医師からの宣告
翌日の午後、先に伺っていた通り、お医者様の診察があった。室内は明るく、暖かい風がカーテンを揺らす。サイドテーブルには落ち着いた紅茶色の薔薇と、昨日の薔薇がまだ残っていた。
お医者様は長年公爵家に仕える方で、以前は王宮にお仕えしていたという。さすがは公爵家、お医者様は絶対数が少なくて優秀な方は争奪戦だけど、王宮にいた方を雇えるなんて……畏れ多いわ。
「ふむ……手の痺れはありませんかな?」
「はい。今のところは」
数々の質問を受け、それに返した。傷は痛みはあっても痺れはないし、指もちゃんと動いている。まだ暫くは動かさないようにと言われているから動かしてはいないけれど、特に気になることはなかった。傷が癒えれば痕は残っても、それ以外では何の憂いもないはず。そう思っていたのだけど……
「喉の渇きや、心臓の鼓動が乱れたりは?」
「それはありません」
「左様ですか」
「ふらつきや、目がかすむなどは?」
「立ち上がっていないのでふらつきは何とも。座っている分には何もありません。目もです」
問いに正直に答えた。無理に大丈夫だと言えば診断を間違えるかもしれない。傷だけなら無理をしたかもしれないけれど、毒という未知のものには不安と警戒が先に立ち、偽る選択肢はなかった。
診察の後、公爵夫人とロクサーヌ様、そしてマルセル様を伴ってエドガール様が部屋に入ってきた。これまでも診察の後に公爵夫人やロクサーヌ様が話を聞きにいらっしゃることはあったけれど、どうしてエドガール様が? 王宮ではなかったの? かえって不安になるのですけれど……
「ごめんなさい、オリアーヌ様。エドがどうしても話を聞きたいと言い張って……女性の部屋に押しかけるなんて非常識だといったのだけど、心配だと言うものだから。嫌なら退出させるわ」
戸惑う私の心情に気付いてか、公爵夫人が声をかけてくださった。エドガール様の纏う空気がちょっとだけ固くなった気がした。
「い、いえ。大丈夫です」
将来の雇用主の気遣いを邪険になど出来ないわ。多分、心配してくださっているのでしょうし。それに私にとってもお医者様にとっても、未来の雇用主だから邪険になど出来ない。ここでの療養費も診察代も公爵家なのだから。
「どうだ?」
公爵夫人とロクサーヌ様は用意された椅子に腰かけ、エドガール様は立ったままお医者様に尋ねた。尊大でひれ伏したくなる威厳がおありだわ。そんなに年は離れていないはずだけど、同じ人間なのかしらと思ってしまうほどに格の違いを感じる。
「傷の方は問題は少ないでしょう。毒のせいで傷口が変色しておりますが」
「消えぬのか?」
「普通の傷でもこれくらいとなれば時間がかかりましょう。何時消える、とは……」
わからない、と言いたげにお医者様が頭を左右に振った。そうね、ただの傷だって消えるかどうかは個人差もあるでしょうし、お医者様だって断定は出来ないわよね。これだけ色が変わっては消えるのは年を取ってからかもしれない。
「何とかならぬのか」
「医師は神ではございませぬゆえ」
「エド、無茶を言って先生を困らせるものではないわ」
納得されないエドガール様を公爵夫人が窘めた。
「……失礼した」
「いえ、若様のお言葉がお優しさからであることは存じております」
優しい笑顔を向けられてか、エドガール様の眉間に微かに皺が寄った。長い付き合いがおありのようね。もしかしたら子どもの頃からのお付き合いなのかしら?
「それでは、もう問題ないのだな?」
「先ほど傷に関しては、と申し上げました」
「どういう意味だ?」
傷に、と限定するお医者様にじわりと不安が湧き上がってきた。それでは、傷以外にも何かあると? 次の言葉を待っているとお医者様と目が合い、少し寂しそうな、どこか痛ましいものを見るような目が向けられた。
「傷よりも問題は毒の方です」
その言葉に息を呑む。ロクサーヌ様が喉の奥で小さな悲鳴を上げ、口元を手で覆っていた。公爵夫人の眉が歪む。いい話ではないと、多分ここにいる誰もが理解した。
「……毒、か」
「はい。症状からして該当しうる毒は三種類ありましたが、幸いにも解毒剤のお陰で死に至らずに済みました。ただ……」
「ただ?」
「量や種類に関わらず毒を受けたとなれば、もしかすると妊娠に影響が出るやもしれませぬ」
告げられた言葉を反芻する。死は免れたけれど、妊娠に、影響? それって……
「そんな!」
声を上げて立ち上がったのは、ロクサーヌ様だった。一同の視線を受けて立つ彼女は顔を赤くしてお医者様を見つめていた。今にも詰め寄りそうな雰囲気で。
「そんな、妊娠に影響だなんて……! 先生、嘘でしょう?」
「お嬢様、あくまでも可能性です。ですが、毒を受ける前に比べればその可能性は高くなっていることは否めませぬ。症状に合わせて選んだ解毒剤が効いたからよかったものの、毒の特定はまだ出来ておりまぬゆえ」
「そ、んな……」
呆然とお医者様を見つめるロクサーヌ様を見つめていた。可能性……なんて残酷な言葉なのかしら。傷跡だけでも結婚は難しくなってしまったのに、お子を産む可能性も減ってしまったなんて……貴族女性は後継を宿すことが一番の務め、なのにそれが出来る可能性が減ったというだけでも、結婚は絶望的よね……自分のことなのに、まだ実感がわかないせいか、どこか他人事に思えた。
「あくまでも可能性でございます。ただ、そのことをご存じでいらっしゃった方が先々お悩みになることも減るかと」
「そう、ですね。ありがとうございます」
そうね、最初からそうとわかっていれば、最悪の事態に備えて心構えも出来る。それに、後継が既にいる方に嫁ぐ選択肢も前よりも前向きに受け入れられるはず。今はまだそんな気になれないけれど……それに、公爵家に勤める動機も強まったわ。仕事に生きる選択肢は最初からあったのだから、それを通せばいいだけよね。なにも、変わらないわ……きっと。
「オリアーヌ様、ごめんなさい。私が油断したばかりに……!」
「ロクサーヌ様のせいではありませんわ。罪はあの刺客とその者を雇った者にありますから」
悪いのはあの者たちで、ロクサーヌ様ではないわ。それに、刺されたのがロクサーヌ様ではなくてよかったとますます思った。お二人共、私などよりもずっと高貴な王家の血を引かれる尊い方々なのだから。
「ですが、オリアーヌ様に何の瑕疵もありませんのに……先生、何とかなりませんの?」
「落ち着け、ロキシー」
困惑するお医者様に詰め寄ったロクサーヌ様に声を掛けたのは、エドガール様だった。
「お兄様……」
「お前が騒ぎ立ててどうする? 辛いのはジオネ嬢だ」
その言葉にロクサーヌ様がハッと兄君を見上げて、目が合うと静かに項垂れた。
「ごめんなさい」
震える小さな声も今は大きく聞こえた。気を遣われるのもどこか気まずくて、居たたまれない。まだお医者様の言葉が他人事のように思えるのもあるのかもしれないけれど。
「先生、どうもありがとう。引き続きオリアーヌ様をお願いしますわ」
誰もが動けない中、声を上げたのは公爵夫人だった。その声を受けてお医者様とその助手が一礼して部屋を出ていった。室内は重い沈黙が漂っていて、居心地が悪いことこの上なかった。
「ジオネ嬢、今後のことは公爵家が責任をもって面倒を見る。心配無用だ」
エドガール様がはっきりとそう仰った。それは……これからも雇っていただけると思っていいのよね?
「あ、ありがとうござます。どうかよろしくお願いいたします」
まだ何も出来ないけれど、実家では受けられなかった最高の治療を受けられたわ。命があるのもそのお陰。だったら誠心誠意お仕えさせていただくわ。
「オリアーヌ様……」
弱々しくロクサーヌ様が名を呼んだ。私よりもずっとショックを受けていらっしゃるようで申し訳ない気持ちになる。
「ロクサーヌ様、お気になさらないでください。あくまでも可能性の問題ですから」
安心させるように笑みを向けると眉間に皺が刻まれた。そんな表情は兄君とよく似ていらっしゃるわね。
「……そう、ですわね。まだ可能性の段階ですわ。それに……そうよ、その時には私が……」
「あの……ロクサーヌ様?」
暫くじっと私を見て何かをお考えだったロクサーヌ様が、何かを決意されたようだったけれど……私がって、どういう意味かしら? 訝しく思い名を呼んだ。
「あ、いえ。何でもないわ。こちらの話よ」
なんでもないとは思えなかったのだけど……真意が掴めないかとじっと見つめたけれど、何も拾えなかった。
「オリアーヌ様はこのまましっかり養生なさって」
「は、はい、ありがとうございます」
さっきまでの嘆きは影を潜め、今は強い思いを持たれたようだけど、何をお考えなのかはさっぱりわからなかった。結局公爵夫人が長居しては疲れてしまうでしょう、と仰り、それでお開きになった。
皆様が去るとクロエと二人きりになった。鳥のさえずりが聞こえるいつもの静寂が戻ると、ようやく息が出来た気がした。考えなくてはいけないことが増えたわ。それにしても……お父様とお母様の顔が浮かんだ。傷が治ってきたことをあんなに喜んでくださったのに、また悩みの種を増やしてしまったわ。なんて言ったらいいの……




