第31話 開かずの間の鍵と顔のない肖像画【後編】
扉が開かれた瞬間、部屋の中から溢れ出してきたのは、むせ返るような「炭と灰」の匂いであった。
「何これ……」
背後でベルが鼻を押さえる。
バロウズが掲げたランタンの光が「開かずの間」の内部を照らし出した。
そこにあったのは――かつてこの場所が広々とした部屋であったことを窺わせる凄惨な焼け跡であった。
壁紙も、床板も、天井も、すべてが黒焦げになっている。
館の中で、なぜかこの部屋だけが焼き尽くされ、そのままの状態で密閉保存されていたのだ。
熱でひしゃげた真鍮の鳥籠。真っ黒な炭の塊と化した木馬の残骸。床には大量の炭の粉が積もり、ドロドロに溶けて固まったガラスの破片が散乱している。
「ここは……一体」
エンディミオンの脳裏に、激しい頭痛が走る。
燃え盛る炎。鼻をつんざく血の匂い。
――絶叫。炎の壁の向こう側に揺らめいた何か。
この部屋で惨劇が起きた。それは間違いない。
彼女は、灰や炭の粉でドレスが汚れるのも構わず、部屋の奥へ進んだ。
かつて暖炉があったであろう壁の上に、一枚の大きな「肖像画」が掛けられていた。
豪奢な金箔の額縁は熱で歪んでいる。そこに描かれていたのは、黒百合の紋章が入ったローブをまとった一組の男女……おそらく、エンディミオンの両親と思われる人物だった。
ベルがヒッと短い悲鳴をあげた。
描かれた男女の「顔」の部分だけが、真っ黒に焼き焦がされている。
エンディミオンは息を呑んだ。
ガラスすら溶かす熱線に晒されながら、なぜ可燃物であるカンバスが灰になっていないのか。それどころか、衣服も背景も無傷に近い状態を残しているのに、顔だけが抉り取られたように炭化している。
物理的にあり得ない光景だった。
まるで何者かが、意図的に「顔だけを焼き潰した」としか思えない異様な燃え方だった。
「これでは誰かわかりませんね」
バロウズが、背後から愉快そうに言った。
エンディミオンは呼吸が荒くなるのを感じながら、視線を落とした。そこには、焼け焦げた部屋の中で奇跡的に原型を留めている物があった。
銀製の重厚な「揺り籠」だった。
長い年月放置されたのか全体は黒く変色しているものの、頑丈な枠組みはそのままでぽつんと置かれている。
エンディミオンは引き寄せられるように、揺り籠の中を覗き込んだ。
「……」
揺り籠の中は、灰が積もっているだけで何もなかった。
『絶対にあなたを迎えに行く』
あの言葉が脳裏に蘇る。
この揺り籠には、かつて誰が寝かされていたのか。
自分なのか?
それとも「雨の夜に来た女」なのか?
あるいは、昔使われていただけのガラクタか。
「空っぽの揺り籠。顔のない肖像画……」
エンディミオンは、揺り籠の縁を握りしめた。
過去へ続く扉を開けたはずなのに、見つかったのはさらなる謎。
自分は何者なのか。
なぜ記憶を失ったまま、この館で暮らしているのか。
「さあ、どうなさいますか、お嬢さま」
バロウズがランタンの光をかざしながら微笑んだ。
「あなたさまが探すものは、この部屋にはありませんでした。これでは、失せものを見つけ出したとは到底言えませんね。真実を取り戻すためには、さらなる深淵へ足を踏み入れるしかなさそうです」
エンディミオンは、顔のない肖像画とぽっかり空いた揺り籠の前で立ちすくむ。
開かずの間の扉は開かれた。
しかし、それは希望へ繋がる出口ではなかった。
血に飢えた過去の亡霊たちが待ち受ける、本当の地獄への入り口に過ぎなかったのである。




