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早朝、四時。
アルマ・アカデミア第二男子寮の庭にて。
ジャージ姿の少年が、風切り音を鳴らしながら刀を振るっていた。
渡橋架。
拉致被害者救出作戦の第一陣、第一部隊のリーダーであり、先日の謎の襲撃者と激闘を繰り広げた末、和解に成功したアカデミア生である。
彼は包み隠されたその戦いで重傷を負ってしまったために、他の潜入メンバーよりも余分に休みを貰っている。
本来なら体を休めなければならないのだが、既に傷は塞がっていて、何の不便もなく日常生活を送れるほどに回復している。
ジッとしていられる訳がなかった。
(……ふぅ。素振り百本終了。次は、と)
精神統一し、鞘から抜いた叢雨に全神経を集中させる。
羨望術を用いて、架空の刀である叢雨の設定をイメージする。
すると。
刀の付け根から、冬の吐息のような白い冷気が刀身を覆い始めた。
(よし……どうにかスムーズにできるようになったか)
その状態のまま、先程までと同じ工程で素振りを繰り返す。
幟天使となった架の身体能力でも、斬撃を飛ばすなんてことはできない。
しかし刀身に冷気を纏った状態であれば別。
この冷気は架の意志で氷に変化させることができ、その形状、性質は自在。
今のところ刀を振るう際に氷のつぶてを飛ばすくらいしかできないが、至近距離なら単純に二連撃となり、例え一撃目を防がれたとしてもつぶてによる攻撃は防げない。
(これくらいにしておくか。あまり使うと依衣に怒られる。蒸籠に至っては昨日見つかっちゃったしな)
刀を鞘に納め、地べたに座り込む。
羨望術には五感のいずれかを失うというリスクがある。
最初に失うのは視覚か聴覚のどちらかで、架は視覚だった。
このまま羨望術を使い続ければいずれは失明してしまう。
だが、だからと言って使わないという選択肢はない。
渡橋紡との一件は確かに希望だ。
今後のパラディースと地球の関係を好転させるきっかけになり得る。
それでも、戦わずして全てが丸く収まるなんてことは有り得ない。
紡との和解も、架が血を流したからこそ成立したということを忘れてはいけない。
必要なのは、力。
そしてその力を架は手にしたのだ。
その力だって、肝心なときに使えなければ意味がない。
現状、架が使いこなせるのは自身の守護精から教えてもらった、架の血を特殊な液体窒素に変化させるCLN2のみ。
このCLN2は植物を無力化する特性を持ち、パラディースの植物兵器や渡橋紡の羨望術には絶大な効果を発揮するが、正直それ以外では何の役にも立たない。もっと汎用性のある羨望術を生み出す必要があった。
架の羨望術の本質が冷気であることは聞いていたので、イメージを膨らませる事自体は容易だったのだが……まだまだ実戦で使えるとは言い難い。
何よりも、氷というのは殺傷能力に長けている。
形状次第では剣にも槍にもなるし、そのまま氷漬けにすることだってできる。
上手く扱えるようになるまでは無闇に使えない。
(剣術だけで敵を制することができるならそれが一番良い。けどそれができない戦いがあるのを俺は知った)
架が羨望術に目覚めていなければ紡には敗北していた。
パラディースで戦った戸沼幸太も、黒渦依衣がいなければ全滅していた。
仮にその依衣と戦った場合も、架は手も足も出ずに負けてしまうだろう。
ただでさえパラディース側には幟天使が大量にいる。
架は羨望術同士の戦いに慣れこの先も勝利を収めていかなければならない。
リスクがあるからと言って、訓練を怠る訳にはいかないのだ。
(……もうワンセット、やっとくか)
勢いを付けて飛び上がり、虚空に向けて叢雨を構える。
そのときだった。
「あ、あの!」
「!?」
慌てて叢雨を仕舞って声のした方に振り向く。
そこは女子寮ほどではないが厳重な男子寮の入り口で、声の主は背伸びをして額だけを門の上に出しながらこちらを凝視していた。
男子が女子寮に近づけないのと同様に、女子もまた男子寮にはあまり近付かない。
何か重要な用件かと思い、架は駆け足で少女の下に向かった。
「誰かに用事?」
「え、えっと。これ、渡橋さんに差し入れです!」
「……俺に?」
眼鏡をかけた前髪パッツンの少女は、両手で弁当箱らしき物体を掲げる。
全く面識のない少女だった。
と言っても、アルマ・アカデミアに通い始めてからの架はお馴染みのメンバーとしか交流してこなかったので、もしかしたらクラスメイトだったりするのかもしれない。
「そ、それでは! 剣の修行頑張って下さい!」
「あ……」
架が何か言う前に少女は立ち去ってしまった。
差し入れとやらを門の上に置いたまま。
(参ったな。見知らぬ人からの差し入れなんて怖くて手が付けられないぞ……)
特に架は、日本の潜入メンバーとして選ばれていることから様々なやっかみの対象になっている。
勿論、純粋に応援してくれている人がいるのも確かだが。
「……あれ?」
一先ず中身を確認してみると、そこには一風変わったお弁当が入っていた。
色とりどりのおかずが散りばめられた定番の手作り弁当でもなければ。
おにぎりが入っている訳でもなければ。
サンドイッチが入っている訳でもない。
弁当の中身、それは市販で売られている極々普通のゼリー飲料だった。
「何というか……これなら確かに食べられるけど。少し複雑だ……」
蓋を開けて口に含み、右手で潰して一気に中身を吸引する。
疲れた体にレモン風味の冷えたゼリーが溶け込んでいく。
これからは予め用意しておこうと思えるくらいに美味しかった。
差し入れをくれた少女には改めて礼を言わなければなるまい。
だが、全て飲みきって、再び叢雨を構えようとした刹那。
唐突に視界が揺らぎ始めた。
(な――。まさか、このゼリー……!? くそ、意識が……っ)
脳みそが回されているような不快感に、遂に立っていられなくなる架。
そのまま跪き、やがて完全に意識を失ってしまうのだった。




