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不知火戦奇  作者: tsuru hiroki
158/210

四


厚く雲が立ち込め、彼方に海上を移動する帳のような雨が見える。

「一雨くるな。急ぐぞ。」

行李を担いだ仁悟朗が声をかけた。

悪兵衛は船内の回し手より受け取った俵を担ぐ。中は塩のようでずっしりと重い。汗が顎まで流れ落ちるのを感じながら昨夜の事を思い出していた。

赤い顔で喜んでいる隊士達、微笑みながら話を合わせる丹組の女陰足。

しかし、隣の紗世の顔立ちがどうにも思い出せない。透き通るような色白の手首、長く艶めいた髪、ほっそりとした顎。それ以上を思い出そうとすると、あの黒く深い瞳が頭の中で一杯になり、どうも全体を掴む事が出来ない。

「どうしたんだ、俺は。」

荷をおろして手拭で汗を拭いた。

紗世の声を思い出すと、不安と物悲しい気分でため息をついてしまう。

騒めきを胸の内に秘めながら、海上に湧き上がる黒雲を眺め、頭を振った。


「今日は終いだ。菰《こも》包みだけ濡れるといけねえ。先に揚げてくんな。」

回し手筆頭の鉄造が大声をあげた。

夕立のような雨に包まれたのと、労務者達が迎屋の人足小屋に引き上げたのが同時であった。

「深町さん、今日もようけ勤めたっちゃねえ。」

鉄造が土瓶と湯呑を持ち、仁悟朗に渡した。日に焼けた朗らかな笑顔に歯が白い。愛嬌のある男前であった。

断られたものの、未だ仁悟朗には未練があると見て、絶えず話しかけてくる。

「かたじけない。」

当の仁悟朗はあっさりした物で、湯呑を受け取って茶を飲み干している。

鉄造はにこにこと笑いながらをもう一杯注いだ。

悪兵衛の押し黙る姿を見て、バルザックは声を掛ける。

「悪兵衛、どうしたの? 何か考えているね。」

「あ、いや。……バルザック、昨夜は似鳥殿達とどんな話しをしたのだ?」

「うーん、他愛もない事だったね。どんな男が好き、とか。僕は彼女達の「生活」を聞きたかったんだけど、うまくはぐらかされたよ。」

裏表のないバルザックの笑顔を見て、悪兵衛は少し心が落ち着いた。

人足小屋の入り口付近の者達の口から、幾たびか浪人組の名が漏れている。

悪兵衛達はそれとなく席を立ち、街道を暖簾越しに眺めた。


降りしきる雨の中、二十名程の二本差しの武士達が列をなして歩む。

目深に被った菅笠にその表情は読み取れない。皆粗末な衣服に身を包んでいるが、差料の拵えはしっかりとし、手入れが行き届いている。

かつて戦闘行動に従事していたのが明らかであった。最近地頭が雇い入れた者達である。

宿場の人々は彼らをして浪人組と呼んでいた。

泥濘と化した街道筋を無言で歩む武士達。眺めていた悪兵衛がふと、小屋内に入り込むようにして身を隠した。

「仁悟、バルザック。」

悪兵衛の声に反応した二人はその後を追うように人足小屋の二階にあがる。

薄暗い廊下の奥、辺りの人の気配を探った後、悪兵衛が口を開いた。

「浪人組に弥者がいる。」

「やはりか。」

悪兵衛の顔色で二人にはうっすらと予測がついていたようだった。

「列の中間より後方にいた男。予篠学園の内偵作戦の折、一圓と戦った者だ。人間体の時は鏑木と名乗っていた。またその隣にいた大柄な女、弓使いで名は穂乃村であったか。間違いない。」

「報告を見たよ。彼らはスメロキノミコトの親衛隊のような雰囲気だったんだろう?ならばスメロキも潜伏しているという事かな。」

「確か五名の配下を連れていたんだったな。他にそれらしい者はいたか。」

「いや、目視できたのはその二名のみだ。」

「他三名も確認できたら、スメロキが存在する確率も高いね。」

「いずれにせよ、面が割れている悪兵衛は動けんな。」

三人は少しの間、今後について語り、後は漁師小屋で改めて協議する事にした。


*


旅芸人である揚羽一座は、その人気を買われて幕府の指定を受け、須鶯宿に

逗留し、観閲式での出し物の為の稽古を行っている。

間宮桃乃介以下、月光の陰足達はその身分を隠し、新たな座員として参加していた。

あらゆる芸事の訓練を行っている丹組の三人はいわずもがなだが、舞踏や手妻、軽業にいたるまで桃乃介の能力は高く、入所してからすぐに舞台を任されている。


座敷にあつらわせた舞台で、一座の女性達が舞踏の振り付けを繰り返し行う。

見所で、地頭、柄本長左衛門が上目で見つめている。

五十を超えているが、小太りで額が油で光る程の精気をため込み、薄ら笑いを浮かべながら一座を眺める。

その横には二十代にも届かない程に見える青年が静かに座している。

髷を垂らし、前髪姿の青年は涼し気な容貌をしているが、その瞳は鋭く、近寄りがたい威圧に包まれている。若年に対して侮られる気配は全くない。

人間の姿を借りたスバルノミコトであった。


「睦螺《むつら》殿には、浪人組のまとめ役等と面倒な事をお願いし、たいへん恐縮なのですが……少々ご相談が。」

睦螺総軒。それが地頭の元に潜入を果たしたスバルノミコトの人間名である。

黄色い白目をむいて、愛想笑いをする長左衛門の言葉が、まったく耳に届いていないような佇まいであった。

「お上の命令で来る観閲式の為、この須鶯宿の警護を任されたのは大変名誉

な事と思っております。しかしですな、取り決めに応じたがらない他の問屋もまたおりまして。中々……。」

「商売敵を取り潰したいのだな?」

彫像のように黙っていた青年が口を開いた。

「これは、睦螺様、そのような事をおいそれとは。」

「この長左衛門、御慧眼に甚だ恐れいるだけでございます。」

本心を前触れなく言い当てられ、長左衛門は脂汗をうかべてひれ伏した。

「勤め手が多数おろう。問題を起こさせ、その責めを負わせる形で斬ればよい。」

感情のこもらない刃のような言葉が睦螺から迸る。

「それは、そのような事が、睦螺様にお願い出来るので……?」

「手がいる。国元の手練れを呼べば観閲式までに方はつけられよう。」

「是非。是非にも。」

涎を垂らす勢いで長左衛門は請う。この宿は今後も大きな利益を生み続ける

のは想像に難くない。それ故に廻船問屋の統廃合が進み、江本長左衛門を脅かす程の大店も増えてきている。

それらの利権を手に入れた時の栄華を想い、舌なめずりをしながら長左衛門は額を床にこすりつけた。

睦螺総軒は中年男を一瞥すると、音もなく立ち上がり、座敷から去った。

そのやりとりを一部始終、似鳥が観察している。


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