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第6話 墓標

黒印のヤヌス


第2章 剣聖


第6話 墓標


 奈落。


 朝と呼ぶには遅すぎる時間。


 鬱蒼と生い茂る枝葉の隙間から、淡い光が差し込んでいた。


 湿った森の奥。


 古びた小屋の前では、ヴァルドが薪へ斧を振り下ろしている。


 乾いた音が響くたび、割れた薪が左右へ転がった。


「…………」


 小屋の扉が。


 ゆっくりと開く。


 寝癖のついた黒髪を掻きながら、ヤヌスが外へ出てきた。


ヴァルド

「遅い」


ヤヌス

「まだ朝早いだろ……」


ヴァルド

「もう昼前じゃ」


ヤヌス

「朝くらい、ゆっくり寝かせろよ」


ヴァルド

「寝るのが遅いから、朝がつらいんじゃ」


ヤヌス

「早く寝ても、眠いものは眠い」


ヴァルド

「屁理屈だけは1人前じゃな」


 いつものやり取り。


 ヤヌスは不満そうに顔を顰めながら、切り株の上へ置かれていた器を手に取った。


 冷たい水を一気に喉へ流し込む。


 眠気の残る身体へ。


 僅かな冷たさが染み渡っていった。


「…………」


 空になった器を下ろした時。


 ヤヌスの視線が、小屋の壁際へ止まる。


 そこには。


 黒い布に包まれた、1本の剣が立て掛けられていた。


「…………」


 聖剣アウロラ。


 レオンが最後まで握っていた剣。


 奈落へ落ちたあと。


 ヴァルドがここまで運んできた。


「…………」


 ヴァルドが斧を振り下ろす。


 薪が割れる。


 次の薪へ手を伸ばしかけたところで。


 ヤヌスの視線に気づいた。


ヴァルド

「どうした」


「…………」


 ヤヌスは答えない。


 黒い布に包まれた剣を、しばらく見つめている。


 やがて。


 僅かに視線を伏せた。


ヤヌス

「……なあ、ジジイ」


ヴァルド

「なんじゃ」


ヤヌス

「今日さ」


 言葉が止まる。


 口にしてしまえば。


 もう、戻れないような気がした。


「…………」


 それでも。


 ヤヌスは顔を上げた。


ヤヌス

「レオンの墓……作ろうと思う」


 ヴァルドの手が止まった。


 薪へ添えられていた指が。


 僅かに動く。


「…………」


 驚いた様子は見せない。


 理由を尋ねることもなかった。


 ただ。


 ヤヌスの顔を静かに見つめる。


ヴァルド

「……そうか」


 それだけだった。


 ヤヌスも頷く。


 短い言葉のあと。


 2人の間へ。


 森のざわめきが戻ってきた。


◇◇◇


 小屋から。


 それほど離れていない場所。


 奈落を覆う木々が僅かに開き。


 暗い空を見上げることのできる、小さな空間があった。


 周囲には。


 白い花が咲いている。


 奈落では珍しい。


 穏やかな場所だった。


「…………」


 その中央で。


 ヤヌスは土を掘っていた。


 硬い根へ刃を入れ。


 石を取り除き。


 何度も地面へ手を伸ばす。


 ヴァルドも。


 少し離れた場所で。


 墓標に使う石を積み上げていた。


「…………」


 会話はない。


 土を削る音。


 石が触れ合う音。


 時折。


 木々の奥から聞こえるアベラントの唸り声。


 それだけが。


 静かな空間へ響いている。


「…………」


 長い間。


 手を動かし続けたあと。


 ヴァルドが口を開いた。


ヴァルド

「ようやく、作る気になったか」


「…………」


 土を掘っていたヤヌスの手が止まる。


 指先には。


 黒い土が入り込んでいた。


「…………」


 ヤヌスは。


 掘りかけの地面を見つめたまま答える。


ヤヌス

「墓を作ったらさ」


 手の中の土を。


 ゆっくりと握る。


ヤヌス

「本当に死んだみたいだろ」


「…………」


 ヴァルドは何も言わない。


 否定も。


 慰めもしない。


 ヤヌスが続きを口にするまで。


 黙って待っていた。


ヤヌス

「分かってたけどな」


ヤヌス

「死んだって」


 目の前で見た。


 カインの刃に貫かれた身体。


 溢れ落ちる血。


 最後に向けられた眼差し。


『生きろ』


「…………」


 あの声を。


 忘れた日はない。


 それでも。


 墓を作ることだけはできなかった。


 勇者だったレオンの肉体は。


 死と共に光へ還った。


 骨も。


 遺灰も。


 埋めるものは何ひとつ残っていない。


「…………」


 だからこそ。


 墓まで作ってしまえば。


 レオンが本当に。


 この世界のどこにもいなくなるような気がした。


ヤヌス

「……遅すぎたかな」


 ヴァルドは。


 積み上げた石へ手を添えた。


ヴァルド

「墓を作るのに」


 静かな声が落ちる。


ヴァルド

「早いも遅いもあるか」


「…………」


 ヴァルドは。


 これまで1度も。


 墓を作れとは言わなかった。


 ヤヌスが自分から。


 レオンの死と向き合おうとする日まで。


 ただ待っていた。


ヴァルド

「死んだ者は、急かしはせん」


ヴァルド

「生きておる者が、自分の足でそこへ辿り着けばよい」


「…………」


 ヤヌスは。


 握っていた土を地面へ落とした。


 再び。


 両手を動かし始める。


「…………」


 やがて。


 小さな墓が完成した。


 土を盛り。


 石を積み。


 その前へ。


 奈落に咲いていた白い花を添える。


「…………」


 立派なものではない。


 名を刻む文字もない。


 それでも。


 ここが誰のために作られた場所なのか。


 2人には分かっていた。


「…………」


 ヤヌスは。


 小屋から運んできたアウロラを抱えている。


 剣は。


 黒い布に包まれたままだった。


 布の奥にある聖剣へ。


 両手を添える。


「…………」


 その重みを感じた瞬間。


 ヤヌスの脳裏へ、レオンの最期が蘇った。


 血に濡れた身体。


 力を失い。


 崩れ落ちていく姿。


 掴むことのできなかった手。


『生きろ』


「…………」


 指へ力が入る。


 胸の奥を。


 鋭い痛みが貫いた。


 逃げ出したくなる。


 何も見なかったことにして。


 アウロラを再び小屋へ戻してしまいたくなる。


「…………」


 だが。


 今度は目を逸らさなかった。


 ヤヌスは。


 黒い布に包まれたアウロラを両手で握り。


 墓の前へ立った。


「…………」


 レオンが振るっていた剣。


 人類の希望を背負い。


 魔王へ届き。


 幾つもの命を救った勇者の剣。


 その切っ先を。


 柔らかく掘り返した地面へ向ける。


「…………」


 そして。


 黒い布に包まれたまま。


 深く突き立てた。


 ザクッ――。


「…………」


 聖剣アウロラが。


 勇者レオンの墓標となった。


「…………」


 ヤヌスとヴァルドは。


 墓の前へ並んで立つ。


 2人で手を合わせ。


 静かに瞼を閉じた。


「…………」


 風が吹く。


 木々の葉が擦れ合い。


 黒い布の端が僅かに揺れる。


「…………」


 しばらくして。


 ヴァルドが目を開いた。


ヴァルド

「勇者はな」


 ヤヌスも。


 ゆっくりと顔を上げる。


ヴァルド

「死ぬと、この世に何も残らん」


「…………」


 ヤヌスは。


 黙って耳を傾ける。


ヴァルド

「肉体は光となり、天へ還る」


ヴァルド

「魂は、次代の勇者の礎となる」


「…………」


 ヴァルドは。


 木々の隙間から見える、暗い空を見上げた。


ヴァルド

「勇者とは、不思議なものじゃ」


ヴァルド

「世界を救っても」


 目を細める。


ヴァルド

「自らは何ひとつ残せん」


「…………」


 どこか。


 寂しそうな声だった。


 だが。


 次に続いた言葉は。


 どこまでも優しかった。


ヴァルド

「……じゃが」


ヴァルド

「救われた者の心には、一生残る」


「…………」


 ヤヌスは。


 墓標となった剣を見る。


ヤヌス

「レオン……」


 小さく。


 その名を呼ぶ。


「…………」


 ヴァルドが頷いた。


ヴァルド

「レオンは勇者じゃ」


ヴァルド

「その身体は、この世から完全に消えた」


 視線を。


 小さな墓へ向ける。


ヴァルド

「じゃが、墓とは」


ヴァルド

「骨を埋めるためだけのものではない」


「…………」


 ヤヌスが。


 ヴァルドを見る。


ヴァルド

「想いを置いていく場所でもある」


「…………」


 風が。


 白い花を揺らす。


ヴァルド

「ここへ来れば」


ヴァルド

「また、あやつを思い出せる」


「…………」


 ヤヌスは。


 アウロラを見上げた。


 黒い布に覆われていても。


 その向こうに。


 レオンの姿が見えるような気がした。


「…………」


 口元へ。


 ほんの僅かな笑みが浮かぶ。


ヤヌス

「レオン」


 墓へ向かって。


 静かに告げる。


ヤヌス

「何度だって来るからな」


「…………」


 ヴァルドは。


 その横顔を見つめる。


 何も言わず。


 小さく目を細めた。


◇◇◇


 墓を作り終えたあと。


 2人は。


 しばらくその場へ残っていた。


「…………」


 何かを話すわけではない。


 ただ。


 黒い布に包まれたアウロラと。


 その前に供えた白い花を見つめていた。


「…………」


 やがて。


 ヴァルドが立ち上がる。


ヴァルド

「さて」


ヤヌス

「ん?」


ヴァルド

「修行じゃ」


「…………」


 ヤヌスの顔が。


 露骨に引き攣った。


ヤヌス

「今日くらい、休みでいいだろ!?」


ヴァルド

「墓を作れば、強くなるのか?」


ヤヌス

「ならないけどさ……」


ヴァルド

「ならば、剣を持て」


ヤヌス

「クソジジイ……」


ヴァルド

「聞こえておるぞ」


ヤヌス

「聞こえるように言ったんだよ」


「…………」


 静かだった空気が。


 いつもの調子へ戻っていく。


 ヤヌスは渋々立ち上がり。


 小屋の前へ置いていた木剣を取りに向かった。


◇◇◇


 湿った地面を蹴る。


 ヤヌスが。


 一気にヴァルドとの間合いを詰めた。


 振り下ろした木剣が。


 ヴァルドの剣とぶつかる。


 ガァンッ――!


「…………ッ」


 腕へ伝わる衝撃。


 以前なら。


 力で押し切ろうとしていただろう。


 だが。


 今は違う。


「…………」


 ヤヌスは。


 ヴァルドの剣を受け流しながら。


 足の位置を見る。


 呼吸を聞く。


 重心の動きを捉える。


 剣だけではなく。


 目の前にいる相手の全身を見る。


「…………」


 ヴァルドの右足が。


 僅かに沈んだ。


 次は踏み込み。


 そう判断した瞬間。


 ヤヌスが先に横へ動く。


「…………」


 ヴァルドの木剣が。


 先ほどまで頭のあった場所を薙いだ。


 風が。


 黒髪を揺らす。


「…………」


 かわす。


 そのまま。


 剣の内側へ入り込む。


 脇腹へ向かって。


 木剣を横へ振り抜いた。


「…………!」


 ヴァルドの身体が。


 僅かに後ろへ逸れる。


 木剣の先が。


 衣服の表面を掠めていった。


ヤヌス

「今の、惜しかっただろ!」


ヴァルド

「当たっておらん」


ヤヌス

「ちょっと避けたじゃん!」


ヴァルド

「そうかの?」


「…………」


 ヴァルドが。


 ヤヌスの背後へ視線を向ける。


ヴァルド

「虫がおったんじゃ」


ヤヌス

「絶対、嘘だろ!」


ヴァルド

「信じるかどうかは、お主の自由じゃ」


ヤヌス

「たまには当たれよ!」


ヴァルド

「それでは修行にならんじゃろ」


「…………」


 言い終えると同時に。


 ヴァルドが踏み込んだ。


ヤヌス

「――ッ!」


 ヤヌスは。


 咄嗟に木剣を立てる。


 ガンッ――!


 重い一撃。


 両足が地面を滑る。


 だが。


 倒れない。


 足裏で土を噛み。


 押し返す。


「…………」


 再び。


 剣がぶつかる。


 離れ。


 踏み込み。


 相手の動きを読み。


 さらに剣を振るう。


「…………」


 新しい技ではない。


 ヴァルドから。


 これまで何度も教えられてきたこと。


 足。


 呼吸。


 重心。


 間合い。


 視線。


 その1つ1つが。


 ようやく。


 考えるより先に、身体へ現れ始めている。


「…………」


 ヤヌスの木剣が。


 何度もヴァルドへ迫る。


 届かない。


 それでも。


 以前のように。


 ただ一方的に転がされるだけではなかった。


「…………」


 ヴァルドも。


 迫る木剣を避けながら。


 ほんの僅かに口元を緩めていた。


 それに気づいたヤヌスも。


 悔しそうに歯を見せる。


 2人の木剣が。


 奈落の森で。


 何度もぶつかり合った。


◇◇◇


 修行を終えた頃には。


 枝葉の隙間から差し込んでいた光も、弱くなっていた。


「…………」


 ヤヌスは。


 湿った地面へ大の字に倒れている。


 胸が大きく上下し。


 額から流れた汗が。


 黒髪の先を濡らしていた。


ヤヌス

「腹減った……」


「…………」


 少し離れた場所。


 ヴァルドは。


 呼吸すら乱さずに木剣を片づけている。


ヴァルド

「ならば、獲ってこい」


ヤヌス

「今、修行が終わったばっかりなんだけど」


ヴァルド

「ワシも腹が減った」


ヤヌス

「自分で行けよ」


ヴァルド

「年寄りを働かせる気か?」


「…………」


 ヤヌスが。


 地面から顔を上げる。


ヤヌス

「都合のいい時だけ年寄りになるなよ……」


ヴァルド

「老人を労るのは、若者の務めじゃ」


ヤヌス

「あんな動きする老人がいるか」


ヴァルド

「目の前におるじゃろう」


ヤヌス

「普通の老人の話をしてんだよ」


「…………」


 ヴァルドは。


 聞こえなかったように小屋へ向かう。


 ヤヌスは。


 その背中を恨めしそうに見つめた。


「…………」


 だが。


 待っていても。


 食べ物が現れるわけではない。


 深く息を吐き。


 重い身体を起こす。


ヤヌス

「大きいの獲ってきても、文句言うなよ」


ヴァルド

「食えるものにせい」


ヤヌス

「いつも食えるだろ」


ヴァルド

「毒持ちを持ち帰ったのは、どこの誰じゃ」


ヤヌス

「あれは食えた」


ヴァルド

「食ったあと、丸1日寝込んでおったではないか」


ヤヌス

「食えたことには変わりない」


ヴァルド

「屁理屈を言わずに行ってこい」


ヤヌス

「はいはい」


「…………」


 気のない返事を残し。


 ヤヌスは。


 森の奥へ歩いていった。


◇◇◇


 濃い木々の間。


 低い唸り声が響いていた。


「…………」


 ヤヌスの正面。


 大きな魔獣が。


 四肢を地面へつけている。


 狼に似た姿。


 だが。


 身体は牛よりも大きい。


 口元から突き出した牙には。


 粘つく唾液が絡みついていた。


「…………」


 魔獣が。


 前脚を地面へ沈める。


 飛びかかる直前。


 肩へ力が集まる。


「…………」


 ヤヌスは。


 その動きを静かに見ていた。


 手にしているのは。


 刃こぼれした、古い剣。


 黒い布に覆われた右手は。


 何も発していない。


「…………」


 魔獣が地面を蹴った。


 巨大な身体が。


 正面から迫る。


「――――ッ!」


 振り下ろされる爪。


 ヤヌスは。


 僅かに身体を横へずらした。


 頬のすぐ脇を。


 鋭い爪が通り過ぎる。


「…………」


 避ける。


 同時に。


 魔獣の踏み込んだ前脚を見る。


 体重が前へ流れている。


 次の動きへ移るまで。


 ほんの僅かに。


 間が生まれる。


「…………」


 ヤヌスは。


 その隙間へ踏み込んだ。


 剣を握る。


 力だけでは振らない。


 足から腰へ。


 腰から肩へ。


 身体の動きを。


 1本の線として剣へ繋げる。


「…………!」


 一閃。


 刃が。


 魔獣の首を深く切り裂いた。


「ギャウッ――!」


 魔獣の巨体が地面へ転がる。


 湿った土を抉り。


 数度、四肢を痙攣させたあと。


 動かなくなった。


「…………」


 静寂が戻る。


 ヤヌスは。


 剣についた血を払った。


「…………」


 倒れた魔獣を見る。


 使ったのは。


 ヴァルドから教わった剣と身体だけ。


 黒には。


 頼っていない。


「…………」


 ヤヌスの口元へ。


 小さな笑みが浮かぶ。


 だが。


 すぐに。


 魔獣の大きさを見て眉を顰めた。


ヤヌス

「……重そうだな」


「…………」


 持ち帰らなければ。


 今夜の飯にはならない。


 ヤヌスは剣を収めると。


 魔獣の身体を肩へ担ぎ上げた。


ヤヌス

「ぐっ……!」


「…………」


 両脚が。


 僅かに土へ沈む。


 それでも。


 どうにか立ち上がる。


「…………」


 巨大な魔獣を背負い。


 ヤヌスは。


 来た道を引き返していった。


◇◇◇


 夕方。


 小屋の前で。


 ヴァルドが火を起こしていると。


 森の奥から。


 枝をへし折る音が聞こえてきた。


「…………」


 ガサガサと。


 茂みが大きく揺れる。


 次の瞬間。


 巨大な魔獣を担いだヤヌスが姿を現した。


「はぁ……はぁ……!」


 全身。


 泥と返り血に塗れている。


 衣服には葉が絡み。


 黒髪まで汚れていた。


ヤヌス

「腹減ったぁ……!」


「…………」


 小屋へ辿り着くと。


 担いでいた魔獣を地面へ落とす。


 ドスンッ――!


 地面が。


 僅かに揺れた。


ヤヌス

「ジジイ!」


ヤヌス

「飯、頼む!」


「…………」


 ヴァルドは。


 巨大な魔獣より先に。


 泥だらけのヤヌスを見る。


「…………」


 深いため息を吐いた。


ヴァルド

「毎度毎度」


ヴァルド

「よく、そこまで汚せるものじゃな」


ヤヌス

「戦ってたんだから、仕方ねえだろ」


ヴァルド

「先に身体を洗ってこい」


ヤヌス

「先に飯」


ヴァルド

「風呂じゃ」


ヤヌス

「腹減って死ぬ」


ヴァルド

「お主は、その程度では死なん」


ヤヌス

「ひでぇ……」


ヴァルド

「床まで泥まみれにされる。ワシの方が酷い目に遭っておる」


ヤヌス

「じゃあ、外で食う」


ヴァルド

「そういう話ではない」


「…………」


 ヤヌスは。


 しばらく食い下がろうとした。


 だが。


 ヴァルドの表情を見て諦める。


ヤヌス

「……分かったよ」


「…………」


 肩を落としながら。


 身体を洗うため、川の方角へ歩き出した。


 その背中へ。


 ヴァルドの声が飛ぶ。


ヴァルド

「服も洗え」


ヤヌス

「寒いだろ!」


ヴァルド

「替えがある」


ヤヌス

「わかってるよ!」


「…………」


 ヤヌスの声が。


 奈落の森へ遠ざかっていく。


 ヴァルドは。


 その背中を見送ったあと。


 地面へ置かれた魔獣を見る。


「…………」


 首には。


 迷いのない一太刀。


 以前のように。


 力任せに殴り殺した痕跡はない。


「…………」


 ヴァルドの目が。


 僅かに細くなる。


ヴァルド

「……少しは」


 誰もいない場所で。


 静かに呟く。


ヴァルド

「剣士らしくなったか」


◇◇◇


 夜。


 小屋の中へ。


 焼いた肉の匂いが満ちていた。


「…………」


 食卓を挟み。


 ヤヌスとヴァルドが向かい合っている。


 中央に置かれた皿には。


 香草と共に焼かれた魔獣の肉。


 湯気の立つスープ。


 森で採れた木の実が並んでいた。


「…………」


 身体を洗い。


 乾いた服へ着替えたヤヌスは。


 席へ着くなり、肉へ食らいついている。


 噛み切り。


 飲み込み。


 すぐに次へ手を伸ばす。


ヴァルド

「もう少し、ゆっくり食え」


ヤヌス

「腹減ってたんだから、仕方ないだろ」


ヴァルド

「誰も取らん」


ヤヌス

「ジジイが取るだろ」


ヴァルド

「取らんわ」


ヤヌス

「前に取った」


ヴァルド

「あれは、お主がワシの分まで食ったからじゃ」


ヤヌス

「覚えてない」


ヴァルド

「都合のよい頭じゃな」


「…………」


 呆れながら。


 ヴァルドも肉を口へ運ぶ。


「…………」


 外から。


 アベラントの唸り声が聞こえてくる。


 窓の外には。


 光の届かない森が広がっている。


「…………」


 人の住める場所ではない。


 いつ襲われてもおかしくない。


 奈落の底。


 それでも。


 火の灯る小屋と。


 2人で囲む食卓だけは。


 穏やかな場所だった。


「…………」


 ヤヌスが。


 肉を頬張ったまま口を開く。


ヤヌス

「なあ、ジジイ」


ヴァルド

「口の中を空にしてから喋れ」


「…………」


 ヤヌスは。


 何度か肉を噛み。


 スープで流し込む。


ヤヌス

「外って、やっぱり広いんだよな」


ヴァルド

「広いぞ」


ヤヌス

「街も、いっぱいある?」


ヴァルド

「ああ」


ヤヌス

「美味いものも?」


ヴァルド

「お主は、そればかりじゃな」


ヤヌス

「大事だろ」


「…………」


 ヤヌスが笑う。


 ヴァルドも。


 呆れたように鼻を鳴らした。


「…………」


 世界は広い。


 昔。


 レオンが何度も口にしていた言葉。


『いつか、自分の目で見ろ』


『誰かに聞いただけで決めるな』


『自分で見たものを、自分で考えろ』


「…………」


 あの頃のヤヌスは。


 外の世界になど、興味がなかった。


 レオンと。


 ルミナ。


 3人で暮らす家があれば。


 それでよかった。


「…………」


 奈落へ落ちてからも。


 外へ出る理由は。


 カインへの復讐だけだった。


 見つける。


 戦う。


 殺す。


 それ以外のことなど。


 考える必要はないと思っていた。


「…………」


 だが。


 今は僅かに。


 レオンが見せようとした世界そのものを。


 自分の目で見てみたいと思い始めている。


 知らない街。


 知らない景色。


 知らない人間。


 そして。


 まだ食べたことのない料理。


「…………」


 ヤヌスは。


 残っていた肉を口へ放り込む。


ヤヌス

「まあ……」


 何でもないことのように。


 皿へ手を伸ばしたまま続ける。


ヤヌス

「外に出る時は」


 肉を1切れ取り。


 口元へ運ぶ。


ヤヌス

「ジジイも一緒だから、大丈夫か」


「…………」


 ヴァルドの手が止まった。


 僅かに持ち上げていた器も。


 口元へ届かないまま止まっている。


「…………」


 ヤヌスは気づかない。


 皿の上に残っている肉を探していた。


「…………」


 ヴァルドは。


 食卓の向こうにいる少年を見る。


 その表情には。


 疑う様子などない。


 外へ出る時も。


 その先を旅する時も。


 自分の隣には。


 当然のようにヴァルドがいる。


 そう信じている。


「…………」


 だが。


 ヴァルドだけは知っていた。


 その未来が。


 自分には訪れないことを。


ヤヌス

「ジジイ?」


「…………」


 ヴァルドは。


 手にしていた器を静かに下ろした。


ヴァルド

「……何を言っておる」


ヤヌス

「何が?」


ヴァルド

「ワシは、こんな見た目じゃ」


 黒い布に覆われた。


 異形の半身へ視線を落とす。


ヴァルド

「外へ出られるわけがなかろう」


「…………」


 ヤヌスが。


 肉を持ったまま顔を上げる。


 何を言われたのか。


 一瞬。


 本当に分からないような顔をしていた。


ヤヌス

「関係ねえよ」


ヴァルド

「…………」


ヤヌス

「ジジイは、ジジイだろ」


「…………」


 何の迷いもない。


 当たり前のことを。


 当たり前に口にしただけの声。


「…………」


 ヴァルドは。


 しばらく何も言えなかった。


 胸の奥へ。


 何かが静かに染み込んでいく。


「…………」


 やがて。


 僅かに目を伏せる。


 刻まれた皺が。


 柔らかく緩んだ。


ヴァルド

「……まったく」


「…………」


 小さな笑み。


 だが。


 ヤヌスが顔を上げた時には。


 いつもの表情へ戻っていた。


ヴァルド

「飯が冷めるぞ」


ヤヌス

「なんだよ、それ」


ヴァルド

「話をしておったら、ワシの分まで食われるからの」


ヤヌス

「食わないよ」


「…………」


 そう言いながら。


 ヤヌスは。


 ヴァルドの前にあった肉へ手を伸ばす。


 その手を。


 ヴァルドの箸が叩いた。


ヤヌス

「痛っ!」


ヴァルド

「今、何をしようとした」


ヤヌス

「残すともったいないだろ」


ヴァルド

「まだ食べておるわ」


「…………」


 再び。


 くだらない言い合いが始まる。


 薪が燃える。


 温かな光が。


 2人の顔を照らしていた。


「…………」


 ヤヌスの思い描く未来には。


 当然のようにヴァルドがいる。


 ヴァルドは。


 そのことを否定しなかった。


 否定したくなかった。


◇◇◇


 夜も深まり。


 小屋の火が小さくなった頃。


 ヤヌスは。


 寝台の上で目を開けていた。


「…………」


 部屋の隅。


 ヴァルドは。


 椅子へ深く腰掛けている。


 腕を組み。


 目を閉じたまま動かない。


 呼吸も。


 穏やかだった。


「…………」


 眠っている。


 そう思った。


「…………」


 ヤヌスは。


 音を立てないように身体を起こす。


 寝台から降りると。


 静かに小屋の扉へ向かった。


 ギィ……。


「…………」


 僅かな軋み。


 それでも。


 ヴァルドは動かない。


「…………」


 ヤヌスは外へ出ると。


 ゆっくりと扉を閉めた。


「…………」


 足音が。


 小屋から遠ざかっていく。


 完全に聞こえなくなってから。


 椅子へ腰掛けていたヴァルドが。


 静かに目を開いた。


◇◇◇


 奈落の夜。


 月の光が。


 木々の隙間から僅かに差し込んでいる。


「…………」


 ヤヌスは。


 1人で森を歩いていた。


 向かう先は。


 昼間。


 作ったばかりの墓。


「…………」


 開けた場所へ辿り着く。


 聖剣アウロラが。


 黒い布に包まれたまま、地面へ突き立っている。


 その前には。


 白い花が静かに揺れていた。


「…………」


 ヤヌスは。


 墓の前へ座る。


 両膝を立て。


 腕を乗せた。


「…………」


 何を話せばよいのか。


 分からなかった。


 墓を作れば。


 自然に言葉が出てくると思っていた。


 だが。


 実際にレオンを前にすると。


 何も浮かばない。


「…………」


 長い沈黙。


 遠くから。


 アベラントの唸り声が聞こえる。


 ヤヌスは。


 アウロラを見上げた。


ヤヌス

「……ジジイ」


 そこで1度。


 言葉を止める。


ヤヌス

「相変わらず、強ぇよ」


「…………」


 昼間の修行を思い出す。


 届きそうで。


 最後には届かない木剣。


 何度倒されても。


 ヴァルドは呼吸さえ乱さない。


「…………」


 悔しそうに。


 それでも少しだけ笑う。


ヤヌス

「でも、そのうち勝つ」


ヤヌス

「絶対」


「…………」


 墓は何も答えない。


 だが。


 沈黙が苦しいとは思わなかった。


「…………」


 ヤヌスは。


 木々の隙間から見える空を仰ぐ。


 奈落の外。


 その先には。


 まだ見たことのない世界が広がっている。


ヤヌス

「そしたら……」


 ほんの少し。


 言葉を探す。


ヤヌス

「俺、ジジイと外に出るよ」


「…………」


 カインを見つけるため。


 レオンの仇を討つため。


 それが。


 最も大きな理由であることは変わらない。


「…………」


 だが。


 それだけではない。


 レオンが語った世界を。


 自分の目で見る。


 どこまでも広いという外の景色を。


 歩いてみる。


「…………」


 ヤヌスは。


 墓の前から立ち上がった。


 衣服についた土を払う。


 最後に。


 もう1度だけ。


 アウロラを見る。


ヤヌス

「じゃあな、レオン」


 僅かに笑う。


ヤヌス

「また明日」


「…………」


 背を向ける。


 ヤヌスの姿が。


 小屋のある森の奥へ消えていく。


「…………」


 その背中を見送るように。


 黒い布の端が。


 夜風に揺れていた。


◇◇◇


 小屋へ戻ったヤヌスは。


 何事もなかったように寝台へ入った。


「…………」


 ヴァルドも。


 何も尋ねなかった。


 どこへ行っていたのか。


 墓の前で何を話したのか。


 聞く必要はなかった。


「…………」


 やがて。


 小屋の中へ。


 ヤヌスの静かな寝息が響き始める。


「…………」


 寝台の上。


 右手には。


 黒い布が巻かれている。


 その顔には。


 昼間まで残っていた硬さはなかった。


「…………」


 ヴァルドは。


 椅子へ腰掛けたまま。


 眠る少年を見つめていた。


『関係ねえよ』


『ジジイは、ジジイだろ』


「…………」


 食卓で告げられた言葉が。


 今も耳の奥に残っている。


「…………」


 やがて。


 ヴァルドは静かに立ち上がった。


 ヤヌスを起こさぬよう。


 足音を立てずに扉へ向かう。


 ギィ……。


 僅かな軋み。


「…………」


 ヤヌスの寝息は変わらない。


 ヴァルドは外へ出ると。


 背後の扉を静かに閉めた。


◇◇◇


 月明かりの届かない森。


 黒い木々の間から。


 アベラントの遠い唸り声だけが聞こえている。


「…………」


 ヴァルドは。


 周囲へ誰もいないことを確かめる。


 それから。


 身につけていた上着へ手を掛けた。


「…………」


 ゆっくりと脱ぐ。


 露わになった身体を。


 夜の冷たい空気が撫でた。


「…………」


 以前とは違う。


 異形へ変わった腕。


 そこから広がっていた黒ずんだ皮膚は。


 肩を越え。


 胸へ達している。


 背中にも。


 幾つもの歪な筋が走っていた。


「…………」


 侵食は。


 首元にまで迫っている。


 人間だったヴァルドの身体を。


 アベラントの肉体が。


 少しずつ食い潰していた。


「…………」


 ドクン――。


 黒く変色した皮膚の下で。


 太い血管のようなものが脈打つ。


「…………ッ」


 鋭い痛みが走る。


 ヴァルドの顔が歪んだ。


 それでも。


 声は出さない。


 小屋の中で眠るヤヌスへ。


 気づかれないために。


「…………」


 異形へ変わった手を。


 ゆっくりと持ち上げる。


 指先が。


 小さく震えていた。


「…………」


 握る。


 だが。


 思うように動かない。


 僅かに遅れて。


 黒い指が掌へ沈んだ。


「…………」


 開く。


 また。


 僅かな遅れ。


 まるで。


 自分の身体ではないものを。


 遠くから動かしているようだった。


「…………」


 ヴァルドは。


 長い間。


 その手を見つめていた。


 まだ動く。


 剣も握れる。


 ヤヌスの相手もできる。


「…………」


 だが。


 それがいつまで続くのか。


 もう。


 自分にも分からない。


「…………」


 ヴァルドが顔を上げる。


 視線の先。


 木々の隙間から。


 昼間に作った墓が僅かに見えた。


 黒い布に包まれ。


 静かに突き立つ聖剣アウロラ。


「…………」


 さらに。


 背後の小屋へ目を向ける。


 古びた壁。


 小さな窓。


 その向こうで。


 ヤヌスは何も知らずに眠っている。


『ジジイは、ジジイだろ』


「…………」


 ヴァルドの目が。


 僅かに細くなる。


 ヤヌスは。


 自分と共に奈落を出るつもりでいる。


 外の世界を。


 2人で歩けると信じている。


「…………」


 できることなら。


 その未来を見てみたかった。


 まだ見ぬ街へ驚く顔も。


 食べたことのない料理へ目を輝かせる姿も。


 外の世界で。


 誰かと出会い。


 何かを選び。


 自分の足で歩いていく姿も。


「…………」


 だが。


 自分の身体は。


 その時を待ってはくれない。


「…………」


 黒く歪んだ指が。


 再び。


 ヴァルドの意思とは関係なく震えた。


 ヴァルドは。


 その手を強く握り締める。


「…………」


 そして。


 誰にも聞こえない声で呟いた。


ヴァルド

「……もう、時間がないか」


「…………」


 風が吹く。


 レオンの墓標を覆う黒い布が。


 夜の中で僅かに揺れた。


「…………」


 穏やかな夜。


 何も起こらない。


 小屋からは。


 変わらないヤヌスの寝息が聞こえている。


「…………」


 ただ。


 2人で過ごす日々の終わりだけが。


 静かに。


 確実に近づいていた。

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