第8話 色彩を失った画家と悪霊の夢
その朝、館の扉を乱暴に叩いたのは、新進気鋭の天才画家ともてはやされる青年クロードであった。
彼は上等なツイードの背広を着ていたが、髪は鳥の巣のようにひどく乱れ、見るからに憔悴しきっている。
エンディミオンは、ヴェールの奥から彼を注意深く観察した。
「色が、見えないのです」
クロードは息せき切って訴えた。
「数日前からです。突然、私の視界からすべての色彩が消え失せてしまった。真っ赤な林檎も、金色の太陽も、青い空も……今は白と黒の濃淡にしか見えない。私は『色彩の魔術師』と呼ばれる画家だ。色を失えば、私の命は終わったも同然。どうか、私の色彩を探し出してください」
彼の描く絵は、鮮烈かつ暴力的な色彩感覚が高く評価されていた。
燃え盛るような赤、深淵を覗き込むような深い藍や紫、目を焼くような鮮やかな黄色。
それらがキャンバス上で狂おしく乱舞する様は、見る者の魂を揺さぶると絶賛されていた。
傍らに控えるベルが、痛ましげに口を押さえた。
「まあ、お可哀想に……。画家にとって色がわからないなんて、鳥が空を飛べなくなるようなものですね」
エンディミオンは漆黒の扇を優雅に広げ、ゆるゆると息を吐いた。
彼女の眼には、青年の背後に纏わりつく淀んだ「気配」が視えていた。
「ただの病気なら、医者に行けばいいわ。けれど、あなたのその眼を覆っているのは、肉体の病とは思えない。得体の知れない『呪い』ではないかしら」
エンディミオンは立ち上がり、黒いドレスの裾を翻した。
「いいでしょう。失せもの、何なりとお探しいたします。……ただし」
ヴェール越しの視線が、目の前の男を厳しく吟味する。
「あなたが見ていた『色』の正体――それが何であっても、何が見つかりましても、お恨みなさいませぬよう」
その日の午後、ベルを館に残し、エンディミオンとバロウズは、クロードの屋根裏のアトリエを訪れた。
部屋中に散乱する絵の具のチューブと、鼻をつくテレピン油の匂い。
壁には、彼がかつて描いたという「傑作」たちが無造作に立てかけられている。
「これが『天才』の色彩ですか」
バロウズが、一枚のキャンバスを見つめながら瞳を細めた。
そこに描かれているのは、一見すると美しい花畑の風景。
しかし、その色彩は毒々しく、見つめていると眩暈や吐き気を催しそうなおぞましい気を放っていた。
「審査員たちもなんと見る目がない。お嬢さま、この絵からは、人間が描いたものとは思えない……ひどく低俗で悪食な気配がいたします」
バロウズが、小さな声でエンディミオンに囁く。
エンディミオンは扇で鼻を覆うと、不快そうに眉をしかめた。
「ええ。天才なんかじゃないわ。彼の視界に色を見せていたのは、彼に取り憑いた『虫』の仕業」
エンディミオンの視線の先には――キャンバスに向かい、灰色の絵の具を塗りたくっているクロード。
その後頭部から眼球にかけて、醜く脈打つヒル状の悪霊がべったりと張り付いているのが視えた。
悪霊は、クロードの承認欲求と狂気を餌にして肥え太り、彼にこの世のものではない色を見せて「天才」に仕立て上げたのだ。
その力が強まりすぎた結果、ついに本来の視神経そのものに深く根を下ろし、光さえも遮断しようとしている。
「彼が失くしたのは、色彩ではなく正気ね。正気と引き換えに名声を手に入れたのなら、そのまま行きつくところまで行くのが芸術家の本望ではないかしら」
「それでは面白くないでしょう」
「面白さなんて求めてないわ」
と反論するエンディミオンを、バロウズはまあまあと宥めた。
「ここは私にお任せください」
バロウズが音もなく、クロードの背後へ回り込んだ。
執事は、画家の頭にへばりついた醜い悪霊へ手を伸ばした。
「こう見えても絵は好きでしてね。人間の業が煮詰まったような悪質で低俗なものは特に。ですが……」
バロウズの口元には、絶対的な力を持つ者特有の残酷な笑みが浮かんだ。
「下等な虫けらが見せる安っぽい幻覚は、私の美意識が許しません」
彼の二本の指が虚空を、否、不可視の悪霊の首根っこを正確に掴んだ。
悪霊は自分よりも遥かに上位の、底知れぬ闇の存在に気づき音なき悲鳴をあげる。
「静かに。主の御前ですよ」
プツリと小さな音がした。
バロウズの指先で、画家の視界を支配していた悪霊は塵となった。霊的な干渉などという生易しいものではなく、圧倒的な暴力による存在の抹殺であった。
「バロウズ」
エンディミオンが抗議の声をあげる。
「余計なことをしないで。彼を助けろとは命じてないわ」
「申し訳ございません、お嬢さま。芸術を愛するあまりに、つい手が動いてしまいました」
バロウズは悪びれる様子もなく、そそくさと主の背後へ戻った。
その直後。
「あっ!」
絵筆を握っていたクロードが、突然キャンバスの上に倒れた。
激しい眩暈に襲われた彼だったが、しばらくすると荒い息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた。
そして、屋根裏の天窓から差し込む光を見た。
「あ、ああ……」
世界が色を取り戻していた。
それは、彼がかつてキャンバスに叩きつけた毒々しく鮮烈な極彩色ではなかった。
天窓から見える、淡くくすんだ灰色の空。遠くに見える赤煉瓦の屋根。古びた木枠の温かみのあるセピア色。
どこにでもある、極めてありふれた現実の色彩だった。
「なんて優しい色なんだ」
クロードは手を伸ばし、天窓から差し込む光にかざした。
「私は、ずっと地獄の炎のような幻影を見ていた。あれが真実の美だと思っていたが……違った。本当の世界は、こんなにも静かで淡くて美しいものだった」
彼は、自らが描いてきた狂気の絵画たちを振り返った。安堵を覚えつつも、同時に絶望に顔を歪めた。
悪霊が祓われた以上、彼はもう二度と「天才的な色彩」を生み出すことはできない。今後、美術界は彼を酷評し、また惨めな貧乏生活に逆戻りするだろう。
現実の美しさに救われつつも、芸術家としての死を悟ったクロードは声もなく泣き崩れた。
「お嬢さま、失せものは見つかりましたな。少々、形は変わってしまったかもしれませんが」
バロウズが囁く。
エンディミオンは泣き続けるクロードを、胡乱げに見つめた。
「理解できないわ。才能を失って絶望しているのか、平穏を取り戻して安堵しているのか。なぜあんなに矛盾した顔で泣けるのかしら」
「人間とは、毒々しい栄光を惜しみながらも、退屈な陽だまりにすがりついてしまう愚かで愛おしい生き物なのです。お嬢さまには、まだ少しわかりづらいかもしれませんが」
バロウズはくつくつと忍び笑いを漏らす。
「あなたはこんなものが面白いの?」
「ええ、とっても。彼はこれから、かつての栄光に縋りつつ、誰にも見向きもされない凡庸な絵を描いて惨めに暮らすのです。その懊悩と苦痛に満ちた人生を眺める方が、下等な虫に食い殺されるより、よほど上質な娯楽ですよ」
エンディミオンは呆れたように短く息を吐いた。
「帰るわよ。凡人の未練にあてられて、息苦しくなってきたわ」
去り際、クロードの視線を背に感じたが、エンディミオンは振り返らなかった。依頼は完遂したのだ。何も問題はない。
歩きながら、彼女の唇は決まり文句を紡ぐ。
「……お恨みなさいませぬよう。あなたが凡庸な世界を美しいと信じるのなら」
霧の街の空に、ほんのわずかに薄日が差し込んでいた。
館へ戻る道すがら、エンディミオンは手にはめた黒革の手袋に視線を落とした。
彼女の世界の色は、いつも漆黒の闇と深い灰色である。身に纏うものも、街の風景も。
エンディミオンはふと思った。果たして、自分の瞳には「本当の色」が映っているのだろうか。
「お嬢さま。本日のティータイムは、色鮮やかなマカロンを用意しておりますよ。ワインレッドにプルシアンブルー、レモンイエロー、ピンク、グリーン、なんでも揃っております」
バロウズの、心を見透かしたような声が霧の中に溶けていった。




