第3章 再会
三 再会
桜ほころぶ三月。
立花広明は、主である黒神家家臣の前園家里に付き従って都に入った。供の者から広明一人が選ばれ、家里の乗る馬を引いて宿をたった。都の大通りは、呉服屋、扇屋、武具屋など数々の店が軒を並べ、往来の人々もにぎわっていた。また、たくさんの荷物を載せた荷馬車が石畳の上をガタガタと音を立てながら行き来していた。広明は、初めて見る都の景色に時おり目を奪われながら、家里の馬を引いていた。
「広明、頭がふらついているぞ」
家里は、笑いながら馬上から声をかけた。
広明は、慌ててかしこまって、馬を止めると、
「申し訳ございませぬ、殿」
と、深々と頭を下げた。
「よい、よい、広明。お前は律儀すぎるわ。それにしても、都にはいろいろな店があるのう。あの左手に見えるのは、筆屋だな。向こうの人だかりは見世物小屋か。都は、我々の住む黒神とは、別の世のようじゃのう」
家里は、都の大通りを見回しながら言った。
「はい、初めてなもので驚いております。殿は、都は二度目でございますか」
「そうさな、昨年三月は、横山左門様への使者で、今年三月は美馬元信様への使者。世の中はめまぐるしく変わるものよのう」
家里は、首を横に振って口元に笑みを浮かべ、懐に手を入れた。懐の中には、家里が仕える黒神家当主、黒神高春から直々に渡された書状が入っていた。この書状を都の新しい支配者である美馬元信に届けるのが、家里の役目だ。しかし、それだけでは終わらない。書状には書かれていない話を美馬にうまく伝え、首を縦に振らせることが本当の役目だった。
黒神高春は、「南の虎」と言われ、いずれ天下をねらうであろうと噂されている戦乱の世の雄である。その高春が、先に都に入った美馬元信をよく思うはずがない。高春にしてみれば、美馬など運のいい成り上がり者だ。かといって、高春が都の攻め上る体制を整えるまでは、美馬に都を守ってもらった方が都合がよい。高春が本当に恐れているのは、「北の龍」と言われる坂田一心だ。坂田は、都から北に、大松、岩月、番場という三国を越えた先に、広大な領地をもち、兵も強い。岩月、番場は小国のため、坂田を恐れて委縮するばかり。都に上る障害となるのは大松だけ。大松は、坂田や美馬に単独で勝てるほどの力はないが、都の通じる要所を抑え、守りは硬い。その大松を坂田が味方に付ければ、美馬を破ることができる。坂田に先に都に上られては黒神が天下を取ることは難しくなる。そこで、美馬と大松を組ませて坂田と戦わせ、双方が消耗したときに一気に打って出る。それが高春のねらいだ。
しかし、美馬も馬鹿ではない。高春が美馬と大松を組ませ、坂田を攻めさせる裏も読むだろう。そうなれば、美馬の気性から考えると、首を縦に振るどころか、生きて帰れぬかもしれない。
「のう、広明。お前がなぜ、今日の供となったかは、分かっておろうのう」
家里は、馬上から首をかしげて広明に話しかけた。
「はっ」
広明は短く返事をした。はっきりとは言われてはいないが、自分の出自を考えると、答えは明らかであった。
美馬がまだ村上定久に仕える下級武士であったころ、広明の父、立花開明も村上定久に仕えていた。しかも、美馬家と立花家の隣同士であり、家族同然の付き合いをしていた。広明が十才のとき、父の開明、母のあやめが相次いで流行り病でなくなり、広明は遠い親戚の前園家に引き取られることになったのだった。
「話がうまくいかなければ、美馬様を知っているおまえを使うこともあるかもしれぬ」
「なんなりと。殿のためなら何でもいたします」
「ふっ、何でもか」
そう言って小さく笑ったまま、家里は何も言わなくなった。
広明は、村上領にいたころの美馬元信を思い出していた。当時の美馬は、快活でよく働く気のいいおじさんであった。暇があれば、畑を耕したり、裏山に行って薪を拾ったりとせわしなく働いていた。広明が、美馬家の三姉妹、あおい、かえで、さくらと遊んでいると、すぐに声をかけて、一緒においかけっこやかくれんぼをして遊んでくれたものだ。今でこそ、残虐で、情け容赦のなく、主まで殺すという悪い話ばかり流れてくるが、当時の美馬からは想像もできないことであった。
「よいか、広明。おまえは外で控えておれ。美馬様の出方を見て、お前を呼んで使わせてもらうかもしれぬ。何もなければそのままだ。もし、」
家里は、そこで言葉を切った。
家里は、口を開いて、何か続けようとしたが、思い直したように一度口をつぐんだ。そして、もう一度口を開いた。
「もし、わしに何かあったとき、おまえだけでも何とか逃げ延びて、殿に報告をするのだ。よいか」
家里の言葉に広明は身を硬くしたが、
「分かりました」
と、力強く答えた。広明も、美馬様に書状を届けることは容易な仕事ではないことは理解していた。ただ、使者を切ることなど普通はあり得ないこと。しかし、今の美馬様が普通でないこともよく分かっていた。覚悟はしなければなるまい。広明は押し黙ったまま、馬を引いた。
「殿。そろそろ美馬様のお屋敷が近づいてくると思われます。馬から降りられますか」
「そうしよう」
家里は馬から降りると、美馬屋敷まで歩き、門番の前にゆっくりと進み出た。
「こちら、美馬元信様のお屋敷か」
「いかにも」
二人の門番が槍を持つ手に力を入れた。
「わたしは、黒神高春の家来、前園家里と申す。殿から美馬様への書状を持って参った。本日、書状を持って伺うことは、先にご了解をいただいている。お取次ぎ願いたい」
家里は張り詰めた声で一気に話した。
門番の二人は、顔を見合わせた。そして、一人が、
「しばし、お待ちください」
と、一歩前に出て、家里と正対した。
その間に、もう一人が、厚い門の横にある小窓を開いて中にいる者と短く言葉を交わし、すぐにまた小窓を閉めた。
しばらくすると、大きな門が左右に開かれ、家里と広明は中に通された。広い中庭の中央に三人の武士が立っていた。その中の一番恰幅の良い武士が家里の方に近寄ってきた。同時に、残りの二人が大門に駆け寄り、にぶい音を立てて門を閉めると、太いかんぬきをがしりとかけた。
恰幅の良い武士は、家里の前に立つと深く礼をして、
「私は、美馬家家臣の岡沢権蔵と申します。殿がお待ちです。前園様、ご案内いたします」
と、右手を広げた。
「さっそくのお出迎え、ありがとうございます。では、供の者をここに残しておきます」
家里は振り返って、広明の目をしっかりと見据え、眉間にしわを寄せた。その表情から家里の気持ちがひしと伝わってきた。家里は、また振り返って前を見ると、岡沢に連れられて屋敷の中へと消えていった。
広明は、家里の後ろ姿を見送ると、馬の背の馬具を整える振りをしながら、右に左に体を動かして、周りの様子を伺った。四方を高い塀に囲まれていてよじ登るのは難しい。大門のかんぬきを一人で外すには時間がかかる。逃げられるとしたら、大門の横にある通用門を抜けるしかない。ただ、そのためには、中にいる武士を二人、外の門番を二人、倒さねばならない。それも極めて困難なことのように思われた。
広明は、ふうーと大きく息を吐いた。
するとその時、中にいる二人の武士がまたかんぬきを引き抜き、大門を開けた。そこには、かみしも、はかまの老人が立っていた。広明は、その老人の顔を見て、思わず息を飲んだ。石本政長。昔から美馬元信に仕えていたご老人。もう十年以上会っていないがすぐに分かった。少し老けたが、ほとんど変わっていない。そう思った瞬間、広明は、草鞋を直すふりをしてしゃがみこみ、石本に背を向けた。ここでばれてはいけない。
庭にいた一人の武士が石本に駆け寄った。
「石本様、お久しぶりです。ご隠居なされたと聞きましたが、お元気でお過ごしですか」
「おう。彦六ではないか。しばらく見ぬ間にすっかりとたくましくなったのう。しっかりとお勤めを果たされよ」
「はい、分かりました。ところで、今、殿は来客中でございますが」
「そのようじゃのう」
石本は、馬のかたわらにしゃがんでいる従者にちらりと目をやった。
「ただ、今日は、殿にではなく奥方様に呼ばれて参ったのじゃ」
「そうでございましたか。奥方様はさくら姫様と一緒に奥座敷にいらっしゃるかと思います」
「そうか、ありがとう」
石本は、屋敷へ向かって歩き出し、しゃがんでいる広明のすぐ横を通り過ぎた。しかし、二、三歩進むとはたと立ち止まって振り向き、広明の方を見た。
「失礼じゃが、お供の方、どちらからいらっしゃられた」
石本は、覗き込むように広明に声をかけた。広明はぎくりとして、頭を下げたまま一瞬返事ができなかった。
その様子を見て、彦六が、
「こちらは黒神家、前園家里様のご家来です」
と言葉を発した途端、
「なに、黒神家、前園家里だと、もしや」
と、石本が広明に駆け寄り、膝をついた。
「そなた、広明ではないか、村上領で美馬様の隣にいた立花開明の息子の広明ではないか」
広明はもう隠し通せないと覚悟して、顔を上げた。目の前で膝をついている石本と目が合った。
「石本様、お久しぶりでございます。立花広明でございます」
「なんと奇遇な」
石本は、広明の肩に両手をかけて、がしりとつかみ、成長した広明の顔を見入った。
「石本様には、父も私も大変お世話になりました。このようなところで、またお目にかかるとは思ってもおりませんでした」
「いやあ、お父上、お母上を亡くし、前園家に引き取られ、さぞ苦労されたことだろう。しかし、まあ、立派になって、見違えるようじゃ」
石本は感慨深げに何度もうなずいた。
「先ほど、石本様が門から入ってこられてきたときに、すぐに石本様と分かりましたが、供の身分ゆえお声掛けもできず、大変失礼いたしました」
「何を言うておる。失礼などあるものか。お前が子どものころ、美馬様の三人の姫様と一緒に、釣りに連れて行ったり、山にきのこ採りに行ったりしたことをまだ昨日のことのように覚えておるぞ」
石本は、広明の肩にかけた手に一層力を込めた。
「だから、そなたの首のあざも覚えていたのだよ」
「首のあざ」
広明は、声を漏らした。確かに広明の首の髪の生え際にうっすらと茶色の栗のような形のあざがあった。
「そうそう、お前の横を通り過ぎるとき、ふとそのあざが目に留まって、十年以上も前の記憶が、一気によみがえったのだ。そして、もしやと声をかけた」
「そのようなことまで覚えていていただけるとは、光栄の至りです」
広明は恐縮して頭を下げた。
「そんな硬い顔をするな」
石本は笑って立ち上がると、ぽんと手をたたいた。
「そうだ。これは、奥方様とさくら姫様にも伝えなければ」
石本は、二人の様子を何事かという顔で眺めていた彦六に向かって、
「彦六、この前園様の供の方は、昔、殿の隣に住んでいた旧知の方だ。奥方様もさくら姫様もぜひ会いたいであろう。これから奥に連れてまいるから、前園様がもどってきたら、そう伝えておいてくれ」
と、話しかけた。
「いや、しかし、黒神家の家来を奥に通すとは。殿のお許しがなければ……」
「何を言うておる。私が責任をもつ。さ、広明殿、お立ちください」
石本は、広明の手を取って立たせると、奥座敷に向けて手を引っ張った。
「いえ、私はここで殿を待たなければなりません」
広明は強く辞退したが、石本は聞かなかった。
「広明殿、もしそなたがいたのに、奥方様やさくら姫様に会わせなかったとしたら、私はひどく叱られ、お二人に泣かれてしまうぞ。なに、前園様には彦六から、ご使者がさくら姫様と幼馴染だったので、石本が無理に連れて行ったと伝えてもらおう。さ、広明殿こちらへ」
石本は困惑している広明の手を老人とは思えぬほどの力で引っ張った。
広明は「いえ、しかし」と言いながらも、無理にあらがって騒動になれば、かえって殿に迷惑をかけるのではないかと思い、歩を任せた。
「いくら石本様でも、困ります」
彦六が追いかけてきた。
「分かった、分かった」
石本は、一度立ち止まって、
「広明殿、申し訳ないが、刀を彦六に預けてくだされ」
と、広明の目を見た。
「はあ」
広明は、言われるままに刀を抜いて、差し出した。石本は刀をすぐ手に取ると、
「これでよかろう」
と、広明の刀を彦六に押し渡した。
「いえ、それでもやはり……」
彦六は続けたが、もう石本は聞いていなかった。広明の手を取って奥へ奥へと進んでいった。
広明は、奥座敷の廊下で少し待たされた。すると、いきなりふすまが勢いよく開けられ、
「広明!」
とうわずった声が響いた。
広明が驚いて顔を上げると、目の前に一人の姫が立っていた。
さくらだ。広明はすぐに分かった。昔は泥だらけになって、広明と棒切れを振り回してチャンバラごっこしていたあのやんちゃなさくらだ。十年以上もたってすっかり美しい姫になっていたが、黒い目の輝きとはじけるような笑顔、そしてなんといっても茶色の髪が昔のままだ。広明は、さくら姫を真ん丸な目で見つめていたが、すぐに我に返って、
「さくら姫様、お久しぶりでございます」
と、頭を深く下げた。
「何を言ってるの。さくら姫様だなんて。さくらよ、昔一緒に遊んださくらよ」
さくら姫は、広明の前に膝まずくと、広明の手を取った。
「さあ、中に入って」
さくら姫は、広明の手を引いて、奥座敷に招き入れた。
「ああ、広明。すっかり立派になったねえ。黒神に行ってからどうしているかと心配していたのですよ」
今度は、奥方のききょうが広明に駆け寄り手を取った。そして、広明の顔を見上げて、
「広明が、こんなにたくましく成長したなんて、お父上もお母上もきっとあの世で喜んでいらっしゃいますよ」
と、一層握る手に力を込めた。
広明は、二人に右手と左手を握られ、すっかり恐縮してしまい、すぐに言葉が出なかったが、
「奥方様ありがとうございます。奥方様もお元気そうでなによりでございます」
と、ようやく言葉を絞り出した。
「本当にもう、こんなところで会えるとはねえ」
奥方は、広明の顔を更に覗き込むように首をかしげた。
一層体を硬くしている広明を見て、石本が、
「さあ、さあ、積もる話もありましょうから、まずは、広明殿、こちらにお座りください」
と、座布団を差し出した。
広明が座布団に座ると、奥方とさくら姫は向かいに座った。今はどうしているの、から始まって、奥方とさくら姫は矢継ぎ早に、広明の近況について問いかけた。初めのうちは緊張していた広明も、話が進むにつれ、笑顔がもれるようにもなった。近況がひと段落すると、昔話に花が咲いた。広明も、あおい、かえで、さくらの三姉妹とかくれんぼをして、三人が先に家に帰ってしまい、いつまでも探し歩いた思い出などを自ら話した。
「そうそう、あのときは、夕ご飯だよという母の声が聞こえてきたので、鬼だった広明を置いてけぼりにして、あおい、かえでと一緒に帰ってしまったのよね」
「あのときは、本当にさくら姫様たちをいくら探しても見つからないので、暗くなって泣き泣き家に帰りました。すると、隣から三人の声が聞こえてきたので、拍子抜けした気持ちになりました」
「それで怒らなかったのが、広明の偉いところよね。あとから、母上にその話をしたら、三人ともえらく叱られたのを覚えているわ」
「そうそう、そんなことがあったわねえ。あのときは、三人を連れて広明の家まで謝りに行ったものねえ」
さくら姫と奥方は顔を見合わせて笑った。石本もそんな二人の話を、何度もうなずきながら聞いていた。最近、笑顔がなかった二人が楽しそうな会話をしているのを見て、石本も笑顔を浮かべて、久しぶりに穏やかな気持ちになっていた。
広明は、三姉妹の話から、ふと殿から聞いたことを思い出した。
「そういえば、前園様から、あおい様は本橋様へ、かえで様は五色様へ嫁がれたと聞きました。本橋様も五色様も一国の主。誠におめでとうございます」
広明は、笑顔でお祝いを述べたつもりだったが、場の空気が一変した。
「あおい姉さんも、かえで姉さんも、父上が天下を取るために、本橋と五色を味方につけたいから嫁がされただけじゃない」
さくら姫が吐き捨てるように言った。一同が身を引いた。
「これ、そのようなこと言うものじゃありませんよ。二人とも子宝に恵まれ、幸せに暮らしているのよ」
奥方が、すぐにさくら姫をたしなめた。
「そんなこと言ったって母上。父上は私たち娘を天下を取るための道具としか思っていないのよ。でも、姉さんたちはまだいいのよ。本橋様は凛々しく素敵だし、五色様は優しく大らか。意にそぐわない結婚でも、まだ我慢できるわ。でも、私に限って、父上はあんな男に嫁がせようとしているのよ」
さくら姫が奥方をにらみつけた。いきり立ったさくら姫と言葉が返せぬ奥方の様子を見て、すぐさま石本が割って入った。
「まあ、まあ、姫様。そのことは、このじいからも殿に考え直していただくよう申し上げておきます。黒神家の使者の前でいう話ではありません」
「だって、じい。あなたはもう隠居の身でしょ。父上がじいの話を聞くわけがないわ。あまりにもひどいじゃないの。あんな五十過ぎのじいさんと」
「これこれ、さくら。もうやめなさい。私からも父上に話してみますから」
奥方もさくら姫をなだめた。
「父上は、母上の話なんか聞かないわよ。昔と人が変わっちゃったんだから」
さくら姫はむくれて横を向いた。
広明は三人の様子をおどおどと見ていたが、
「申し訳ございません。私がまずいことを言ってしまったようで」
と、頭を下げた。
「いえいえ、広明のせいではないのよ。気にしないで」
奥方が優しい言葉を返してくれたが、さくら姫は横を向いたままだ。
広明が場を察して、いとまの挨拶をしようとしたとき、さくら姫がいきなり広明の方を向いて、
「ねえ、広明。広明はまだ結婚していないと言ったけど、どなたかと予定はあるの」
とたずねてきた。
広明は不意を突かれて、一瞬口ごもったが、
「いえ、そのような方はおりません。それに、前園様のおかげで、ようやく三十石をいただけるようになり、下男と女中が一人ずつおりますが、まだ結婚してやっていけるかどうか」
と、答えた。
「ほう、その年で三十石なら立派なものだよ」
石本が場を和ませるように、わざと明るい声を出した。
「そうね。私が美馬と所帯を持ったときは、二十石だったのよ」
奥方様も話を合わせた。
その話を聞いて、さくら姫の頬にうっすらと笑みが浮かんだ。
「それじゃあ、結婚しても暮らしていけるわね」
「まあ、楽ではないでしょうけど」
広明も話の流れに乗った。
すると、さくら姫がいきなり、
「ねえ、広明。稲上神社の境内で約束したことを覚えている?」
と、切り出した。
広明は、はっとして一瞬返答に迷った。すぐにそのときの光景が脳裏によみがえった。
広明が九歳、さくらが七歳のとき、近くの稲上神社の境内で二人で石けりをして遊んでいたとき、さくらが大きくなったら広明のお嫁さんになりたい、こんな茶色髪でも嫁にしてくれるかと言い出したのだ。広明は、軽い気持ちで、「いいよ、髪の色なんて気にしない」と答えた。実際、さくらは、三姉妹の中で一番気が合った。特に、さくらと木の枝を剣に見立てて、チャンバラごっこをして遊ぶのが一番楽しかった。チャンバラごっこをするのは、さくらだけだった。一人っ子の広明にとって、さくらは、かわいい妹であり、子ども心に、お嫁さんにしてもいいと思っていた。ただ、九歳の広明にとって将来を約束したという感覚はなかった。
「広明、覚えていないの?」
さくら姫がせかすようにもう一度聞いた。
「いえ、覚えていますが、子どもの頃のことゆえ……」
そこまで言って、広明は言葉を詰まらせた。
「ほう、いったいどんな約束をされたのですか?」
石本が、二人の様子を見て、口をはさんだ。
「私が、広明のお嫁さんになりたいと言ったら、広明がいいよと言ってくれたの」
さくら姫はそう言って、奥方と石本の顔を順に見た。
「まあ」と、奥方は声を漏らし、「それは」と、石本が言葉を飲み込んだ。
「広明は今でもその気持ちはある?」
さくら姫が広明の方を向いて、畳みかけた。
「姫様、お許しください。身分が違いすぎます。しかも私は黒神に仕える身。将来は敵となるかもしれません」
「では、広明。私が美馬を捨てて、黒神に行ったなら、お嫁さんにしてくれる?」
さくら姫の言葉に、広明だけでなく、奥方も石本も驚き身を凍らせた。
「姫様、とんでもない。そんなことを考えてはいけません。不幸になるだけです」
広明はなんとか言葉を返した。
「広明、いえ、広明様。私はここにいた方が不幸なのよ」
さくら姫は、訴えかけるような目で広明を見つめた。広明は目を合わせられず、思わず目をつぶって頭を下げた。
「さくら、そんなことを言って、広明を困らせてはいけません」
奥方がようやく言葉をはさんだ。
「だって、母上」
と、さくら姫が話そうとしたとき、廊下を足早に歩いてくる音が聞こえた。その足音が奥座敷の前で止まった。
「石本様、いらっしゃいますか?」
石本がすくっと立って、ふすまを開けた。
「おう、彦六か」
「前園様がお戻りになりました」
「分かった」
石本は、これぞ天の助けと振り向くと、
「奥方様、さくら姫様、広明を連れて行かねばなりません」
と、頭を下げた。
広明もすぐに立ち上がり、
「では、失礼いたします。久しぶりにお会いできて、楽しかったです」
と、深く頭を下げた。
「広明様、先ほどのこと」
と、さくら姫の声が聞こえたが、広明はもう一度深く礼をして振り向くと何も言わず、彦六と石本に続いて歩き始めた。
「広明様!」
と、さくら姫が立ち上がろうとしたが、奥方が姫の手をしっかりとつかんで引き戻した。
石本は、廊下を歩きながら広明の横に並ぶと、顔を広明の耳元に向けると、
「本日奥座敷であったことは、昔のよしみで、ご内密にお願いしたい。ただ、昔話をしていたと」
と、広明につぶやいた。
「分かりました」
広明も神妙な顔でうなずいた。
外に出ると、家里が馬の横に立っていた。
広明は、家里に駆け寄ると、
「殿、お待たせして申し訳ございませんでした」
と、地に膝と手をついてわびた。
「広明、よい、よい。事情はこちらの方から聞いた」
家里は手を添えて広明を立たせた。そして、
「石本政長様でいらっしゃいますか?」
と、広明の後ろに立っている石本に声をかけた。
「はい。本日は、ご使者のお勤め、ご苦労様でございました。供の広明殿をお借りしておりました。昔、広明殿は美馬様の隣に住んでいたもので、あまりに寄寓ゆえ、奥方様と姫様のところにお連れして、昔話に花を咲かせておりました」
「それは、ようございました。これからも黒神のこと、どうぞよしなにお願いいたします」
「いえ、もう、私は隠居の身。ただお役に立てることがございましたら」
二人は互いに礼をした。二人が頭を上げた様子を見て、彦六が広明に刀を手渡した。
前園と広明は、美馬屋敷を後にした。
しばらく歩いたところで、馬上から家里が広明に声をかけた。
「広明、奥方様たちに会って何の話をした」
広明は、この問いかけに心の準備はできていた。
「はい、昔話をいたしました」
「どのような?」
「はい、子どものころ、隣に住んでいたときのたわいのない思い出話です」
「それから」
「いえ、それだけです。美馬様の話も黒神の話もしませんでした」
「うん。それでよい」
「それより、殿が無事に戻られて安心いたしました」
「ふん」
家里は鼻で笑うと、
「あの美馬元信は大した曲者よ」
と続けた。
「殿からの書状を見るなり、分かった、分かった、大松ともうまくやりますって、即答よ。後は、黒神の様子を根掘り葉掘り聞き出そうとする。まあ、適当に答えておいたが、最初から向こうのねらいはそこよ。こちらが書状の内容に関わることを聞いても、黒神様のご心配はごもっともと答えるだけ。北方の諸国の情勢を聞いても、あいまいな答えしか返ってこない。最後には、返事を書くので席を外しますと一度部屋から出て行ったが、こちらが茶を飲み終わらぬうちに戻ってきたわ。書状を渡しながら、黒神様のお気持ちは十分分かりましたので、もうしばらくお待ちくださいだと。使者に行った意味がないわ。殿に何と説明しようかのう」
家里は、天を仰いだ。




