


 最初の頁には、幾つもの項目が並んでいた。


 戦闘能力。


 知能。


 思想。


 予想される被害規模。


 成長性。


 討伐難易度。


ガレス

「危険度は、単純な戦闘力だけで決まるものではない。」


「知能が高ければ、人間の街へ潜伏することもある。明確な思想を持つ者であれば、より大きな被害を目的に動くこともある」


 ガレスが、資料の端へ記された文字を指でなぞる。


ガレス

「それらすべてを総合し、CからSSSまでの危険度を指定する」


「…………」


 C


 B


 A


 S


 SS


 SSS


 6つの段階。


ガレス

「さらに、各ランクには討伐へ必要とされる戦力の目安がある」


 ガレスが最初の項目を開く。


ガレス

「Cランク」


 頁には、小型の魔獣が幾つも描かれている。


ガレス

「主に低位の魔獣や小型の魔獣が指定される。一般成人が複数人、または教会兵1人でも対処可能な水準だ」


アーク

「これが一番下……」


ガレス

「ああ」


 ガレスは頷く。


 だが、その表情は緩まない。


ガレス

「ただし、一般人へ戦闘を推奨するものではない。」


「最下位であろうと、魔族であることに変わりはない。武器も訓練も持たぬ者にとっては、十分に命を奪い得る脅威だ」


 最も低いランク。


 それでも、一般人にとっては命に関わる存在。


 ガレスが次の頁を開く。


ガレス

「Bランク」


 大型の魔獣。


 人に近い姿をした魔人。


 先ほどよりも、明らかに危険な姿が描かれている。


ガレス

「大型の魔獣や、一般的な魔人が指定される。」


「対処には複数の教会兵を要する。この段階から、一般人が正面から抗うことはほぼ不可能だ」


 ガレスの指が、魔人の絵の上で止まる。


ガレス

「個体の能力や発見された場所によっては、聖騎士級の戦力を投入する場合もある」


アーク

「Bランクで、聖騎士が出ることもあるんですか?」


ガレス

「討伐できるかだけで考えるな。」


「街の中へ現れれば、戦っている間にも民間人へ被害が出る。」


「素早く、確実に終わらせる必要がある時は、相応の戦力を送る」


「…………」


 勝てる人数を送ればよい。


 そのような単純な話ではない。


 戦いが長引けば、その分だけ守るべき者達が傷つく。


 次の頁。


ガレス

「Aランク」


 これまでとは、資料に描かれた魔族の雰囲気が違う。


 巨大な武器。


 強い魔力。


 幾つもの教会兵の遺体。


 たった1体で、大勢の人間を相手にしている姿。


ガレス

「一般的な魔人を大きく上回る力を持つ個体。単独で都市へ甚大な被害を与え得る存在だ」


 アークの表情から、僅かに力が抜ける。


ガレス

「この段階から、教会兵だけでは戦力にならん。討伐の中心となるのは聖騎士、または聖印を宿した聖騎士だ」


アーク

「Aランクからは……聖騎士が必要になるんですか」


ガレス

「ああ」


 聖騎士。


 教会が持つ最高位の戦力。


 その者達でなければ対処できない魔族。


 それでも危険度は、まだA。


 さらに上が残っている。


 ガレスが次の頁へ指を掛ける。


 一瞬、その手が止まった。


ガレス

「ここから先は――別物だと思え」


 頁をめくる。


 Sランク。


 そこへ記されているのは、国家規模の脅威となり得る上位個体。


 都市ではない。


 国そのものを危機へ陥れる力を持つ存在。


ガレス

「通常の聖騎士が、単独で討伐することは想定していない。」


「複数の聖騎士による討伐部隊、もしくは聖印を持つ聖騎士が率いる部隊を投入する」


 アークはガレスを見る。


アーク

「ガレスさんなら……1人で倒せるんですか?」


ガレス

「相手による」


 過信も、謙遜もない。


 ただ事実だけを告げる声。


ガレス

「俺であれば、Sランクへの対処は不可能ではない。」


「だが、同じランクに指定された魔族でも、能力も戦い方も異なる。Sだから勝てると、最初から決めつけることはしない」


アーク

「…………」


ガレス

「ランクは絶対の強さを示す数字ではない。油断を許す理由にはならん」


「…………」


 今朝、13回も自分を圧倒した男。


 そのガレスでさえ、警戒せずには戦えない相手。


 それがSランク。


 そしてガレスの指が、さらに次の頁へ進む。


ガレス

「SSランク」


 開かれた頁には、他の項目よりも遥かに少ない情報しか記されていなかった。


 戦闘能力、不明。


 保有魔力、測定困難。


 予想被害、都市壊滅、国家存亡。


 そして、頁の端へ1つの名が記されている。


 七魔将。


アーク

「七魔将……」


ガレス

「魔王軍の最高幹部だ。魔王の下に位置し、それぞれが通常の魔族とは比較にならぬ力を持つ」


 ガレスがアークの目を見る。


ガレス

「遭遇した場合は、命を最優先にしろ」


アーク

「それって……逃げろってことですか?」


ガレス

「そうだ」


 迷いのない答えだった。


アーク

「でも、勇者が魔族から逃げてもいいんですか?」


ガレス

「無意味に死ぬことを、勇敢とは呼ばない」


 ガレスの声がさらに低くなる。


ガレス

「SSランクは、単独で都市を壊滅させ得る存在だ。」


「国家単位でも対処は困難となる。1人で交戦することなど想定してすらいない」


 ガレスが資料の上へ、幾つかの駒を並べていく。


 聖騎士。


 聖印を宿した聖騎士。


 そして、勇者。


ガレス

「複数の聖騎士、聖印を宿した聖騎士、そして勇者。」


「それらを組み合わせた英雄級戦力による対処が前提となる」


アーク

「英雄級……」


ガレス

「それでも、確実に討伐できる保証はない」


 アークの目がガレスへ戻る。


アーク

「ガレスさんでも……?」


ガレス

「足止めくらいはできるかもしれん。だが、単独での討伐はまず無理だ」


「…………」


 今朝、アークを子供のように退けた男。


 そのガレスでさえ、1人では倒せない。


アーク

「七魔将って……そんなに……」


ガレス

「覚えておけ」


 ガレスの指が、七魔将の文字を叩く。


ガレス

「七魔将と遭遇した時点で、戦場そのものが変わる」


 それまで、どれほど優勢であろうと。


 どれほど多くの兵がいようと。


 七魔将が現れた。


 その事実だけで、すべての状況が変わる。


 ガレスは最後の頁へ指を掛けた。


 だが、すぐには開かない。


 僅かな沈黙のあと、静かに頁をめくる。


ガレス

「そして――SSSランク」


 最上位。


 それ以上が存在しない最高危険度。


 世界最大級の災厄。


 国家による通常戦力では対処不能。


 討伐基準、設定不能。


 これまでの頁には、必要な戦力が記されていた。


 何人の教会兵が必要なのか。


 何人の聖騎士を送るべきなのか。


 誰を中心に、どのような討伐部隊を組むのか。


 だが、SSSの項目にはそれがない。


 何人いれば勝てるのか。


 誰であれば倒せるのか。


 その基準自体が意味を失う領域。


ガレス

「これまで、この項目の対抗可能戦力にはレオンの名が記されていた」


アーク

「レオンさんの……?」


ガレス

「あの男だけが、魔王と戦い、生きて戻ったと言われてる」


「…………」


 アークは頁の中央へ記された名前を見る。


 魔王ゼルヴァリア。


 戦闘能力、測定不能。


 保有魔力、測定不能。


 討伐難易度、測定不能。


 言葉が出ない。


 読めば読むほど、同じ世界に生きているものとは思えなくなる。


アーク

「これが……魔王……」


ガレス

「ああ」


 ガレスの声にも、これまでとは異なる重みがあった。


 アークは資料へ視線を落としたまま、あることに気づく。


 頁の端。


 魔王ゼルヴァリアの項目とは別に、何かが記されていた形跡がある。


 だが、その部分は黒く塗り潰され、読むことができない。


アーク

「SSSって……魔王だけなんですか?」


「…………」


 ガレスは答えなかった。


 僅かに部屋の空気が変わる。


 ガレスの視線が、黒く塗り潰された部分へ向けられた。


アーク

「ガレスさん?」


 長くはない沈黙。


 それでも、先ほどまでとは明らかに違う。


 やがて、ガレスが口を開いた。


ガレス

「今のお前は、魔王だけ覚えておけばいい」


アーク

「……?」


 ガレスはそれ以上、答えなかった。


 黒く塗り潰された場所を隠すように、頁を重ねる。


 もう1体いるとは言わない。


 存在しないとも言わない。


 ただ、アークが踏み込むことを拒むように、その話を終わらせた。


 アークは納得できないまま、閉じられた項目を見る。


 だが、ガレスへ尋ねても答えは返ってこない。


 そう理解し、それ以上は何も言わなかった。


 机の上に記されていた魔王ゼルヴァリアの名だけが、アークの目へ焼きついている。


 アークは自分の右手を見る。


 完全に覚醒した聖印。


 人類の中で、ただ1人。


 勇者にのみ与えられる力。


アーク

「でも……俺は――」


ガレス

「勇者だから勝てる、とでも?」


 言いかけた言葉を、ガレスが遮った。


アーク

「…………」


 そう思っていなかったと、否定することはできない。


 勇者なら、いつか魔王を倒せる。


 人々も、そう信じている。


 ガレスの表情が僅かに変わった。


 厳しいだけだった瞳の奥に、過去を思い返すような色が浮かぶ。


ガレス

「レオンも勇者だった」


 アークが顔を上げる。


ガレス

「歴代最強の勇者とまで言われていた。だが――死んだ」


「レオン以前の勇者もみんな死んだ。」


 短い言葉が、アークの胸へ重く落ちる。


ガレス

「覚醒した聖印は、お前へ大きな可能性を与える。だが、勝利を約束するものではない」


 ガレスが開いていた資料を閉じる。


 パタン――。


 静かな音が部屋へ響いた。


ガレス

「覚えておけ、アーク。戦場で最初に死ぬのは、自分が強いと思い込んだ者だ」


「…………」


 今朝。


 聖印の力へ任せ、何度もガレスへ向かっていった自分。


 速くなった。


 強くなった。


 勇者になった。


 その事実だけで、どこか自分なら戦えると思っていた。


 現実は、剣先1つ届かなかった。


ガレス

「死ねば何も守れない」


「…………」


 アークは右手を見つめる。


 聖印は何も答えない。


 この印が自分を勇者にした。


 だが、勇者として戦える人間になれるかどうかは、自分次第。


 アークはゆっくりと顔を上げた。


アーク

「……はい」


 今度の返事に、迷いはなかった。


◇◇◇


 午後。


 聖都ルーメリア。


 座学を終えたアークは大聖堂から離れ、街の中を歩いていた。


 純白の礼装ではない。


 昨日まで着ていた使い慣れた服。


 それでも、右手に刻まれた聖印は隠していない。


 教会からは護衛をつけると言われた。


 だが、少しだけ1人で歩きたかった。


 大通りへ出ると、すぐに数人の子供達が駆け寄ってきた。


街の子供

「勇者様ー!」


アーク

「おう」


 アークが片手を上げる。


 子供達はアークの周囲を取り囲んだ。


街の子供

「今日も訓練だったの?」


アーク

「ああ」


街の子供

「魔族を倒した!?」


アーク

「倒してない」


街の子供

「じゃあ、何してたの?」


アーク

「13回負けた」


街の子供

「えっ!?」


 子供の目が大きく見開かれる。


街の子供

「勇者なのに!?」


アーク

「勇者だって負けるんだよ!」


 周囲にいた者達から笑い声が上がる。


 別の子供が、アークの右手を覗き込んだ。


別の子供

「聖印があっても?」


アーク

「あってもだ」


別の子供

「勇者様より強い人がいるの?」


アーク

「今のところ、ものすごく怖い人が1人いる」


街の子供

「魔族?」


アーク

「ガレスさん」


 また、周囲から笑い声が起こる。


 アーク自身も困ったように笑った。


 13回負けたことは悔しい。


 だが、子供達の前では不思議と少しだけ軽く感じられた。


 子供達と別れ、市場へ入る。


パン屋の店主

「勇者様!」


 大きな声に呼び止められる。


 パン屋の店主が店先から顔を出していた。


 手には、焼きたてのパンが入った紙袋。


パン屋の店主

「ちょうどよかった。持っていきな!」


 紙袋を半ば押しつけるように手渡される。


アーク

「いや、ちゃんと払いますって」


パン屋の店主

「いらないよ!」


アーク

「でも――」


パン屋の店主

「あんたが魔族を追っ払ってくれりゃ、それで十分だ!」


アーク

「俺、まだ1体も倒してないんですけど……」


パン屋の店主

「これから倒すんだろ?」


アーク

「その予定ですけど」


パン屋の店主

「なら、先に食べて力をつけな!」


 店主が豪快に笑う。


 隣の店から、果物を売る女が声を上げた。


果物屋の女

「勇者様! 果物も持っていきな!」


アーク

「いや、そんなに食べられませんって!」


肉屋の男

「なら肉だ!」


アーク

「どうして増えるんですか!?」


 市場に明るい笑い声が広がる。


 昨日までは何度も歩いた場所。


 見慣れた店。


 知っている者もいれば、名前すら知らない者もいる。


 だが、今は誰もがアークを知っている。


 勇者様。


 そう呼び、笑いかけてくる。


 市場を抜けると、道の端で若い母親が泣いている赤子を抱いていた。


 アークへ気づいた母親は驚いたように目を見開き、赤子を抱いたまま深く頭を下げた。


若い母親

「勇者様……」


アーク

「頭を上げてください」


 母親がゆっくりと顔を上げる。


 腕の中では、何も知らない赤子が小さな手を伸ばしていた。


若い母親

「この子が、大人になる頃には……」


「…………」


 その先を、母親は口にしなかった。


 争いのない世界で生きていてほしい。


 その願いだけが、表情から伝わってきた。


 少し離れた場所では、老人達が壊れた荷車を直している。


 鍛冶場から金属を打つ音が聞こえ、市場では誰かが値段を巡って言い争い、子供達が笑いながら走り回っている。


 人類を守れ。


 世界を救え。


 昨日、勇者になったばかりのアークには、どちらもあまりに大きかった。


 人類。


 世界。


 言葉にしても、どこか遠く、自分の手では触れられないものに思えた。


 だが、今、目の前にいる者達なら分かる。


 笑う子供。


 働く大人。


 我が子を抱く母親。


 果物を売る女。


 パンを押しつけてきた店主。


 この者達が魔族に襲われる。


 傷つけられる。


 今ある生活を奪われる。


 それは嫌だと思った。


『死ねば何も守れない』


 ガレスの言葉が胸の中へ蘇る。


 死なないために、強くならなければならない。


 自分の力を、正しく知らなければならない。


 勇者だから勝てるのではない。


 守りたいなら、勝てるだけの力を身につけなければならない。


 アークは立ち止まり、自らの右手を見つめた。


 聖印が陽の光を受け、淡く輝いている。


 それから顔を上げ、聖都に暮らす人々を自分の目で見つめた。


◇◇◇


 夜。


 聖都ルーメリア。


 昼間の賑わいは消え、大広場には静かな風が吹いていた。


 その中央には、勇者レオンの石像が立っている。


 片手へ剣を持ち、遠くを見据える姿。


 昼間まで多くの人々が訪れていたのだろう。足元には、昨日よりも多くの花が供えられていた。


 その像の前へ、1人の青年が立っている。


 アーク。


 周囲には誰もいない。


 歓声も、自分の名を呼ぶ声もない。


 月明かりだけが、石像と、その前に立つ新たな勇者を照らしていた。


 アークはレオンの顔を見上げる。


 歴代最強の勇者。


 人類の希望。


 数え切れないほどの命を救った男。


 そして、勇者でありながら、最後には命を落とした者。


 アークはしばらく何も言えなかった。


 石像の男が、自分とはあまりにも違う存在に思えた。


 やがて、小さく息を吐く。


アーク

「……レオンさん」


 返事はない。


 アークも返事を求めてはいなかった。


アーク

「俺……勇者になったみたいです」


 言ってから、僅かに笑う。


 自分でも、まだ信じられない。


アーク

「まだ全然、実感ないですけど」


 右手を持ち上げる。


 昨日、完全に覚醒した純白の聖印。


アーク

「聖印が目覚めて、みんなに勇者って呼ばれて……少しだけ、強くなった気でいました」


 今朝の訓練を思い出す。


 13回剣を振り、13回何もできずに敗れた。


アーク

「でも、俺より強い人なんて、すぐ近くにいました」


 小さな笑いは、すぐに消える。


 今日、ガレスから教えられたもの。


 魔獣。


 魔人。


 危険度。


 七魔将。


 魔王ゼルヴァリア。


 昨日まで想像していた世界よりも、現実は遥かに恐ろしい。


 勇者になっただけで、すべてを救えるわけではない。


 一歩間違えれば、自分もレオンと同じように死ぬ。


 怖くないと言えば嘘になる。


 魔族と戦ったことさえない。


 血を流したことも。


 命を奪ったこともない。


 それでも、アークの脳裏には、今日街で出会った者達が浮かんでいた。


 笑いかけてきた子供達。


 パンを渡した店主。


 赤子を抱く母親。


 彼らを守りたい。


 人類の希望だからではない。


 天に選ばれたからでもない。


 自分の目で見た、あの人達の暮らしを失わせたくない。


 アークは右手を強く握った。


アーク

「俺は……あなたみたいになれるか分かりません」


 石像は何も答えない。


アーク

「魔王を倒せるかも、本当に人類を救えるのかも分からない」


 正直な言葉だった。


 昨日、何万人もの前では言えなかった弱さ。


 今は、誰も聞いていない。


 それでも、その弱さから目を逸らそうとは思わなかった。


アーク

「でも――」


 アークが石像を真っ直ぐに見上げる。


アーク

「やります」


 短い言葉。


 飾りも、大げさな宣言もない。


 それでも、昨日の言葉よりも深く、アーク自身の中へ落ちた。


アーク

「俺が、この人達を守ります」


「…………」


 歓声はない。


 鐘も鳴らない。


 聖印から光が溢れることもなかった。


 誰も見ていない夜。


 レオンの石像の前。


 アークは自らの意思で、勇者として歩くことを決めた。


◇◇◇


 同時刻。


 人類領域と魔族領域。


 その境界に位置する荒野。


 月明かりの下、2つの軍勢が向かい合っていた。


 人類側。


 ルーメン教会軍。


 その数、約1000。


 白い鎧を纏った教会兵。巨大な盾を構える重装兵。長槍を揃えた歩兵。


 後方には弓兵と魔法兵。さらに、軍馬へ跨がった騎兵が並んでいる。


 対する魔王軍は、およそ500。


 人の倍近い身体を持つ魔人。鋭い牙を覗かせる魔獣。黒い鎧を纏った兵。


 数では教会軍が上回っている。


 それでも、魔王軍から怯えや焦りは感じられなかった。


 両軍の間には、何もない土地が広がっている。


 風が乾いた土を巻き上げた。


 教会軍の中央。


 軍馬へ跨がった指揮官が、正面の魔王軍を睨んでいる。


 右手は、腰に佩いた剣の柄へ置かれていた。


教会軍指揮官


「臆する必要はない。数の利はこちらにある。」


「全部隊、いつでも動けるようにしておけ」


教会兵

「はっ!」


 兵達が武器を握る手へ力を込める。


 弓兵が矢を番え、魔法兵の足元へ淡い魔法陣が広がっていく。


 開戦の瞬間が、刻一刻と近づいていた。


 教会軍指揮官が剣を僅かに鞘から抜く。


教会軍指揮官

「全軍――」


 その時だった。


 正面に密集していた魔王軍に変化が起きた。


 魔人達が左右へ分かれていく。


 巨大な魔獣が、何かを恐れるように身体を低くする。


 黒い兵士達が一斉に道を空けた。


 魔王軍の中央。


 軍勢を割るように、1本の道が生まれる。


教会兵

「……何だ?」


 教会軍の間へ小さなざわめきが広がった。


 カツン――。


 乾いた足音。


 カツン――。


 魔王軍の奥から、1人の男が歩いてくる。


 長い髪。


 黒い外套。


 腰に佩いた剣。


 そして、顔を覆う白い仮面。


 カイン。


 魔王軍No.2。


 カインが進むたび、周囲の魔族達が頭を垂れていく。


 前線に立っていた魔族側の指揮官が、カインへ歩み寄った。


魔族指揮官

「カイン様。我々も――」


カイン

「必要ない」


 静かな声が、魔族指揮官の言葉を遮った。


 カインは足を止めない。


 1000の教会軍へ、1人で歩いていく。


魔族指揮官

「しかし、敵軍は1000以上――」


カイン

「俺1人でいい」


 振り返ることもなく、それだけを告げた。


 魔王軍は、誰1人としてカインのあとを追わなかった。


 追う必要がないと知っているかのように。


 たった1人。


 カインが両軍の間へ広がる荒野を歩いてくる。


 カツン――。


 カツン――。


 教会軍の兵達が、戸惑うように互いを見る。


教会兵

「……1人?」


別の教会兵

「何を考えている……?」


 1000の軍勢を前に、剣すら抜いていない。


 急ぐ様子もない。


 ただ、散歩でもするように真っ直ぐ近づいてくる。


 教会軍指揮官は、その仮面を見つめていた。


 何かがおかしい。


 大軍を前にして、あまりにも無防備。


 あまりにも静かすぎる。


 本能が警鐘を鳴らす。


教会軍指揮官

「全軍、構えろ!!」


「…………!」


 命令が響く。


 最前列の重装兵が、地面へ巨大な盾を突き立てた。


 ガンッ――!!


 盾と盾が重なる。


 その隙間から長槍が前へ突き出された。


 後方では、弓兵達が一斉に弦を引き絞る。


 魔法兵の前には、赤、青、白――幾つもの魔法陣が浮かび上がった。


 それでもカインは止まらない。


 カツン――。


 また1歩、教会軍へ近づく。


教会軍指揮官

「弓兵! 魔法兵!」


 指揮官が剣を抜き、白銀の刃を天へ掲げた。


教会軍指揮官

「撃てぇぇぇぇ!!」


 号令と同時に、数百の矢が放たれた。


 ヒュババババッ――!!


 夜空を覆う黒い矢の雨。


 さらに幾つもの魔法陣から、炎、氷、雷――無数の魔法が放たれる。


 ゴォォォォォ――!!


 すべてが、たった1人の男へ集中した。


 矢が降り注ぐ。


 炎が地面を焼く。


 氷が荒野を抉る。


 雷鳴が轟く。


 ドォォォォォンッ――!!


 巨大な爆発が、夜の荒野を昼のように照らした。


 衝撃が教会軍の最前列まで押し寄せ、巨大な盾が軋み、怯えた馬が嘶く。


 やがて炎が小さくなり、爆発音が消えた。


 両軍の間には、濃い土煙が立ち込めている。


 矢。


 魔法。


 数百人による一斉攻撃。


 耐えられるはずがない。


教会兵

「……やったのか?」


 誰かが呟く。


 返事はない。


 教会軍の全員が、土煙の向こうを見つめている。


 風が吹き、煙が少しずつ横へ流れていく。


 その時。


 カツン――。


 足音が響いた。


 カツン――。


 教会軍の兵達が一斉に息を呑む。


 煙の奥。


 白い仮面が浮かび上がる。


 黒い外套。


 長い髪。


 腰に佩いたままの剣。


 傷はない。


 外套に、僅かな焦げ跡すらない。


 まるで今の攻撃が、最初から存在していなかったかのように。


 カインは変わらない速度で歩いている。


教会兵

「嘘……だろ……」


 カインの姿が煙の中から完全に現れる。


 その足が地面を踏んだ。


 次の瞬間。


 姿が消えた。


教会兵

「え――」


 ドンッ――!!


「…………!」


 教会軍の最前列が、内側から爆発した。


 巨大な盾。


 長槍。


 重い鎧を纏った兵士達。


 そのすべてが、まとめて空へ吹き飛ばされる。


 盾が砕け、槍が折れる。


 人の身体が後方の兵を巻き込みながら、地面へ叩きつけられた。


 誰も、カインが移動した瞬間を見ていない。


 いつの間にか、男は崩れた陣形の中央へ立っていた。


 右手には、鞘から抜かれた剣。


 月明かりを受ける刃に、まだ血はついていない。


教会軍指揮官

「包囲しろ!!」


 周囲の兵達が動く。


 槍を構え、四方からカインへ迫った。


教会兵

「はぁぁぁッ!!」


 正面。


 右。


 左。


 背後。


 逃げ場はない。


 カインが剣を振るう。


 ただ、横へ1度だけ。


 ヒュン――。


 音さえ、ほとんど聞こえなかった。


 次の瞬間、四方から迫っていた兵達の武器が一斉に砕けた。


 槍の穂先が宙へ舞う。


 剣が折れる。


 鎧の胸元へ細い線が走り、そこから赤い血が噴き出した。


「ぐっ……!」


 遅れて、兵達の身体が崩れ落ちる。


 動く者はいない。


 カインの周囲だけが、一瞬で空白になった。


 後方では、魔法兵達が慌てて術式を組み立てる。


教会魔法兵

「術式展開!」


教会魔法兵

「対象を包囲しろ!」


 カインの周囲へ幾重もの魔法陣が現れる。


 足元。


 頭上。


 左右。


 逃げ道を塞ぐように光が収束していく。


 だが、魔法が完成するよりも早く、カインが消えた。


教会魔法兵

「――ッ!?」


 次の瞬間。


 魔法兵の目の前に、白い仮面があった。


 剣が閃く。


 完成しかけた魔法陣が、中心から両断された。


 キィン――!!


 術式が崩壊する。


 集まっていた魔力が弾け、魔法兵達の身体を吹き飛ばした。


 その中へ、カインの剣が走る。


 1人の喉が裂ける。


 もう1人の胸から、鮮血が噴き上がった。


 悲鳴が上がるより早く、カインは既にその場から消えている。


 次に姿を現したのは、騎兵達の正面だった。


騎兵隊長

「突撃!!」


 軍馬が地面を蹴る。


 何十という騎兵が槍を前へ構え、カインへ殺到した。


 地面が揺れる。


 馬の蹄が荒野へ轟く。


 カインは正面から迫る騎兵を見ている。


 避けない。


 退かない。


 剣を僅かに持ち上げる。


 そして踏み込んだ。


 ズンッ――!!


「…………!」


 先頭の軍馬が、何かへ激突したように横へ吹き飛んだ。


 その後ろ。


 次の馬。


 さらに、その次。


 カインは騎兵隊の中心を真っ直ぐに進んでいく。


 剣が閃くたびに槍が折れ、鎧が裂ける。


 馬上の兵士が血を撒き散らしながら転げ落ち、軍馬ごと地面へ叩きつけられていく。


 1人。


 また1人。


 振るわれる刃の前へ、騎兵達が次々と沈んだ。


 止められない。


 数十の騎兵による突撃が、たった1人の歩みを僅かに遅らせることさえできない。


 教会軍指揮官の顔から、血の気が引いていく。


教会軍指揮官

「止めろ……! 何としても、あの男を止めろ!!」


 兵達が次々とカインへ向かっていく。


 剣。


 槍。


 盾。


 矢。


 魔法。


 数で押し潰そうとする。


 四方を囲み、逃げ道を塞ぐ。


 何重もの陣形を作り、後方から攻撃を重ねる。


 だが、すべて意味を持たなかった。


 剣を振るえば、包囲が崩れる。


 前へ進めば、陣形が割れる。


 魔法を放とうとすれば、完成するより早く術者の命が絶たれる。


 1000。


 それだけの数が、1つの軍として機能しない。


 カインは特別な力を見せていない。


 巨大な魔法も。


 大地を焼く炎も。


 敵を支配する権能も使わない。


 ただ、剣を振るい、歩いている。


 それだけで教会軍が崩壊していく。


 斬り伏せられた兵士の血が、乾いた大地を赤く濡らす。


 動かなくなった者。


 苦痛に呻く者。


 失った腕を押さえ、地面を転げ回る者。


 教会軍の兵達は、ようやく理解し始めていた。


 目の前にいるのは、自分達が数で打ち倒せる存在ではない。


 やがて、兵達の足が止まった。


 向かえば殺される。


 どれほど大勢で挑んでも、結果は変わらない。


 恐怖が命令を上回り始める。


教会兵

「む、無理だ……」


別の教会兵

「勝てるわけがない……」


教会軍指揮官

「退くな!! 陣形を立て直せ!!」


 指揮官の声は、もう兵達へ届かない。


 1人が武器を落とした。


 次の兵が背を向ける。


 それをきっかけに、教会軍の戦列が一気に崩れ始めた。


教会兵

「逃げろ!!」


別の教会兵

「殺されるぞ!!」


 兵達が我先にと走り出す。


 武器を捨てる者。


 負傷した仲間へ肩を貸し、戦場から離れようとする者。


 倒れた者さえ見捨て、ただ生き延びるために逃げる者。


 カインは逃げる者を追わなかった。


 背を向けた兵。


 武器を捨てた者。


 戦う意思を失った者。


 その誰にも剣を向けない。


 ただ、なおも武器を構え、向かってくる者だけを斬り伏せた。


 やがて、カインの前へ立つ者はいなくなった。


 荒野には、崩れた盾、折れた槍、地面へ突き刺さった剣が残されている。


 その間へ、幾つもの亡骸が横たわっていた。


 戦場の至るところから、助けを求める声と、倒れた兵達の呻き声が聞こえてくる。


 1000を数えた教会軍は。


 たった1人の男によって、戦う力を失っていた。


 カインは剣についた血を払う。


 ヒュッ――。


 赤い雫が地面へ散り、刃が月明かりを反射した。


 剣を鞘へ収める。


 カチン――。


 そして、何事もなかったように魔王軍へ向かって歩き出した。


 カツン――。


 カツン――。


 遠く。


 地面へ倒れていた教会兵が、震えながら顔を上げる。


 白い仮面。


 黒い外套。


 軍勢の中へ戻っていく男の背中。


 教会兵は血に濡れた地面へ手をつき、掠れた声を漏らした。


教会兵

「……地獄だ……」


 その目が、見渡す限りに倒れた仲間達を映す。


教会兵

「たった1人に……」


 声が震える。


教会兵

「1000の兵が……たった1人の男に……」


「…………」


 カインは振り返らない。


 その背中を迎えるように、左右へ分かれていた魔王軍が、さらに深く頭を垂れる。


 月の光さえ届かない魔族の軍勢の中へ。


 白い仮面が、静かに消えていった。

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