第3話 暗殺者の殺意の行方
霧は、この街が吐き出す重苦しいため息のようでもある。
濡れた石畳を這いずり、ガス灯の頼りない光を飲み込みながら、あらゆる罪と絶望を白濁の奥底へと隠蔽していく。
灰璃の北の果て、急な坂を上り詰めた先にそびえる黒百合の館。
その夜、重厚な鉄扉を叩いたのは一人の初老の男であった。
仕立ての良い外套を羽織ってはいるが、全身には目に見えぬ死臭がこびりついている。
男の名はヴィクトル。裏社会で「氷の指」と恐れられる、冷酷無比な暗殺者だった。
「……ようこそ。迷える魂よ」
扉を開いたのは、執事のバロウズだった。
燕尾服に身を包んだ男の瞳は、ヴィクトルの血塗られた過去を一目で見抜くような禍々しい気品に満ちていた。
案内された応接室は、蜜蝋と薔薇の濃密な香りが漂っている。
部屋の最奥、真紅の長椅子に主は座していた。
エンディミオンの声は、真冬の湖面を滑る銀の刃のように冷たかった。
「……お聞きしましょう。死の匂いを纏ったあなたが、何をお探しなのか」
ヴィクトルは、自分が目の前の少女に緊張を覚えていることに驚きながら重い口を開いた。
「俺は殺しのプロフェッショナルだ。これまで、依頼された標的を仕留め損なったことは一度もない」
ヴィクトルは、己の右手を見つめた。数多の命を奪ってきた指先がかすかに震えている。
「先日、最後の仕事を引き受けた。引退前の最後の標的。貧民窟で、無償で治療を行っている若い医者だ。俺に善悪は関係ない。標的に向かって引き金を引くだけだ。なのに……奴を前にするとどうしてか指が動かない。信じられないことだが、俺の中から『殺意』が消え失せてしまったんだ」
殺意の喪失。
それは暗殺者にとって、己の存在意義を失うに等しい。
ヴィクトルは身を乗り出し、絞り出すように言った。
「頼む。俺の殺意を探し出してくれ。プロとして、この仕事を完遂して終わりにしたいんだ」
傍らに控えるベルが、怯えたようにトレイを抱きしめる。
エンディミオンは、ヴェールの奥で目を細めた。
「愚かなこと。感情は、一度手放せば二度と同じ形では戻りませんよ」
少女はおもむろに立ち上がった。
ヴィクトルに歩み寄ったエンディミオンは、彼を見下ろしながら厳かに告げた。
「失せもの、何なりとお探しいたします。……ただし」
ヴェール越しの視線が、男を貫く。
「見つかった『真実』が、あなたに何をもたらしてもお恨みなさいませぬよう」
調査は、バロウズの影の如き手腕により、数日で完了した。
再び館へ呼び出されたヴィクトルに、エンディミオンは一枚の色褪せた銀板写真と、最近描かれたであろう一枚のスケッチを突きつけた。
「これが、あなたの探していた『失せもの』の正体よ」
写真を見たヴィクトルの息が止まった。
銀板写真に写っているのは、かつて彼が貧しさゆえに病から救えなかった娘のミーナだった。
そしてスケッチに描かれているのは、標的である若き医者の傍らで微笑む幼い少女の姿であった。
二人の少女の面影は、残酷なほどに似ていた。
「おわかりかしら。あなたは標的の医者に慈悲を抱いたわけじゃない。彼の幼い娘に、かつて自分が救えなかった娘の幻影を重ねていたの」
エンディミオンの言葉が、鋭い楔となって男の胸に打ち込まれる。
「あの医者を殺せば、娘は父親を失う。かつてあなたが娘を失ったように。あなたの殺意を奪ったのは、あなた自身の心の底にこびりついていた感傷……」
ヴィクトルは、わななく手で写真を握りしめた。
彼の中で、封印したはずの人としての心が悲鳴をあげている。
あの医者を殺せば、彼の娘を地獄へ突き落とすことになる。それは、己の魂を二度殺すに等しい行為だが……。
「感傷だと?」
ヴィクトルの瞳から、突如として光が消えた。
彼は写真をテーブルに放り投げ、低い笑い声を漏らした。
「馬鹿げている。俺は氷のヴィクトルだ。似ているだけの小娘のために、俺の経歴に泥を塗れというのか。ふざけるな」
彼は無理やり、己を奮い立たせた。
人としての弱さを封じ、再び暗殺者の心を取り戻そうとした。次の瞬間、彼の内から消えたはずの「殺意」が、黒い瘴気となってゆらりと立ちのぼった。
「ありがとうよ、お嬢さん。おかげで目が覚めた。俺の殺意はここにあった」
狂気を孕んだ目で一礼し、ヴィクトルは館を去っていった。
ベルが「あの方、泣いていらっしゃったような……」と呟くのを、エンディミオンは冷酷に遮った。
「放っておきなさい。彼は自らの意志で運命を選びとったのよ」
その夜、灰璃の街は激しい雨に見舞われた。
貧民窟の片隅にある古びた診療所。ガス灯の光が届かない暗がりから、ヴィクトルは音もなく現れた。
標的の医者は、診察の後も部屋に残ってカルテをめくり、熱心に整理をしていた。
ヴィクトルは無感情のまま銃を構えた。手の震えはなく、心臓の鼓動も静かだった。彼は完璧な機械と化していた。
――ズドンとくぐもった銃声が、雨音を裂くように響いた。
医者の背中に赤い花が咲き、彼は何が起きたのか理解する間もなく、机に突っ伏して絶命した。
「……終わった。これで、俺は」
ヴィクトルは銃を下ろし、踵を返そうとした。
「パパ……?」
部屋の奥の扉が開き、小さな影が顔を出した。
金髪の幼い少女だった。彼女は、血を流して倒れる父親の姿を見て、手に持っていたウサギのぬいぐるみを落とした。
「パパ! パパぁ――ッ!」
少女は悲鳴をあげ、血だまりの中へ飛び込んだ。
動かなくなった父親の体にすがりつき、手や顔を真っ赤に染めながら、狂乱したように泣き叫ぶ。
「パパ、どうしたの。ねえってば。目を開けてパパ。エリを見て。お話して。……いや、嫌あああああああっ!」
その声は、かつてヴィクトルが娘を失った夜、彼自身があげた慟哭と全く同じ響きを持っていた。
「あ……」
ヴィクトルの手から、銃が滑り落ちた。
彼の目に映っているのは、もはや標的の娘ではない。
父親を殺され、絶望の淵に突き落とされた娘のミーナだった。
『あなた自身の心の底にこびりついていた感傷……』
喪服の少女の声が、脳内でリフレインする。
彼はそこで気づいた。プロとしての矜持を守るために、「娘の幻影」を己の手で殺してしまったことに。
取り戻した「殺意」の正体は、己を地獄へ落とすための刃であった。
「あ、ああ……アアアアアアッ!」
ヴィクトルは咆哮し、震える手で床に落ちた銃を拾い上げた。
もはや、彼に生きる理由はなかった。
否、生きたままこの罪を背負うことは不可能だった。
彼は銃口を、己の顎の下にぐっと突き立てた。
少しして雨音に紛れ、二度目の銃声が鳴り響いた。続いて少女の二度目の悲鳴も。
雨の降りしきる路地裏。
診療所の窓から漏れる惨劇の光を、漆黒の傘の下から見つめる影があった。
バロウズが差し掛ける傘をかいくぐるように横殴りの雨が吹き込む。エンディミオンはドレスが濡れるのも構わず、無表情のまま立っていた。
「見事な手際、いや引き際でございますな。自らの絶望すらも弾丸一発で処理するとは。さすがは一流の暗殺者」
バロウズが、悪魔のような笑みを浮かべて囁く。
エンディミオンの瞳には、憐れみも悲しみもない。
「だから言ったのにね」
彼女はひとりごち、雨に濡れたヴェールをそっと撫でる。
室内に転がっているであろう男に向けられたのは、容赦のない呟きであった。
「あなたの魂がいずこに辿り着こうとも、お恨みなさいませぬよう」
踵の高い靴が、水たまりを踏みしめる。
黒百合の館の主は、背後に響く少女の泣き声を背に受けながら、底知れぬ夜の闇へ溶けていった。




