第7話 天才剥製師の愛した瞳
その夜、黒百合の館を訪れたのは一晩で幾つも歳をとったかのようにやつれきった青年だった。
名はジュリアン。若くして天才と謳われる剥製師である。
彼の指先は荒れ、アルセニック(ヒ素)と防腐剤、そして腐りかけの百合の匂いがした。
病的なまでに青白い顔には深い隈ができ、双眸だけが異常な熱を帯びて爛々と輝いている。
応接室の奥、長椅子に座したエンディミオンは、ヴェールの奥から痩せた青年をじっと見つめた。
少女は暗黙のうちに、青年の抱える狂気の輪郭を正確に測り取っていた。ほのかに漂う百合の匂いに、不吉なものを覚える。
「私の最高傑作なのです」
ジュリアンは、震える手で自らの金髪を掻きあげながら、咽び泣くように訴えた。
「美しい少女の剥製です。肌の質感、唇のかすかな微笑み、指先の柔らかな曲がり具合まですべてが完璧だ。永遠の美がそこにある。……だが、瞳だけがないのです。どんな最高級のガラス玉を入れても、宝石を嵌め込んでもだめなのです。そうした途端、彼女はどこにでも転がる『死体』に成り下がってしまう。あなたには生き生きとした、私を愛しげに見つめ返す『理想の瞳』を探してほしいのです」
傍らに控えるベルが、彼の異様な気迫に怯え、トレイを持つ手をかすかに震わせた。
エンディミオンは漆黒の扇を優雅に広げ、素っ気なく言った。
「理想の瞳……ね。私にそれを見つけ出せと?」
「あなたにならできるはずです。どんな失せものでも探し出すと聞きましたので」
ジュリアンが血走った目で身を乗り出した。
エンディミオンは立ち上がり、喪服の裾を翻して青年の前に立った。
「わかりました。失せもの、何なりとお探しいたします。……けれど」
エンディミオンは、いったん言葉を切った。
「見つかったものが、あなたが望む『美』であっても、目を背けたくなる『醜態』であっても……決してお恨みなさいませぬよう」
数日後。
エンディミオンとバロウズ、ベルの三人は揃ってジュリアンの工房を訪れていた。
彼の傑作は地下にあるという。
ジュリアンについて階段を降りてゆくと、地下の空間は、まさに死を固めた陳列室であった。
極彩色の羽根を広げた極楽鳥、今にも飛び掛からんとする躍動感あふれる銀狼。すべてが、永遠の沈黙の中に剥製として固定されている。
そして、部屋の中央。
天蓋付きのベッドに横たわっているのが、彼の言う「最高傑作」であった。
美しい白蝋のような少女だった。金糸を紡いだような髪が枕に散らばり、頬は薄紅を帯びている。柔らかそうな唇は今にも温かな吐息を漏らしそうだ。まぶたは固く閉じられている。
バロウズが、黒いビロウドの小箱を開いた。
「ご希望のものをお持ちしました。東洋の瑠璃、ベネチアの最高峰の職人が焼いた星彩硝子、大粒のブラック・オパール。どれも、王侯貴族が冠に飾るほどの素晴らしい逸品です」
ジュリアンはひったくるように箱を受け取った。
ブラック・オパールを掴むと、少女のまぶたを押し広げ、空虚な眼窩に嵌め込んだ。
「……違う」
ジュリアンは絶望の声をあげた。
「違う! 違う違う違うッ! こんなものはただの石ころだ。彼女の魂がこもっていない。私を愛していると訴えかける熱い光がない。なぜだ……私は、彼女の美しさを永遠に閉じ込めたのに。どうして瞳だけは腐敗から救うことができなかったんだ」
エンディミオンは表情一つ変えず、少女を見下ろす。
この「最高傑作」の正体はジュリアンのかつての恋人だった。
彼女の若さと美しさが、老いによって失われることを嘆いたジュリアンは、彼女が最も美しく微笑んだ瞬間にその首を絞めたのだった。血を抜き、内臓を掻き出し、綿密に防腐処理を施した。
だが、眼球だけは剥製にできなかった。
高価な薬品に漬けたものの数日で薬液は濁り、腐ってしまったのである。
「無駄足だったわね」
エンディミオンは冷酷に言い放った。
「あなたが求める『生気』とは、命の活動に伴う水分の反射と筋肉の収縮よ。死体にそれを求めること自体が、論理の破綻だわ。帰りましょう。これ以上狂人の我儘に付き合う義理はない」
エンディミオンが踵を返そうとすると、バロウズが口を開いた。
「お待ちください」
バロウズは、影のようにジュリアンの背後へ回り込んだ。
執事は、絶望に顔を覆う青年の耳元に顔を寄せ、毒蛇のように狡猾な声で囁いた。
「ああ、哀れなジュリアンさま。私は不思議でなりません。天才と呼ばれるあなたが、なぜこんな簡単な答えに気づかないのでしょう」
「なんだって?」
「あなたは永遠の美を求めながら、彼女の瞳には『生きた愛』を求める。ならば、冷たい硝子や石ころをはめること自体が間違っているのです。あなたが探しているのは作り物ではありますまい」
バロウズの瞳が、青年の狂気の底を探る。
人間をそそのかして悪道へ引きずり込む、果ては破滅に追い込む。
それは彼が本来、最も得意とすることだった。
「失われた彼女の瞳に代わり、空虚な眼窩を埋められる唯一のもの。彼女を世界で一番愛し、永遠の美を見出し、熱烈な生気を宿して彼女を見つめ続ける。その『瞳』は……今、どこにございますか?」
バロウズの問いかけが、ジュリアンの脳髄を雷のように直撃した。
「あ……」
青年の手が、ゆっくりと自らの顔に向かって伸び、這い上がった。
目を見開く。そうだ。どんな宝石も、彼女への愛を映し出しはしない。
彼女を愛しているのは、彼女を見つめる「自分」の瞳だけだ。ならば、この目を彼女に捧げれば彼女は永遠に自分を愛し、見つめ返す完璧な存在になるではないか。
「ああ……あああっ! そうか、見つかったぞ。私の探していた最高のガラス玉。私の、私だけの愛の瞳が」
ジュリアンは歓喜の咆哮を上げ、傍らの作業台から眼球摘出用の細い銀の匙を掴み取った。
「ジュリアンさま?」
ベルが声をあげようとした瞬間、バロウズはベルの両目を己の手で背後から覆い隠した。
ジュリアンは狂気に満ちた手つきで、自らの左目の眼底に冷たい匙を深く滑り込ませた。視神経を強引に断ち切る、ブチッという肉の裂ける生々しい音が地下室に響いた。飛び散る血飛沫が、極楽鳥の美しい羽根を赤く染める。
「アアアアアッ! 痛い、痛いぞ。だが美しい。これで彼女は完成する」
顔の左半分を鮮血に染めながら、ジュリアンは自らえぐり出した左の眼球を、少女の空虚な眼窩に押し込んだ。
鮮血がポタポタと少女の頬を伝い落ちる。
まるで、彼女自身が流した血の涙のように見えた。
左目の視界を失い、激痛に身を悶えさせながらも、青年は狂乱の笑い声をあげた。
そして錯乱の中、残された右目にも躊躇うことなく匙を差し込んだ。
「ふふ、あはははははっ! 見える、見えるぞ。私の目を通して彼女が微笑んでいる。私達はずっと一緒だ。永遠に愛し合えるんだあぁぁぁっ」
自ら両目を抉り出し、完全に視界を喪失した青年は、顔面を真っ赤に染めながら手探りでベッドに這い上がった。
そして、自らの眼球が埋め込まれた少女の死体をきつく抱きしめた。
血と防腐剤の匂いにむせながら、至福の笑い声をあげる。
「お嬢さま。失せものは無事に見つかったようですよ」
バロウズは狂態を前にして、極上のワインを味わうかのように微笑んだ。
エンディミオンは、ヴェールの奥から惨劇を見つめる。
バロウズにそそのかされ、自らの両目を破壊してしまった愚かな男。彼はこれからどうやって生きてゆくのだろう。
「理解できないわ」
漆黒のドレスを翻し、エンディミオンは歩き出した。
「狂気じみた愛のために自らの肉体を損なうなんて。人間というものは本当に……度し難い」
狂喜する剥製師の笑い声を背に、彼女は石段を登っていく。
「失せもの、何なりとお探しいたします。……何が見つかりましても、あなたがそれで幸せだと言うのなら」
構いやしないけど……と思いながら、後ろを振り返る。バロウズとベルも上がってくる。
彼らの背後で重い鉄の扉が閉まると、地下の物音は一切聞こえなくなった。
「一件落着でございますな」
バロウズの愉快そうな声に、エンディミオンは答えなかった。




