第5話 時計塔の幽霊と未達の手紙
霧は、現世と幽世の境界を曖昧にぼかす灰色の薄絹である。
ガス灯の光さえも消え入りそうな暗鬱な夜。
丘の上にそびえる黒百合の館の重厚な鉄扉を、音もなくすり抜けてきた客があった。
「おや、今宵は随分と身軽なお客さまでいらっしゃる」
エントランスホールの暗がりから、バロウズが迎え出た。
扉の前に立っていたのは、全身が透き通った二十代半ばとおぼしき青年だった。古びた作業着を纏い、胸元には暗い赤色の染みが滲み、首は斜め後ろに奇妙に捻じれている。
青年は、自分が鉄扉を「すり抜けた」ことに戸惑いながらバロウズを見つめた。
「俺は……もしかして死んでいるのか」
「ええ。あなたさまは、まごうかたなき死者でございますよ」
バロウズは当然のように答えた。
青年は茫然とし「死者……」と呟いた。
「なんであんたには俺が見えるんだ」
「さて、どうしてでしょうかね。ご安心ください。当館は、ありとあらゆる失せものを探すところ。肉体を失った程度でお客さまをお断りするようなことはありません」
バロウズは意味深に微笑むと、青年の半透明な腕を確かな質量を持って掴み、応接室へいざなった。
青年は驚いた。現世の何物にも触れられないはずの己が、執事の手によって生身の肉体のように拘束されたからだ。
青年はこの燕尾服の男が、人間という矮小な枠組みから外れた存在であることを理解した。
応接室は、重苦しい藿香の香りに満たされていた。
部屋の奥、真紅の長椅子に沈み込むようにして、少女は座していた。
「ベル、お客さまに冷たいお茶を。生者の温もりは彼には毒でしょうから」
エンディミオンの透き通るような声に、ベルが「はい、お嬢さま」と軽やかに応じる。
ベルは、月明かりを溶かしたような冷たいミントティーを運んでくると青年の前に置いた。
「それで現世に迷い出たあなたは何を失い、私に何を探せと?」
青年は、自らの名をルカと名乗った。
「俺は……生前、この街の時計塔の整備士だった。だが五十年ほど前、不注意で転落してしまい歯車に巻き込まれて死んでしまった」
「五十年前。随分と気長な幽霊ね」
エンディミオンは扇で口元を隠し、呆れたように言った。
「俺にはマリアという恋人がいた。死ぬ前日、俺は彼女へのプロポーズの手紙を書いたんだ。だが、急に渡すのが照れくさくなって……時計塔の一番大きな歯車の裏に隠したんだ。その直後に俺は落ちた」
ルカの半透明な瞳から、涙がこぼれ落ちそうになる。
「俺は手紙を渡せなかった無念で、あの時計塔から離れられずいる。頼む。手紙を探し出してマリアに届けてくれないか」
エンディミオンは紅茶のカップを置くと立ち上がった。
彼女はヴェール越しに、哀れな幽霊をじっと見下ろす。
「失せもの、何なりとお探しいたします。……ただし」
少女の唇が、呪いのような言葉を紡ぐ。
「五十年の歳月は、人の心を変えるには十分すぎる時間。彼女があなたを忘れ、別の誰かと添い遂げていたとしても……あなたに恨む権利はありませんよ」
ルカは辛そうに顔を歪めたが、やがて深く頷いた。
深夜の街。
エンディミオンとバロウズは、月光に照らされた巨大な時計塔の内部へ足を踏み入れた。幾千もの真鍮の歯車が、動物の臓腑のように複雑に絡み合い、重厚な金属音を響かせながら時を刻んでいる。
「お嬢さま。何度来てもここは、あなたさまのドレスに不釣り合いでございますな。油や埃で汚れてしまうのが忍びない」
バロウズは、影のようにエンディミオンの背後に寄り添っている。
エンディミオンは不思議そうに言った。
「何度来ても? ここへ来るのは初めてよ」
「そうでございましたね。失礼いたしました」
「無駄口を叩かず早く見つけなさい。あの幽霊が言っていた一番大きな『天符』の裏側よ」
「御意」
バロウズは、人間であれば足がすくむような高所の足場を、重力を無視したかのようにふわりと跳躍した。
彼の身体能力をもってすれば、歯車の迷宮も子供の玩具に等しい。
数分後、彼は煤と埃にまみれた小さな真鍮の筒を手にエンディミオンの元へ舞い戻った。
「封蝋は切られておりません。ルカ青年の想いは、五十年もの間ここで眠り続けていたようです」
筒の中から取り出された羊皮紙には、美しい飾り文字で『愛するマリアへ』と記されていた。
エンディミオンは、古びた手紙を指先で撫でた。
「次は受取人を探す番ね」
数日後。
春の陽光が優しく降り注ぐ、郊外の小さなコテージ。
庭先では、見事な白髪をシニヨンに結い上げた老婦人が揺り椅子に座りながら穏やかに編み物をしていた。
彼女こそがルカのかつての恋人、マリアであった。
彼女はルカが亡くなったあと別の男性と結婚し、子供を育て上げ、今は夫にも先立たれて静かな余生を送っていた。
コテージの門扉を、喪服の少女が押し開く。
陽光の下に立つエンディミオンの佇まいは、ひどく場違いな気配が漂っていた。
「マリア夫人。あなたに、遠い昔の『失せもの』をお持ちしました」
エンディミオンが差し出した手紙を見て、マリアの手から編み棒が転がり落ちた。
老婦人の顔に、驚愕と深い追憶が広がる。
「これは……」
「覚えていらっしゃる?」
「ええ、これは……ルカの字。あの日、突然逝ってしまった私の……」
マリアは震える手で手紙を受け取り、封を切った。
手紙には大仰な愛の詩や、悲観めいたものは一切書かれていなかった。
『愛するマリア。君の焼いてくれるアップルパイは、世界一美味しい。明日の夕食はあれが食べたい。いや、毎日でも食べたい。君の笑顔を見るために俺は一生懸命働いて、この街の時計を動かし続けるよ。
どうか結婚して欲しい。 ルカ』
たったそれだけの短い手紙だった。五十年の歳月を経て届いた不器用な愛の言葉に、マリアの目から涙が溢れ出した。
「ああ……ルカ。馬鹿な人。アップルパイなんていつでも焼いてあげたのに」
マリアは手紙を胸にきつく抱きしめ、十代の少女のように泣きじゃくった。エンディミオンはその場を動かず老婦人を見守る。
ひとしきり泣いた後、マリアは微笑んだ。
「でもすぐに会えるわね。私ももう長くはないもの」
その顔に浮かんでいたのは後悔ではなく、確かな愛を受け取った者の幸福と安堵が滲んでいた。
密かに木陰に潜み、マリアの様子を見ていたルカは震えた。彼女は五十年経っても、自分のことを忘れていなかった。手紙を受け取り、自分のために泣いてくれた。
五十年間、冷たい歯車の隙間で凍りついていた彼の魂が、陽だまりのような温かさに包まれていく。
「ありがとう、マリア。君が幸せならそれでいい」
ルカの半透明な身体が、足元から徐々に光の粒子となってゆく。未練という名の重力が消え去り、彼の魂は空の向こうへ昇っていく。
「逝ったようですな」
バロウズが、空に舞い散る光の粉を見上げながら呟いた。
エンディミオンは、ヴェールの奥からマリアの安らいだ横顔を見つめた。
「ええ。紙切れ一枚で、人は過去から解放される。本当に単純ね」
彼女は踵を返し、バロウズと共にコテージを後にした。
館への帰り道、エンディミオンは馬車の中で首元を飾るジェットのブローチを無意識のうちに弄んでいた。
気づいたバロウズがにやりと笑う。
「お嬢さま、何か言いたげですね」
エンディミオンはハッとし、首元から手を離した。
「……いいえ。何も」
「本当に?」
「ええ。あの人は何も恨む必要がないのだから」
それから、隠れるように帽子を深く被り直した。
「こういうのも悪くない」
霧の街に夕闇が迫る。
時計塔の鐘が、喜びも悲しみも丸ごと包み込むような重厚な音色を響かせていた。




