四
刑部と悪兵衛は、午前中に京でも五本の指に入る道場の一つ、
心揮流水明館の門を叩いた。
腕利きの道場生三名を悪兵衛が一人で打ち倒し、刑部は館主に歓待される事に
なった。酒と昼食を振る舞われたが、悪兵衛は刑部に耳打ちされ、
修行の名目の元に辞退した。
刑部が一人残り、残り全ての道場生が襲撃したとしても後れをとるとは
思えない。
「道場生が出奔?」
「お恥ずかしながら。」
「それはまた」
水明館館主、尾形清永は四十前の落ち着いた穏やかな男であり、
同年代の刑部との話しも合い、心許した様子である。
「当流でも逃げ出す者は毎年おります。残ったのが中山でありまして。」
「それがどうも稽古ではなく、よからぬ同輩に誘われ、お上に異を唱える
徒党に加わった模様で。」
「ご心痛いかばかりか。」
「師範代を務めておりました。本来ならば中山殿とお手合わせ願える所で
あったものを。我が指導の至らなさ、慙愧に耐えませぬ。」
尾形は眉間に深い皺を刻み、酒を舐めた。
*
中山安久兵衛と名乗った悪兵衛は、午後に向かう予定であった道場を目指し、
都の目貫通りを歩む。人の数と活気に圧倒されている。
埃にまみれた黒の道場着に、すり減った草履で闊歩する様は浪人然としていた
が、まっすぐに前を見つめ、背筋正しく歩む姿にみすぼらしさは無かった。
「悪兵衛。」
呼び止められ振り向くと、ぼて振りの町人姿の少年が立っていた。
「朧丸。」
悪兵衛は破顔した。
二人は連れ立って歩きはじめる。
「脚はもういいのか?」
「うむ。もう元通りだ。」
朧丸は軽く脚を振る。悪兵衛は膝横への蹴りの記憶が蘇る。
「よし。どこでやる?その河原におりるか。木刀をよこせ。」
白い歯を見せて、肩をまわす悪兵衛の言葉に朧丸は笑い出した。
「ばか。勝負ではない。業務連絡だ。」
「なんだ、そうか。」
拍子抜けした表情の悪兵衛の腹が大きな音を立てて鳴った。
「昼飯を食いながらだ。腹が減った。」
「侍は腹の虫もおさえられんのか」
「腹が減っては戦にならん」
「呑気なやつだ。」
二人は活気のある立ち食いの蕎麦屋に入る。京の労働者で溢れかえり、
店の外にも人は溢れている。人々は大きな音を立てて蕎麦をすすっている。
「読み物で見たんだが、お前達は特殊な携行食があるんだろう?」
「ああ、茎縄の事か。」
「それだ。普段は縄にしているとか。」
「芋の茎を干して編んで、味噌につけたもんだ。」
「どんな味なんだ?」
「まずい。塩辛くて硬い。口に含み続ける。」
「ううむ、食ってみたい。」
朧丸はその味を思い出してうんざりしている。他愛もない会話をしている
二人の前に、井戸水で冷やした大盛りのざる蕎麦が出された。
濃い目の鰹の風味の漬け汁にひたし、一気にすする。
新蕎麦の香りが鼻に抜ける。
「うまい。冷たくてうまい。」
悪兵衛の変てこな感想に無表情な朧丸も苦笑する。
「蓮根。」
店の主人が串に刺した天ぷらを二人の前に出す。手元の塩につけ、食べる。
「薩摩芋。」
「芝えび。」
次々に供される天ぷらを悪兵衛はぱくぱくと食べる。朧丸は、主人に
もういい、と頼む。止めなければ好きなだけ揚げてくれる。
大盛りのざる蕎麦に天ぷらを十串食べ、満足した。
悪兵衛の食いぶりに気を良くした主人は二人のざるを下げながら
小声で耳打ちする。
「新しいタネで揚げてみたんだけどよ、試しに食わねえか。」
「ほう、面白い。朧丸、いいな?」
「あと一串ならな。」
「よしきた」
赤ら顔の主人は手並みも良く、長方形の天ぷらをあげ、二人に供する。
「塩を上からふりねえ。」
悪兵衛がかぶりつくと、中から半ばとけた乳臭い脂が吹き出す。
目を白黒させて吸い付く。朧丸も同様に驚いている。
「ぼうとろだ。牛の乳の脂を揚げてみたんだ。どうでえ?」
二人は炎天下の中、蕎麦屋をでた。互いの顔色の悪さを確認する。
腹の底に、最後に食べたぼうとろの天ぷらが重い。
気分も悪くなってきた。
「どうする?勝負するか?」
力なく悪兵衛が尋ねる。
「勝負はしてもいいが、今日はしなくてもいい。」
「じゃあ今日はやめておくか。」
「うむ。やめておく。」
青い顔の朧丸は忌々しげに言った。




