六
景台寺の客間に、灰音章雪が座していた。開け放した障子から、
中庭を眺め目を細めている。不知火の陣羽織に紫の着流し姿であった。
「章さん」
「灰音殿」
相好を崩した二人が上がってくる。灰音は微笑をたたえながら迎えた。
「助かった。てっきり副長かと」
「寺までの道のりが遠かった」
すっかり安心した二人は灰音の前に胡坐をかき、天を仰いでいる。
「出汁の匂いがしますね。」
「あ、ここに来るまでにうどんを食った。」
「十字朗がまた食いたいといいだして」
「貴方達は、うどんで風祭副長を待たせる気だったのですか?」
客間は三人の笑い声で溢れた。
「刑部殿の指示により、明河藩の財政記録と人員を調べておりました。」
「うむ、俺も同様に調べていた。やはり気づいたか」
「はい。奇妙な話でしたね。」
灰音と十字朗の話を悪兵衛はじっと聞いている。
「悪兵衛殿、奇妙というのは…こちらの藩の経済の状況は、上士の赴任後から
あまり変わっていないのです。」
「時々に起爆剤のように経済改革が断行され、
藩の民の生活も一時的に潤ってはいるが。」
「むしろ、改革後から緩やかに悪化している。」
十字朗は自ら調べた財政の事細かな出納帳を開いている。
「そこで内々に幕閣に情報を求めました。」
「灰音殿、それは」
「ご心配せずとも、お頭の指示です。」
本土決戦軍閥師団、不知火隊長は中将の位であり、幕僚でも重要な位置を占める。
本人からの指示と免状があれば例え幕府内の機密事項でも明かさねばならない。
「では元々この内偵はお頭が」
「左様です。」
十字朗は、少佐という立場の二人が直々に内偵を進めなければならない理由に
薄々気づき始めた。
「証拠物件は表立っては消されてはいますが」
「上士が約五十年前、この藩に赴任したのは行政改革を目的とした物では
ありません。」
灰音が系譜図と秘匿とされている書物を取り出し、広げた。
幕閣内での懲罰に関しての記録である。
「当時、神田、岩崎、木下、この勘定方の汚職が明らかになり、罷免の上、追脚と記されています。その先は遠州明河。」
「汚職で追脚されていた?」
「三名は司法取引により、明河藩での執政組への編入を叶えました。」
「彼らと結託し、汚職に手を染めた幕僚の人間がいたのです。切腹しましたが」
「黒幕の訴追の為、彼らには褒賞が与えられたのです。その後二十五年間の減税及び財政援助を幕府がもたらすという約束です。」
「恐らくですが、単なる汚職事件ではなく政争の結果でしょう。」
「明河藩に赴任した元汚職官僚は、その事実を隠匿し、改革の名のもとに役職の人事を大幅に変えました。自らの手の者に。」
「明河藩の財政は奇跡的に復活したかのように見えたでしょうね。」
「そりゃそうだ。内密に減税と援助を受けているんだもんな。」
「上士は裕福な家庭が多いが、おそらく公金を懐に入れているな。」
悪兵衛も十字朗も嫌悪の表情を隠さない。
「お上からの援助と減税が途切れた後も、政争に勝利した幕閣内部の者から密かに口止め料をもらっていたようです。」
「しかしそれも公になる前に糾弾され、徐々に財政が傾き始めたようですね。
「また人事に不満をもつ元々の明河藩の者達との軋轢が増えていきました。」
灰音はここ十年程の明河藩の要職の名簿と、その地位に近づきながら人事異動で
藩を追われた郷士達を記した書物を開いた。
「そうか。なるほど」
十字朗が顔を上げた。
「弥者帰り事件を隠れ蓑にしようとしたな」
「ご明察です。」
「どういう事だ?」
悪兵衛がきょとんとした顔をしている。
灰音は湯気をあげている鉄瓶から急須にお湯をいれている。
「神田達は財政の件や汚職で追放になった事を隠し続け、自らの役職の保身の為に、郷士に対して厳しく管理するっていう名目を持った。」
「やつらは弥者になる、とな。」
灰音は頷きながら悪兵衛に問う。
「こちらでは上士と、郷士、ですか。どのような関係性なのですか?」
悪兵衛はそれまでの事件を灰音に語った。
「激しい抑圧と差別があったのですね。」
灰音の入れた煎茶を飲みながら悪兵衛と十字朗は、それぞれが感じた違和感と人々の感情を伝えた。灰音は暫く考え込んでいる。
十字朗は、自らが調べた放逐された人々の名簿を取り出し、灰音が示した人事異動の命令書と見比べる。
「抜けておるな」
「これは…」
「何人か、章さんの資料から消されている。」
「灰音殿の資料の中の消されている者は、幕閣内で詮議方、さらに長官まで上り詰めている者もいる。」
灰音が二人に向き直った。
「つまり、こちらの名簿の消えた元郷士の方は、この顛末を知っていたという事です。詮議方である以上、汚職に関して正しく裁くのが職務ですゆえ。」
「しかし、上士の証拠隠滅の一環として、幕閣内部の資料からも消されていました。」
「なぜそんな事を?」
「真実を公にされては困るからでしょうね。後の調査の目をごまかす為です。」
「その人々は現在は…」
十字朗が厳しい表情で言った。
「悪兵衛、消された郷士達は全員弥者帰りしている。」
*
行燈に照らされた客間には持ち寄った書類や書付、書物が散乱し
食事の盆には空になった茶碗と湯呑が重ねられている。
その中央で三人が膝を付き合わせて語っている。
「では上士の真実を知った郷士が弥者になったのか?」
「事実だけを照らし合わせれば、そのように考えるのが。」
「そんな事が…」
「悪兵衛殿の情報によれば、差別と圧迫はそれが風土となるほど
長く続いたようです。」
「放逐された郷士達は悲しく辛い経験を幼少の頃から骨身に染みて感じていたでしょう。また、家族を捨てるという身を切る思いと共に、立身出世の為に粉骨砕身の努力、目に浮かぶようです。」
「そうして得た地位の中で、上士の真実を知り、精神が破壊されるほどの怒りと絶望を感じたのではないでしょうか。」
「人間の精神の破たんが、弥者帰りの引き金になるというのか?」
「わかりません。ですが他の案件で弥者帰りした者の近辺や状況をもう一度
吟味すれば、共通点が見つかるかもしれません。」
「そういった観点では調査はされていませんでした。」
悪兵衛が立ち上がった。
「手習い所で糾弾する。」
灰音と十字朗が驚いて悪兵衛を見上げた。
「調査したことが事実であれば弥者帰りが起きる」
「それは」
「たしかにそうだが、郷士の子達が弥者帰りした時…」
「俺が斬る。」
悪兵衛の表情は硬く、歯を食いしばりながら瞳は強い光を湛えている。」
十字朗は目を閉じ考え込む。灰音が悪兵衛を見上げながら言った。
「頭目の判断に任せましょう。」
「章さんや十字朗が調べた事には隠された真実がある。」
「それを確かめるだけだ。」
十字朗も覚悟を決めた表情になった。
「わかった。やろう。」
「章さんは急ぎ帰投し報告を頼む。」
「承りました。輜重隊を向かわせます。装備品の目録を作成してください。」
「琿青一本でいい。」




