第33話 失われた顔面と肖像画の視線【後編】
「おやおや。恐怖のあまり、令嬢としての矜持すらお忘れですか、私のお嬢さま」
バロウズが、うすら寒い笑みを浮かべて前に進み出た。
「顔など探すまでもありませんよ」
「バロウズ。これはあなたの仕業なの」
エンディミオンは傍らの執事を睨みつけた。
「まさか」とバロウズは驚いた振りをした。
「冤罪もいいところです。これはあなたの魂に巣食った『呪い』が外界にまで溢れ出し、世界を侵食し始めている証です。絵画にはあなたの心が反映されているのです」
バロウズは「ハッ」と短く声をあげ、右手を高く掲げた。
「過去の亡霊どもよ。あなた方の愛しい娘が、あなた方の顔を忘れたと嘆いておいでだ。……さあ、ご挨拶を」
パチンと執事の指先が、乾いた音を立てて弾かれた。
次の瞬間、カンバスの中の十数名の「のっぺらぼう」たちの首が、メキョリ、ゴキャッという生身の骨と肉がへし折れるような奇怪な音を立て、一斉に不自然な角度へねじ曲がった。
「なっ、あああ――ッ!」
老修復師が腰を抜かし、くぐもった悲鳴をあげた。
絵の中の全員が、当時の当主も、妻らしき中年の婦人も、足元で遊んでいる幼い子供すらも、のっぺりとした肉色の顔を、絵の外にいるエンディミオンへ真っ直ぐに向けたのだ。
口はない。なのに、エンディミオンの脳髄には、彼らが一斉に発した「音のない絶叫」がどす黒い濁流となって叩き込まれた。
悔恨、苦痛、絶望。
自分たちを忘却の彼方に追いやった娘への凄絶な憎悪。
のっぺらぼうの表面、厚く塗られた油絵の具が、皮膚の下で無数の蛆虫が這い回るようにドロドロと蠢き始めた。
彼らは、顔のない頭を激しく前後に揺らしながら、エンディミオンに向かって、呪詛を浴びせ続けた。
「なんだこれは。絵が波打って……絵が、生きて……? あああああっ!」
老修復師は逃げようとして立ち上がりかけ、そのままバッタリと倒れた。
「見ないで。私を見ないで!」
エンディミオンは両耳をきつく塞いだ。
だが、音のない絶叫を防ぐことはできなかった。
「お嬢さま!」
ベルが傍に寄ろうとしたが、絵画から放たれる毒々しい死者の冷気と呪いに阻まれ、近づくことすらできない。
狂乱する主と、気絶した老人。
ぎゅるぎゅると画面をうねらせる呪われた絵画。
「ククク……アハハハハッ!」
バロウズだけが、腹の底から楽しげな哄笑を響かせた。
「素晴らしい。封印した記憶の重圧に耐えきれず、ついに現実世界の法則が歪んで崩壊し始めた。あなたという存在の核が空っぽであるがゆえに、世界があなたの狂気に飲み込まれようとしているのです」
バロウズはエンディミオンの肩を掴むと、無理やりその顔を、ぬらぬらと蠢く絵画へ向けさせた。
「さあ、しっかりとご覧なさい、お嬢さま。これがあなたの血族です。表向きは敬虔な神のしもべを装い、裏では暗黒に魂を売った一族。私はよく知っています。あなたはこの華麗なる地獄から生まれたのです」
「あ、ああ……バロウズ! あなたは」
エンディミオンの焦点の合わない瞳は、顔のない一族の姿を映し出しながら、茫洋とした深い闇へ沈んでいく。
黒百合の館は、不可解な呪いに侵食された逃げ場のない牢獄に成りつつあった。




