第32話 失われた顔面と肖像画の視線【前編】
その日、馬車に乗って丘を登り、やっとのことで「黒百合の館」に辿り着いたのは老いた絵画修復師であった。
彼のみすぼらしいコートには、顔料と溶剤の匂いが染みついていた。
「どうか助けていただきたいのです。私はもう狂ってしまいそうだ」
跪いた白髪頭の老人の声は震えていた。
足元には、布で包まれた巨大なカンバスが置かれている。
彼の異様な怯えようを、エンディミオンは真紅の長椅子から見下ろした。
「開かずの間」で顔を焼かれた肖像画と空っぽの揺り籠を目撃して以来、彼女の精神は摩耗する一方だった。
帽子の黒いヴェールは、今や憔悴した表情を隠すためのものでもあった。重々しい寡婦のドレスは身を縛りつける枷のようだ。
「何をお探しかしら。これ以上、狂気を持ち込まれても困るのだけど」
弱気な声に、バロウズは皮肉な笑みを浮かべた。
「外から持ち込まれる狂気など、お嬢さまご自身の深淵に比べれば児戯に等しいものですよ」
エンディミオンは反論せず、老修復師に発言を促した。
老人はおどおどと口を開いた。
「そこにあるのは、とある美術収集家から極秘に修復を依頼された、二百年ほど前の歴史的な名画です」
彼は、すがるような目でエンディミオンを見上げた。
「依頼内容は、経年劣化でひび割れた表面のニスの洗浄とわずかな顔料の補彩でした。しかし、私の工房に運び込んだその日の夜に『消えて』しまったのです」
「消えた?」
エンディミオンの柳眉がかすかに動いた。
「ええ。泥棒に入られたわけでも、特殊な溶剤をこぼしたわけでもない。一晩にして……絵の中に描かれた人々の『顔』だけがカンバスから消失してしまったのです。まるで、最初から何も描かれていなかったかのように」
老人は震える手で、巨大なカンバスを覆っていた分厚い布を引き剥がした。
バロウズがランタンを近づけると、光が名画の全容を暴き出した。
「……」
ヴェール越しに、エンディミオンの目が見開かれた。
部屋の隅に控えていたベルも息を呑んだ。
カンバスに描かれていたのは、十数名に及ぶ一族の壮麗な集合肖像画であった。
豪華な衣服の質感、広々とした居間とおぼしき室内の描写、彼らの胸元や背景のタペストリーに誇らしげに描かれている「茨に絡みついた一輪の黒百合」の紋章。
それはまぎれもなく、エンディミオン自身の血脈である「ダルジャンクール家」の栄華を切り取った一枚だった。
しかし、その絵は肖像画にあるまじき異様さを放っていた。
描かれている十数名の男女、老人、幼い子供に至るまで彼らの首から上、本来ならば「顔」が描かれているはずの部分だけが、不気味な肌色の空白に置き換わっていた。
絵の具が剥がれ落ちたのではない。カンバスが切り裂かれているわけでもない。
目も、鼻も、口も最初から存在しなかったかのようにのっぺりとした肉色と化していた。
「ヒッ……!」
ベルが悲鳴をあげ、じりじりと後ずさった。
「どうか、この消えた『顔』を探し出してはいただけないでしょうか。このままでは、私が絵を塗りつぶし破壊したものと思われてしまう。信用は地に落ち、違約金で工房は潰れ、家族ごと路頭に迷ってしまう。街で聞いたのです。黒百合の館の主は、どんな失せものでも見つけ出すと……」
エンディミオンは長椅子から立ち上がると、巨大な群像画の前へと歩み寄った。
手を伸ばし、カンバスの表面、のっぺりとした不気味な空白の「顔」に触れた。
「ダルジャンクールの顔がない……」
開かずの間で見た、黒焦げの肖像画と全く同じだ。
何者かが、黒百合の一族の痕跡をこの世界から徹底的に消し去ろうとしているかのような。
炎で焼き尽くすだけでなく、過去に描かれた絵画すらも。
「私の顔も……?」
エンディミオンは唇をわななかせた。
絵の中の彼らは、どんな顔をしていたのか想像もつかない。そもそも自分の両親の容貌もわからないのに。
記憶の底を掻き回しても、そこには虚無が広がっているだけだった。
「わからない。思い出せない。お父さまとお母さまは、どんな顔で私を……」
視界が歪む。耳の奥で、再び「燃え盛る炎の音」と「血の滴る音」が幻聴となって響き始めた。
「探していただけるのですよね、お嬢さま」
老人が念を押すように尋ねた。
エンディミオンは、ひどく虚ろな瞳で老人を見つめた。
彼女は無意識のうちに決まり文句を口にしようとした。
「失せもの……何なりとお探し……いたしますわ」
途切れ途切れの血を吐くような呟き。
「ただし……。見つかるものが、あなたにとっての狂気か……それとも、私にとっての……? ああ、何が起こりましても……」
お恨みにならないで、と。そう言いかけた時であった。




