逃げてきた令嬢
「兄上、彼女は私の婚約者だ。馴れ馴れしく名を呼ぶのは控えていただきたい」
ロクサーヌ様を背に庇うようにして前に出たのはアルベール様だった。大きな身体はただそこに立つだけでロクサーヌ様のお姿を隠した。お二人を一言で表すなら優美さと精悍さ、かしら。こうして並ぶとご兄弟だけど似ていないし、印象も正反対だわ。
「なんだ、いたのか。ああ、お前に用はないよ。ロクサーヌ、どうだい、私と一曲」
「兄上……」
呆れ顔のアルベール様を避け、身を乗り出してロクサーヌ様に向けて華やかな笑顔を向けたルシアン様。見た目だけなら物語の王子様そのものね。残念ながら横恋慕する当て馬的な王子様だけど。
「お誘い、ありがとうございます」
「では……」
「せっかくですが、さっき足がつってしまいましたの。少し様子を見ないと何とも申し上げられませんわ」
足を庇うようにしてロクサーヌ様が答えた。いつの間に足を? 気付かなかったわ。
「それはいけない。直ぐに医師を呼ぼう。ああ、私の控室を貸そうか? そこなら医師も直ぐに来るだろうから」
心配そうに気遣う姿は嘘には見えなかった。事前に聞いていなかったらなんていい人なのかと思ってしまったかもしれない。それくらいその表情は本当に心配しているように見えたけれど……
「ご心配には及びません。ロキシー、バルコニーでいいか?」
「ええ」
「失礼するよ」
アルベール様があっという間にロクサーヌ様を抱き上げてしまわれた。近くにいた令嬢たちから黄色い悲鳴が上がる。そう言えば、物語でこんなシーンがあったような気がするわ。
「兄上、失礼します」
そう仰るとアルベール様はさっさとバルコニーの方へと向かってしまわれた。その方向にいる方が道を開ける。慌ててお二人を追うと、後ろで微かに舌打ちが聞こえた。あれは、ルシアン様のもの? 確かめたいけれど振り返ることは出来なかった。
アルベール様が向かったのは庭に面したバルコニーで、窓際に並んだ椅子の一つにロクサーヌ様をそっと下ろし、ご自身もその隣に座った。護衛が他の参加者の侵入を拒むように入口に立つ。その向こうにはアンリエット様が見えたわ。カトリーヌ様もこちらに向かってきている。入口に立って警戒するのも私たちの務め。
「大丈夫か? 一度部屋に戻った方が……」
「いえ、大丈夫よ。少し休めば大丈夫」
心配そうに表情を窺うアルベール様に、ロクサーヌ様は笑顔で答えられた。表情は明るいし、そこまで心配するほどじゃないのかしら? もしかして、ダンスを断るための口実だった? 案外それが本当かもしれないわね。
「ふふっ、嬉しくて踊り過ぎてしまったかもしれないわ」
「そんなにダンスが好きだったのか」
「アルベール様と踊りたかったのよ」
「そ、そうか……」
笑顔で嬉しそうにアルベール様を見上げるロクサーヌ様に、アルベール様は僅かに怯んだ。ロクサーヌ様の方が積極的なようね。なんて微笑ましい二人なのかしら。これではルシアン様が入り込む余地なんてないわね。
「失礼します」
入ってきたのはラシェル様だった。ラシェル様は飲み物を載せたトレイを手に現れた。彼女は既に卒業しているし、身分が低いのもあって今日は裏に回っている。彼女が持ってきた飲み物は公爵家で用意して、彼女を含めた何人かが毒見したものだ。
「ありがとうラシェル」
命を張って仕える幼馴染の侍女に向ける笑顔は誰よりも優しい。信頼の積み重ねの量が違い過ぎるわ。私もいつか、あんな風に信頼されるようになりたいわね。その後で私たちにも飲み物が配られた。ありがたいわ、会場は暑かったし、三曲も踊って喉がカラカラだったから。カトリーヌ様たちもこちらに入って距離を取りながら飲み物を口にした。
「兄上は相変わらずだな」
「ええ。諦める気はなさそうですわね」
少し離れた場所に立ち、ロクサーヌ様たちを守るよう庭側に立つ。お二人の話題は兄王子のことになっていた。このお二人の間に入り込もうなんて、ご自身に自信がおありにあるのか、アルベール様を下に見ていらっしゃるのか。どちらにしても厄介だわ。
「引く気はない、か。まったく、面倒な方だ」
「ふふ、でも、守ってくださるのでしょう?」
「もちろんだ」
甘えるように告げるロクサーヌ様にアルベール様も笑顔で答える。お珍しいわ、この方がこのような表情をなさるなんて。エドガール様同様、普段から表情が変わらないと言われているから。そんな中、誰かが入口にいる護衛に話しかけ、その後アルベール様の元に向かった。
「歓談中、失礼いたします」
「なんだ?」
「お耳を。実は……」
やってきたのは王宮の侍従だった。なにかしら? 秘密の話なのか耳元で話しているけれど内容はわからない。ただ、話が進むごとにアルベール様の表情が険しくなっていった。
「まったく、こんな時に……」
「どうなさいましたの?」
「オーギュ兄上が呼んでいるそうだ」
「まぁ」
話の主は一番上の王子で王太子でもあるオーギュスト殿下だった。
「すまん、ちょっと行ってくる」
「ふふ、オーギュ様なら仕方ありませんわ」
どうやらルシアン様と違いオーギュスト様との関係は悪くないらしい。アルベール様はマルセル様にロクサーヌ様を頼むと言い残して会場に戻られた。
それと入れ替わるように、庭の方から誰かが近付く気配があった。ふと、幼馴染の顔が浮かんで一気に緊張が増すした。
「た、助けてください!」
必死さを滲ませた声に、あの子じゃないことに安堵した。薄暗い中、人影がこちらに向かってくるのが見える。随分慌てているし、しきりに後ろを気にしている。誰かに追われているの? マルセル様が庭に続く入口に向かった。カトリーヌ様がロクサーヌ様の隣に座り、アンリエット様は離れた場所から様子を窺う。
現れたのは、若いご令嬢だった。私と同じくらいか、少ししたかしら? しきりに後ろを気にしていた。
「どうされましたか?」
マルセル様が優しい声色で声をかけると、一瞬怯えたように身体を震わせ、その後私たちを見てホッとした表情を浮かべた。
「あのっ、し、知らない男性に、し、茂みに引きずり込まれそう、になって……」
よほど怖かったのか両手で我が身を抱きしめ、その場に倒れ込みそうになった。慌ててマルセル様が手を伸ばしてその身を支えた。
「ご、ごめんなさい。人がいると思ったら、安心して……」
「それだけ怖い思いをされたのでしょう。どなたか、会場にお知り合いは?」
「か、家族が……」
連れの方以外にも家族がいると告げた。
「マルセル?」
ロクサーヌ様が怪訝そうにこちらを見ていた。会話までは聞こえなかったようで、マルセル様が簡単に説明すると、だったらと椅子を勧められた。今は知らない者をロクサーヌ様に近づけたくないけれど、腰が抜けて足元がおぼつかないのなら仕方ないかしら。ロクサーヌ様が席を詰め、マルセル様は令嬢を支えながらその反対側に向かう。念のためロクサーヌ様の前に立ち、様子を窺った。
ロクサーヌ様の前を通りがかるその時、突然令嬢がマルセル様の手を振り払い、ロクサーヌ様の方に向かった。ロクサーヌ様と令嬢の間に入ったのは、何となくそうしなくてはいけない気がしたから。次の瞬間、ちらと光る何かが見えた。悪い予感が一気に確信に変わった。
「……っ!」
肩に感じたことのない熱を感じて……息が止まった。さっきまで泣きそうだった令嬢の顔が今は忌々し気に歪んでいた。
「邪魔っ!」
舌打ちが聞こえた後、再び肩に衝撃が走った。肩が濡れる感覚がすると同時に悲鳴が上がった。
「その女を捕らえろ!」
マルセル様の怒号に護衛たちがあっという間に令嬢を囲う。一気に周りが騒がしくなった。
「放せっ!」
「逃がすか!」
「拘束しろ!死なせるなよ!」
男性の怒号が耳に届いた。肩に感じる熱に、思わず手を当てて……嫌な予感に心臓が止まりそうになった。見たく無いけれど……手が、目が、勝手に動いた……
「……っ!」
黒く濡れた手に、すぅっと血の気が引いていき、突然足に力が入らなくなった。衝撃を覚悟したけれど……一瞬の浮遊感の後で受けた衝撃は想像していたものよりもずっと軽かった。
「オリアーヌ嬢! おい、大丈夫か?」
「だ、だいじょ……」
大丈夫だと言おうとしたのに、私の喉は仕事をしてくれなかった。肩が脈打つ度に熱さを伝えてくるのに、急速に足元から血が引くような、体温が流れ出ていくような感覚を覚えた。寒、い? どうして……
「おい! しっかりしろ! すぐ医者を……」
誰かが叫んでいるけれど、その声が段々遠くなっていく。目を開けているはずなのに、眠っちゃダメな気がするのに……目の前が急速に暗くなっていく……
「……い、や……怖……」
地の底に引きずり込まれるような感覚に死を感じた。救いを求めるように手を伸ばそうとしたけれど……そこで意識が途切れた。
遅くなって申し訳ありません。




