二
「十字朗に言われていたから我慢はしたが、危うく殴りつけそうだった」
上士とのあらましを聞きながら十字朗は袖に手を入れ思案している。
二人はうどんを食らった後、逗留先の寺にて向かいあい、語っている。
「この藩出身の者が、この十年で立て続けに弥者帰りをしている…そのあたりに
なにか原因があるのか」
「弥者帰り」とは、軍部が最も恐れている事態で、人間が弥者に一瞬で変貌する特異な現象であり、その理由や時期など全くの未解明だった。
また弥者帰りが起きる直前直後に弥者の目撃が多数あり、何らかの方法で弥者がその現象を促進しているのではないかと軍部は見ていた。
全国に派遣されている隠密の存在の大きな理由の一つが、
弥者帰りの監視である。
「明日は学び舎の蔵書を調べる。お前は弥者帰りした者の血族から
それとなく話をきいてくれ。」
「心得た。」
手短に明日以降の相談をすると、世話になる景台寺の住職に挨拶を済ませた。
二人が内偵に赴いた侍である事は住職は知っている。
道着に着替え、道場で素振りを始める二人、その数が五百を超え、うっすらと汗が額に浮かぶ頃、二人は正対し、一礼のあと木剣を揮いあう。
身体から汗の湯気があがり、修練に熱がこもる。
三本勝負のうち、悪兵衛は一本も取れず、さらに三本でようやく一本とった。
ほぼ十字朗の根負けに近い。
悪兵衛は「定法」と呼ばれる型を静かに繰り返し、身体を鎮めている。
十字朗は正座し、息を整えながら静かに型を繰り返す悪兵衛を眺める。
ゆったりした動作で構え、なぎ、払う一連を丁寧に繰り返す姿を見て
十字朗は思う。
(熱く、強い。一撃一撃が吹き出す溶岩のような剣だ。だが本来は…)
定法を終え、十字朗のとなりに座する悪兵衛。息はすっかり平常に戻っている。
取られた五本を頭のなかで反芻する。
(十字朗の剣は淀みがない。力まず、逆らわず、受け流すかに見えて攻めは何より鋭く早い。あの速さはまるで…)
ふと目を落とし過去に見た剣を思う。暗闇の中、流れる剣先と明るい笑顔。
「悪兵衛、いかがいたした。」
「十字郎程の使い手は一人しか知らぬ。そ奴を思い出していた。」
「それは光栄。その男とは?」
悪兵衛は思わず口にしてしまった事を悔いるように黙り込んだ。
「答えずともよい。」
思いつめた横顔を十字朗は見つめる。
優しい表情でそれ以上は立ち入るのをやめた。
(灼熱の剣は誰かを思っての事か。復讐だな…。)
(だが本来のこの男は穏やかで朗らかなはずだ。)
(…その齟齬が剣に奇妙なずれを生む。)
「よし、飯にするか!悪兵衛。」
「手習い所帰りにうどんを食ったではないか」
「くわんのか?」
「食う」
ようやく屈託のない表情を悪兵衛が見せた。
*
翌日より、静かな内偵調査を二人は開始した。
学校生活の中で、特に上士の学徒に目をつけられ、
事あるごとにいびられる郷士の子達がいた。
山崎小源太もその一人で露骨な嫌がらせを日々受けている。
恫喝されるが意にも介さない悪兵衛にもその被害は及んだ。
格技の時間、女子は長刀、男子は柔術を行う。
学徒達もこの時は大声をあげて取り組み、全体に流れる鬱憤を晴らそうと
しているようだった。
上士、勘定方目付役の神田頼母が一子、神田新之丞はこの日も郷士の子らに無理難題を押し付け、取り巻きと笑いあっている。
神田の腰ぎんちゃくの一人、横山が小源太と乱取りを行い、
裸締めで締め落とした。
痙攣する小源太を介抱する悪兵衛。何度も参ったをしているのに、横山は締める腕を離そうとしなかった。
「起こしたらもう一本。横山から取れるまでは繰り返した方がいい」
神田の言葉に笑い声をあげる上士の子ら。
白いひげを蓄えた年配の教員は見て見ぬ振りをしている。
悪兵衛は小源太の口から泡を拭ってやり、肩を貸して畳の外に出る。
「悪兵衛殿、かたじけない」
悲し気に笑う小源太を見て、悪兵衛は目を閉じる。小柄ながら体格に勝る横山に健闘した小源太。柔術にない殴りつけをされて引き倒されたのだった。徐々にその目元が青黒く変色してきている。
「山崎、何をしている。だから郷士はだめなのだ」
神田の言葉に我が意を得たように頷く上士の子ら。
教員でさえ同意の表情を見せている。
小源太を応援していた郷士の子らはみな口をつぐみ、
膝の上の拳を固く握りしめている。
横山は同級でも、もっとも大柄で柔術を得意としており、下あごが前歯よりも飛び出て、瞳が小さく、不気味な容姿をしている。口を歪ませ嘲りの表情で小源太以下、郷士の子らを見渡す。
「山崎、早くせんか」
苛立つ神田の声が飛んだ。横山が立ち上がり小源太を連れ戻そうと歩み始める。
悪兵衛が立ちはだかった。
「俺が相手する。」
悪兵衛に薄気味の悪さを感じていた神田は、横山に完膚なきまでに叩きのめさせ、
絶対の服従を強いる気になっていた。舌なめずりをしている。
横山はうなずいた神田の表情を読み取り、生意気な転入生には少々粗目の怪我を
させるつもりで悪兵衛と相対する。
畳の端にさがり、一礼する悪兵衛。横山はにやにやと笑っている。
次の瞬間、悪兵衛は一瞬で距離を詰め、地面すれすれに体勢を低くした状態から
肩と上腕、肘までを固めて、横山の腹部を突き上げた。
柔剣道場の学徒達には、悪兵衛が一瞬消えたように見えただろう。
横山の巨体が激しく振動し、つま先立ちになり、上体が浮いた。
そのせつな空いた腕で襟首をとった悪兵衛は、鋭い呼吸音と共に、横山を真下に投げつけた。
後頭部、頸部、肩が激しい音と共に畳に激突し、横山は失神している。畳が窪み、おそらく床板が割れている。
悪兵衛の初手は軽い破双であった。
また投げ技は悪兵衛が最も得意とする組打ちの一つ、山颪と称される技である。無論手加減はしているが、突き上げた当身の一撃で、横山のあばらが二本折れている。
歓声に沸く郷士の学徒達。小源太も明るい表情を浮かべて飛び上がっている。
上士の学徒達は驚愕の後、にわかに殺気立ち、道場の壁にかけられた木刀をそれぞれ手にした。悪兵衛は無表情にそれを見つめている。
無手の悪兵衛に神田は切りかかる。悪兵衛は横目で飛び込む者の姿を認め、
何もしない。
小源太が木刀で神田の剣をうけ、巻き上げて道場の天井まで木刀を跳ね上げた。
見事な技で、日ごろの修練が見て取れる。
悪兵衛は意外な表情をした後、にやり、と笑った。
「無手相手に剣を揮うか」
震える声で小源太がいった。片目は大きく腫れているが、その光は強い。
乱闘になりそうな所で女子の担当の教員が現れその場を収めた。
神田は巻き上げの際、手首を痛めて泣きべそをかいている。
そのまま取り巻きに連れられて去った。




