第4話 勇者誕生
黒印のヤヌス
第2章 剣聖
第4話 勇者誕生
大陸アストリア。
人間と魔族が。
長きにわたり争いを続ける大地。
「…………」
魔王軍が侵攻を開始してから。
人類の領域は。
少しずつ、確実に失われていた。
国を失った者。
故郷を追われた者。
家族を奪われた者。
戦火は。
今も大陸の各地へ広がり続けている。
「…………」
その中で。
人類が魔族へ対抗するために持つ、最大の組織。
ルーメン教会。
聖印を宿した者達を集め。
聖騎士と。
数多の教会兵を擁し。
人々を魔族の脅威から守り続けている。
そして。
その総本山が置かれた場所。
聖都ルーメリア。
◇◇◇
朝。
聖都ルーメリア。
「…………」
白亜の建物が立ち並び。
整えられた石畳の道を。
幾つもの荷車が行き交っている。
市場では。
商人達が店先へ商品を並べ始めていた。
焼きたてのパン。
色鮮やかな果物。
遠方から運ばれてきた織物。
眠そうな顔で荷物を運ぶ大人達の間を。
子供達が元気よく走り回っている。
「…………」
一見すれば。
戦争などとは無縁に思える。
穏やかな街。
だが。
そこに暮らす者達の表情から。
不安が消えることはなかった。
「…………」
街の中央。
巨大な広場に。
1人の男を模した石像が立っている。
片手に剣を握り。
遠くを見据える男。
勇者レオン。
「…………」
像の足元には。
今日も多くの花が供えられていた。
朝早くから。
像の前へ膝をつき。
祈りを捧げる者もいる。
戦場へ向かう家族の無事を願う者。
失われた故郷を取り戻せる日を願う者。
そして。
もう、この世にはいない勇者へ。
人類を救ってほしいと願う者。
「…………」
世界にとってのレオンは。
歴代最強と謳われた勇者だった。
魔王軍と戦い。
幾つもの国を救い。
人類の先頭へ立ち続けた英雄。
その男が。
人里離れた森の中で。
2人の子供と静かに暮らしていたことを。
知る者は、ほとんどいない。
料理を作り。
肉を摘み食いしたヤヌスを叱り。
ルミナへ家事を任せすぎたと苦笑していた。
そんな。
父親としてのレオンを。
この街の者達は知らなかった。
「…………」
像の前へ。
腰の曲がった老人が歩み寄る。
両手には。
小さな白い花束を抱えていた。
老人は。
既に供えられている花の隣へ。
自分の花を静かに置いた。
老人
「勇者レオン様が亡くなられて……」
一拍。
老人
「もう、どれほど経つのかのう」
「…………」
近くで。
店の準備をしていた女の手が止まる。
市場の女
「……考えたくもないわ」
女は。
寂しげな目で石像を見上げた。
市場の女
「勇者様がいなくなってから」
市場の女
「悪い知らせばかりだもの」
「…………」
荷物を運んでいた青年が。
重い木箱を地面へ置く。
市場の青年
「また、北の街が落ちたらしい」
市場の女
「また……?」
市場の青年
「ああ」
市場の青年
「逃げてきた奴から聞いた」
一拍。
市場の青年
「城壁を破られて」
市場の青年
「街の半分が焼かれたって……」
「…………」
周囲にいた者達も。
いつしか手を止めていた。
老人が。
地面へ膝をついたまま、俯く。
老人
「魔王軍が動き始めてからというもの……」
一拍。
老人
「村も」
老人
「街も」
老人
「瞬く間に落とされておる」
市場の女
「次は……」
女が。
言いかけて口を閉じる。
それでも。
誰もが同じことを考えていた。
次は。
この聖都なのではないか。
「…………」
ルーメン教会の総本山。
大勢の聖騎士と。
教会兵に守られた街。
それでも。
絶対に安全だとは思えなかった。
「…………」
青年が。
石像を見上げる。
市場の青年
「歴代最強の勇者って」
一拍。
市場の青年
「そう言われてたんだろ……」
老人
「ああ」
市場の青年
「そんな人でも」
一拍。
市場の青年
「魔王には、勝てなかった」
「…………」
誰も。
何も答えられなかった。
勇者レオンは。
魔王との戦いで深い傷を負い。
その傷が原因となって命を落とした。
人々には。
そう伝えられている。
「…………」
魔王との戦いを生き延びたことも。
その後。
傷に蝕まれながら、長い年月を過ごしていたことも。
最後には。
カインという仮面の魔人に殺されたことも。
世間には知らされていない。
「…………」
人々が知っているのは。
歴代最強と謳われた勇者でさえ。
魔王には勝てなかったということだけ。
ならば。
次は誰が。
人類を守るのか。
誰が。
魔王軍へ立ち向かうのか。
「…………」
レオンを失ったことは。
人類にとって。
最大の戦力を失ったというだけではない。
どれほど追い詰められても。
勇者がいる。
レオンが戦っている。
ならば。
人類はまだ負けていない。
そう信じるための。
希望を失ったということだった。
市場の女
「勇者様が……」
一拍。
市場の女
「まだ、いてくださったら……」
「…………」
声が。
朝の街へ小さく消えていく。
老人も。
青年も。
市場にいる者達も。
何も言わず。
レオンの像を見上げていた。
「…………」
その時だった。
白い光が。
空から、ゆっくりと降り始めた。
「…………?」
市場の女が。
目の前を通り過ぎる光へ手を伸ばす。
雪ではない。
灰でもない。
小さな光の粒。
掌へ触れる寸前。
淡く弾け。
温かな光となって消えていった。
市場の女
「何……?」
「…………」
白い光は。
1つ。
また、1つ。
次第に数を増していく。
聖都全体へ。
雪のように降り注いでいた。
「…………」
子供達が足を止める。
商人達が顔を上げる。
荷車を引いていた馬までも。
何かを感じたように動きを止めた。
「…………」
街を満たしていた音が。
少しずつ消えていく。
話し声。
足音。
車輪の軋み。
店先から聞こえていた呼び声。
誰かに命じられたわけでもない。
それでも。
聖都にいるすべての者が。
同じ場所へ顔を向けていた。
「…………」
街の最奥。
白亜の大聖堂。
高い尖塔。
巨大な鐘楼。
数え切れないほどの窓。
そのすべてが。
内側から、淡い光を放ち始めている。
「…………」
大聖堂の屋根へ止まっていた鳥達が。
一斉に羽ばたいた。
空へ舞い上がり。
逃げることなく。
大聖堂を中心に円を描いていく。
「…………」
次の瞬間。
ドォォォォォン――!!
「…………!」
低く。
大地の奥まで届くような音が響いた。
石畳が僅かに震える。
市場に積まれていた果物が転がり。
広場の噴水に波紋が広がった。
「…………」
大聖堂の中央から。
純白の光が噴き上がった。
天へ向かって。
真っ直ぐに。
巨大な光の柱が伸びていく。
「…………!」
光は。
大聖堂の屋根を貫き。
聖都の遥か上空へ到達した。
白い雲が照らされる。
厚い雲の中心へ。
巨大な穴が開いていく。
「…………」
光の柱を中心に。
白銀の輪が生まれた。
1つ。
2つ。
幾重もの光輪が。
空の果てへ向かって広がっていく。
「…………」
眩しい。
それでも。
誰1人として目を逸らさなかった。
目を焼くような光ではない。
身体の奥へ染み込むような。
温かい光。
初めて見るはずなのに。
どこか懐かしささえ感じさせる。
神秘的な輝きだった。
「…………」
広場の中央。
レオンの石像が握る剣へ。
白い光が降り注ぐ。
石で作られたはずの刀身が。
一瞬だけ。
眩い光を放った。
「…………」
老人が。
震える手を地面へつく。
その目から。
涙が溢れた。
老人
「……聖印が」
一拍。
老人
「聖印が……目覚めた……?」
「…………」
その言葉をきっかけに。
止まっていた街が動き始めた。
大聖堂の近くにいた教会兵達が。
一斉に走り出す。
教会兵
「大聖堂だ!」
教会兵
「急げ!!」
「…………」
鎧の音が。
石畳へ激しく響く。
別の道から駆けてきた教会兵が。
光を見上げたまま。
震える声を張り上げた。
教会兵
「新たな勇者様が――」
一拍。
教会兵
「新たな勇者様が、お生まれになったぞ!!」
「…………」
一瞬。
誰も反応できなかった。
勇者。
その言葉が。
すぐには理解できない。
「…………」
だが。
光は消えない。
天へ伸びる柱が。
人々の目の前へ。
確かな奇跡として存在している。
老人
「……ああ」
老人の身体が。
地面へ崩れる。
レオンの像へ縋るように。
両手を組んだ。
老人
「天は……」
一拍。
老人
「我々を」
老人
「見捨ててはいなかった……」
「…………」
その声が。
静まり返った広場へ落ちる。
次の瞬間。
街の男
「勇者様だ……!」
街の女
「新しい勇者様が!」
街の青年
「やった……!」
別の男
「まだ戦えるぞ!」
別の女
「人類は、まだ終わっていない!」
「…………」
歓声が爆発した。
泣く者。
笑う者。
隣にいる者と抱き合う者。
その場へ膝をつき。
大聖堂へ祈りを捧げる者。
子供を抱き上げ。
光を見せる母親。
母親
「見て」
母親
「勇者様よ」
子供
「勇者様……?」
母親
「私達を守ってくださる方よ」
「…………」
少し前まで。
絶望に沈んでいた街が。
たった1本の光によって。
希望を取り戻していく。
天へ伸びる白い柱。
その光は。
聖都のどこからでも見ることができた。
◇◇◇
ルーメン教会総本山。
大聖堂。
「…………」
外の歓声とは対照的に。
堂内は。
息苦しいほどの静寂へ包まれていた。
「…………」
高い天井。
白い柱。
壁へ描かれた聖画。
最奥には。
両手を広げた巨大な聖像が置かれている。
その頭上。
天井の遥か高くから。
純白の光が降り注いでいた。
「…………」
光の中心に。
1人の青年が立っている。
年齢は。
20歳ほど。
少し癖のある茶色の髪。
特別に鍛え上げられた身体ではない。
身につけているのも。
昨日まで着ていた。
使い古された普通の服。
鎧も。
剣も持っていない。
「…………」
青年。
アーク・レイヴェルは。
右手を胸の前へ持ち上げていた。
その手に。
純白の紋様が浮かび上がっている。
「…………」
物心がついた頃から。
右手には。
小さな印があった。
生まれつきの痣。
その程度にしか考えていなかったもの。
「…………」
だが。
今は違う。
小さかった印は。
手の甲全体へ広がっている。
幾重もの線が重なり。
今までとはまるで異なる。
複雑な紋様を形作っていた。
中心から。
白い光が脈打っている。
ドクン――。
心臓の鼓動に合わせ。
光が強くなる。
ドクン――。
紋様は。
手首を越え。
腕へ向かって淡く伸びていた。
アーク
「…………」
アークは。
何が起きているのか分からない。
右手を見つめたまま。
掠れた声を落とす。
アーク
「……何だよ、これ……」
「…………」
周囲には。
多くの司祭と。
聖騎士達が集まっていた。
金糸の刺繍が施された法衣。
磨き上げられた白銀の鎧。
アークにとっては。
話しかけることさえ躊躇うような者達。
「…………」
ほんの少し前まで。
自分よりも。
遥かに高い場所へいると思っていた者達だった。
だが。
今は。
誰1人として声を発さない。
ただ。
アークの右手へ浮かぶ紋様を。
信じられないものを見るように見つめている。
「…………」
やがて。
白い法衣を纏った老司祭が。
ゆっくりと歩み出た。
長い年月を生きた顔。
胸元には。
教会の高位聖職者であることを示す飾りが下がっている。
「…………」
老司祭は。
アークの前で足を止めた。
震える指を。
光る右手へ近づける。
触れることはしない。
ただ。
紋様の形を。
自らの目で確かめる。
老司祭
「……間違いありません」
アーク
「え……?」
老司祭が。
僅かに顔を上げる。
その瞳には。
畏敬と。
歓喜が浮かんでいた。
老司祭
「聖印が――」
一拍。
老司祭
「完全に覚醒しています」
アーク
「聖印……?」
「…………」
その言葉は知っている。
人類の中に。
特別な力を持つ者がいること。
聖騎士達の中にも。
聖印を宿している者がいること。
幼い頃から。
教会の教えとして聞かされてきた。
「…………」
だが。
自分の右手にあった。
何の意味もないと思っていた印が。
聖印だと考えたことなどなかった。
アーク
「これが……?」
一拍。
アーク
「俺の、この印が……?」
「…………」
老司祭は答えず。
その場へ膝をついた。
アーク
「……え?」
頭を垂れる。
まるで。
身分の高い者へ。
最大限の敬意を示すように。
老司祭
「勇者様の」
一拍。
老司祭
「ご誕生です」
「…………」
直後。
周囲にいた者達が。
一斉に動いた。
法衣が揺れる。
白銀の鎧が鳴る。
司祭も。
聖騎士も。
その場へ片膝をついた。
「…………」
大聖堂にいる。
アーク以外の全員が。
彼へ向かって頭を垂れていた。
アーク
「…………え?」
理解が追いつかない。
昨日まで。
街の片隅で働いていた。
朝に起き。
身体を動かし。
日が暮れる頃には疲れて帰る。
腹が減れば飯を食い。
眠くなれば眠る。
何か特別なことを成し遂げたわけでもない。
剣も。
子供の頃に、少し握ったことがあるだけ。
戦場へ立った経験など。
1度もない。
「…………」
それなのに。
教会の高位聖職者達が。
聖都を守る聖騎士達が。
自分へ膝をついている。
アーク
「……俺が」
一拍。
アーク
「勇者……?」
「…………」
声が。
広い礼拝堂へ虚しく響く。
老司祭が。
膝をついたまま顔を上げた。
アーク
「待ってください」
一拍。
アーク
「俺」
アーク
「聖印とか……勇者とか……」
言葉が続かない。
何を聞けばよいのかさえ。
分からなかった。
アーク
「聖印を持っている人なら」
アーク
「他にもいるんですよね……?」
老司祭
「はい」
アーク
「それなら」
一拍。
アーク
「どうして、俺が勇者なんですか?」
「…………」
老司祭は。
静かに答える。
老司祭
「聖印を宿す者は」
老司祭
「他にも存在します」
一拍。
老司祭
「聖騎士の中にも」
老司祭
「その力へ目覚めた者がおります」
アーク
「だったら……」
老司祭
「ですが――」
一拍。
老司祭の声が。
厳かな礼拝堂へ響く。
老司祭
「勇者は」
老司祭
「1人しか存在しません」
「…………」
アークの言葉が止まる。
老司祭
「聖印を持つ者達の中で」
老司祭
「ただ1人」
一拍。
老司祭
「その力を完全に覚醒させた者」
老司祭
「その者を」
老司祭
「我々は勇者と呼びます」
アーク
「完全に……覚醒……」
「…………」
アークは。
再び自分の右手を見る。
純白の紋様。
そこから溢れる光は。
今も大聖堂を満たし。
天へ向かって伸び続けている。
老司祭
「我々は」
老司祭
「完全に覚醒した聖印を――」
一拍。
老司祭
「天が」
老司祭
「その時代で最も勇者の素質を持つ者を選んだ証と」
老司祭
「そう考えております」
アーク
「天が……」
右手へ視線を落としたまま。
小さく呟く。
アーク
「俺を……?」
「…………」
自分のどこに。
勇者の素質があったというのか。
強くもない。
賢くもない。
多くの人間を率いた経験も。
命を懸けて戦った経験もない。
アーク
「俺なんかに……」
一拍。
アーク
「そんな……」
「…………」
右手が震える。
先ほどまで。
ただ驚いていただけだった。
だが。
周囲の者達が自分へ跪き。
勇者と呼ぶ声が。
少しずつ現実として胸へ落ちてくる。
「…………」
自分が。
レオンの後を継ぐ。
歴代最強と謳われ。
人類の希望だった男の代わりになる。
戦場へ立ち。
魔族と戦い。
魔王軍から人々を守る。
「…………」
できるはずがない。
その思いが。
心の奥から湧き上がった。
「…………」
その時。
大聖堂の外から。
人々の声が聞こえてきた。
街の者
「勇者様!」
別の声
「新しい勇者様だ!」
別の声
「天は、我々を見捨てていなかった!」
「…………」
厚い扉を隔てても。
歓声が。
はっきりと届く。
「…………」
すべて。
自分へ向けられた声。
まだ。
何もしていない。
誰1人として救っていない。
剣さえ。
まともに振るえない。
それなのに。
外にいる人々は。
アークを勇者と呼んでいる。
「…………」
老司祭が。
震える青年を見上げた。
老司祭
「勇者様」
アーク
「…………」
老司祭
「勇者として生まれる者などおりません」
「…………」
穏やかな声だった。
それでも。
確かな重みがあった。
老司祭
「選ばれたその日から――」
一拍。
老司祭
「勇者として歩き始めるのです」
「…………」
アークは答えられなかった。
純白の光に包まれながら。
ただ。
自らの右手を見つめ続けていた。
◇◇◇
翌朝。
聖都ルーメリア。
「…………」
昨日までとは。
街の空気が大きく変わっていた。
家々の窓には。
白い旗が掲げられている。
通りには花が飾られ。
人々が。
同じ方向へ急いでいた。
街の子供
「早く!」
街の子供
「勇者様のお披露目が始まっちゃうよ!」
母親
「走ったら転ぶわよ!」
「…………」
子供達が。
人混みの間を駆け抜ける。
老人も。
働きへ向かうはずだった者も。
店を閉めた商人も。
大聖堂へ続く道を歩いている。
「…………」
聖都中の鐘が。
一斉に鳴り響いた。
ゴォォォォン――。
ゴォォォォン――。
「…………」
重く。
清らかな音が。
街の隅々まで届いていく。
昨日。
天へ伸びた光の柱は消えていた。
それでも。
街を覆っていた絶望もまた。
同じように薄れている。
「…………」
大聖堂前。
巨大な広場。
そこは。
人で埋め尽くされていた。
「…………」
大聖堂へ続く大通り。
周囲の建物の窓。
離れた場所にある屋根の上。
勇者の姿をひと目見ようと。
数え切れないほどの人々が集まっている。
「…………」
広場の中央には。
白い絨毯が敷かれていた。
その両側へ。
教会兵達が整然と並んでいる。
磨き上げられた鎧。
掲げられた槍。
白い旗が。
朝の風へ靡いていた。
「…………」
やがて。
鐘の音が止まる。
ゴォォォン――。
最後の余韻が。
街の上空へ消えていく。
「…………」
広場を満たしていた声が。
少しずつ静まった。
数え切れないほどの人間がいるにもかかわらず。
足音さえ聞こえるほどの静寂が訪れる。
「…………」
ゴゴゴゴゴ――。
大聖堂の巨大な扉が。
内側からゆっくりと開き始めた。
「…………」
扉の向こう。
暗い堂内から。
白い光が差し込んでくる。
その光の中を。
1人の人物が歩いてきた。
「…………」
純白の法衣。
金糸で描かれた紋様。
頭には。
ルーメン教会の最高指導者であることを示す法冠。
教皇。
「…………」
教皇が姿を現すと。
広場にいる者達が。
一斉に頭を垂れた。
教皇は。
大聖堂前に設けられた高壇へ上がる。
そして。
人々を見渡した。
教皇
「勇者レオンが」
一拍。
教皇
「この世を去ってから――」
「…………」
その名が告げられた瞬間。
広場の空気が変わった。
顔を伏せる者。
胸元で手を組む者。
涙を浮かべる者。
「…………」
誰もが。
勇者を失った日のことを覚えている。
教皇
「我々人類は」
教皇
「多くのものを失いました」
一拍。
教皇
「国を」
一拍。
教皇
「故郷を」
さらに。
教皇
「そして――」
一拍。
教皇
「家族を」
「…………」
群衆の中。
1人の女が。
幼い子供を強く抱き締めた。
隣に立つ男が。
失った誰かを思い出すように俯く。
教皇
「魔王軍は」
教皇
「今なお」
一拍。
教皇
「我々の大地を脅かしています」
「…………」
広場へ集まった者達の脳裏に。
焼かれた村が浮かぶ。
崩れ落ちた街。
逃げ惑う人々。
戦場へ向かい。
戻らなかった家族。
教皇
「そして」
教皇
「多くの者が思ったことでしょう」
一拍。
教皇の声が。
広場の隅々まで響く。
教皇
「天は」
一拍。
教皇
「我々を見放したのではないか」
教皇
「人類の時代は」
一拍。
教皇
「終わったのではないか、と」
「…………」
誰も。
その言葉を否定できなかった。
実際に。
多くの者が、そう思っていた。
歴代最強の勇者を失い。
魔王軍の侵攻を止められず。
今日よりも明日の方が。
確実に悪くなっていく。
希望など。
もう、どこにも残っていないと。
「…………」
教皇が。
ゆっくりと顔を上げる。
教皇
「ですが――」
一拍。
同時に。
大聖堂の鐘が鳴った。
ゴォォォォン――!!
「…………」
音が。
聖都全体を震わせる。
教皇
「天は」
一拍。
教皇
「我々を見捨ててなどいなかった」
「…………!」
広場にいる者達が。
一斉に顔を上げた。
教皇
「昨日」
教皇
「この聖都ルーメリアへ」
一拍。
教皇
「一筋の光が降り注ぎました」
「…………」
人々の脳裏へ。
天へ伸びた白い光が蘇る。
聖都全体へ降り注いだ光の粒。
大聖堂を中心に広がった白銀の輪。
教皇
「それは」
教皇
「我々を再び立ち上がらせるために与えられた」
一拍。
教皇
「新たなる希望」
「…………」
教皇が。
大聖堂の扉へ身体を向ける。
教皇
「皆に」
一拍。
教皇
「紹介しましょう」
「…………」
扉の奥から。
カツン――。
硬い足音が響いた。
カツン――。
「…………」
まず。
白銀の鎧を纏った聖騎士達が現れる。
左右へ分かれ。
白い絨毯の両側へ立つ。
「…………」
聖騎士達が。
同時に剣を抜いた。
シャキン――!!
掲げられた剣が。
頭上で交差する。
白銀の刃によって。
1本の道が作られた。
「…………」
その中央。
大聖堂の暗がりから。
1人の青年が歩いてくる。
アーク・レイヴェル。
「…………」
昨日までとは違う。
純白の礼装。
その上から。
銀色の軽鎧を身につけている。
腰には。
教会から授けられた剣。
「…………」
それでも。
表情だけは。
昨日まで。
どこにでもいる青年として暮らしていた頃と変わらない。
緊張に。
僅かに強張っている。
「…………」
アークは。
剣で作られた道を歩く。
聖騎士達の間を通り。
大聖堂の外へ。
初めて。
広場を埋め尽くす人々の姿が見えた。
「…………!」
息が止まった。
人。
人。
人。
どこまで目を向けても。
人の姿が続いている。
「…………」
その全員が。
自分を見ていた。
期待。
喜び。
祈り。
昨日まで。
誰からも向けられたことのないものが。
数え切れないほどの視線となって。
アークへ集まっている。
「…………」
右手が。
僅かに震えた。
手の甲には。
純白の聖印。
今は。
光を抑えている。
それでも。
複雑な紋様は。
離れた場所からでも、はっきりと見えた。
「…………」
アークが。
教皇の隣へ立つ。
教皇は。
青年を人々へ示すように。
片手を向けた。
教皇
「新たなる勇者――」
一拍。
教皇
「アーク・レイヴェル」
「…………」
一瞬。
広場から。
すべての音が消えた。
そして――。
群衆
「勇者様ぁぁぁぁぁ!!」
「…………!」
大歓声が。
聖都を揺らした。
街の男
「勇者様!!」
街の女
「アーク様!!」
別の男
「俺達の希望だ!」
別の女
「魔族を追い返してください!」
母親
「この子を……!」
一拍。
母親が。
腕に抱いた幼子を見せる。
母親
「この子達を、お願いします……!」
街の子供
「勇者様ー!!」
「…………」
アークは。
圧倒されていた。
自分の名前が。
あらゆる場所から聞こえてくる。
昨日まで。
近所の者達しか知らなかった名前。
それを今は。
何万もの人間が叫んでいる。
「…………」
喜んでいる。
泣いている。
自分が現れたという。
ただそれだけで。
「…………」
アークの右手が。
再び震え始める。
腰の剣も。
着慣れない鎧も。
今は。
恐ろしいほど重く感じた。
「…………」
その時。
隣に立つ教皇が。
アークへ静かに告げた。
教皇
「勇者アークよ」
アーク
「……はい」
教皇
「人々に」
一拍。
教皇
「あなたの言葉を」
アーク
「…………」
聞いていない。
演説をしろなど。
誰からも教えられていなかった。
「…………」
それでも。
ここで無理だとは言えない。
目の前には。
自分を信じている人々がいる。
「…………」
アークは。
ゆっくりと前へ出た。
高壇の端。
広場を埋め尽くす人々が。
すぐ下に見える。
「…………」
歓声が。
少しずつ静まっていく。
やがて。
数万の人間がいるとは思えないほどの。
静寂が訪れた。
「…………」
すべての視線が。
アークへ向けられている。
喉が渇く。
胸が苦しい。
何を言えばよいのか分からない。
「…………」
用意された言葉など。
1つもなかった。
勇者らしい言葉も。
人々を導く言葉も。
アークは知らない。
「…………」
だから。
自分の言葉で話すしかなかった。
アーク
「俺は……」
「…………」
声が掠れた。
広場の手前にいる者へさえ。
届いたか分からないほどの声。
「…………」
アークは。
1度、口を閉じる。
息を吸う。
震える拳を握った。
そして。
もう1度、人々を見る。
アーク
「昨日まで……」
一拍。
アーク
「俺は、ただの人間でした」
「…………」
群衆は。
何も言わない。
ただ。
青年の言葉へ耳を傾けている。
アーク
「戦争も」
一拍。
アーク
「魔族の恐ろしさも……」
一拍。
アーク
「知っているつもりでいただけだった」
「…………」
焼かれた街を。
アークは見ていない。
魔族と剣を交えたこともない。
目の前で。
誰かの命を奪われたこともない。
戦争について知っていることなど。
人から聞いた話だけだった。
アーク
「自分に」
一拍。
アーク
「誰かを救える力があるなんて……」
一拍。
アーク
「考えたこともありません」
「…………」
怖い。
逃げたい。
自分にはできないと。
今すぐ叫びたかった。
「…………」
だが。
群衆の中に。
昨日。
レオンの像へ花を供えていた老人が見えた。
老人は。
祈るように両手を組み。
涙を流しながら。
アークを見上げている。
「…………」
その隣には。
幼い子供を抱き締める母親。
足を失い。
杖へ身体を預ける男。
色褪せた兵士の外套を。
胸へ抱いている女。
「…………」
国を失った者。
故郷を失った者。
家族を失った者。
彼らは。
アークを見ている。
自分達にはできないことを。
新たな勇者へ託そうとしている。
「…………」
自分が。
本当に勇者になれるのか。
まだ分からない。
この聖印に。
どれほどの力があるのかも。
自分が。
戦場で剣を振るえるのかも分からない。
「…………」
それでも。
何もせずに。
この場から逃げることだけは。
したくなかった。
アーク
「でも――」
一拍。
先ほどよりも。
強い声が出た。
アーク
「この力が」
右手を握る。
アーク
「俺に与えられたことに」
一拍。
アーク
「何か意味があるのなら」
「…………」
聖印が。
掌の中で淡く脈打つ。
アーク
「俺を」
一拍。
アーク
「信じてくれる人がいるのなら」
「…………」
アークが。
右手を天へ掲げた。
その瞬間。
聖印が光を放った。
キィィィン――。
「…………!」
澄んだ音が。
聖都の空へ響く。
純白の光が。
右手の紋様から溢れ出す。
眩い。
それでも。
誰1人として目を逸らさない。
昨日と同じ。
温かく。
優しい光。
「…………」
アークは。
光る右手を掲げたまま。
人々へ告げる。
アーク
「俺は、戦います」
「…………」
迷いは。
まだ消えていない。
恐怖も。
重圧も。
胸の中に残っている。
それでも。
声だけは。
もう震えていなかった。
アーク
「魔族に奪われた国を取り戻す」
一拍。
アーク
「失われた故郷を取り戻す」
「…………」
広場にいる者達の目へ。
少しずつ光が戻っていく。
アークは。
右手を強く握った。
アーク
「そして――」
一拍。
聖印の光が。
さらに強くなる。
アーク
「必ず」
一拍。
アーク
「人類に平和を取り戻してみせます!!」
「…………」
宣言が。
聖都の空へ響き渡った。
一瞬の静寂。
その後。
広場を揺るがす歓声が爆発した。
群衆
「勇者様ぁぁぁぁぁ!!」
街の男
「アーク!!」
街の女
「アーク様!!」
別の男
「勇者アーク!!」
群衆
「アーク!!」
群衆
「アーク!!」
群衆
「アーク!!」
「…………」
名前が。
聖都中へ広がっていく。
大聖堂の鐘が鳴る。
白い旗が風へ靡く。
花びらが。
高壇に立つ青年へ降り注ぐ。
「…………」
アークは。
その光景を見つめていた。
昨日まで。
ただの青年だった。
戦う力も。
人々を率いる覚悟もなかった。
「…………」
今も。
その中身が。
急に変わったわけではない。
剣の腕も。
戦場の知識も。
人々が期待する勇者には。
まだ遠く及ばない。
「…………」
それでも。
世界は。
アークを勇者と呼んだ。
人類の希望として。
その名を求めた。
「…………」
群衆の中。
レオンの像へ花を供えた老人が。
涙を流していた。
長い間。
絶望に沈んでいた顔へ。
小さな笑みが浮かんでいる。
「…………」
老人の視線の先。
掲げられた右手。
純白に輝く聖印。
老人は。
両手を組み。
祈るように呟いた。
老人
「……勇者様」
「…………」
その声は。
周囲の歓声に掻き消される。
それでも。
老人は何度も頷いた。
「…………」
勇者アーク。
その名が。
鐘の音と共に。
聖都ルーメリアへ響き続けていた。




