三
十字朗は文机に蔵書から持ち込んだ古書を何冊か積み、その頁を繰っている。
学徒の指導補佐を終え、残務時間に藩の事を調べていた。
絹江が盆に茶をのせ、そっと差し出す。
「あ、これは」
「かたじけない。」
「精がでますね。こちらの歴史を?」
「はあ。趣味のようなものでして。」
武人、侍としての立ち居振る舞いを完全に消して、今は学者然としている。元々勉学が達者で、穏やかな容貌をしている十字朗は適役であった。
「学徒や教務の方々が度々口にする上士と郷士、ですが」
「この五十年程に定着したようですね。」
「はい、私もこちらに赴任しましたのが一昨年でしたので、一通りの事は見聞きしたのですが」
絹江が身を寄せ、声を潜める。
「上士の赴任以前は、藩の財政がかなりひっ迫したとか…」
「放蕩な政に抗議をする一揆も。」
「そのうえで狗族の侵攻があり…多数の死者を出したそうです。」
絹江の髪の鬢付けの良い香りにくらくらとしながら十字朗は正気を保った。
「事態を重く見、義憤にかられて遠い親族であった幕府の要職の方々が、お上の許しを得て、こちらに一族すべて移住してこられたのが今の上士の先代、先々代という事ですね。」
「こちらは要職についた方の目録なのですが、勘定方が上士の赴任と共にほぼ入れ替えになっています。」
「はい、まず財政の立て直しを目指すよう幕府に指導をうけた藩は、
その辺りの人員をすべて刷新したのです。」
いくら内部事情により外的な指導が入ったとはいえ、そのような急な人員配置は聞いた事がない。
またそれで内政がうまくいくとは思えず、十字朗は首をひねった。
「それに」
絹江はさらに身を寄せ、大きな胸が十字朗の肘を押す。
「弥者帰りの噂、お聞きでしょう?郷士が都で起こした…」
「なんとなく伺っておりますが」
「上士の方々は、その監察もこの藩の為に買ってでたようです。」
「郷士は怠惰で汚れた存在であり、厳しく管理指導する必要がある、として」
十字朗の顔が厳しく引き締められる。
瞳の奥に怒りが煌めくが一瞬でそれを隠した。
「なるほど…それで学徒達の中でも摩擦が起きているんですね。」
「ええ。どうですか?もう遅いですし、お酒を飲みながらなんて…」
絹江の提案にだらしなく笑いながら小躍りして、
いそいそと荷物をまとめる十字朗。
「今日もね、柔剣道場で乱闘騒ぎがあったんです。あ、そうだ。」
「播磨君が試合で上士の子を投げ飛ばしたらしくて」
十字朗は天を仰ぎ、(しまった)という表情で額を抑えた。
*
悪兵衛はふらつく小源太を自宅まで送り届けた。内心、上士の意趣返しを案じてであったが、何も起きなかった。小源太から事情を聞いた父、山崎伊三は悪兵衛を歓待し、夕餉を共にした。
里芋と鶏の煮物、虹鱒の焼き物で飯を三杯も平らげ、剽軽な父に優し気な母と楽しい時間を過ごした。
悪兵衛が暇を申し出ようとした時、玄関先で小物の悲鳴があがった。
「山崎の倅を出せ」
大声を上げているのは豪奢な着流しに派手な飾りの大小を刺した中年の男。
痩せた顔に唇が紫色をしている。勘定方目付の神田頼母と、
その息子の新之丞であった。
小源太の父、伊三は御米蔵役であるから、上司の上司にあたる。
新之丞は痛めた右腕を大げさな包帯で巻き、釣っている。
「これは、神田様。我が子が何か」
青ざめた表情で伊三が迎えた。
「山崎、貴様の息子が卑怯な手段で新之丞の腕を…見ろ!」
怒りに我を忘れ、金切り声を上げている。
「道場での剣術で負った怪我だ。小源太は何も卑怯な事はしていない。」
草履をはき、帰り支度をしていた悪兵衛が事もなげに言った。
「なんだこいつは」
「父上、こやつも仲間です。郷士です」
「徒党を組んで新之丞を貶めたな」
神田頼母は腰の物に手をかけた。悪兵衛はじっとその動向を見つめ、
全身に力が漲る。
「申し訳ございません。」
伊三が土間に降り、膝をおって手をつき、深々と頭を下げた。
次いで母の八重も同じく土下座をする。小源太も膝をつき首を垂れた。
「この度はご迷惑をおかけし、まことに申し訳ありませぬ。」
鼻息の洗い頼母は三名を見下ろし、悪兵衛に視線を走らせた。
悪兵衛も膝を折り、首を垂れ、地面に額をあてる。
山崎家の家族と悪兵衛に土下座させたまま、頼母は暫く悪態をついていたが、
やがて引き上げた。
共の者と新之丞とけたたましい笑い声をあげて門から出ていく。
「悪兵衛君、すまなかったね」
伊三が立ち上がり、悲しい笑顔を浮かべた。小源太とよく似ている。
悪兵衛も立ち上がり、背筋を伸ばした。
「お父上、お母上、本日はうまい食事をごちそう様でした。」
「拙者はそろそろ暇します。」
何事もなかったような悪兵衛の顔色を見て、夫妻は目を丸くしている。
悪兵衛は額にこびりついた土を払い、小源太に笑顔を見せた。
「小源太、明日手習い所でな」
「ああ。悪兵衛。」
小源太の瞳に光るものを見た。
山崎邸の門の外に十字朗が佇んでいる。
「十字朗。どうした。」
「どうもこうもない、お前が暴れぬかどうか監視だ。」
気楽に笑う十字朗に今夜の顛末を語った。
「実際、神田が抜いたら、お前が殺してもおかしくはなかったな。」
「小源太の父の姿を見て」
「俺一人が何かをしてもどうしようもない事と思った。」
「明察だ。小競り合いを起こせばわれらが動きにくくなる。」
「俺が小源太の家にいる事、よくわかったな。」
「ああ、それは同僚に聞いたんだが…」
「…惜しい事したなあ。恨むぞ、悪兵衛。」
情けない声をあげる十字朗を悪兵衛は不思議に思った。




