第34話 不死鳥の襲来と奪われた権能【前編】
黒百合の館を包む静寂は、かつて誰も聞いたことのないほどの美しい歌声によって打ち破られた。
それは、人間の喉から発せられる音ではなかった。
鼓膜を直接震わせ、脳髄に甘い痺れをもたらす清々しくも禍々しい旋律。
天上界の聖歌のようでありながら、地獄の底で亡者がすする血の匂いを孕んだ狂乱の声だった。
「この声は……?」
長椅子で微睡んでいたエンディミオンは、弾かれたように身を起こした。
顔のない一族の肖像画が蠢くのを見させられ、凄絶な耳鳴りと共に意識を手放したはずだった。
だが気がつくと、外は夜の闇に沈んでおり、気絶した老修復師も不気味な絵画も跡形もなく消え去っている。
部屋は何事もなかったかのように、いつもの整然とした姿を取り戻していた。随分と長い悪夢を見ていたような気分だ。
また歌声が聞こえた。
美しくも警告を発するような甲高い音に、エンディミオンの肌が粟立つ。
すぐ近くで銀の水差しを磨いていたベルも、ビクリとしてその手を止めた。
「お嬢さま。……少々、不快な害鳥が迷い込んだようです」
応接室の扉の前にバロウズが立っている。彼の燕尾服の背筋は不自然なほど張り詰めている。
深淵を思わせる瞳は、いつもの余裕を失い、絶対零度の怒りを宿して扉の向こうを睨みつけていた。
エンディミオンは、彼がこれほどまでに「不機嫌」と「殺意」を顕わにするのを初めて見た。
出迎えるまでもなく、勝手に入ってきた闖入者により、応接室の扉が開かれた。
そこに立っていたのは、一人の美しい青年だった。
燃えるような真紅の髪。男とも女ともつかぬ中性的な顔立ちは、完璧な彫刻のように冷たく、それでいて内側から弾けるような熱を帯びている。
彼が纏う純白の外套には、見たこともないほど鮮やかで炎のように揺らめく孔雀の羽が織り込まれていた。
唇から漏れる吐息そのものが、甘美な歌声となって空気を震わせている。
「よき夜、よき劇場だ。この陰惨な灰の街にも、私の詩が響くところがあったとは」
青年は遠慮なく足を踏み入れた。
彼が歩くたびに、靴の裏から火の粉が舞い散り、カルダモンと乳香が混ざった甘い香りが室内に広がる。
「折角おいでくださったのに恐縮ですが、早々にお引き取り願いましょう、フェネクス侯爵。ここはあなたがさえずる場所ではありません」
バロウズの声は威圧感を帯びている。
フェネクスと呼ばれた青年は、執事の殺気を涼しい顔で受け流すと、エンディミオンの前に立ち優雅に一礼した。
「お初にお目にかかります、美しきダルジャンクール嬢。私はフェネクス。バロウズの同胞です」
青年は、バロウズと同じものだと名乗った。
エンディミオンは、警戒と興味の入り混じった目で青年を見据えた。
「フェネクス侯爵。私に何の御用かしら。ここは失せもの探しの館よ」
「はい、ですから失せものを探しにまいりました」
「あなたの失せものを、私が探し当てられると?」
「ええ、まさに」
フェネクスは、自らの外套から一枚の燃えるような赤い羽根を引き抜いた。それを弄びながら微笑んだ。
「私は、輪廻と詩作、生と死の完璧なる『循環』を愛しています。すべての生命は燃え尽き、灰となり、再び世界に生まれ落ちる。私は千二百年後に第七天へ帰還するその日まで、この宇宙の『終わらない詩節』を書き綴っているのです。魂が肉体の死を超え、再び新たな姿へと『生に走り、死に戻る』円環。それこそが私の管轄する芸術なのです」
フェネクスの瞳がすっと細められる。
彼はゆっくりと後ろを振り向いた。自身の背後に立つバロウズを睨みつける。
「私がそれを失ったのは……十年前の夜。本来ならば、私の手で次なる輪廻へ進むはずだった迷子の魂。まさかこんなところに隠されていたとは」
エンディミオンの心臓が、不自然な音を立てて跳ねた。
フェネクスが繰り出す単語……それは、彼女自身が失った記憶と運命のことではないのか。
「さあ返していただきましょうか、わが同胞よ」
フェネクスの声から甘美な音楽が消え失せた。
ぞっとするような死神としての本性が露わになる。
「狡猾な『R.O.B』よ。貴様はあの夜死ぬはずだった魂を、輪廻の輪から強引に引き剥がした。絶望の中で焼け死ぬ極上の『魂』をね。私の目を盗んで掠め取り、霧深き箱庭に隠して独り占めしていた。生かしもせず、殺しもせず、己の所有物として熟成させている。これは明確な『規約違反』だろう」
フェネクスの全身から紅蓮の炎が舞い起こり、間欠泉のように噴き上がった。
応接室の温度が急激に上昇する。
壁紙がチリチリと焦げ、ベルが持つ水差しの水が一瞬にして蒸発する。
「お前の『書架』は無効だ。この娘の魂は私が刈り取る。そして本来あるべき『死と再生』の詩。その一ページに戻す。……さあ、そこを退きたまえ」
あの夜。燃え盛る黒百合の館。血の雨が降る中、彼女が生き残ったのは奇跡ではなかった。
エンディミオンは混濁する意識の下、喉の奥から絞り出すように声を発した。
「失せもの……何なりと、お探し……いたします」
壊れかけたオルゴールが奏でる不協和音のような声。
「ただし……。見つかる、ものが……あなたにとって……」
「ハッ! 傑作だな」
フェネクスは、エンディミオンの決め台詞を断ち切った。
「自分が誰の所有物かも理解せず、失せもの探しとは笑わせる。哀れなお人形さん。私が探してほしい失せものは目の前にある。その空っぽの身体の中にあるあなたの魂だよ」




