第2話 花売りの少女と路地裏の王
霧がすべてを塗りつぶす迷宮のような街。
その北の果て、死の静寂を纏って屹立する「黒百合の館」の朝は、銀のトレイが触れ合うかすかな音から始まる。
館の主、エンディミオンは、窓辺の揺り椅子に深く身を沈めていた。
可憐な肢体を包むのは、喪に服す未亡人が纏うような漆黒のドレス。
室内でも被ったままのヴェール付きの帽子が、青白い陶器のような横顔に深い陰影を落としている。
「お嬢さま、お客さまですわ。とっても可愛らしくて、とっても悲しそうな女の子」
部屋に飛び込んできたのは、メイドのベルだった。
彼女の瞳は朝露に濡れた菫のように輝き、動きは春の蝶が舞うように軽やかだった。
エンディミオンは、ヴェールの奥から冷ややかな視線を向けた。
「ベル、何度言えばわかるの。ここは迷子の相談所ではないのよ。子供は案内しないで」
「そんなことおっしゃらないで。あの子は棘だらけの野薔薇を持って泣きながら門を叩いていたんです。私、放ってはおけません」
バロウズが音もなく現れ、主人の背後に控える。
「お嬢さま。時には、無益な遊戯も退屈を紛らわす薬になりましょう」
バロウズの低く艶やかな声に促され、エンディミオンは軽く顎を引いた。それが謁見を許す合図だった。
連れてこられたのは、煤けた木綿の服を着た花売りの少女だった。彼女の指は棘の傷跡で荒れ、翡翠のような瞳からは絶え間なく涙がこぼれ落ちている。
「お、お嬢さま。私のルナを……黒猫のルナを探してください。あの子がいないと私はもう生きていけません」
少女が差し出したのは、数輪の野薔薇とわずかばかりの銅貨だった。エンディミオンは、貧相な報酬を一瞥し、扇を広げて口元を隠した。本来ならば門前払いにすべき依頼だが……。
ベルは今にも泣き出しそうな顔で自分を見つめている。
エンディミオンはため息を吐いた。
「ベル、あなたの不治の病にはいつか毒を飲まされることになりそうね」
「不治の病?」
「同情よ」
エンディミオンは、少女の前まで行くと言った。
「失せもの、何なりとお探しいたします。けれど、見つかったものが、あなたの望む形をしているかはお約束できませんよ」
石畳が濡れ、鱗のように光る路地裏。
華やかな表通りから離れた、都市の廃棄物と悪意が澱のように溜まる貧民街。
エンディミオンは、ドレスの裾を摘み上げ、眉をひそめていた。
「バロウズ、靴が汚れてしまうわ。なぜ、猫一匹のために貧民窟を歩かねばならないの?」
「お嬢さま、冒険には相応の泥が付き物でございます。おや、ベルが何かを見つけたようですな」
前方では、ベルが奇妙な動きをしていた。
彼女は壁の隙間に潜むドブネズミや、屋根の上で目を光らせる片目の老猫に向かって、チチチチと小鳥がさえずるような不思議な音を漏らしている。
「……ベル。あなた、まさか彼らと語らっているつもり?」
エンディミオンの辛辣な声も、ベルの耳には届かない。
ベルは人間には聞こえないかすかな振動を捉えるように耳を澄ませ、しばらくして歓喜の声をあげた。
「あっちですわ。路地裏のどん詰まり、放棄された劇場の地下。あそこに『王様』がいるって!」
「王様?」
訝しげな表情のまま、エンディミオンたちはベルに導かれ、異臭の漂う地下へ降りていった。
そこに広がっていたのは、奇妙な廃墟だった。
破れたビロウドの椅子、壊れたシャンデリア。銀のゴミ箱で作られた玉座に鎮座する一匹の黒猫。
かつての飼い猫ルナだった。
その姿は異様だった。首にはどこからか盗んできたガラス玉の首輪が何重にも巻かれ、足元には数十匹の野良猫たちが平伏し、貢ぎ物である太ったネズミや魚の骨を並べている。
金色の瞳を細めて玉座にふんぞり返る姿は、貧しい花売りの少女を待つペットではなく、裏社会を支配する「路地裏の王」そのもの。
「あら、おかしい。これが依頼人の『たった一匹の家族』とは。この猫は人間と冷たいパンの耳を分かち合うよりも、路地裏の王冠を選んだのね」
エンディミオンが呆れたように言った。
ルナはエンディミオンたちに気づくと、威嚇するように低く唸った。
その声は、『私は自由を手に入れた。貧しい日々に戻るつもりはない』と拒絶しているかのようだった。
「お嬢さま。真実とは、往々にして見つけ出さない方がよいこともございます」
バロウズが薄笑いを浮かべながら囁く。
「ベル、戻りましょう。この猫はもう飼い主の元には戻らないわ。自由と権力という蜜の味を知ってしまった以上、愛なんて安っぽい麻薬は必要ないのよ」
ベルに呼びかけ、エンディミオンが踵を返そうとしたその時だった。
「……嘘。嘘よ。ルナちゃん、忘れてしまったの? あの子、あなたのことを思って怪我をしてまで薔薇を持ってきたのよ」
ベルは、少女から預かった一輪の野薔薇を差し出した。
少女の涙と祈り。貧しい暮らしの中でもルナを愛し続けた温もりが染み込んだ小さな花。
「王」となった黒猫の鼻先が、ぴくりと動いた。
野薔薇に染み込んだ、主人の血の匂いを感じとったのか、黄金色の瞳に瞬きほどの迷いが生じる。
匂いは、腐った魚の臭いや自分に跪く配下たちの媚びた匂いとは全く違う、懐かしくも切ない「我が家」の記憶だった。
「にゃあ……」
王の威厳が、砂の城のように崩れていく。
ルナは、首に巻かれた重苦しいガラス玉の鎖を自ら引き千切ると玉座から飛び降りた。
配下の猫たちが騒めく中、彼は迷わずベルの元へ駆け寄り、その足首に身体を擦り付けた。
霧の街の入り口。
ルナを胸に抱き、声をあげて泣きじゃくる少女の姿があった。黒猫は、彼女の涙を舐め取るように顔を寄せ、喉をゴロゴロと鳴らしている。
「……非論理的だわ」
エンディミオンは、その光景を見つめながら不機嫌そうに扇を閉じた。
「路地裏で得た権力を捨てて、また隙間風の吹く部屋に戻るなんて。もっとしたたかな生き物だと思っていたわ」
「お嬢さま、それはきっと猫の心という『失せもの』が見つかったからでございましょう」
バロウズの言葉にエンディミオンは答えず、ヴェールの奥の瞳をわずかに伏せた。
「ベル。戻るわよ。お茶を淹れてちょうだい。とびきり苦いのをね」
背後のベルはにっこりと笑った。
「はい、お嬢さま。お砂糖たっぷりの甘い紅茶ですね」
「……話をちゃんと聞きなさい」
主従の会話が、夜の霧に溶けてゆく。
館に戻りながら、エンディミオンは心の内で呟く。
『お探しいたしましょう。何が見つかりましても、それがあなたの救いになるのなら』
丘の上の館に、ガス灯がともる。
少女と猫の失われない絆の温もりを孕みながら、霧の街の夜は静かに更けてゆくのだった。




