第30話 開かずの間の鍵と顔のない肖像画【前編】
ゆっくりと意識が浮上していく。
冷たい泥の中から、一本の細い蜘蛛の糸を頼りに這い上がるような惨めな覚醒だった。
屋敷を打っていた豪雨は、いつの間にかけぶるような霧雨へ姿を変えていた。
真紅の天蓋が吊るされたベッドの中で、エンディミオンは目を開いた。
「お嬢さま。ああ、よかった」
祈るように両手を組んでいたベルが、安堵の表情を浮かべる。
「ベル……。私、どれくらい眠っていたの」
耳を打つのはひどく乾いた声。両目に鈍い痛みが残っている。
依頼人の女が持ち込んだ「黒百合の紋章の傘」。
脳裏で弾けた、紅蓮の炎と鮮血の記憶。
「丸三日です。高熱にうなされ、ずっと泣いていらして……。私、どうしたらいいかわからなくて」
「そう……三日も」
エンディミオンは自らの目元に触れた。こびりついた鉄の匂いが鼻をつく。
「ひどい匂い。私は血を流したのね……」
己の肉体に起きた異常と、まとわりつくような死の気配にエンディミオンは震えた。
ふと視線を動かすと、枕元のサイドテーブルに、ドレスから外されたジェットのブローチが置かれていた。
それを見た瞬間である。
『エンディ、逃げて。あなたはここから逃げて生きて! 絶対にあなたを迎えに行く。だから、それまでこれを手放さないで』
頭の中に「誰か」の悲痛な叫び声がこだました。
エンディとは、エンディミオンの愛称だ。
かつて自分を呼んだあの声は、自分をよく知る近しい人物に違いない。
エンディミオンは弾かれたように身を起こし、ブローチを手に取った。ひっくり返してみると、黒のベルベットの裏地越しに硬い感触がある。
「……ベル。ハサミを持ってきて」
「は、はい」
ベルから受け取った銀のハサミを、エンディミオンはブローチの裏地へ突き立てた。
ジョキリと厚い布が裂ける音がする。
漆黒の裏地が切り裂かれ、中から細いものが転がり出た。
親指ほどの大きさの、ひどく古びた「黒鉄の鍵」だった。全体が錆びついており、装飾も何もない無骨な代物である。
「鍵……ですか?」
ベルが目を丸くする。
エンディミオンは鍵を見た瞬間、全身の血が凍りつくような悪寒に襲われた。
彼女は直感した。自分は誰かから託されたこの鍵を奪われないよう、自身の急所に一番近いブローチに縫い込んで隠したのだ。
鍵から繋がる過去があまりにも過酷であったため――彼女の心は自己防衛として、鍵の存在ごと記憶を封じ込めてしまった。
「探す手間が省けましたね」
不意に、部屋の濃い影の中からバロウズが姿を現した。
彼の視線は、エンディミオンが持つ鍵に集中している。
「過去を封じた鍵を、肌身離さず身につけておられたとは。いかがなさいますか、お嬢さま。それを使って扉を開ければ、もはや後戻りはできません。あなたが築きあげた霧の城は崩れることになりますよ」
バロウズの声は一見エンディミオンを案じているようで、隠しきれない挑発の響きがあった。
エンディミオンは鍵をぎゅっと握りしめた。
「私の『失せもの』はここにあったのね」
エンディミオンはベッドを降り、絨毯の上に立った。
「行くわ。ベル、着替えを用意して」
エンディミオンは、いまだ感情が抜け落ちたままの瞳でバロウズを見据えた。
「扉の奥で何が見つかっても、私は自らの運命を受け入れる」
かつてないほど強く、悲壮な決意に満ちた宣告だった。
バロウズは燕尾服の胸元に手を当て、深く一礼した。
「御意に。あなたさまの道行き、このバロウズがお供いたしましょう」
手早くドレスと靴を身につけ、館の奥深くへ向かう。
普段は決して足を踏み入れることのない、北棟の端の部屋を目指した。
蠟燭の手燭を持ち、暗く冷たい石造りの廊下を進むエンディミオンのあとを、ランタンを掲げたバロウズとベルが付き従う。
北棟は、エンディミオンが無意識のうちに避けていた場所だった。空気は澱み、長年の埃と物が焦げたような匂いが染み付いていた。
やがて、廊下の突き当たりに重厚なオーク材の扉が現れた。
他の部屋の扉とは違い、無数の鉄の帯が走り、その中心には頑丈な鍵穴が深淵の目のように口を開いている。
「ここが開かずの間ですか」ベルが呟く。
「黒鉄の鍵を使って入れる唯一の部屋です」
バロウズが答えた。
エンディミオンは扉の前で立ち止まり、鍵を強く握りしめた。部屋に入れば、もうこれまでの日々には戻れない。
雨の夜に女が持ち込んだ「黒百合の傘」。そして自分をこの館に縛り付けている過去の記憶。真実を知らなければ、自分は永遠に空っぽの器のままだ。
エンディミオンは、鍵穴に黒鉄の鍵を差し込んだ。十年間、一度も回されることのなかった内部の機構が軋む。
重々しい音と共についに閂が外れた。
エンディミオンは、重い扉をゆっくりと押し開いた。




