第38話 止まった懐中時計と動き出した時間
黒百合の館の応接室。
エンディミオンは、真紅の長椅子に身を沈め、手の中にある「一つの物体」を見つめていた。
それは、あの焼け焦げた「開かずの間」――顔が潰された肖像画と、空っぽの揺り籠が残されていた灰まみれの部屋から持ち帰ってきたものであった。
純銀製の豪奢な装飾が施された懐中時計。
十年前の凄惨な火災の熱を浴びたせいで、銀の表面は黒く変色し、かすかに歪んでいる。
精巧なガラスの奥にある華奢な針は、「あの日」の時刻を指し示したまま、どれほど竜頭を巻こうともかすかな鼓動すら返さない。
「ベル」
「は、はい。お嬢さま」
控えていたベルが、おずおずと歩み寄った。
「バロウズを呼んでちょうだい」
元庭師の凄惨な自死を目の当たりにして以来、主が何かを望むのはこれが初めてだった。
ベルが動くよりも早く、バロウズが音もなく姿を現した。
「お呼びでしょうか、私の美しくも哀れなお嬢さま」
燕尾服を優雅に翻し、底知れぬ狂気を孕んだ瞳を細めて一礼する。
「これも何回繰り返したことか。あなたさまの望みはとうの昔にお見通しですよ。……しかし、いかなる時も通過儀礼は必要でしょう。さあ、お嬢さま。あなたの探し物は何でしょうか」
エンディミオンはバロウズを見つめ、懐中時計をテーブルの上に置いた。
「依頼人は、私自身。探し物は、この時計の中から失われてしまった『動く時間』よ」
エンディミオンは毅然と言い放った。
「この針を動かして。……どんな力を使ってでも」
「よろしいのですか」
バロウズの声はいつになく低く、魔性の誘惑に満ちていた。
「この時計は、灰の部屋に残されたお嬢さまの時間そのもの。あなたの魂と深く結びついている。十年前のあの夜、あなたは自らの心を守るために『時間』を止めた。そのため、あなたの肉体は十年前のあの日から、一寸たりとも成長していないのです。永遠に穢れることのない、美しい彫像のごとく」
バロウズは、懐中時計に指先を這わせた。
「私がこれに力を吹き込み、針を動かすということは……あなた自身の『凍りついた時間』を強制的に解き放つということ。十年という押し込めてきた歳月の重圧と、成長の痛みが、あなたの肉体に一気に圧し掛かりますよ。それでもいいと?」
「ええ。構わないわ」
エンディミオンの声に迷いはなかった。
「真実を知るためには、過去の残影のまま立ち止まっていられない。……動かして」
「御意に」
バロウズは懐中時計を手に取り、その竜頭に指をかけた。
カチリと音がし、指先からあふれ出る漆黒の魔力が時計の内部へと流し込まれていく。
止まったはずの極小の歯車たちが、ジジ……と不気味な軋み音を立て始めた。
そして――チク、タクと。
十年にわたる沈黙を破り、懐中時計がついに秒針を進めた。
失われた時間を貪るように動き始めた、その時である。
「あっ……!」
エンディミオンの口から悲鳴が漏れた。
彼女は自らの胸を押さえ、絨毯の上にがくりと膝をついた。
「お嬢さま」
ベルが駆け寄ろうとするが、エンディミオンの身体から立ち昇る尋常ではない熱と、不可視の魔力の奔流で近づくことができない。呆気なく弾き飛ばされてしまう。
「ああっ、痛い。痛い! 身体が軋む……!」
エンディミオンの悲痛な声が応接室に響き渡った。
彼女の体内で堰き止められていた成長、時間の奔流が一気に決壊した。
十四、五歳の少女の華奢な四肢が、激しい痛みを伴いながら、女性らしいふくよかな丸みを帯びた曲線へ成熟していく。
身に纏っていた寡婦のドレスは急激な変化に耐えきれず、背中のボタンが次々と弾け飛び、窮屈になった胸元や袖口の縫い目がはち切れた。
「ああああああっ……!」
激痛に身をよじる彼女の頭部にも、目を見張るような変化が起きていた。肩口で切り揃えられた薄い金髪が、生き物のように蠢き、背中を覆い尽くすほどの長大なうねりとなって滝のように流れ落ちていった。
「お、お嬢さまが……大きくなられていく」
ベルは床にへたり込んだまま、残酷な人体変成の儀式を見つめるしかない。
数分とも、数時間とも感じられる苦悶の末、骨と肉が軋む音が止んだ。荒い呼吸が部屋に響く。
「ハァ、ハァ……」
エンディミオンは絨毯に両手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、時と感情を失った虚ろな少女ではなかった。
長く伸びた髪。はち切れたドレスの隙間から覗くまろやかな肌。少女の面影を残す輪郭は、大人の女の妖艶さと憂いを帯びた清冽さを滲ませている。
彼女は震える手で自らの顔をなぞり、長く伸びた毛先をすくい上げた。視線が少し高くなっている。衣服がひどく窮屈だ。
「私の時間。十年間……私は、ここでずっと」
時計の針が進んだことで、彼女の凍てついた心も溶け始めた。
どっと押し寄せてきたのは、自分がどれほど孤独で空っぽのまま、狂気の淵を彷徨っていたのかという喪失感と悲哀であった。
「ああ……」
エンディミオンの双眸から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。凄惨な記憶のフラッシュバックによる「血の涙」ではなかった。一人の人間としての、純粋な悲しみと痛みから流れる本物の涙だった。
彼女は絨毯の上にうずくまり、両手で顔を覆って、子供のように声をあげて泣きじゃくった。十年分の涙を、すべて流し尽くすかのように。
「見事でございます、お嬢さま」
バロウズは懐中時計を片手に、成長した女主人を眺め下ろす。
「その涙の味こそが、あなたが取り戻した『時間』の証。……さあ、大人になられたあなたが、次にどのような絶望を見せてくださるのか。このバロウズ、心ゆくまで堪能させていただきますよ」




