公爵家への引っ越し
それから十日が過ぎて風に秋の気配が交じるようになったその日、私は住み慣れた実家を後にする日を迎えた。
「オーリー、どうか元気で。なにかあったら直ぐに言ってちょうだい」
「オーリー、私たちは何時でもお前の味方だ」
「公爵家にご迷惑をおかけするんじゃないぞ」
「お兄様、一言余計よ」
しんみりした空気も、相変わらずなお兄様によって台無しだったけれど、お陰で気持ちが明るくなったわ。
「お母様、また直ぐに戻ってきますから」
「ええ、その日を楽しみに待っているわ」
婚姻前には一度家に戻るからこれが今生の別れではないし、これから社交界でいくらでもお会い出来るわ。だけど、家を離れる寂しさは変わらないわね。
「ミラ、どうかオーリーをよろしくね」
「お任せください、奥様。命にかけてもお守りしますから」
「やめて、ミラ。洒落にならないから」
人のことは言えないけれど、彼女だと本当にやりそうだから怖いのよ。幸いなのは今のやり取りを聞いてお母様に笑顔が戻ったことかしら。
「フォルゼ様、至らぬ娘ですがよろしくお願いいたします」
父が迎えに来たエドガール様に頭を下げ、お母様とお兄様がそれに続いた。
「大事なご令嬢だと承知している。必ずお守りする」
相変わらず素っ気ないエドガール様だったけれど、いつも通りだから却って安心したわ。婚姻は家同士の契約でもあるから無下にはされないはず。そんなことをしたらフォルゼ公爵家の名に傷がついてしまうもの。それに、お忙しいのにわざわざ迎えに来てくださったわ。だったら大丈夫よね。そう信じたい。
我が家では到底手に入れることの出来ない立派な馬車にエドガール様の手を借りて乗り込んだ。凄いわ、六人くらい座れそうな広さがある。エドガール様が御者を背に座る。気を遣ってくださったのかしら? それにしても、大きな方よね。これだけの大きさがあるのに向かい側の席だけ狭く感じるわ。
「出立」
先頭を行く騎士の掛け声で馬車が動き出した。私たちの馬車と、その後をミラとマルセル様が乗る馬車、そして私の荷物を載せたそれが続く。その周りを実家に駐在していた騎士八人を含めた十騎が守りにつく。大袈裟過ぎないかと思ったのだけど、公爵家に嫁入りする令嬢であればこれでも控え目なくらいらしい、とお兄様が教えてくれた。
それにしても……今日のエドガール様も文句なしに麗しかった。この方と夫婦になると言われても実感が少しも湧いてこないのはやっぱり……
「あの、わざわざ迎えに来てくださって、ありがとうございます」
「ああ」
「今日は出仕されなくてよかったのですか?」
「そうだな」
返ってきたのはそれだけだった。会話が続かない……どうやったら人並みに意思疎通が出来るのかしら? ロクサーヌ様やマルセル様はお分かりになるようだけど……不意に目が合ったら逸らされてしまった。これ、一緒に過ごしていたらいずれわかるようになるのかしら? そんな未来は少しも想像出来なかった。
重苦しい沈黙の移動は神経がすり減りそうだったけれど、車窓の外は物珍しく興味深かった。涼しくなったせいか通りに人が増えて賑やかね。こうして外に出るのは久しぶりなせいか、見ているだけで楽しいわ。そう思っていたのだけど……
視線を感じてそちらに向くと、正面に座る御仁と目が合った。ええっと?
「あ、あの、顔に何か、付いていますか?」
「いや」
そう仰ると視線を外されてしまった。車輪の音と街の喧騒、そして気まずさだけが車内に満ちる。なんなのかしら? 今日身に着けているのはエドガール様からいただいたドレスと宝飾品。落ち着いた琥珀色だけど、思ったほど似合っていないとか? いえ、絶世の美女ではないから高い水準を求められても困るのだけど……
それからの車内は気まずさもあって、公爵家への道のりは酷く長く感じられた。
公爵家に着くと、エドガール様の手を借りて馬車を下りた。公爵夫人とロクサーヌ様が玄関ホールまで出迎えてくださった。その後ろにはカトリーヌ様やアンリエット様、更には主要な使用人が並んでいた。
「オリアーヌ様、お待ちしておりましたわ」
ロクサーヌ様の満面の笑みは緊張していた心を少しだけ和らげてくれた。
「ようこそ、フォルゼ家へ。オリアーヌ様を歓迎しますわ」
「公爵夫人、よろしくお導きくださいますよう、お願いいたします」
使用人たちの前で無礼な姿は見せられないわ。一度は使用人として務めた身だし、しかも傷物の私だもの。ちゃんと妻として務めなければ。
「まぁ、そんなに堅苦しい挨拶は無用よ。あなたは私の娘になるのだから」
「そうよ、オリアーヌ様。これからはお義姉様とお呼びした方がよろしいかしら?」
「あら、だったら私もお義母様と呼ばれたいわ」
公爵夫人とロクサーヌ様の言葉に面食らったわ。好意的過ぎてちょっと顔が引きつってしまいそう。いえ、これはロクサーヌ様をお守りしたからね。その身代わりになった私に恩を感じていらっしゃるからだわ。そう思えば合点も行くもの。
「母上、ロキシー、押し付け過ぎだ」
すっかり興奮気味のお二人を前に助け舟を出してくださったのはエドガール様だった。とてもありがたいけれど、意外過ぎる……
「もう、お兄様ったら。オリアーヌ様を独り占めするおつもりですの?」
「何を言っている?」
まさかエドガール様と意見が合うなんて。ロクサーヌ様、兄君の仰る通りです。独り占めなどされていませんが……
「なによ、お兄様だって昨日からそわそわしていたじゃない」
思いがけないことを聞いたわ。エドガール様がそんなことを?
「そんなことはしていない」
思わず見上げるとエドガール様が眉間に深く皺を刻んで否定された。や、やっぱりそうよね。
「いいえ、していたわよ。ね、マルセル」
「マルセル」
余計なことを言うなと言わんばかりにエドガール様が従者の名を呼んだ。呼ばれた方が軽く肩を竦めるに留めたけれど、嬉しそうだわ。もしかして本当に? いえ、それはないわよね。だって、そんな要素はどこにも感じられなかったもの。
「ふふ、ロキシーその辺にしておきなさい。エド、オリアーヌ様をお部屋に案内してさしあげて」
「ああ」
そう言うと手を取られてしまって、お二人とは反対の方向に歩き出してしまった。ええっ? 手、手が……
「後でお茶をしましょうね」
ロクサーヌ様の呼びかけにもエドガール様の歩みは止まらず、振り返って頷くしか出来なかった。
案内されたのはロクサーヌ様たちがお住まいの棟ではなく、玄関ホールとその奥に続く大広間を挟んだ北側にある棟だった。待って、もしかして……
「ここがジオネ嬢の部屋だ」
使用人が開けた扉の向こうには、見たこともない空間が広がっていた。この部屋を一言で表すなら……豪奢、かしら? 部屋にあるもの一つ一つが最高級の品で埋め尽くされているように見えた。価値がわからないわ、これほどに立派な品とは無縁だったから……
「調度などはこちらで用意したが、希望があるなら言ってくれ。希望通りに変えよう」
ええっ? 用意してくださったのですよね? なのに変えると? そんな畏れ多いこと……
「と、とんでもないです。とても素敵です」
冗談でしょう? それでなくてもとんでもない量の贈り物をいただいているのに……
「そうか。もし不便があれば言ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
そんな日は永遠に来ない気がするわ……前の使用人部屋に戻りたい、なんて言っても無理、よね……
「俺の部屋は向かいだ。なにかあったらクロエに言え。ジオネ嬢の希望は出来る限り叶えるよう命じてある」
部屋の端に立っていたクロエが、エドガール様の言葉を受けて頭を下げた。これからもクロエが仕えてくれるのね。そこはよかったわ。よかったけど……
「は、はい……」
噂には聞いていたけれど、裕福の規模が私の想像の遥か上だったわ。畏れ多くて居たたまれない。
「ああ。夫婦の寝室の鍵は掛けてある」
「わ、わかりました」
そ、そうだったわ。婚姻するのよね。だけど……そういうことなら夜のお務めはなし、ってことでいいのかしら? だけど、そうよね。私じゃお子が出来ないかもしれないのだから。
「ゆっくり休め。晩餐には父上も顔を出される」
「承知しました」
そう答えるとエドガール様はマルセル様を伴って部屋を出ていかれた。扉が閉まると後ろをついてきていたミラと顔を見合わせた。馴染みの存在に途端に身体から余計な力が抜けていったけれど、晩餐に公爵様も……まだまだ気が抜けないわね。




