第6話 位置情報
※第6話では、結衣が過去のデータと再会します。
「8-15_17_21.jpg」
撮影者:mizuno_yui
位置情報:由比ヶ浜
数値が突きつける、あの日の「時間ズレ」。
記録と記憶が、静かにずれ始めます。
◇◇◇ 水野結衣side ◇◇◇
社会人になって、最初に覚えたのはソフトのショートカットキーだった。
次に覚えたのは、フォルダ階層の整理の仕方。
最後に覚えたのは、人の思い出の重さは、データ容量と比例しないということだった。
写真整理の仕事は、静かで、少しだけ埃っぽい。
依頼者から預かったハードディスクやSDカードを開き、
必要な写真と不要な写真を分けていく。
ブレているもの、真っ暗なもの、指が写り込んだもの。
そういうのを削除候補リストに入れる。
「本当に消していいんですか?」
初めてそう聞いたとき、ある依頼者は笑った。
『ああいうの、見たくないんですよ。
ちゃんと写ってるのだけ残しておいてください。』
私は「はい」と返事して、そのデータをゴミ箱に入れた。
画面の端で、アイコンが小さく沈んでいく。
——見たくない記録は、ないことにされる。
そうやって、世界は少しずつ整えられていく。
ある日、昔のクラスメイトから「データ整理を手伝ってほしい」と連絡が来た。
文化祭や修学旅行の写真をまとめておきたいらしい。
送られてきた外付けHDDを接続する。
フォルダの名前はただの数字列で、規則性はない。
「201X」「0815」「class」「album」。
その中に、一つだけ見覚えのある文字列があった。
8-15_17_21.jpg
心臓が一瞬、強く脈打った。
クリックする指先が冷たくなる。
ファイルを右クリックして、プロパティを開く。
撮影日時:20XX年8月15日 17:21
撮影場所:神奈川県鎌倉市由比ヶ浜
作成者:mizuno_yui
——私の名前。
頭の奥が、少しだけ遠くなる。
椅子の背もたれに寄りかかり、一度深呼吸をした。
「結衣、大丈夫?」
いつの間にか、真帆がドアのところから覗いていた。
同じ会社で働いているわけではないけれど、
近くのクリニックでカウンセラー見習いをしている彼女は、
よく帰り道に顔を出してくる。
「うん、大丈夫。ちょっと、懐かしい名前が出てきただけ。」
「mizuno_yui?」
画面を覗き込んだ真帆が、プロパティをちらりと見てから言う。
「うん。私の、昔の名前。」
「今も同じでしょ。」
「……そうなんだけど。」
由比ヶ浜の文字列を見ていると、
胸の奥で眠っていた波音が、微かに目を覚ます。
「開ける?」
真帆の問いかけに、私は首を横に振った。
「まだ、開けない。プロパティだけで十分。」
「位置情報、ちゃんと残ってるんだね。」
「うん。」
由比ヶ浜。
あの日と同じ場所。
時刻だけが違う。
現実は17:19、データは17:21。
二分の誤差は、いまだに修正されないままそこにある。
その夜、家に帰って自分のPCを開いた。
高校時代のバックアップフォルダ。
長らく触っていなかったHDDの中に、
同じファイル名が眠っていた。
8-15_17_21.jpg
こちらのプロパティにも、同じ情報が表示される。
撮影者:mizuno_yui。
位置情報:由比ヶ浜。
——やっぱり、私が撮った。
頭では分かっていた。
だけど、数値で突きつけられると、現実の密度が変わる。
スマホを手に取り、真帆にメッセージを送る。
『あの写真、こっちにもあった。』
すぐに既読がつき、短い返信が来た。
『うん、そう思った。』
『開けた?』
『まだ。』
『開かないままでも、現実だからね。』
私は笑って、スマホを伏せた。
真帆の言葉は、いつも少しだけ先にある。
布団に入ると、久しぶりに波の夢を見た。
17:21の光が砂浜を照らしている。
シャッターを切ろうとすると、
どこからかサイレンの音が混じる。
「誰かが呼んでくれて。」
悠真の声が、遠くで聞こえた気がした。
振り向いても、姿は見えない。
ただ、海へ降りる階段だけが、夕陽に焼き付いている。
目を覚ますと、部屋は暗かった。
枕元の時計は、午前四時を少し回っている。
——位置情報は、嘘をつかない。
でも、記憶はすぐに上書きされる。
どちらを信じればいいのか、分からなかった。
数日後、クラスメイトのHDD整理は無事に終わった。
「8-15_17_21.jpg」は、
フォルダの深い階層のまま、削除リストから外した。
依頼者には言わなかった。
見たい人だけが見ればいい写真だと思った。
帰り道、真帆と駅まで一緒に歩く。
「どうした? まだ波、鳴ってる?」
「少しだけ。」
「位置情報、見てよかった?」
「分からない。でも、見なかったことにはしたくなかった。」
真帆は頷く。
「現実ってさ、見なかったことにも、しなかったことにもできるけど、
“感じなかったこと”には、なかなかできないよね。」
「うん。」
「結衣は、感じたままでいいと思うよ。」
それは、慰めというより、報告に近い言葉だった。
彼女はいつも、私の感情を「そうだね」と認めるだけ。
治そうとしない。
だから、救われるのかもしれない。
その晩、PCの画面を見つめながら、
私は17:21のファイルをもう一度右クリックした。
「開く」ではなく、「プロパティ」を選ぶ。
撮影者:mizuno_yui
場所:由比ヶ浜
時間:17:21
数字は、変わらない。
でも、その数字をどう受け取るかは、私が選べる。
——私はあのとき、そこにいた。
撮ったのは、私。
止めたのも、たぶん私。
それでも今、私はここにいる。
位置情報は変わっている。
窓の外の東京の空は、相変わらず灰色が強い。
けれど、今日の灰色は、昨日より少しだけ柔らかく見えた。
お読みいただき、ありがとうございます。
第6話では、結衣が「位置情報」という動かない現実と向き合いました。
17:19(救急要請)と17:21(写真)の二分が、
彼女の中で静かに疼き続けます。
次話『遅れないための方法』では、
真帆との録音インタビューで、
「感じていることが現実」という言葉が生まれます。
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