第5話 隙間の光
※第5話は、空白十年の始まりです。
由比ヶ浜から一年。
結衣はカメラを手放し、SNSで他人の記録を追い始めます。
撮らない代わりに、見つめることで時間を保とうとする。
夢の中の波音が、
静かに彼女を削っていきます。
◇◇◇ 水野結衣side ◇◇◇
大学進学の荷物は、思っていたより軽かった。
カメラケースを机の引き出しにしまい、蓋を閉める。
金属の留め具が小さく鳴って、部屋の空気に溶けた。
由比ヶ浜から一年。
あの夏のあと、私はカメラを触らなくなった。
シャッター音が耳の奥で反響するたびに、
17:21の光が浮かんでくるから。
鎌倉から東京へ。
新しい部屋の窓から見える街路樹が、風に揺れる。
講義の合間にスマホを開くと、タイムラインに海の写真が流れてくる。
誰かの夏休み、誰かの夕焼け。
私はいいねを押すだけ。
撮らない。残さない。ただ、見る。
それで充分だと思った。
東京の空は、鎌倉の海より灰色が強い。
アパートの窓辺で、SNSを眺める日々。
風景写真ばかりのアカウントを追いかける。
撮った人の名前も知らない。
いいねを押して、リツイートして、タイムラインに残す。
撮らない代わりに、誰かの記録を運ぶ。
世界が少しだけ繋がっている気がした。
夜になると、夢を見る。
波の音が近づいてくる。
17:21の光が足元に広がる。
シャッターを押そうとして、目が覚める。
枕元の時計はいつも、午前三時を過ぎている。
——撮らなければ、止まらない。
そう思うたびに、胸の奥が冷たくなる。
二年生の夏、同じ大学に来ていた真帆と再会した。
講義後のカフェ。変わらず穏やかな目をしている。
「まだ、カメラ持ってないの?」
「ううん。もう触らない。」
真帆はコーヒーカップを置いて、私を見る。
言葉より先に、私の呼吸を数えているような目。
「夢、見る?」
私はカップを持つ手を止めた。
「波の音。夜中に。」
「撮らなくなったから、止まらないまま夢に出てくるんだよ。」
真帆の言葉に、私は息を吐く。
彼女はいつも、私の言葉を先に言ってくれる。
「結衣はさ、撮らないんじゃなくて、撮り方が変わっただけだと思う。」
「どういうこと?」
「誰かの写真をRTするのって、間接的に撮ってるのと同じだよ。
自分の手でシャッター押さないだけで。」
確かに、そうかもしれない。
残さない代わりに、他人の記録を追い続ける。
それが、私の新しい“止める方法”なのかもしれない。
秋の終わり、SNSで“yui”という名前を初めて使った。
風景写真をRTするだけの、目立たないアカウント。
プロフィールには何も書かない。
タイムラインに海や空を流すだけ。
フォロワーは増えない。
でもそれでいい。
誰かに見られるより、ただそこにあるほうが安心する。
ある夜、夢の中で波音が止まらなかった。
目覚めてスマホを開くと、タイムラインに由比ヶ浜の写真が流れていた。
誰かが去年の夏を振り返る投稿。
私はそれを、リツイートした。
指先が震えるのを、初めて意識した。
三年生の冬、バイト先で古い写真の整理を任された。
フィルム時代のネガをスキャンする仕事。
埃を払い、光にかざす。
誰かの笑顔、誰かの風景。
作業中、ふと引き出しのカメラケースに目がいく。
開けようか迷って、そのままにした。
真帆に電話をかけた。
「まだ、夢見る?」
「うん。波音が。」
「撮ってみたら?」
「怖いよ。止まっちゃうから。」
電話の向こうで、真帆が息を吐く。
「止まらない方法もあるよ。撮ったあと、ちゃんと動かす、とか。」
「どうやって?」
「分からない。でも、結衣なら見つけられるよ。」
その言葉が、胸の奥に残った。
卒業が近づく頃、私は“記録を修復する”バイトを始めた。
古い写真のデジタル化、データ復旧。
埃まみれのSDカードから、失われた光を取り戻す。
誰かの結婚写真、旅行のスナップ。
撮った当時の空気を、指先で感じる。
消えかけたデータを救うたびに、
自分の17:21が少しだけ軽くなる気がした。
SNSの“yui”も、少しずつ投稿を増やした。
自分の写真ではない。
他人の記録を、リツイートで繋ぐだけ。
それが、私の“遅れない方法”の第一歩だったのかもしれない。
春、新しいアパートの窓辺でカメラケースを開けた。
埃を払い、レンズを拭く。
光が通り抜ける感触は、変わっていなかった。
シャッターを空打ちする。
音が部屋に響いて、すぐに消えた。
——撮らなければ、止まらない。
でも、撮って動かせば、進めるかもしれない。
ケースを閉じ、スマホを開く。
タイムラインに、新しい海の写真が流れていた。
私はそれを、リツイートした。
外の風が、カーテンを揺らす。
波音は、まだ夢の中だけに残っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
第5話では、結衣が「直接撮る」から「間接的に見守る」へ移行する過程を描きました。
真帆との再会で、
「撮り方が変わっただけ」という言葉が伏線になります。
次話『位置情報』では、
過去の写真データが再び現れ、
17:21の記憶が揺らぎ始めます。
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