第6話 泣けない少年侯爵の「涙」
霧の街の朝は、鉛色の憂鬱を広げながら始まる。
重たげな雲が空を覆い尽くし、冷たい雨が石畳を叩く午前のことだった。
「黒百合の館」の分厚い扉を、一つの小さな影がノックした。
影の主は、十歳ほどの少年であった。
仕立ての良さが一目でわかる、ベルベットの詰襟と純白のクラバット。金糸で刺繍された名門貴族の紋章が、彼の胸元で鈍い輝きを放っている。
少年の顔は精巧な蝋人形のように、一切の生気を欠いていた。
「ようこそいらっしゃいました」
音もなく出てきたバロウズが、慇懃な一礼とともに少年を迎え入れる。漆黒の瞳は、少年の瞳に広がる虚無をじっと見据えた。
応接室の扉が開かれる。
仄暗い部屋の奥、真紅の長椅子に座ったエンディミオンは読んでいた手元の本から視線を上げた。
「名乗る必要はないわ。その立派な紋章と背筋を伸ばした歩き方を見れば、あなたの身分はわかります。そうでしょう? ヴァンクロフト家の次期侯爵閣下」
エンディミオンの声に、少年の肩がわずかに反応したが、表情はピクリとも動かなかった。
少年――アルバート・ヴァンクロフトは、エンディミオンを見つめ返し、機械のように口を開いた。
「僕の『涙』を探してほしいのです」
傍らに控えていたベルが「えっ」と小さく声をあげた。
エンディミオンは本を置くと小首を傾げた。
「涙……? 随分と抽象的な失せものね。それとも、宝石の名前か何か?」
「いいえ。僕自身の涙です」
アルバートは、膝の上に置いた小さな手でこぶしを作った。
「僕の父は厳格な人で、僕に『貴族たるものはいかなる時も感情を露わにしてはならない。泣くことは恥であり、弱者の証明だ』と教え込みました。僕は鞭で打たれても、暗い部屋に閉じ込められても決して泣きませんでした。……でも」
アルバートの声が沈む。
「先日、ことあるごとに僕を庇ってくれた母が病で亡くなりました。お葬式の日、僕は母の棺の前でどうしても泣くことができなかった。悲しいはずなのに、胸が冷たい石の塊になってしまったみたいで。涙の流し方がわからなくなってしまった……」
最愛の母親の死に際しても涙が出ない自分は、人としてどうかしているのではないか。
その恐れが、彼を「失せもの探しの館」へと走らせたのだった。
エンディミオンはアルバートに、同情とも共感ともつかぬものを感じた。
「感情は、そう簡単に蘇るものではないわ。あなたは本当に涙を取り戻したいの?」
アルバートは無言のまま強く頷いた。
エンディミオンは楚々と立ち上がり、漆黒のドレスの裾を翻して少年の前へと歩み寄った。
秘密の話をするように、少年の耳元に囁く。
「失せもの、何なりとお探しいたします。……ただし、何が見つかりましてもお恨みなさいませぬよう」
エンディミオンはアルバートを伴い、館の地下にある書庫へ向かった。そこは、天井まで届く巨大な本棚が立て込んだ知識の宝庫だった。
カビと古い紙の匂いが立ち込める中、エンディミオンは一つの棚へ向かい、一冊の古い絵本を引き抜いた。
表紙の金箔は剥がれ落ち、背表紙は擦り切れている。
それは、エンディミオンの亡き母の遺品のはずであった。
エンディミオンに母の記憶はない。
だが、母がすでに故人であること、書庫もそこに収められた本も元々は母の持ち物で、自分が受け継いだであろうことを理解していた。
「座って」
エンディミオンが促すままに、アルバートは椅子に腰を下ろした。
エンディミオンは彼の隣に座り、絵本のページを捲った。
「これは、ある銀色の鳥の物語よ」
エンディミオンの声には、いかなる感情の起伏もなかった。氷の彫刻が喋るかのような平坦な朗読が始まった。
物語は、ひどく悲しいものであった。
冷たい冬の森で、銀色の親鳥が寒さに凍える我が子を温めるために、自らの美しい羽根を一枚、また一枚とむしり取っていく。吹雪の中、羽根を失い続ける親鳥は次第に醜く、小さくなっていく。それでも必死に雛を温め続ける。
やがて春が訪れた時、立派に成長した雛の足元には冷たくなった親鳥の亡骸だけが残されていた、という童話である。
「『泣かないでおくれ、私の可愛い子。私が羽根を失うのは罰ではないのよ。あなたが明日、空を飛ぶための祝福なのだから』……」
エンディミオンが読み上げる親鳥の最後の言葉が、室内に響く。
声音に抑揚はないが、物語そのものが持つ圧倒的な「愛」と「悲しみ」がアルバートの鼓膜に流れ込んでいく。
アルバートの青の瞳が見開かれた。
絵本の中の親鳥の姿が、病床で彼の手を握りしめ、
『どうか泣かないで。何があっても泣かなくていいのよ。私があなたの分まで悲しみを持っていくから』
と言って微笑んだ母親の顔と重なり合った。
母は自分を父から守るために、いつも盾となってくれた。
その深い愛情に気づいた時――
「あ……」
アルバートの口から、小さな嗚咽が漏れた。
彼が自ら心の奥底に閉じ込め、幾重にも鎖をかけていた戒めの小箱が開き、そして砕け散った。
「あ、ああ……母さま」
物心ついた時から一度も流したことのない大粒の涙が、アルバートの頬を伝った。
少年は顔を両手で覆い、子供のように声をあげて泣きじゃくった。事実、彼はまだ子供だった。
貴族としての体面も、父の教えも、涙という熱い奔流に溶け去っていった。彼はただ愛する母を失った一人の子供として心の底から哀悼を捧げた。
アルバートの泣く姿を、エンディミオンはヴェールの奥からじっと見つめていた。
彼女の表情には、安堵も共感ももらい泣きの気配もない。
純粋で不可不思議な「困惑」だけが浮かんでいた。
彼女は絵本を閉じると、背後に控えていたバロウズに振り向いた。
「バロウズ。なぜ彼は、こんなにも激しく泣いているの?」
その問いは、あまりにも無邪気であり、残酷な響きを持っていた。
バロウズは薄笑いを浮かべた。
「さあ? なぜでございましょうね。物語の親鳥が子供を庇って死んだから? それとも現実の母親を思い出したから? もしやお嬢さまにも思い当たることがあるのですか」
「私に? まさか」
エンディミオンは口に手を当ててしばし逡巡した。
過去の記憶、母親のことを思い出そうとしたが、何も浮かんでこない。
「実におかしなことですね。親であっても子であっても、死はただの現象にすぎませんのに」
バロウズは、咽び泣く少年に一瞥もくれない。
ただ興味深そうに、目の前の主人を見つめている。
「私が思うに人間というものは、いえ……肉体というものは、とても脆く不完全な器でございます。その割に内側は奇妙に熱い。おそらく器から溢れ出た熱は、逐一外へ捨てなければいけないのです。そうしないと、身体も心も壊れてしまうのです」
「それは非合理的ね」
エンディミオンはつまらなそうに呟いた。
「私は涙なんて、泣き方なんて忘れてしまったわ。最初から知らなかったのかもしれないけれど」
「そうでしょうとも」
バロウズがどこか嬉しそうに相槌を打つ。
エンディミオンは泣き続けるアルバートを横目に立ち上がり、絵本を元あった棚に戻した。
そこで彼女は、自らが纏う重苦しい喪服に視線を落とした。
そういえば……と思う。
自分はなぜ、この漆黒のドレスを着ているのだろう。
「寡婦のドレス」というものらしいが、一体誰の死や喪失を悼んで喪服を身につけているのだろう。
失せものが「涙」だと知って、なぜこの絵本をアルバートに読み聞かせようと思ったのだろう。
読めば彼が泣くとわかっていたから……?
自分自身、泣き方がわからないのに……?
一時間後。
泣き疲れて目を真っ赤に腫らしたアルバートは、館を訪れた時とは別人のようだった。
泣き腫らした目元とは裏腹に、表情は憑き物が落ちたようにすっきりとし、年相応の柔らかなものを浮かべていた。
「ありがとうございました。僕、もう大丈夫です」
アルバートは、エンディミオンに向かってぺこりと頭を下げた。
「ベル、お客さまをお見送りして」
エンディミオンが扇で扉の向こうを指し示す。
「はい、お嬢さま」
ベルはアルバートを見つめてにっこりと笑った。
「次期侯爵さま。また泣きたくなったら、いつでもいらしてくださいね」
「いえ、泣きに来るのはさすがに……。遊びには来たいと思いますが」
アルバートは、頬を薄らと染めてはにかんだ。
扉が閉まり、館に再び重厚な沈黙が戻る。
エンディミオンは持っていた扇を下ろした。
無意識のうちに自らの目元に触れる。涙を知らない瞳。もしくは忘れてしまった瞳。
「お恨みなさいませぬよう、ね」
独り言のように呟いた言葉は、誰に向けたものだったのか。
「お嬢さま。喉が渇いたでしょう。冷たいジンジャーエールをお持ちしました」
バロウズが、トレイに乗せた銀のグラスを差し出す。
「ありがとう」
エンディミオンはグラスを受け取ると、ヴェールをわずかにずらし、冷たい液体を喉の奥へと流し込んだ。
雨は降り続いている。
空は変わらず泣き続けているような、寒く冷たい昼下がりだった。




