第1話 琥珀のブローチと老婆の嘘
その街の名は、灰璃。
永久に晴れることのない灰色の霧が、街全体を冷たく、湿った絹の帳のように包み込んでいる。
空から舞い落ちるのは雪ではなく、誰かの記憶が燃え尽きた後のような細かな「灰」の欠片。
かつて、この街が享受した栄華の残滓であり、この地に留まる生者と死者を等しく虚無へ誘う残酷な装飾だった。
ガス灯の光が滲む夕暮れ。
丘の上にそびえる「黒百合の館(The Manor of the Sable Lily)」は、現世を捨てた孤独な墓標のように沈黙を守っている。
その夜、館の鉄扉を叩いたのは一人の老婦人であった。
名はエレーヌ。かつての華やかさを偲ばせる上質なシルクサテンのドレスを纏っているが、その袖口は擦り切れ、胸元には隠しきれない困窮の影が蜘蛛の巣のように張り付いている。
「ようこそ、失せもの探しの館へ」
扉を開いたのは、非の打ち所のない所作で一礼する執事のバロウズだった。
彼の瞳は磨き上げられた黒曜石のように冷たく、深淵のような底の見えない知性を湛えている。
言葉は丁寧でも親密さは微塵もなく、困惑と警戒心を呼び起こす得体の知れない男。
何より不思議なのは彼の面貌だった。
彫像のような白皙の美青年に見えたかと思うと、大きなわし鼻を持つ不機嫌な中年男のようでもあり、深い皺と苦渋を刻み、眼窩が落ちくぼんだ老人のようでもある。
周囲に漂うのは無味無臭の乾いた気配。
例えるなら、淡い絵の具をまき散らしたかのような抽象画。常にぼんやりとして印象が定まらず、記憶にも残らない。
エレーヌは、執事が背を向けて歩き出した瞬間に、彼の顔を忘れてしまった。
案内された応接室は、蜜蝋の香りと、重厚なマホガニーの家具が醸し出す仄暗い贅沢に満ちていた。
壁に掛けられた古時計が時を刻むたび、心臓の鼓動を急かすような緊張が走る。
「主人がお待ちです」
部屋の奥、深い真紅の長椅子に座っていたのは、十四、五歳ほどの少女だった。
彼女はまだあどけなさの残る身でありながら、ヴィクトリア朝の厳格な礼式に則った「寡婦のドレス」を纏っている。
さらさらと涼やかな音をたてる漆黒のシルク、首元を飾るのは薔薇をかたどったジェット(黒玉)のブローチ。
ヴェール付きのビロウドの帽子を被り、顔を隠している。
彼女の名は、エンディミオン・ダルジャンクール。
この館の主人であり、霧の街で囁かれる「失せもの探し」の名人でもあった。
「お聞きしましょう。あなたが失ったものは、何?」
ヴェールの奥から響く声は、銀の鈴を転がしたように透き通っている。
エレーヌは震える指先を組み、堰を切ったように語り始めた。
「琥珀のブローチでございます、お嬢さま。亡き夫が私に贈ってくれた、たった一つの愛の証……。バルト海の波が生んだ雫のような美しい黄金色の琥珀でした。あの人は私を……それはもう慈しんでくれました。この記憶さえあれば、孤独な晩年を耐えていけると思っておりましたのに」
老婆の語る物語は、あまりにも美しく完璧であった。
亡き夫との甘い日々。海辺の別荘での散歩。愛を囁かれながら贈られた宝石。
その物語を聴くエンディミオンの身体は微動だにしない。彼女の洞察力は、言葉の端々に混じる不自然な湿り気や、エレーヌの指が落ち着きなくドレスの布地を弄ぶ様子を見逃さなかった。
少女は、ヴェールの奥で目を細める。
彼女に見えているのは、華やかな過去ではなかった。
冷えきった安アパートの隅で空腹と孤独に震えながら、自らの胸元から琥珀のブローチを抜き取った老婆の現実であった。
夫など、初めからいなかった。
彼女が語る美しい思い出は、凍える夜に自分を温めるために編み上げた儚い虚飾に過ぎない。
「よろしい。お引き受けいたしましょう」
話が終わると、エンディミオンは優雅に立ち上がった。
黒のレースの裾が夜の帳のように床を掃く。
彼女は老婆の前に歩み寄り、死神のような冷たい声で告げた。
「失せもの、何なりとお探しいたします。……ただし、何が見つかりましてもお恨みなさいませぬよう」
数日が過ぎた。
館のサンルームでは、メイドのベルが甲斐甲斐しくティーセットを整えていた。
「お嬢さま。エレーヌさまのブローチ、あんなにみすぼらしい質屋に預けられていたなんて。あの方が語ったお話、どこまでが本当だったのでしょう」
彼女はお気に入りのリボンを揺らしながら首を傾げた。
エンディミオンは、窓の外に広がる灰色の空を眺め、淹れられた紅茶に視線を落とした。
「真実なんて、この霧の中では何の意味も持たないわ。彼女が探していたのは、琥珀のブローチではなく自分の誇りを保つための物語よ」
エンディミオンの手元には、質屋から買い戻された煤けた琥珀のブローチがあった。
それはエレーヌが語った「高貴な名品」とは程遠い、安物で傷だらけの代物だった。
「バロウズ」
「御前に」
どこからともなく現れた執事に、エンディミオンは淡々と命じた。
「館の書庫の奥の小箱にある……アンティーク・コレクションを。デザインがこれに似ていて、より美しいものを用意して」
「承知いたしました。真実を示せば、あの方は己の嘘に殺されてしまいますからな。いやはや、お嬢さまにしてはお優しいことで」
「まるで私が冷酷無慈悲であるかのような言い草ね」
「違うのですか」
バロウズの含みのある言葉に、エンディミオンはぷいと顔を背けた。
再訪の日。
応接室に現れたエレーヌに、エンディミオンは小さな宝石箱を差し出した。
エレーヌが震える手で蓋を開けると、そこには、黄金の輝きを放つ見事な琥珀のブローチが収められていた。
エレーヌが語った「嘘」の中にしか存在しなかったはずの最高級の宝石。
「ああ、これですわ。あの人が私に贈ってくれた愛の証。間違いございません。お嬢さま、なんと感謝を申し上げればよいか……!」
エレーヌの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
彼女は知っている。これが、自分が質に入れたあの安物ではないことを。そしてこの少女が、自分の醜い嘘を美しい真実として「作り直して」くれたことを。
老婆は声をあげて泣いた。
それは、失ったものを嘆く涙ではなく、孤独から生まれた嘘を許された者の安堵の慟哭だった。
「バロウズ、お見送りを」
エンディミオンは老婆の様子を、ヴェールの奥からじっと見守っていた。
感謝の言葉も謝罪も必要なかった。
ただ去り際のエレーヌの背中が、以前よりもしゃんと伸びているのを見て、少女は小さく息を吐いた。
「お嬢さま。あんなよいものを差し上げてよかったんですか」
ベルが心配そうに覗き込んでくる。
「構わないわ。形のあるものはいつか壊れる。けれど彼女が手に入れた『完璧な思い出』は、死ぬまで彼女を温め続けるだろうから」
「お嬢さまってば。冷たい振りして、本当は世界で一番お優しいんですから」
ベルが屈屈なく笑う。
エンディミオンは、その言葉を否定するように帽子を深く被り直した。
「馬鹿なことを。私は失せものを探しただけ。あの人が何よりも欲していたものを」
霧は依然として深く、街を包んでいる。
黒百合の館は、今宵も誰かの悲鳴のような願いを待つ。
少女が纏う漆黒のドレスが、ガス灯の影で妖しく揺れた。




