第29話 喪服を着たもう一人の女【後編】
――パァァンッ!
音なき爆音と共に、視界が白光に包まれる。
続いて襲ってきたのは網膜を焼き尽くさんばかりの、圧倒的な紅蓮と漆黒の奔流。
脳内に響く、か細い少女の絶叫。降りしきる雨。月下香の香り。じりじりと燃えて炭化してゆくドレス。足元に広がるのは、雨水に薄められた底なしの血の海。
『エンディ、逃げて! あなたはここから逃げて生きて!』
雷鳴と閃光。目の前で、何者かの手によって無惨に引き裂かれる肉体。鮮血が雨粒と共に降り注ぐ。温かい、鉄の匂いのする雨が。
「やめて……! 黒い傘……それを持っていたのは私のはず。なぜ、あなたが持っているの!」
エンディミオンの喉から、支離滅裂な叫びがほとばしった。記憶の濁流が、彼女の精神の器を限界まで膨張させ、ついに内側から粉砕したのだ。
「お嬢さま!」
控えていたベルが駆け寄ったが遅かった。
エンディミオンは顔を両手で覆い、絨毯の上へ転げ落ちる。
「ああっ、血の雨が降る。死ぬ。みんな死んでしまう。……私が、私が殺したの? あなたは誰?」
狂乱する少女の指の隙間から、赤いインクのような染みがボタボタと滴り落ちた。
過酷なフラッシュバックと、眼前の女から放たれる圧迫に耐えきれず、どす黒い「血の涙」を溢れさせたのである。
「お嬢さま。しっかりなさってください、お嬢さま!」
ベルは痙攣する主の身体を、自らが汚れるのも厭わず抱きしめた。
「嫌です。お願いだから息をして!」
その惨状を、黒いヴェールの女は氷のような眼差しで見下ろしている。
「馬鹿ね。始まりの地点にも立っていないわ。でも、決めたの。絶対にあなたを迎えに行くと」
女は歌うようにひとりごちた。
すっと立ち上がり、テーブルに置かれた黒百合の傘を手に取った。静かに踵を返す。
「随分と無作法な真似をしてくださる」
冷静ながらも、明確な苛立ちを含んだ低い声。
女の前に立ち塞がったのは、バロウズだった。
彼からは、物理的な圧力を伴う「魔気」が溢れ出し、巨大な蝙蝠の翼のように広がってゆく。両眼は白目の部分まで黒く染まっている。
「お嬢さまの記憶の鍵を握るのは私。勝手に玩具をいたぶるのは、万死に値する越権行為ですよ」
バロウズの手が女の首を刎ね飛ばそうと、目にも止まらぬ速さで虚空を薙ぎ払った。死の爪撃。
鋭い金属音が響き、バロウズの手刀は、女が瞬時に構えた「黒百合の傘」の強靭な柄によって間一髪で防がれた。
ギリギリと火花を散らすようなせめぎ合いの中、女は嘲笑うように言った。
「悪魔の番犬、ね」
すかさずバロウズは言い返す。
「失敬な。私は正式な雇われ人ですよ」
「誰に雇われたのかしら」
「この家の主人たち。そしてアデルネさまに」
女がかすかに息を呑んだ。
さらなる一撃。バロウズの放った衝撃の余波で、女の黒いヴェールがふわりと舞い上がる。
その下から覗いたのは、血の気を失った青白い唇。
すっきりと通った鼻梁。そしてエンディミオンと酷似した「銀色の瞳」であった。瞳の底に沈む瑠璃色は見られず、深みのない白銀色である。
「……チッ」
気づいたバロウズが舌打ちをした瞬間、女の身体は砂のように崩れ、さらさらと音をたてながら霧散した。
後に残されたのは藿香の香りと、床に落ちた黒百合の傘のみだった。
「幻影か。過去の残滓か、あるいは書き換えられることを拒んだ未来の亡霊か……」
バロウズが不機嫌そうにひとりごつ。
「お嬢さま。お嬢さまぁ!」
ベルの呼びかけが、応接室に響き渡る。
エンディミオンは血の涙を流したまま、ベルの腕の中で意識を失っていた。
銀色の瞳の奥に、かつて自分であったはずの「誰か」の影を焼き付けたまま。




