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不知火戦奇  作者: tsuru hiroki
85/210

八


次の対戦相手であった農夫は、悪兵衛の試合ぶりと力太郎を見て怖気づき、

辞退した。そうして、最後の取り組みが始まろうとしている。

「悪兵衛。対戦中の無意識だが。よいか、三つは良い。五つを数えるまで

使ってはならぬ。」

風祭の言葉に悪兵衛は意外な表情で答える。

「それは、なぜでありますか。」

「恐らくだが、お前の身体に甚大な損傷を与える可能性がある。」

「わかりました。しかし、勝つまでやります。」

「好きにせよ。」

苦笑しながら風祭は壇上を降りる。傍らには腕組みしている仁悟朗と

両手を包帯で巻いた士道。その背後には居籠一家と犬神の惣吉の姿も

見える。

襷がけをした悪兵衛の眼前に闇の中から力太郎が現れた。

舐めるように悪兵衛を見つめ、口元を歪めて笑っている。

悪兵衛も歯を見せて笑った。その表情を見た瞬間、力太郎の顔色が

変わる。明らかに怒気をはらんでいる。


掛け声と共に腕相撲が始まった。

悪兵衛は全身を使い、殴りつけるように押し込む。

左手で掴んだ鉄輪で補強された樽の縁が、めりめりと軋む。

額にうっすらと汗を浮かべ、攻めに攻める。

力太郎のぬるりとした柔らかな掌は、壁のようにびくとも

動かない。暫く悪兵衛を観察する表情であった力太郎はやがて

気味の悪い笑顔を浮かべる。


力太郎は舌を出して一気に腕を引き倒した。勝負は決したかに見える。

すんでの所で悪兵衛は踏みとどまっていた。まだ、手の甲は樽については

いない。大きなどよめきと歓声が起きる。

悪兵衛から表情が消え、瞳孔が白く光っている。

力太郎は驚愕と共に、苦痛に顔を歪めた。組み合った掌から白煙が

あがっている。悪兵衛がゆっくりと腕を引き上げる。

「悪兵衛、それ以上はいかん。」

豪胆な風祭も冷や汗を浮かべ、ひとりごちた。

力太郎は歯をむき出して、苦痛にあえぎながら抵抗するが

力の流動が腕から肩、胸まで蝕み、半身が壊死したかのような錯覚を

覚えている。

樽の天板を割って、悪兵衛が手を打ち付けた。

力太郎の人間とも思えぬ絶叫があがった。

逆に曲がった肘の先、尺骨と頭骨が皮膚を突き上げて飛び出す。

下碗が分離し、皮一枚で繋がっているようにぶらぶらと揺らしながら、

力太郎は悲鳴を上げ続ける。

人ごみを掻き分けて闇に帰るように消えた。

混乱と騒めきの中、行事が悪兵衛の勝利を告げ、歓声と拍手が沸き上がる。

居籠一家の者達は腕を振り上げ、勝利に沸き立つ。

犬神の惣吉が穏やかに微笑んでいる。


*


大櫓の背後、地母神を祀る古い神社の境内に不知火の侍達はいた。

風祭が悪兵衛の腕を看ている。悪兵衛は苦痛に顔を歪め、

脂汗を流す。仁悟朗と士道は灯りを燈し、眉を寄せて

見つめている。

勝利に沸き立つ居籠一家は侍三人と風祭に祝勝会へと誘い、

今夜の逗留も決めていたが、悪兵衛の異変に気付いた風祭は

人ごみを離れていた。激痛に顔を歪め、右腕が動かない悪兵衛は

歩くこともままならず、士道がおぶって運び込んだ。


「二人とも、月旦抜きを持っているか。」

風祭の声に士道が腰の皮巾着より、手渡す。風祭は封を噛んで開ける。

小刀で悪兵衛の掌の中心を切り、月旦抜きを突き刺す。

右腕が振動し、切り口から血液が噴出、爪の間から白煙を吹きあげた。

悪兵衛は大きく息をつき、震える腕を持ち上げる。

疼痛が残るが、先ほどまでの腕が爆ぜるような激痛は収まった。

「これは。」

「お前は士魂を体内の表層ではなく骨の髄で練って放出していたのだ。」

「魁音刀と同じく、身体が悲鳴を上げた。二度と、使ってはならぬ。

お前が破壊した刀の数を覚えているか?」

風祭の言葉に仁悟朗と士道もようやく笑顔を取り戻す。

悪兵衛は腕に当て木を添えられ、きつく縛られて吊るされる。

乱暴な手当てをしただけであり、早々に屯所に戻り、医療班の診察を

受けねばならなかった。

風祭は大量の士魂の流入による細胞の壊死を心配している。

「本日は居籠一家に逗留するが、酒は当分禁じる。よいな。」

「はは。」

頭を下げた仁悟朗と士道はこの世の果てのような表情をしている。

悪兵衛が初めて、笑った。

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