第36話 運命の門を開けた小者の悔恨【前編】
自身が逃れようのない囚人であることを悟ったエンディミオンには、とある変化が起きていた。
バロウズに絶望の底まで叩き落とされた結果、彼女の精神は怯懦を通り越して、虚無へと凍てついたのだ。
もはや彼女の顔に、わかりやすい動揺や混乱が浮かぶことはなかった。
銀色の瞳に宿るのはしもべの顔をした主人、バロウズに似た深淵だけである。
壁際ではベルが沈鬱な顔で控えている。
館全体を揺らすように重々しいドアチャイムが響き渡った。
「おや。このような濃霧の中で、よくぞ館の門を見つけ出せたものです」
バロウズの声は心なしか弾んでいる。
彼にとって、予期せずやってくる来訪者は最高の余興に他ならなかった。
流れるような足取りで玄関へ向かうと、依頼人を案内してきた。
絨毯の上に転がったのは、正視に堪えないほど汚れきった物乞いだった。
ボロ布を何重にも纏い、何ヶ月も風呂に入っていないであろう異臭と泥にまみれた姿。
「あ、ああ……。門が開かない。いや、開いた。なぜ開けたんだ? 誰が? 俺は……俺は何を」
彼の両眼は落ち着きなく泳いでいた。
両腕は傷だらけで、部屋に入って来てからも胸や腕をつねり、引っ掻き、血を滲ませ続けていた。
自傷行為を続ける男を見下ろしながら、バロウズが説明する。
「頭の壊れた浮浪者です。何かうわ言を呟きながら、扉にすがりついておりました」
無言のままのエンディミオンに代わって彼が尋ねる。
「お客人、あなたが探しているものは何でしょうか」
男はビクンと身を震わせ、泥だらけの顔をエンディミオンへ向けた。
「理由……だ。理由を、教えてくれっ!」
男は、絨毯に這いつくばるようにしてエンディミオンの足元へすり寄ると、血の滲んだ指先を虚空に伸ばした。
「十年前の、土砂降りの雨の夜。俺は……ここだ。この館の裏門を……待て、あの夜は炎に包まれて、ここは燃え落ちたはずじゃ……? いや、違う。ギギッという、あの錆びた音だけが耳の奥にこびりついて……。なぜだ、なぜ俺は門を開けてしまったんだ。誰かに操られていたのか。誰があんな恐ろしいことを……」
「裏門を開けた?」
エンディミオンが初めて反応した。
「そうだ。門を開けて……しばらくして、中に入ったら酷い匂いがした。鉄錆びた匂い……いや、血だ。ここには血の雨が降って、あちこちに死体が転がっていて……奥さまは、旦那さまの首が……あああああっ。俺のせいじゃない。俺がやったんじゃない! 頼む、俺は門を開けていない。潔白を証明する『理由』を探し出してくれぇっ!」
男は錯乱し、絨毯に額を打ち付け始めた。
エンディミオンは、泣き叫ぶ男を穴があくほどに見つめた。
皺に覆われ、狂気に歪んではいるが……顔の骨格、彼が纏っているボロ布の隙間から覗く緑色の作業着。見覚えがある。
エンディミオンの脳裏に一つの名前が閃き、そのまま声になった。
「庭師のトム……?」
失われていた記憶の破片が一つ、また一つと浮かび上がってくる。
この男は確か……物心ついた頃から、黒百合の館にいた。
庭園に出ると、彼はいつも陽気に笑い、折々の花を摘んで手渡してくれた。栽培が難しい薔薇を管理し、毎年素晴らしい花を咲せていた。
それが、目の前で這いつくばる老人の正体であるというのか。
男は水を得た魚のように、喜びの声をあげた。
「そうだ、俺はトムだ。ここの庭師だった。おふくろと俺はここに暮らしていた」
「トム、どうしてあなたが?」
「どうか探してくれ。俺は悪くないはずだと言ってくれ!」
トムは床に這いつくばったまま、うわ言のように懇願を続ける。
エンディミオンは、長椅子から立ち上がった。
今の彼女の心は、霧が晴れた空のように明瞭で、凪いだ海のように静かだった。
「失せもの、何なりとお探しいたしますわ」
唇から紡がれた決まり文句は、かつてないほど重く、死の宣告のように響き渡った。
「あなたにへばりついた記憶の残骸。私が、引き出してあげる。……ただし」
エンディミオンはその場にしゃがみ込むと、男と目線の高さを合わせた。じっと見透かすように彼を見つめた。
……視える。今は視えた。彼の運命がはっきりと。
「真実の重みであなたが押し潰され、絶望の血の海で溺れ死のうとも。決してお恨みになりませぬよう」
背後で、バロウズが恍惚の滲むため息を漏らした。
「……いい。それでこそ私のお嬢さまですね」
彼は待っていたように、指をパチンと鳴らした。
乾いた破裂音を合図に、トムの脳内に封印されていた「パンドラの箱」が叩き割られた。
「あ……がっ!」
トムの両目が限界まで見開かれ、瞳孔が大きく開く。
彼の視界は、十年前の雨の夜へ強制的に引き戻された。




