第10話 天下の大泥棒の「恐怖」と「罪悪感」【後編】
その夜、「黒百合の館」の応接室。
再び訪れたアーサーの前に、銀のトレイに乗せられた木のロザリオが差し出された。
「なんだ、これは」
アーサーは不快そうに顔をしかめた。
「私が探してほしいと言ったのは『罪悪感』だ。こんな煤けたガラクタではない」
エンディミオンが答える。
「ガラクタではありません。これこそが、あなたが捨て、忘れてしまった『罪悪感』そのものです。さあ、お受け取りなさいな。あなたが望んだ極上のスリルよ」
エンディミオンが扇の先を向けて促す。
アーサーは「馬鹿な」と鼻で笑い、無造作にロザリオを手に取った。
その瞬間。
「……ッ!」
アーサーの全身は、見えない雷に打たれたように硬直した。
カランとロザリオが床に落ちる。
「あ……ああ?」
呆けたような声が漏れる。
彼があえて切り離し、封印していた「罪悪感」。
それは彼が期待していたような、スパイス程度の「心地よいスリル」などではなかった。
堰を切ったように押し寄せてきたのは、手当たり次第に強奪を繰り返してきた泥棒人生――彼が踏みにじってきた数え切れないほどの「被害者たちの悲嘆」と「怨嗟の声」であった。
『返して。返してよ。あれは娘の結納金なのに。お金がないと破談になってしまう。娘が不幸になってしまう。あの子は一体どうなるの』
『全財産が奪われてしまった。これで工場は倒産だ。だめだ、もうだめだ。首を吊るしかない!』
『全部、盗られちゃった。私の貯めたお金全部。何も買えない。薬も買えない。薬がなくちゃお父さんが死んじゃう……』
自分を責める声にアーサーは叫んだ。
「やめろ。やめてくれ。違う、私は怪盗だ。狙うのは保険で補填される富豪だけで……っ!」
自らを正当化するメッキが、圧倒的な罪の記憶を前に剥がれ落ちていく。
彼が「怪盗の美学」と呼んでいたものは、現実逃避の妄想にすぎなかった。
本来のアーサーは、金目になるなら恩人だろうが貧者であろうが見境なく奪い取る強欲な泥棒に過ぎなかった。
幻聴が無数の針となって彼の鼓膜を突き破り、脳髄を蹂躙する。
最後に響いたのは、養母の嗚咽交じりの嘆きだった。
『アーサーどうしてなの。人様のものを盗むなんて。ああ……神さま、どうかお許しを。私が悪かったのです。私があの子の育て方を間違えたのです。この命に代えてお詫びをしなければ……』
「違う……私のせいじゃない。母さんは元からおかしかった。心を病んでいたんだ。私の仕事とは関係ない!」
誤魔化し続けてきた母の死が、彼の心を容赦なく打ち据える。視界は、血のような赤と泥のような黒に染まった。
フロックコートを引き裂かんばかりに掻きむしりながら、アーサーは床を転げまわった。誇り高き怪盗の面影は微塵もない。
そこにあるのは、己の罪深さに耐えきれず、魂をすり潰される哀れな罪人の姿であった。
「ああああああっ! 許してくれ。神よ、母さん、母さん。怖い、怖い怖い怖いッ! 嫌だ。耐えきれない。私を捕まえてくれ。絞首台に送ってくれえぇぇっ!」
アーサーは叫びながら、応接室の扉を突き破るように駆けだした。
彼の向かう先は警察か、憲兵隊か。
手首に冷たい手錠が掛けられるまで、あるいは死の瞬間まで幻覚が終わることはないだろう。
静寂が戻った応接室で、エンディミオンは床に転がった木彫りのロザリオを見下ろした。
「本当に愚か。わざわざ依頼してまで、切り捨てた罪悪感を取り戻すなんて」
バロウズが手を伸ばし、ロザリオを拾い上げた。
「自らの罪の重さを量れなかったがゆえの悲劇ですな。……いずれにせよ、これで依頼人の望みは果たされました。彼は冷たい牢獄で、一生『恐怖』と『罪悪感』を味わい続けることでしょう」
「牢獄で済むの? 処刑台ではなくて?」
「それは人の法次第かと。まあ、ろくな最期ではないでしょう」
エンディミオンは立ち上がると、夜の闇に沈む窓の外を見つめた。
自らを痛めつける感情の奔流。
それを一度失ったあと、再び取り戻すことは、果たして救いになるのだろうか。
「ねえ、バロウズ」
エンディミオンの声が、ほんのわずかに震えた。
「失った『感情』を取り戻すことは、本当に幸せなことなのかしら。もし、それが自分自身を壊してしまうほどの苦痛だったとしたら……」
エンディミオン自身が失っている過去の記憶。
誰かを思って涙を流すという感情の働き。
それを取り戻した時、自分もまたアーサーのように壊れてしまうのではないかという不安。
バロウズは瞳を和らげ、主人の華奢な背中を愛おしそうに眺めた。
「さあ……? 私のような者には人間の心の機微など」
「わからない?」
少女の挑発的な問いかけに、バロウズは静かに答えた。
「私はお嬢さまとは違いますからね。幸か不幸か、苦痛か悦楽かは、お嬢さまが『ご自身の失せもの』を見つけ出された時におわかりになることでしょう」
「……」
エンディミオンは、自らの喉元を飾るジェットのブローチに指先を這わせた。
何かの戒めだろうか、装飾品も纏うドレスも、いつもより重く感じられた。




