第37話 運命の門を開けた小者の悔恨【後編】
地を穿つような激しい雨が降っている。
轟く雷鳴の下、トムはずぶ濡れになりながら、黒百合の館の裏門の内側に立っていた。
彼の目の前には、黒い外套に身を包み覆面を被った十数人の男たちが立っている。
男たちの手にはガラス製のランタンが掲げられていた。ランタンの中で蝋燭の炎がちろちろと燃えている。
「さあ、開けろ。これはお前のものだ」
男の一人が、門越しに何かを投げ入れた。
トムの足元にずしりと重い革袋が転がる。革袋の口が開き、黄金色のものが見えた。夜目にもハッとする輝き。ぎっしりと詰まった金貨だった。
トムが長年仕える主家を裏切った理由は、至極単純だった。
ダルジャンクール家の広大な庭を管理しながら、主人とその一族が持つ富を羨み、己の貧しい生活を呪っていた彼は……金貨に目が眩み、自ら進んで裏門を開けたのだ。
「ひっ、ひひっ! この金があれば俺も……!」
トムはほくそ笑みながら、二重の鍵を回し重い閂を抜いた。鉄の門を押し開けた。それが、地獄の釜の蓋を開けることになるとは夢にも思わずに。
門が開かれた瞬間、男たちは音もなく中になだれ込んだ。
トムは袋を拾い、中の金貨を一枚一枚数えた。
これがあれば賭場で負けてこさえた借金も返せるし、たらふく酒も飲める。老いた母親の腰痛に効く薬も買える。万々歳じゃないかと思った。
少しして、彼は異変に気づいた。
館の方から、耳をつんざくような悲鳴と銃声、肉が斬り裂かれるような鈍重な音が聞こえてくる。
「どういうことだ?」
金貨を持って戻ったトムは茫然とした。
館の内部は、阿鼻叫喚の血の海と化していた。
いつも優しく声をかけてくれた中年のメイドは、背中から串刺しにされて倒れていた。
温厚だった当主は、エントランスホールに転がっていた。斧で顔面を叩き割られ、首を切られて絶命していた。
館のあちこちから火の手があがり、あっという間に燃え広がってゆく。油がある厨房の方から爆発するような轟音が聞こえた。黒い煙に巻かれて逃げ惑う人々の影が、壁に映っては消える。
使用人たちは多くが住み込みであり、その家族も邸内にある離れに暮らしていた。
また数発の銃声。騒ぎを知って母屋にやってきた者も容赦なく撃たれる。ナイフで刺され、剣で突かれ、斧で叩き潰される。転がった死体の中には、トムがたまに遊んでやっていた子供の姿もあった。
そして、掃除婦であったトムの母親の姿も……。
母親は外部に助けを求めようとしたようだった。
壁掛け電話に向かって手を伸ばし、受話器を掴もうとした姿のままこと切れていた。
トムは母親の無残な姿を見て叫んだ。
「……違う、違うんだ母さん。こんなのは聞いてない。あいつらは金庫の金を盗むだけだと。他に手出しはしないと言ったんだ。違う。殺すなんて聞いてない!」
火が絨毯の上を舐めるように走り、辺りは紅蓮の炎に包まれる。
充満する血の匂いと、屋敷の奥から聞こえるか細い叫び。
「お、奥さまは。お嬢さまは? 俺は……俺は……一体、何を。こんなはずじゃ」
凄惨な虐殺を前にして、トムの矮小な精神は崩壊した。
彼は、何もかもを振り捨てて、脱兎のごとく闇夜に飛び出した。
***
「あああああああああ――ッ!」
老いた元庭師は、獣のように背中を反らせて絶叫した。
あの夜、自らの欲望のために主家を売った罪の全貌を、逃げ場なく突きつけられた。
「金だ。俺が、金欲しさに門を開けたんだ。俺がみんなを……おふくろを殺したんだ!」
トムは泡を吹きながら狂乱し、卓の上に置かれていた銀メッキのペーパーナイフに目をとめた。
吸い寄せられるようにひったくると、自らの首筋へ深々と突き立てた。
「あああっ……!」
ベルが悲鳴をあげて両手で顔を覆う。
トムは躊躇なくナイフを一気に横へ引き抜いた。
ブチッという嫌な手応えと共に頸動脈が断ち切られ、鮮血が噴水のように天井へ向かって吹き上がる。
「が、はっ……ごぼっ! あ、ああ……お、じょう……さ、ま……」
喉から赤い泡を吹き出しながら、トムは床に崩れ落ち、最後の力を振り絞ってエンディミオンを見上げた。
エンディミオンは、微動だにしなかった。
血の海に沈んでいくかつての使用人を、路傍の汚物でも見るかのように冷たく見下ろすばかり。
「……愚かな男。本当に救いがたい」
彼女の唇からこぼれ落ちたのは、許しでも同情でもなかった。
「あなたは幾ばくかの金のために悪魔に魂を売り、自らの罪の重さに耐えきれず逃げ出した卑怯者よ」
彼女は無言のうちに言い放った。
――お前を許すはずがない。命で贖うことすら生ぬるい。
トムの瞳から光が失われた。
大きく見開かれた両目から一筋の涙を流し、血溜まりの中で動かなくなった。
「素晴らしい」
パン、パンと乾いた音がする。
バロウズがゆっくりと拍手をしていた。
「かつての知己を前にしても動揺せず、冷静に裁きを下された。お嬢さまの魂は、いよいよ極上の闇色に染まりつつありますね」
エンディミオンは、足元の死体から目を逸らすことなく淡々と言った。
「バロウズ、これを片付けなさい。絨毯も取り替えて」
「御意に、我が主よ」
エンディミオンは、自らの内に燻る高揚めいたものを感じた。
トムが引き金になって、自らの過去の扉が開かれた。
もう門を閉じることはできない。
覗いてはならない深淵が――ひたひたと迫ってくる。




