第4話 歌姫が失くした「声」
今宵も、「黒百合の館」の鉄扉を一人の女が叩いた。
女の名はクラリス。
数日前まで、王立歌劇場の舞台で「天上の真珠」と讃えられていた若きプリマドンナであった。
しかし、現在の彼女を包んでいるのは死のように重苦しい沈黙である。無言の彼女を案内するバロウズの足音も、柔らかな絨毯に吸い込まれてゆく。
応接室の奥、光を遮断する厚手のカーテンの傍にその少女は立っていた。
「お聞きしましょう。あなたが失ったものは、何?」
エンディミオンの声は、真冬の湖底で砕ける水晶のように冷たく美しかった。
ヴェール付きの帽子から覗く薄い金髪が、燭台の火に照らされ、幽玄な輝きを放っている。上流階級の令嬢にしては短く、肩のところで切り揃えられていた。
クラリスは喉を指差しながら、一枚の紙を差し出した。
『声が出ないのです。お医者さまに診てもらいましたが、どこも悪くないとおっしゃいます。どうか私の声を探してください』
エンディミオンは悲痛な訴えを一瞥し、手に持っていた扇を閉じた。
「声……。それは肉体に宿るものではなく、魂の叫びのことかしら。あなたは本当にそれを探し出したいの? その声があなたを地獄へ連れ戻すことになっても?」
クラリスは頷き、すがるような瞳で肯定した。
歌えない自分には生きる価値などない、と頑なに信じている。
エンディミオンは黒いドレスの裾を翻して、彼女の前に立った。ヴェールの奥から放たれる鋭い視線が、クラリスの心に隠されたものを暴きたてる。
「失せもの、何なりとお探しいたします。ただし、何が見つかりましても……」
そこでエンディミオンは軽く首を傾げた。
「どうなるのかしらね」
と彼女にしては曖昧なことを言った。
調査は、華やかな歌劇場の裏側に潜む爛れた欲望を暴くものとなった。
興行主やパトロンたちの身勝手な期待。競い合うライバルたちからの毒のような嫉妬と、隙あらば追い落とさんとする陰謀。
そして何より、クラリス自身の名声を失うことへの恐怖。
彼女はいつしか歌う喜びではなく、拍手の数と報酬の金貨を数えるために、喉を震わせるようになっていた。
「お嬢さま。あの方の楽屋、とっても冷たい風が吹いていましたね」
ベルがエンディミオンに、温かなハーブティーを差し出した。ベルの瞳は悲しげに揺れている。
「当然よ。あそこは音楽の神殿ではなく、虚栄の墓場だもの」
「さて、お嬢さま。何か視えましたかな?」
バロウズが待ちかねていたように喉を鳴らす。
「そうね。バロウズ、彼女の故郷――西部の村ガリオンにある古びた教会の地下を調べなさい」
「ほう、私の『力』がなくともそこまで?」
揶揄するようなバロウズの呟きを、エンディミオンは黙殺した。
「そこには、彼女が『歌うことが何より好きだった少女』の頃に大切にしていたものが残っているはずよ」
「では、仰せのままに」
バロウズは一礼すると、部屋から出て行った。
数日後、バロウズが持ち帰ったのは、黄ばんで端がボロボロに欠けた一束の楽譜だった。クラリスが幼い頃、麦畑を渡る風の中、愛する家族のために口ずさんだ古い民謡の譜面。それには、富や名声という不純物が混じる前の純粋な祈りが込められていた。
エンディミオンは、再び館を訪れたクラリスの前にその楽譜を置いた。
「これが、あなたの探していたものの正体よ」
クラリスはおずおずと手を伸ばし、譜面に触れた。
この譜面のことは覚えている。指先から伝わる懐かしい紙の感触。故郷の土と風の匂い。家族や友人の笑い声。あの頃は何も持っていなかったけれど、毎日が歌う喜びにあふれていた。
――あの頃のような純粋な気持ちを取り戻したい。
そう思った瞬間、彼女の喉を締め付けていた目に見えぬ鎖が弾け飛んだ。
「あ……」
乾いた唇から温かな吐息が漏れた。
「あ、ああ……っ」
声が戻ってきた。掠れてはいるが、しっかりしている。
それは歌劇場の天井を突き抜けるような輝かしいソプラノではない。幼い子供が母の胸に抱かれて歌うような素朴で儚い声だった。
「見つかったわ。私の声。かつての私が教えてくれた……」
クラリスの目から、涙が溢れ出した。
彼女は悟ったのである。自分が失っていたのは「声」そのものではなく、何のために歌うのかという魂の指針であったことを。
一ヶ月後。
霧の街の場末にある労働者たちが集う酒場に、一人の女の姿があった。
プリマドンナの煌びやかなドレスを脱ぎ捨て、飾りのない地味な服を纏ったクラリスは、煙草の煙とエールの香りが充満する喧騒の中でピアノの前に座っていた。
大きく息を吸い、鍵盤を叩いて歌い始める。
すると、荒くれ者たちの怒号が止み、酒場の空気は一変した。クラリスの歌は、富裕層を陶酔させる技巧を尽くしたものではなかった。人々の疲れ切った心にそっと寄り添う慈愛にあふれていた。
クラリスはかつてないほど自由に、そして幸せそうに喉を震わせていた。
「あら、案外似合っているじゃない」
酒場の隅、帽子を深く被った黒衣の少女が呟いた。口にしているのはジンジャーエールである。
「お嬢さま。クラリスさん、あんなに笑って……。ここで歌うのが本当に楽しそう。王立歌劇場の主役の座を捨ててしまったのは、勿体ない気もしますけれど」
隣のベルが、リズムに合わせてリボンを揺らしている。
「そうかしら。彼女の場合は、宝石の重みで首を折るより、野の花を愛でながら呼吸をする方が幸せではなくて?」
エンディミオンはすっと立ち上がると、酒場の扉の方へ向かう。
「お嬢さま」とベルが慌てて追いかけてくる。
エンディミオンはクラリスの方を振り返らなかった。
ただヴェールの下、かすかに――本当にかすかに口元を綻ばせた。
彼女がいつも口にする「お恨みなさいませぬよう」という警告はとうとう発せられず、霧の中に飲み込まれていったのだった。




