第35話 不死鳥の襲来と奪われた権能【後編】
フェネクスの、絶対的な熱量と神々しさすら帯びた威容にエンディミオンは圧倒された。
「ふん」
次に聞こえたのは、心底侮蔑しきったバロウズの嘲笑であった。
傲岸な執事の仮面は完全に剥げ落ち、その全身からは周囲の空間を軋ませるほどの殺気がドス黒いオーラとなって立ち昇っている。
「何がおかしい?」
フェネクスが整った眉をひそめる。
バロウズは、自らの手にはめられた純白の手袋を外し始めた。苛立ちからか、左手の手袋は口に咥えて一気に引き剥がした。
「フェネクス、貴様はくだらん詩作に溺れるうちに己の立ち位置すら忘れたのか。なんたる愚かな鳥だ」
「なんだと」
「誰に向かって口を利いている」
言い終わるや否や、バロウズの姿がかき消えた。
違う、空間そのものが一瞬にして漆黒に塗り潰された。
「なっ……!」
フェネクスが炎の翼を展開しようと身構えたその時。
バロウズはすでにフェネクスの真後ろをとっていた。
素手で無造作にフェネクスの頭を鷲掴みにした。
「うが、あっ……!」
凄まじい力で、フェネクスの頭を締め上げる。
「下位の分際で、私に指図をするな」
それは対話ではなく、地獄から響く絶対的な命令であった。
フェネクスの序列は第三十七位、位階は侯爵。
それに対するバロウズの真の階級は、彼を遥かに凌駕する上位。
熟れた果実を握りつぶすような破砕音が、応接室に響き渡った。バロウズの右手がフェネクスの頭部を、薄張りのグラスを握り潰すかのように容易く粉砕したのだ。
『あ、アァァァァァァッ!』
絶叫が、脳髄へ直接伝播する念話となって響き渡る。
フェネクスが放っていた紅蓮の炎は、バロウズの全身から溢れ出す「黒い影」に呑み込まれ一瞬にして鎮火した。
エンディミオンは、あまりにも一方的で凄惨な暴力に声も出ない。
「『生に走り、死に戻る』円環……『死と再生』の詩だと? くだらん」
バロウズの口が、パックリと耳まで裂ける。
彼は頭部を失って痙攣するフェネクスの首筋に、容赦なく鋭利な牙を突き立てた。
同時に、空いた右腕をフェネクスの分厚い胸板へ突き入れた。
金属がぶつかり合う音でも、魔術が炸裂する音でもない。
ひたすらに生々しい肉と骨が圧壊する音が響く。
フェネクスの胸を、バロウズの右腕が完全に貫通した。
『き、貴様……同胞をッ! 魔界の法をォ!』
フェネクスの怨嗟が辺りに響く。
バロウズは抵抗を封じるため、貫通させた右腕にさらに魔力を込めた。
「法? 掟? ……ハッ。そんな枷で私の悦楽が縛れるものか」
バロウズが右腕を引き抜くと同時に、フェネクスの胸郭は内側から爆発するように弾け飛んだ。鮮血と肉片が、応接室の壁や絨毯にぶち撒けられる。
上半身を無残に破壊されたフェネクスが、床をのたうち回る。再生能力も追いつかない、魂そのものを削り取るようなバロウズの絶対的な一撃だった。
バロウズはフェネクスの肉体を八つ裂きにしながら、その肉と血を恍惚とした表情で貪り喰らった。ガリッと腕の骨を噛み砕く。
『この、裏切り者め……っ』
肉塊と化したフェネクスから、最期の呪詛が放たれる。
『貴様は……この娘を喰らうだけでは飽き足らず、運命ごと停滞に閉じ込めるつもりか』
「だったらなんだ」
バロウズは咀嚼しながら、こともなげに答えた。
散乱する血肉の中心で、唯一無傷のままドクドクと脈打つ心臓を鷲掴みにすると、そのまま口に放り込んだ。一息に飲み込む。
フェネクスという存在そのものが、バロウズの胃袋へ吸収される。フェネクスが司る「死と再生」「時間を循環させる権能」がバロウズに簒奪された瞬間だった。
ドクンという脈動と共に、フェネクスの残骸は完全に霧散し、幾千もの火の粉となって消えた。
室内に残ったのは、むせ返るような血と焦げた羽の匂い。狂気的な暴力の余韻だけ。
ベルは先の熱波と圧倒的な魔力にあてられ、気を失って倒れ伏している。
バロウズが指を鳴らすと、燕尾服にへばりついていた大量の血肉が一瞬にして塵となって消え去り、元の隙のない姿へと戻った。
口元と両手の血だけは、懐から取り出した絹のハンカチで念入りに拭い取った。さらに真新しい純白の手袋を取り出してはめ直すと、乱れた襟を正し、何事もなかったかのように執事の仮面を被り直す。
彼は目を見開いたまま固まってしまったエンディミオンに歩み寄った。
「お見苦しいところをお見せいたしました、お嬢さま。害鳥の駆除が完了いたしました。これであなたさまの安眠を妨げるさえずりは聞こえません」
バロウズは片膝をつくと、エンディミオンの白い手をすくい上げた。自らの熱を冷ますかのように、額にそっと押し当てた。
エンディミオンは理解した。
自分は、決して守られたのではない。
バロウズは、他の捕食者から「極上のディナー」を横取りされそうになったから排除しただけだ。
失せもの探しの令嬢と、彼女につき従う優秀な執事。
そんなかりそめの関係はとうの昔に破綻している。
自分はこの恐ろしい男の「餌」であり、決して逃げ出すことのできない「籠の鳥」だと悟らざるを得なかった。
「私……は」
エンディミオンは必死に問うた。
「過去の私はあなたと……何をしたの?」
「それは、これからのお楽しみでございます」
バロウズは、燕尾服の胸元に手を当て地獄の底へ誘うかのように深く頭を垂れた。
「あなたの『失せもの探し』はまだ終わっておりません。さあ、狂気の底の底まで共に行きましょう。私の空っぽのお嬢さま」




