第9話 天下の大泥棒の「恐怖」と「罪悪感」【前編】
灰璃の街を飲み込む灰色の霧。
これは、人々の吐き出す罪の意識と欲望が結露した澱みなのかもしれない。
北の丘にそびえ立つ「黒百合の館」は、その霧を濃くするのか、それとも祓うのか……。
エントランスホールの冷たい石床を鳴らして現れたのは、夜の闇よりもなお深く、夜会の主役のように華やかな男だった。
最高級のシルクで仕立てられたフロックコート。
胸元には血の滴りのようなルビーのピンが妖しく輝き、銀のステッキを弄ぶ指先はピアニストのように白くなめらかだ。
彼こそが、警察や検察を長年にわたり翻弄し続ける希代の怪盗、世間が「ファントム」ともてはやすアーサー・ヴァレンタインであった。
奥に座し、寡婦のドレスに身を包んだ少女が口を開く。
「天下の大泥棒が、こんなところに何の御用かしら」
エンディミオンの声には、明らかな侮蔑の色が混じっている。
「『希代の怪盗』ね。私には、手当たり次第に金目の物を漁る小悪党の気配しか感じられない」
アーサーは優雅に一礼し、対面の椅子に身を沈めると、悪びれもせず微笑を浮かべた。
「手厳しいお嬢さんだ。だが、それは誤解というものです。私は確固たる美学を持ってターゲットを選んでいる。狙うのは、盗まれたところで痛くも痒くもない富裕層ばかりです。私は彼らに、退屈しのぎのゲームを提供しているにすぎません。……さて、今日ここへ来たのは、私の悩みを聞いていただきたいからです」
アーサーは、商売道具である自らの手を見つめながら嘆息した。
「私は最近ひどく退屈しています。どんな厳重な金庫も、どんな獰猛な番犬も、私の前では児戯に等しい。だが、問題はそこではない。かつて私を奮い立たせていたもの……闇夜を駆ける時の背筋の凍るような『恐怖』や、他人の宝を奪う瞬間の『罪悪感』。それが、いつの間にか消え失せてしまった」
控えるベルが、信じられないというように目を丸くした。
アーサーは芝居がかった手つきで胸を押さえる。
「スリルのない泥棒など、単調な反復作業に過ぎない。このままでは、私は美学を持たない卑俗な盗賊に成り下がってしまう。だからあなたに探してほしいのです。私がどこかに置き忘れてきた、心地よい『恐怖』と『罪悪感』を」
自らの罪を、娯楽としか捉えていない男の弁。
エンディミオンは、値踏みするように目を細めた。
「人は本当に滑稽な生き物ね。自ら堕落しておきながら、刺激が足りないと嘆くのだから」
「おっしゃる通り。だが探していただけるのでしょう? ここはそういう場所だと聞いている」
アーサーの挑発的な視線に対し、エンディミオンはドレスの裾を翻して立ち上がった。
「ええ。あなたさまの失せもの、何なりとお探しいたしましょう」
少女の唇から、呪詛のような言葉が紡がれる。
「……ただし。あなたの望むものが、甘美で心地よい代物とは限らない。何が見つかりましてもお恨みなさいませぬよう」
アーサーは余裕の笑みを浮かべ「もちろんですとも」と肩をすくめてみせた。
数日後。
バロウズの案内により、エンディミオンは灰璃の住宅街にある邸宅を訪れていた。
そこは半年前、アーサーが「最後に恐怖と罪悪感を感じた」という現場であった。
バロウズは、重力を無視したようななめらかな足取りで、主を失った書斎を歩き回った。
室内は借金取りに押し入られた際に荒らされてしまい、床には未払いの督促状が散乱している。
「お嬢さま、罪悪感が『盗まれる』ということはありえません。それは罪の重みに耐えかねた挙句、無意識のうちに切り離して遺棄してしまうものです」
彼には、現世の物質を超えた「想念の残滓」なるものが視えている。
「彼が自らの良心を切り離すための『錨』としたものが、この部屋のどこかにあるはずです。……おや」
バロウズはしゃがみ込むと、床板のわずかな隙間に指を差し込んだ。
少しして、隙間から引きずり出されたのは、安っぽい木彫りのロザリオであった。
長年使い込まれたものなのか、十字架の角は丸く擦り減り、手垢で黒ずんでいる。
「これは?」
エンディミオンが訝しげに見つめる。
「依頼人アーサー・ヴァレンタイン。孤児院育ちの彼を拾い、女手一つで育て上げた養母の形見のようですな」
「……母親は今どこに?」
「すでにこの世にはいないようです。彼女は息子の悪行を知って心を痛め、被害者に謝罪して回り……なけなしの慰謝料を払い続けた。最後は全財産を失って運河に身を投げたようです」
「悲惨ね」
エンディミオンは、彼女にしては珍しく憐れむように言った。
バロウズはロザリオを見つめたまま淡々と続ける。
「アーサーは『母は元々精神が弱かった』『不運な事故であり、自分の仕事とは無関係だ』と自分に言い聞かせ、母親の死から目を背けているようです」
「なるほど。無意識下で罪の重さを直視することを恐れ、仕事中にこのロザリオを隙間へ落とし……自らの罪悪感を切り捨てたというわけ」
バロウズは冷たい笑みを浮かべ、古びたロザリオを丁寧にハンカチで包んだ。
「そういうことです。ちなみにこの屋敷は、彼の養母の甥――つまり義理の従兄弟の家でした。元より資金繰りに苦しんでいた彼らは、見境のないアーサーに全財産を盗まれて破綻。借金取りに追われ、夜逃げ同然に街を出た末に一家心中したとか。富裕層だけを狙う怪盗など、彼の妄想に過ぎません」
「やはり小悪党だったのね」
エンディミオンは呆れたように息をつき、眉をひそめた。




