早朝の訪問者
脳裏をかすめたのは……私を裏切った婚約者だった。だけど、今はお父様もお母様も、何ならお兄様もいらっしゃるのに彼が来るとは思えない。エディットもそう。そもそも彼らは今それどころじゃないはず……
そうとなれば……ロクサーヌ様かしら? 昨日は帰ると告げたらとても残念そうにされて、「お見舞いに行くわ」と仰ってくださったから。だけど、こんな早朝に先触れもなくいらっしゃる方ではないと思うのだけど……
「落ち着いてアラン。誰がいらっしゃったの?」
最悪の相手を想定しながら尋ねた。
「そ、それが……フォルゼ公爵家のご嫡男様です」
「ご嫡男って……エドガール様?」
「は、はいっ! い、今、旦那様がお相手を……」
どうやらお父様に言われて知らせに来たらしいけど……どうしてエドガール様が? 屋敷をお暇する頃にはまだお戻りにならず、「いつも遅いから私から話しておくわ」とロクサーヌ様が仰ってくださったけど、やっぱりお礼を直接申しあげてから帰るべきだったかしら?
「と、とにかくお会いする準備を……」
「は、はい」
驚きに呆然としていたミラが慌てて動き出した。顔は洗ったし、髪も梳いてもらった。あとは……さすがにドレス……はまだ早いわね。簡単なワンピースでいいかしら?
「お嬢様、傷に障るといけませんから、こちらを」
ミラが出してきたのは丈の長いワンピースだった。パフスリーブだから傷に障らないかとお母様が用意してくださったもの。爽やかな薄緑色は暑い今の季節には涼やかに見える。失礼、にはならないわよね。傷を負ってからもう半月近くになる。もうベッドで出迎えるのは失礼だからとソファに座って待った。
「お嬢様、旦那様からです。応接室にいらっしゃいますか? それともお部屋でお会いになりますか?」
やってきたのはお父様の執事のロックだった。
「応接室でお会いするわ」
幾ら雇用主でもさすがに私室に迎えるのは抵抗があるわ。運動は止められているけれど、無理のない程度でなら普通に生活してもいいとお医者様も言ってくださったし、さすがに寝てばかりも飽きたわ。随分と体力がなくなってしまったから、少しでも動きたい。
ロックとミラと共に応接室に向かった。ロックが私に合わせて歩いてくれて助かるわね。
「お父様、オリアーヌです」
「入りなさい」
扉越しに呼びかけるとすぐに返事があった。ロックが開けてくれた扉を進むと、お父様とその正面にエドガール様とマルセル様の姿があった。窓の大きな応接室は明るく、エドガール様の銀の髪が一層輝いて見えた。お綺麗な方よね、表情がないから彫像のようだけど。
「フォルゼ公爵令息様、わざわざお越しいただきありがとうございます」
「楽にしろ。傷に障る」
傷に障らないようゆっくりとお辞儀をしたら、そんな風に言われてしまった。もしかして勝手に出ていったとご不快になられてしまったかしら? 公爵様には許可をいただいたけれど、やっぱり一言ご挨拶をしてから帰るべきだったわね。お父様の隣に腰を下ろすと紺碧の瞳でじっと見られた。何をお考えなのか見当もつかないだけに居心地が悪いわ。もしかして、軽装過ぎたかしら? 歩けるのだからドレスにすべきだったわ。
「……あの、どうされましたか?」
何も仰らないのでせっかくの明るい室内も重苦しく感じられた。何をしにいらっしゃったのかしら? お父様も困ったように私を見るだけだから、要件はお聞きしていないのかもしれないけれど。
「どうだ?」
いつまで続くのかと思われていた沈黙を終わらせたのはそんな一言だったけれど……どうだって、何が?
「エド、それじゃ伝わらないだろう?」
私の困惑を悟ってか、マルセル様が助け舟を出してくれたけれど、エドガール様の眉間の皺が深くなったわ。察せなかったことを不快に思われたかしら? だけど、この方との会話にはマルセル様のように説明してくれる方がほしいわ。それとも、長くお仕えするうちにわかってくるものなのかしら?
「身体の調子はどうだ? 痛むか?」
「今のところ、酷く痛むことはありません。毒の影響を感じるような不快さもありませんし」
「そうか」
返ってきたのはその一言だった。か、会話が続かない……どうしたらいいの? 思わずエドガール様の後ろにいるマルセル様に視線を向けると、にこりと笑みが返ってきたけれど、何も言わない。困ったわ……な、何か言わないと……
「あ、あの、急に帰ってきてしまって、申し訳ありませんでした」
一応謝罪しておいた方がいいわよね。ご挨拶もしなかったのだから。
「何故謝る?」
「え?」
何故って……お気を悪くされたわけじゃなかったの?
「あの、ご挨拶もせずに、お暇してしまったので……」
「気にしていない」
そ、そうなの? それはよかったけれど……いえ、私ごときを不快に思われたからといってわざわざいらっしゃったりは、しないわよね。だったら何の御用なのかしら? ちらと部屋の一角に視線をやられた。そこにあったのはリディアーヌ様からいただいた花束と、エドガール様にいただいた薔薇だった。何となく置いて行くのが忍びなくて持って帰って来たもの。
「これをやる」
ちらと部屋の一角に視線をやられたと思ったら、渡されたのは、柔らかい白さを持つ薔薇の花束だった。花弁は少ないけれど、丸みを帯びた形が可愛らしい。珍しいわ、こんな品種は初めて。それに、今日は一輪じゃないのね。
「あ、ありがとうございます。初めて見る薔薇ですわ」
「他国から取り寄せたものだ」
「そうだったのですか?」
そんな珍しいものを、三本もいただいてよかったのかしら?
「あの、そんな貴重なお花をいただいて、よろしいのでしょうか?」
ただの侍女なのに、いいのかしら? そんなに珍しいものなら公爵様が夫人のために取り寄せたものではないの?
「気にするな。父上の許可は得ている」
「そ、そうですか」
だったら大丈夫かしら? だけど……
「凄く、いい香りがするのですね」
「そうだな」
ふわりと香った甘すぎないけれど優しい香りは初めてのもの。色も清らかで素敵だわ。
「帰る。養生しろ」
そう仰ると立ち上がられた。唐突な方ね、やっぱり何をお考えかさっぱりわからないわ。
「え? あ、はい」
お父様が立ち上がったので、慌ててそれに続いた。お見送りしなきゃ。そう思ったのだけど……
「見送りは不要だ。また来る」
そう仰ると振り向きもしないで真っ直ぐ扉に向かってしまわれた。マルセル様が困ったような笑顔を浮かべて「オリアーヌ嬢、またね」と言ってその後を追った。お父様が頷いてその後に続く。今日はお父様にお任せしていいのかしら? 不要だと言われたのに追うわけにもいかないわよね。それはそれでご不興を買いそうだし。
「お嬢様……」
身分差があり過ぎるからと部屋の端で控えていたミラが不安げに私を呼んだ。
「お客様はお帰りになったわ」
「そ、そうですか。なんか、唐突な方でしたね。色んな意味で」
「そうね、何をしにいらっしゃったのかしら?」
まさかこの花を渡しに来た? まさかね。王太子殿下の元に出仕されてお忙しそうだから、そんな暇はないと思うのだけど。
そんな私の懸念は、見送りから戻ってきたお父様によって晴れた。
「公爵家の騎士様を?」
「ああ。マルロー家やミルール家のこともあるが、あの刺客の雇い主が邪魔をしたお前を狙うかもしれないと仰って、寄こしてくださった」
「騎士を……」
いらっしゃった要件はそれだったと? どうして? 聞けば八人の騎士が我が家に暫く滞在されるという。それに、私が狙われているって……
「ああ、あくまでも念のためで、そういう話があるわけではないそうだ」
「そ、そうですか……」
だったら、大丈夫、なのかしら?
「ご令嬢もお気にされているのだとか。誰かが何か言ってきても当家の騎士がいれば心配ないだろうと」
それは、確かに。いかにあの二人でも公爵家の騎士には敵わないわ。騎士に抵抗するということは、公爵家の意に反すると受け取られるから。それは公爵家を敵に回すも同然で、公爵家の力を思えば自滅するも同義だもの。
「それは、心強いですわね」
「ああ、オーリーが帰ってきたと知ればまた押しかけてくるかもしれぬ。ありがたいことだ」
そうだけど、いいのかしら、こんなによくしていただいて。何をお考えなのかさっぱりわからないけれど、ロクサーヌ様が仰った通り、お優しい方ではあるのでしょうね。




