新生活第一歩
エドガール様が去った後、改めて部屋を見渡した。壁紙は淡い蜂蜜色で温かみがあり、カーテンなどもそれに合わせた色で上手くまとめられている。ただし、何もかもが高級品であることは間違いなさそう。いえ、見ただけでその価値がわかるほどの目はないのだけど。
「クロエ、久しぶりね。急に帰ってしまってごめんなさいね」
部屋の隅で佇む彼女に声をかけた。彼女には申し訳ないことをしたわ、急に帰ってしまったから。彼女に瑕疵があったわけではないし、公爵様にはそうお伝えしたけれど、彼女には何も言っていなかった。
「いえ、お気になさらずに」
「ううん、あなたに何かあったわけじゃなかったのよ。それだけは伝えたくて」
「左様でございますか」
彼女らしい淡々とした返しが不安を呼ぶ。距離が縮んだと思ったけれど、また離れてしまったかしら?
「両親に会ったら里心が出ちゃって。出来れば一緒に来てほしかったくらいよ」
「その一言で十分でございます」
わかってくれたらいいのだけど。ミラを連れてきたことも不快に思ったかもしれない。そんなわけではないのだけど。
「ああ、彼女はミラ、実家では私の専属侍女だったの。これからは里帰りもままならなくなるから一緒に来てもらったのだけど、仲良くしてくれると嬉しいわ」
「ミラです。よろしくお願いします」
緊張した面持ちでミラがはっきりした口調で挨拶をした。その姿にはやる気と、負けるものかとの自負が漲っているように見えた。
「クロエです。こちらこそよろしくお願いします」
クロエはいつも通り淡々としていた。暫くの間、ミラはクロエについてこの家での決まり事などを教えてもらうことになった。仲良くしてほしいわ、二人が協力して仕えてくれたらこれほど心強いことはないもの。
そのあと部屋の説明をクロエにしてもらった。この屋敷に置いて行った私物もこちらに移されていたわ。一人で使うには広すぎるほどの部屋は立派過ぎて慣れるまでに時間がかかりそう。
その後、隣接する衣裳部屋に案内してくれた。嫌な予感はしていたのだけど……そこにはドレスや宝石、帽子や靴などが所狭しと置かれていた。エドガール様、やり過ぎです……こんなにたくさんの品々、流行だってあるのにどうするのですか……いえ、夜会などに着ていくドレスは二度も着ることはないのでしょうけれど……軽く眩暈がしたわ。
いえ、公爵家ではこれが普通なのかもしれないけれど、突き付けられた実家との格差に胃が痛くなりそう……これほど差があるのに、公爵夫人なんて出来るのかしら? あ、また胃が痛くなってきたわ……煌びやかな品々が凄く重たく見えてきた。世間から見れば玉の輿でしょうけれど、これからは気が抜けない生活が待っているかと思うとまったく喜べない。
部屋の説明が済んだらクロエがお茶を淹れてくれた。久しぶりの香りに懐かしさを感じた。短い間だったけれどここでの生活に慣れていたのね。侍女としての居心地は悪くなかったのもあるけれど。
それにしても、用意された調度は立派なものばかりでソファに腰を下ろすのも緊張してしまったわ。座り心地は素晴らしいのに別の意味で落ち着かない……さっき見た寝室も豪華だったし……あんなところで眠れるのかしら。窓から見える景色も素晴らしいわ。眼下に広がる庭も、散策したらきっと気持ちがいいでしょうね。
暫く部屋でミラやクロエたちと他愛のない話をしていたら、公爵夫人の侍女がやってきて「昼食を共に」とお誘いいただいたわ、断る理由もないから二つ返事でお受けした。
案内されたのは南棟にある公爵夫人の私室、しかもバルコニーだった。天気のいい日で予定がない時は、眺めのいいこの場所で昼食をとられるのだとか。広々としたバルコニーは開放感があって気持ちがいいわ。既にロクサーヌ様もいらっしゃるけれど、椅子は私で埋まってしまった。だったらエドガール様はいらっしゃらないのかしら?
「ああ、お兄様は王宮に戻られたわ」
「王宮に、ですか?」
もしかして、私を迎えに来るために抜け出された? いえ、まさか……
「ふふ、お兄様ったら王太子殿下に今日は出仕しないと仰っていたらしいわ」
「ええっ?」
「だけど殿下がどうしてもと仰って。それで一時的に帰ることで妥協したようよ」
マルセルがそう言っていたわとロクサーヌ様が笑ったけれど、わざわざ抜け出してこられたの? 引っ越しだけならそこまでなさらなくてもいいでしょうに。
「ふふ、あの子らしいわねぇ」
「ええ、でもオリアーヌ様には色々と伝わっていないようですわ……」
「そこは自分で何とかしてもらわないとね」
公爵夫人の呟きにロクサーヌ様が答えた。お二人の話題はエドガール様のようだけど、いまひとつ要領を得なかった。なんなのかしら?
「ふふ、そこは本人から聞いてちょうだい」
そう言って公爵夫人は優雅にほほ笑むだけだった。そのご本人との意思疎通が難しいのですけれど……
「改めて、ようこそフォルゼ家へ。これからは我が家の一員として末永くよろしくね」
夫人は上機嫌でそう声をかけてくださった。歓迎してくださっているようね。不安要素もあるけれど、夫人が好意的なら大丈夫かしら?
「もったいないお言葉です。誠心誠意お仕えさせていただきます」
「まぁ、オリアーヌ様は真面目でいらっしゃるのね。そんなに固くならなくていいのよ」
ロクサーヌ様も気さくにそう仰ってくださるけれど、一度主従関係が生まれてしまったからその言葉をそのまま受け入れるのは難しいわ。しかも近々王子殿下と婚姻なさる方だもの。
「そんな、畏れ多いことです」
「そんなことはないわ。いずれオリアーヌ様は公爵夫人に、私は伯爵夫人になるわ。序列的にもオリアーヌ様のほうが上になるのよ。それに、お義姉様でもあるのだし」
そう仰るロクサーヌ様は嬉しそうだったけれど、それを額面通り受け止めるには気持ち的に途轍もなく大きな壁を感じた。血の濃さで言えば圧倒的な差があるのだから。
「ふふ、少しずつ慣れていってくれればいいのよ。私もそうだったから、最初はどうしても、ね」
そう仰ってくださるのはありがたいけれど、夫人は名門侯爵家の出、私とは違うのだけど……そうは思うけれど、そのお気持ちは嬉しかった。
「そうそう、肩の傷はいかがかしら? カトラリーなどは使えるようになりましたの?」
「はい、もうすっかり」
最初は動かさないようにと言われた腕も、今は何の問題もなく使えている。ただ、咄嗟に動かそうとすると反応が遅れることが稀にある。でも、そんな動作をすることは少ないから影響は殆どないわ。
「そう、よかったわ。神経が毒に冒されて腕が動かなくなるかもしれないと侍医が言っていたから」
「そうだったのですか?」
夫人が困ったような、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。それは聞いていなかったわ。毒にそんな作用があったなんて……
「ええ、毒の特定が出来ていないから確証がなかったし、悪戯に怖がらせることもないだろうからと、伏せてもらったの。希望があるのとないのでは回復に差が出るでしょう?」
「お、お気遣い、ありがとうございます」
そうだったのね。だけど夫人の仰る通りだわ。もしあの時に聞いていたら自棄になっていたかもしれないもの。
「傷も薄くなりそうだとか。毒の影響はお感じになる?」
「いえ、今のところまったく。解毒剤も一月で終えることが出来ました」
月のものも少し周期が変わったけれどまた戻ってきたわ。痛みが前よりも増したけれど、それでも痛み止めの薬湯を飲めば楽になる。
「よかったわ。後は犯人の身元と毒の種類がはっきりするといいのだけど……」
夫人が頬に手を当てて首を傾げた。そうなのね、まだ犯人の身元が……
「大丈夫よ、お兄様もアルベール様も必ず捕まえると仰っていたわ。王家が協力してくださっているのだからきっと見つかるわ」
ロクサーヌ様がそう断言し、夫人も同意されていた。王家が……それならいずれ犯人は捕まるわよね。せめて毒の種類だけでも知りたいわ。そうすればこの先どう生きるべきなのか変わってくるもの。
公爵夫人とロクサーヌ様の反応は悪くなくてホッとしたわ。そういえば私をエドガール様のお相手にと最初に言い出したのもロクサーヌ様だったわ。公爵夫人も侍女としてこのお屋敷に移ってからもよくしてくださったし、今もそれは変わりない。エドガール様との関係がままならなくても、ロクサーヌ様や公爵夫人と仲良く出来れば住み心地もよくなるかしら。
その日の晩は公爵様も交えての晩餐会だった。お久しぶりにお会いする公爵様はそこにいらっしゃるだけでも威厳に溢れていて、身が縮こまる思いだわ。こんな方と義理とはいえ父子として接するなんて出来るのかしら……エドガール様もお戻りになり、公爵家の皆様が全員揃われたわ。そんな中で一人、酷く肩身の狭い思いをするのかと思ったのだけど……
「エド、オリアーヌ様とちゃんと話をしなさい」
「オリアーヌ様、お兄様ったら肝心なことも言わないから、気になることがあったらどんどんお尋ねになってね」
「そうだな。エド、ちゃんと話をするんだぞ」
皆様からエドガール様への当たりが強かった。エドガール様は「わかった」と答えるだけで淡々と食事を召されていたけれど、これ、却ってエドガール様の心証を悪くしていないかしら? それが気になってしまって料理を楽しむどころじゃなかった。公爵家の皆様との関係は心配なさそうだけど、肝心の夫になる方が一番の不安要素だなんて……やっぱり私はお飾りの妻で、いずれ本当に愛する方が出来たらお役御免になりそうね。
晩餐は和やかな雰囲気で終わったわ。エドガール様とは会話がなかったけれどそのうち何とかなるはず。部屋に戻ろうとしたその時だった。
「少し、話がしたい」
意外にもエドガール様に声を掛けられた。




